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第壱話 からっぽの少年




 空調の唸りだけが響くこの場所に人の気配は無かった。

 迷路のような通路の壁や天井には、大小のパイプやダクトが複雑に張り巡らされている。数メートル間隔で設けられたオレンジ色の電球がこの無機的な空間を照らしていた。

 通路の床から何かが軋む音がした。

 金属製の床材が少しだけ持ち上がった。その隙間に、周囲の様子を伺う視線があった。一瞬の後、床板が音も無く脇にずれ、床下から1人の人間が這い出してきた。

 そのしなやかな肢体は無駄のない滑らかな動きで床板を元に戻しながら、辺りに人の気配が無い事を確認した。

 カーキ色のズボンに黒の長袖トレーナー。灰色の小さなバックパックを背負い、柔らかい素材のスニーカーで足音を消している。衣類越しにでも、その体からは成人女性らしい丸みがうかがえる。見た所20代後半と思しきその女性は、軽くウェーブした長目の黒髪を後ろで束ねていた。

 彼女は軽くため息をついて立ち上がった。


──────────


 良く晴れた空の中、それは何の前触れも無く現れた。

 上空約200メートルの位置に出現したそれは、重力に逆らうことなく地上に落下していった。緑の木々に覆われた山の間に落ちたそれの衝撃で、轟音と樹木の破片と土砂が混ぜ合わされた物が舞い上がる。

 静寂を破られた鳥達が慌てて空に飛び出し、かん高い警戒音を発しながらその周囲を回っていた。鳥達のざわめきが静まる頃、遅ればせながら人間もその異変に気付いた。いくつかの監視衛星に素早く命令が送られ、その場所へ人工の目が向けられた。

 カメラが捉えたその映像は、とある施設の中心部、指揮命令機能が集中しているフロアに送られた。そのフロアの壁面に備え付けられた大型モニターに映像が映し出された時、人々はそれに対して一種の畏敬の念を抱いた。

 それが自分達に滅びをもたらすものであると知っていても。

 地面にめり込んだ直径30メートルほどの白い球体。その表面は光沢のあるウロコ状の物体で覆われていた。

 騒然としているそのフロアを見下ろす位置に設けられた座席では、2人の男がその映像を見つめていた。1人は落ち着いた様子で席に座り、眼鏡と顔の前で組んだ両手で表情を隠している。

 その脇に立つ白髪初老の男がつぶやいた。

「来たな」

「ああ」

 男は普段と変わらぬ無愛想な返事だった。


──────────


 視覚、聴覚、嗅覚に神経を行き渡らせる。

 相変わらず狭苦しい通路とダクトが連続する風景が続いている。かなり深層部まで降りてきたはずだが、人の気配はまるでしなかった。

(警備がザルなのか、すでに罠にハメられてるのか。どっちかしら)

 工事の下請け業者からかすめ取った施設建造時の設計データを、記憶の中から引っぱり出す。以前見取り図を見た時に気になった不自然に巨大なスペース、そこへ向かうルートをイメージした。

 彼女は静かに、そして素早く移動を再開した。


──────────


 空気を切り裂く音。緑や青の景色が猛スピードで後ろに流れていく。

 数基の巡航ミサイルが並行して、緑豊かな山の谷間を高速で飛んでいる。機械的な緻密さと速度で軌道を修正しつつ飛行を続けるミサイルの視界の端に、目標が映った。そこから目標が視界の大半を占める大きさになるまで接近するのに、1秒も要しなかった。

 次々と目標に着弾したミサイルは、空気を震わせる轟音と共に炎と煙を巻き上げた。人類史上最強と言える精鋭航空部隊がまき散らした誘導兵器は、これ以上ない正確さで標的に命中したが、それの非常識な防衛能力の前ではさしたる効果はなかった。

 巨大な白い球体は無数の攻撃を意に介した様子も無く、木々をなぎ倒しながら山間を転がっていた。

 その動きは緩慢であったが、何者の邪魔も許さない程力強かった。それが通った後は山肌が無惨にえぐられ、地面が露出し一筋の道となっていた。回転する度に球体の表面の無数のウロコが太陽光を反射しきらめいている。

 航空部隊の1機が更にミサイルを撃ち込もうと目標に接近した。

 その球体が小刻みに震え、表面のウロコの1つが弾け飛んだ。縦横1メートルはあるその凶器は陽光を反射しながら滑空し、不注意な攻撃用VTOLのコクピット部分に正確に命中した。衝撃でくの字に折れ曲がった機体は回転しながら燃え上がり、地表に墜落しただの金属屑になった。

 何気ないが極めて危険なその行動に面喰らった航空部隊は慌てて距離をとる。巨大な球体は再び回転を始め、目指す方向に向かって進み始めた。

 十数分後、それは激しい熱と光に包まれ、歩みを少しの間止めた。


──────────


「ようやく国連軍も諦めたか。虎の子のN2兵器ですら足止め程度では仕方あるまいが……」

 騒然としているフロアの中悠然とたたずんでいる白髪初老の男が、モニターを見つめたままつぶやいた。薄暗い空間の中でモニターの光が彼の顔を下から鈍く照らしている。彼が袖を通している制服は、この組織の中でも彼1人だけが許されたものであり、同時に彼の地位の高さを示していた。

 彼は独り言のつもりだったが、かたわらに座るもう1人の男はそのつぶやきに答えた。

「彼らにしては善戦だよ」

 この男の口調からは、何の感情もうかがえなかった。彼もやはり組織内では彼1人だけが着用できる制服を身につけていた。顔の前で交差させた手と眼鏡に遮られた彼の表情を読み取る事は困難だった。

 自分より年下であるが、この場の最高指揮官である男は滅多に感情を表に出さない。白髪の男は、皮肉めいた視線を送っただけで肩をすくめた後、目を上げてフロアを見渡した。

 十数人のオペレーターがそれぞれのコンソールの前で慌ただしく作業をこなしている。インカムごしに誰かと専門用語をやり取りしている者、書類の束を片手にメンバーに指示を与えている者達がこの空間にある種熱病のような活気を与えていた。

 さらにフロアの奥に目を向ければ、立体的に投影された種々の画像が、そのフロア─発令所と呼ばれている─の空間の多くを占領している。それらの画像はリアルタイムに変化し、何が起きているのか見る者に詳細に語りかけている。

 地形図、グラフ、カウンタ、現地からの中継映像……全ては意味のある情報であり、全ては彼らの劣勢を示す情報であった。

 正面のモニターには巨大な球体が映し出されている。熱の影響か、映像が揺らめいている。

 それはクレーター状に醜くえぐられた地表の中心でじっとしていた。表面は広範囲に渡って融解し、数分前に自分に向かって行使された力の凶暴さを無言の内に主張していた。自分は被害者だ、と言わんばかりに。 

 オペレーター達は落ち着き自分の仕事を確実にこなしていた。その様子をしばらく眺めていた白髪の男は脇に座っている男に目を落とし、焦燥のかけらもない口調で問いかけた。

「で、どうするつもりだ?指揮権を押し付けられても、我々には使える駒がないぞ」

「予定通りだ。サードは今日届く」

「……彼女の方は?」

「2日前からロストしたままだが、既にこの施設内に侵入しているはずだ。じきに保安部が捕捉するだろう」


──────────


 長い通路が行き止まる場所、目の前には金属製の堅牢な扉がある。扉には何の表示もない。情報が正しければ、この扉の向こうに何かがあるはずだった。壁にはIDカードを通すスリットが備え付けられている。

 辺りを見回しながらトレーナーの内側に手を入れて、カードを取り出す。入手できたのが奇跡とも言えるそのカードを、彼女はじっと見つめた。

 赤と白のツートンカラーでデザインされたIDカードには、この組織のシンボルマーク、イチジクの葉があしらってある。『NERV』という文字に彼女は本能的な不快感を覚えた。

 彼女はカードをスリットの上端に当て、深呼吸をした。

 突然、警報が鳴った。反射的にスリットからカードを離し、天井のスピーカーを見上げる。

(バレた?いや、違う……これは)

 施設全館に対する警報アナウンスだった。彼女はその機械的な声に耳を傾けた。

『総員、第一種警戒体制に移行。繰り返す、総員、第一種警戒体制に移行』

 注意の一部がアナウンスに向けられたせいで、一瞬反応が遅れた。真後ろに複数の人間の気配を感じた瞬間、彼女は振り向きざま拳を放った。

 しかし拳は空を切り、素早く懐に入ってきた2人の男に両腕を掴まれ、彼女はうつ伏せに押し倒された。3人目が背中に乗せた足によって彼女の肺から空気が押し出され、一瞬呼吸が止まる。背中にまわされた両手の親指同士がワイヤーで固定されていくのを感じながら、彼女は眉をしかめた。

「痛い痛い痛い!!もう、レディに何すんのよ!!あ、あ、ちょっと変なとこ触んないでよ!!」

 無遠慮に彼女の体を改める手付きは明らかに訓練されている人間のものだった。周囲を取り囲んでいるダークスーツの集団のリーダーらしき男が、彼女のバックパックの中身を床にばらまきながら淡々と告げた。

「葛城ミサトだな。特務権限により、これ以降あなたの身柄はネルフの監視下に置かれる」


──────────


 受話器をデスクの引き出しに戻すと、彼は席から立ち上がった。

「彼女を拘束した。私は先にケイジに行く。冬月、後を頼む」

「ふむ。彼女とどう話をつけるつもりかね」

「事実をありのままに話す。その後は彼女の選択に任せるさ」

 そう言い残して、彼はリフトに乗り発令所から消えた。後に残された白髪の男はやれやれと、ため息をついた。


──────────


 葛城ミサトは違和感を感じていた。国連直属の特務機関本部施設への不法侵入者に対する扱いにしては、少々寛大だった。

 ある程度地位の高い人間の執務室として使われる部屋のように思えた。大きめの作業デスク、応接用のソファとガラステーブルに観葉植物。窓は無かったが、壁面に据え付けられたディスプレイには森と湖の風景が映し出されていた。

 一見設備は整っているが、生活感とでもいうべきものが見当たらないので、ここは誰も使用していない部屋なのだろうと彼女は思った。

 ミサトはソファに座らされ、2人のダークスーツの男に見張られている。両手は相変わらず背中で拘束されているが、彼女はさほどの危機感を持っていなかった。その理由は自分でも分からなかったのだが。

 空気が抜ける音と共に扉が開き、1人の女性が部屋に入ってきた。その女性は前置きもなしに口を開いた。

「大したものだわ。どこの組織にも属さない一民間人がここまで侵入できるなんて。そういう才能を有益な方向に生かそうとは思わないの?」

 髪をブロンドに染め、唇には赤いルージュ。ノースリーブのブラウスにタイトミニのスカート、その上から白衣を羽織っている。ミサトはその女性の顔を見て一瞬呆気に取られた。

「……リツコ?」

「久し振りね、ミサト」

 リツコと呼ばれた女性は数年ぶりに再会した友人に笑顔を向けた。最初の驚きが収まると、ミサトの口元にも微笑が浮かんだ。ミサトは緊張が解けた体をソファの背もたれに預け、目の前に立つ白衣の女性を見上げた。

「リツコがネルフにいたとは知らなかったわ」

「卒業してから大分経つものね。お互い色々あるわよ。でしょう?」

「まあ……ね。でさ、昔のよしみで『これ』何とかしてもらいたいんだけど」

 と、ミサトは体を斜めにして背中で拘束されている両手をリツコに向けた。リツコはそれを無視して、脇に抱えていたファイルをミサトに差し出した。モスグリーンの表紙にはやはりこの組織のシンボル、イチジクの葉が印刷されている。その中央にスタンプされた『極秘』という文字を見てミサトは目をぱちぱちさせ、リツコの顔を見上げた。

「ねえ、ミサト。あなた今、無職よね。去年退官したんでしょう?」

「……随分詳しいのね」

「あなたに仕事を頼みたいのよ。ここね、給料だけは良いわよ」

「は?」

 その後に続いたリツコの言葉を聞いて、ミサトは自分自身の正気を疑いたくなった。

「ミサト。あなたの手で人類を守ってほしいの」


──────────


 あの日以来、この国からは季節が消えた。

 そして今日も夏の日射しが地上を照らしている。時折吹き付ける風が路面の熱気を巻き込み、不快な熱風となっていた。

 ミサトはリツコと共に広い駐機場に立っていた。白衣のポケットに両手を入れ、視線を空に向けたままリツコが口を開いた。

「普段はもっとたくさんの機体が並んでるんだけど、今日は全部出払ってるの。緊急の監視飛行任務が持ち上がったから」

「ふーん……」

 自分の監視役として後ろに控えている男達の態度から見て、ミサトはこの旧友が組織内でどの程度の地位の高さにいるのかを感じ取った。相変わらず背中で固定されたままの自分の両手をむずむずさせながら、何が起こるのか興味半分、不安半分で待ち構えていた。

「来たわ」

 そう言ったリツコの視線を追い掛けたミサトの目に、VTOLの機影が入った。数回の旋回行動の後、ほどなく着陸体勢に入ったVTOLが巻き起こす風に目を細めた。

 着陸の瞬間、VTOLの底部から引き出されていたタイヤが、路面と擦れあい音を立てた。エンジン音が一段階低くなったところで、タラップを兼ねた機体側面の扉が開き、ダークスーツの男達に前後を挟まれた『彼』が彼女の前に降り立った。

 華奢な印象の少年だった。おそらく10歳前後だろうと、ミサトは当たりをつけた。どちらかといえば可愛い部類に入る、清潔感のある顔。眉にかかりかけた黒い髪が風にはためく。

 黒のランニングシャツの上に、グレーの半袖シャツをボタンを止めずに羽織っている。ズボンは紺の生地でヒザ下までの丈。素足に白のスニーカーを履いていた。

 彼女は、その少年の小柄な体を見つめていた。彼の身長は、どう見積もっても自分のみぞおちあたりまでしかない。とは言え、この年頃ならば平均的な体格だろうと、ミサトは思った。

 リツコが少年の前に歩み寄り、体をかがめて彼の視線の位置まで自分の体を落とした。

「はじめまして。私は赤木リツコ。ネルフ本部技術部長よ」

 少年はその場に立ち尽くし、押し黙ったままぴくりとも動かなかった。彼はリツコの存在を完全に無視しているようだったが、彼女がそれに対して不快な感情を見せることは無かった。

 ミサトはその少年に違和感を持ち、彼をまじまじと観察した。

 彼の目は何も見ていなかった。目の前のリツコに注意を払うでもなく、彼女の言葉に反応するでもない。まるで何も見えず、何も聞こえていないような振る舞いだった。

 そして何よりも、全く生気が感じ取れないその瞳が、ミサトにえも言われぬ嫌悪感を抱かせた。

 リツコが立ち上がり、ミサトの方に向き直った。彼女はごく当然の伝達事項といったような口調で、ミサトに告げた。

「彼がサードチルドレン、碇シンジ君、9歳。『あなたの直属の部下』になる少年よ」

(両手が縛られていると、こんなとき耳に手を当てて聞き返せないから不便だわ)

 と、ミサトは場違いな感想を抱いた。


──────────


 早朝から数時間の移動で疲労感があったが、それは単なるシグナルの1つでしかなかった。考える理由がないので、その少年の意識にはどんな形であれ能動的な思考や感情は浮かばない。

 体に加わった衝撃が目的地に到着したことを彼の理性に伝えた。何が始まるのかは出発前に説明を受けていた。着陸の衝撃をトリガーに、その説明内容の記憶が意識の表面近くに浮かび、またすぐに沈む。

 彼は自分を促す声に従い、立ち上がってVTOLを降りた。

 目の前に立った女性の声が耳に入って来る。彼女は「碇シンジ」と自分に向かって話し掛けている。彼は彼女の名前と所属を記憶した。

 自分の肉体と魂の間にある空隙を自覚することなく、彼は彼女の命令に従いのろのろと歩き出した。


──────────


 エレベーターの中は沈黙が支配していた。到達フロアを表示するカウンタが回る音が妙に大きく聞こえる。

 エレベーターにはミサトとリツコ、そして先ほどの少年、碇シンジの3人だけが乗っていた。ミサトは後ろ手に縛られたまま、少年の様子を見つめている。

 その少年は死んでいるように見えた。体ではなく、心が死んでいるように見えた。

 目は焦点が合わず、表情から感情が抜け落ちている少年。リツコの指示には緩慢ではあるが素直に従っていた。しかし、彼は他者の存在に反応したり関心を持ったりする様子が全くなかった。

 9歳の子供らしからぬ、というよりは、人間らしからぬ振る舞いだった。

 沈黙を破ったのはミサトだった。

「さっきの話だけど、私はやるともやらないとも返事してないわよ」

 エレベーターが止まり、扉が開いた。扉の向こうにはやや広めのスペースがあり、その先には『E01』とペイントされた金属製の扉が見えている。リツコは視線を前に向けたまま、ミサトに答えた。

「分かってるわ。あなたが見て、それから決めてくれればいいの」


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 少年の意識に働きかけるものは何もなかった。

 前に立っている女性が話している内容は、不必要で意味のないものとして、彼の意識の外側で処理された。彼は考える必要はなかった。意識の内部に取り入れる情報を自動的に分別する機構が、彼の知覚の表面には備わっていた。

 その時、彼の五感以外の感覚が何かに反応した。彼の視線がわずかに泳ぎ、特に変哲のない壁面へと注意が向いた。その壁の向こうに何かを感じていた。

 が、彼はその感覚をそれ以上深く意識することなく、元のように自分の足元に視線を落とした。


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 その少女はベッドの上に横たわり天井を見つめていた。

 病院特有の匂いが漂う室内はカーテンが閉め切られ薄暗い中、空気清浄機の音が低く響いていた。

10歳前後と思われるその少女が宙に向ける眼差しの一途さが、幼い表情の中で際立っている。左腕全体と腹部は包帯で覆われ、右目には眼帯。もともと華奢な少女の体を一層小さく、か弱く感じさせている。

 異常なまでに白い肌と薄青い髪が、色彩のない病室を引き立てていた。

 間断なく体を襲う痛みを無視して、少女はわずかに顔を窓側に向け、片方だけの目でカーテンの向こう、窓の向こうにある何かを見ようとした。

 その赤く透き通った瞳には少女が求めるものが映っていた。


──────────


「目標、移動開始しました」

 オペレーターの声が響く。

 冬月コウゾウ、ネルフ副司令が指示を返す。

「よし。第一種戦闘配置に移行。目標の移動ルート再計算。ルート上の全迎撃システムをアクティブに。可能な限り足止めしろ」

「了解」

 冬月は空になった司令席を一瞥して首を振った。

(こんな時に最高責任者が呑気に親子の対面か……)


──────────


 リツコは、扉の脇にある装置のスリットにIDカードを通した。金属製の分厚い扉が滑らかに開き、内部の喧噪が流れ出してきた。

 およそ飾り気のない実用一辺倒の空間が広がっていた。種々の機械類の唸りと、油と埃が混じった匂いが感覚を刺激してくる。天井のレールに設置された移動型のクレーンが、大人の腕で一抱えもありそうな極太のケーブルを吊り下げたまま緩やかに動いている。

 足元には鮮やかな赤い液体に満ちたプールが広がり、その水面は照明を反射し揺らめいていた。水面に巡らされた足場の上では、十数人の作業服姿の人間が忙しく動き回っている。 その中の何人かがミサトとシンジの方に好奇心のこもった目を向けたが、皆すぐに自分の作業に心を戻した。

 その奥からシンジに向かっている視線があった。

 赤い池に渡された浮橋の向こうにある、機械とは明らかに異質な物。紫の巨人が赤く染まったプールから顔を出してシンジを見つめていた。一本角の鬼をイメージさせる外殻のすきまからわずかに覗く眼と顎。

 シンジはその視線に意識を向けた。ここまで意志の感じられなかったシンジが、何かに目を向けるのを初めて見たミサトは、その様子を注意深く眺めた。目の前の非常識に巨大な人形よりも、この少年の行動の方にミサトは興味を惹かれていた。

 しかし、彼の表情からは相変わらず何も読み取ることができなかった。

「これは人類が生き残るための唯一の希望。汎用人型決戦兵器、人造人間エヴァンゲリオン。その初号機よ」

 シンジはリツコの言葉に何の反応もしなかった。彼には何も聞こえていなかった。

 シンジが紫の巨人から視線をそらす切っ掛けになったのは、今この瞬間まで記憶の底深くに埋もれていた声だった。

「シンジ」

 スピーカー越しでもシンジは、それが過去に聞いた記憶のある声だということを知覚した。しかし、その記憶の感覚は彼になんの情動も起こすことなく、ただ意識の上をかすめていった。

 巨人が沈んでいるプールの奥、高い天井と床の間、中程の位置で壁から張り出している制御室。シンジが見上げた先に声の主がいた。

 顎髭をたくわえ、色付きの眼鏡の奥で窪んでいる目がこちらに向けられている。

 その男は威圧感のある視線でミサト達をじっと見下ろしていた。少しの間、張り詰めた空気が満ちた。

 男はリツコの方にふっと視線を向けた。

「初号機を使う。準備を始めてくれ」

「分かりました」

「それから葛城君を発令所へ。話は向こうで聞いてもらう」

 男は返事も聞かずに背中を向けると、彼女達の視界の外に歩き去った。ミサトは一瞬考え込んだ後、両手を拘束された状態のまま、ミサトは紫の巨人を顎で指した。

「私はまだ何の返事もしてないってのに、こんなものまで見せてくれるなんて。よっぽど自信があるのね、リツコ」

「私はあなたを信じてるの」

 リツコは巨人の顔に目を向けたまま呟いた。平坦な口調と裏腹な、物悲しげな眼差しだった。彼女の表情に引き込まれかける自分の気持ちを誤魔化すように、ミサトは疑問を口にした。

「……この決戦兵器とやらで何をするつもりなの」

「敵を倒し、サードインパクトを防ぐ。それが私達、ネルフの任務よ」

 リツコが発したその単語はミサトの顔をこわばらせた。ミサトは巨大な人型兵器の悪趣味な顔に視線を向け、そして隣に立つ小さな少年に目を落とした。今の自分が、生涯で最も激しい流れの渦に巻き込まれていることを強く感じた。

「私を信じて。ミサト」

 リツコの口調は相変わらず淡々としていたが、その裏に隠れた真摯さをミサトは敏感に感じ取った。


──────────


 少年の意識の中をぼやけたイメージがループしていた。

 この場所に来てから、自分の中の記憶が何度も揺り動かされていた。

 その刺激によって記憶のどこかに固定されていたイメージの塊が剥ぎとられ、漂い出し、意識の表面に影を落とし居場所を求めていた。

 しかし、彼の精神にそれを受け入れる場所は存在しなかった。

 行き場のないイメージは次第に輪郭を失い、枯れた植物が土に帰るように消えていった。記憶から生み出されたイメージは消え、記憶そのものは再び眠りについた。

 少年の精神は平坦さを取り戻し、外界からの刺激に特定の反応を行う本来の機能が働きはじめた。目や耳から入って来る情報に対して、意志の介在無しに自分が行動をおこしている不自然さを、彼は理解できなかった。

 少年の周囲に人が集まり言葉を発していた。彼はその言葉の1つ1つを適切な概念に置き換え、自分の行動に反映させる作業を開始した。その作業は全く自動的に行われ、彼の心とか感情と呼ばれるものが介入する余地はなかった。

 1人の女性が彼に包みを手渡した。それは彼の目に馴染んだ青をしていた。

 女性は自分に向かって何か説明をしているようだが、彼の感覚のフィルタはそれを不必要だと認識し、知覚から遮断した。

 何百回と反復させられた訓練の記憶を取り出して、彼はそのスーツを身につけた。


──────────


 リツコがミサトを伴って発令所に現れると、作業中のスタッフが怪訝な目を向けてきた。この非常時に両手を背中で拘束された見知らぬ女が、指揮中枢フロアのど真ん中に出てくれば不審に思うのが当然の反応だった。

 ミサトは発令所と呼ばれているその場所を見渡した。正面の壁に据え付けられた大型モニターやら立体投影されたグラフが目を引く。

 モニターに目を向けたミサトは、そこに映し出されている巨大な物体に眉をひそめた。直径数十メートルほどの白い球体が、山間部と思しき風景の中を転がりながら進んでいる。その非常識な光景に対して本能的に感じた恐怖が、これは作り物では無いとミサトに直感させた。

 ミサトの表情を見たリツコがそっと囁く。

「そう。あれが私達の敵よ」

 顔はリツコの方に向けたまま、ミサトは目だけをモニター画面にじろりと向け、その『敵』を睨み付けた。人智を超えたその対象物を見ているだけで、何故か彼女の中に形容し難い高揚感のようなものが沸き上がって来た。

 リツコは、正面のコンソール前で3人並んで作業をしているオペレーターの1人に声をかけた。

「青葉君、状況は?」

「目標はN2地雷による活動休止状態から復帰。その後、ジオフロントに向かって侵攻中です」

 男性オペレーターの簡潔な報告を聞きながら、モニターの隅に表示されている予想到達時刻を見て、リツコは表情を険しくした。彼女はミサトの方に向き直り、きっぱりと言った。

「時間がありません。ミサト、今からパイロットの指揮をあなたに担当してもらいます」

 その声が聞こえる範囲にいるスタッフ達の手と口が止まり、驚きと疑念の混じった視線がミサトに集まった。当の張本人であるミサトにいたっては、その言葉の意味を理解できずに数秒間リツコの顔をぼーっと眺める始末だった。

 そして、ミサトの顎ががくんと落ち、目が点になった。

「はぁ?ちょ、ちょっと待ってよ!指揮って何よ!?っていうかパイロット?って誰?」

「さっきの子よ。碇シンジ君。彼がエヴァ初号機のパイロットとして目標と交戦します」

「エヴァ初号機……ってさっきのあれ?子供を乗せるの?あれに?」

「マヤ、初号機の起動作業は?」

「順調です。間もなくパイロットがエントリーします」

 そう言って一人の女性オペレーターがキーボードを叩く。モニターに先ほどの紫の巨人が映る。その画面の4隅にさらに小さなウィンドウが現れ、各作業の様子を映していた。

 ウィンドウの一つに、青を基調とした特別製のスーツを着せられた少年が映っている。彼は作業員に両脇を抱えられて、そっと金属製の円筒の内部に降ろされていった。円筒の一部が縦方向にスライドして、シートやら操縦桿らしきレバーなど、内部の構造が露出している。

 円筒内部に設置されていると思われるカメラから少年を捉えた映像に画面が切り替わった。

 少年の顔、そこに意味のある表情を見ることはできなかった。未知の敵との命をかけた戦いに赴く人間の顔とは思えなかった。そもそもこの少年は、自分の周囲の出来事に意味を見い出していないようにさえ見えた。

 彼の事を何も知らないミサトでも、その精神状態が正常でないことは理解できた。そんな子供を戦わせようとして、大の大人達が必死に作業をしている姿は滑稽ですらあった。

「……まだ9歳なんでしょ、あの子」

「そうよ」

「マジなの」

「彼が負ければ、人類は滅びるわ」

「あの子の指揮を、私に取らせる理由は?」

「彼を指揮できる人間は、君だけなのだよ」

 背後から降ってきた声にミサトは振り向いた。先ほど格納庫らしき場所で自分を見下ろしていた男がそこにいた。おそらく、この場で最も地位が高い人間が座るであろう席についているその男は、顔の前で両手を組んだまま微動だにしていない。

 素性の知れない男に対し疑わし気なミサトの表情を見て、リツコが助け舟を出した。

「あちらが碇司令よ。特務機関ネルフの最高責任者」

「……碇?」

「そう。シンジ君の父親でもあるわ」

 リツコの言葉はミサトの不信感を煽るだけだった。ミサトはその不信感を隠そうともせずに男を見上げた。

「……私を選んだ理由を聞かせていただけますか」

「言葉通りの意味だ。実用的なレベルで彼に命令を与えられるのは君以外いない」

「彼とは今日会ったばかりですが」

「問題ない。彼は君の命令に従う」

「仮にこのお話を受けるとして、私への見返りは」

「ネルフ本部作戦部長の肩書きだ」

 最高責任者の唐突な発言に発令所のスタッフが息を呑む。彼の隣に立っている白髪の男が、呆れた様子で微かに首を振った。

 ミサトが探し求める真実へ近付く鍵が、そこにぶらさがっていた。その一方で、彼女はこの要請に明らかに罠、あるいはそれに近い物を意識した。全くの部外者をこれだけ機密漬けの場所に配置しようなど、まともな神経の持ち主ならば決して考えない行為のはずだった。

 乾きかけた唇を噛み、彼女は一瞬思考を巡らせた。周りの人間が自分に注目しているのが分かる。

 ミサトは決断した。

 崩れそうな橋を見たら迂回せずに全力疾走で駆け抜けるのが彼女の性格だった。

「リツコ。これが終わったら全て聞かせてもらうわよ」

「無事終わったなら、ね」

「決まりね。ああ、ちょっと、そこのメガネ……そうそう、あんたよ。これ外してくれる?」

 ミサトはそう言って体を傾け、背中で縛られている両手を男性オペレーターの1人に向けた。


──────────


 忙しく作業を続けているオペレーター達の背後、表面がディスプレイになっている大テーブルの上に資料が山と積まれている。その脇に置いた椅子に腰掛けて、彼女は超人的な速度で情報を取り込んでいた。

 ミサトは未知の敵と相対するため、即席の指揮官になる講習を受けていた。彼女をサポートする人間としてオペレーターの1人、日向マコトが指名された。

 日向は、矢継ぎ早に出されるミサトの質問に答えながら彼女の素性に興味を持ち始めていた。単なる民間人とは明らかに一線を画している彼女の振る舞いは、訓練された人間が放つ迫力のようなものがあった。

 日向の説明を聞くのと手元のファイルを読むのとを同時に行いながら、ミサトは少しばかり呆れ返っていた。敵の情報が全くの未知というのはともかく、『味方』の主力兵器のスペックが曖昧にしか把握できていない、というのは悪い冗談にしか思えなかった。

(こりゃ前途多難だわ)

と首を振りつつ、ミサトはファイルを素早くめくっていった。

 そこに記された敵、この街の設備、紫の巨人、パイロットとして登録された子供達の情報。それらの情報の影には、この数年間彼女が探してきた真実の一端が見え隠れしていた。

 状況に流されているのは分かっていた。何かが変わると直感して、この『敵』─ネルフの人間が『敵』と呼ぶもの─と戦おうとしている。自分は一体何をしているのだろうと、一瞬失見当のようなものに襲われた。

 何のために自分はここでこうしているのか。真実を知るためか、希望を掴むためか、未来を創るためか、自分のエゴを満たすためか。どれも当てはまっているようで、どれも見当違いなように思えた。

 あの日に何が起きたのかを知りたい、そのためなら合法非合法を問わずにミサトは突き進んできた。それを知ったところで詮無いことだとは理解していた。自分から全てのものを奪ったあの日。何も取り戻すことは出来ないのは分かり切っている。それでも彼女は知ろうとする努力を止めなかった。

 これは自分なりの弔いの儀式だと、いつからか彼女は思うようになっていた。真実を知る事が、無くしてしまったものに対して自分ができるささやかな慰めだと。

 発令所内に警告音が響いた。『敵』を監視していたオペレーター、青葉シゲルが緊張した面持ちで報告した。

「目標が迎撃予定エリアに入ります。20番から30番までのBシステム自律起動しました」

 兵装ビルから放たれたミサイルの軌跡が地形モニターに映る。目標への着弾確認を示すメッセージが面白いように表示されたが、カメラからの映像を見る限り相手は無傷のままだった。

 青葉が続けて報告する。

「目標の移動速度、60%まで低下。本部直上への到達時間、プラス300。目標のATフィールドは依然健在です」

 ミサトは読んでいた資料から目を上げ、椅子から立ち上がった。その目は正面の大型モニターに映し出された巨大な白い球体に向けられている。

モニターを見つめながら、ミサトが唇をなめる。

「来たか………持って10分ってところね。リツコ、そっちは頼むわよ」

 リツコがシンジに呼び掛けるため、コンソール直付けのマイクに顔を近付けた。シンジからの応答は期待していなかった。オペレーター達に対して、これから始まる作業への集中を惹起する意味合いの方が大きかったのかも知れない。

「シンジ君、聞こえる?」

「……」

「プラグスーツの着心地はどう?」

「……」

「始めましょう。エヴァ初号機、起動プロセス開始」

 その宣言とともに、主モニターの中を大量の文字列が高速にスクロールし始めた。起動プロセスの進行状況を示す映像パターンの各部分がオレンジからグリーンに変化していった。オペレーターが主要プロセス毎に口頭で報告を上げていく。

「エントリープラグ制御系、通常モードで起動」

「起動確認、グリーン」

「LCL注水開始」

「注水完了……電過。パイロット生体モニタリング正常」

 ミサトはモニターに映る目標の動きに注意したまま、エントリープラグから送られてきている映像からシンジの表情を読み取ろうとした。しかし、どうしても彼から何がしか意味のある表情を見つけだすことは出来なかった。

 外見では確かに9歳の少年だった。しかし、その顔に浮かんでいるのは、恐怖でも困惑でも無く、あらゆる物に対する『無関心』だった。少年が生きている事を証明するのはスーツを通して送られて来る味気ない情報だけだった。

 ついさっき読んだ『やや情緒に欠ける面があるが命令には概ね従う』というシンジの人物プロファイルを思い出した。

(『やや』…ねえ)

 ミサトは全く面識のない少年、しかも明らかに常軌を逸した精神状態の少年を指揮して未知の敵と戦うことに馬鹿馬鹿しさを感じていた。流し読みした資料から、確かにこの兵器のみがこの敵に対抗しうることは飲み込めたが、それにしても他に上手い方法があるだろうにとため息をついた。

「主シーケンス開始。エヴァ本体へ通電開始」

「通電確認。伝達回路75番まで接続」

「A10神経準接続………接続確認」

「プラグ、エヴァ間神経接続開始」

 一瞬、発令所の空気が止まる。

「エヴァ初号機、起動しました。ステータス、オールグリーン」

「シンクロ率……71.2%……」

 マヤが読み上げたその数字はスタッフに驚愕と希望を与えた。奇跡的ともいえる数字に発令所がざわめく。

「いけるわ」

 リツコがミサトに向かって力強く頷く。表情を引き締めたまま、ミサトも頷いて返す。

「引き続き、外部固定具除装開始」

「8番までのボルト開放」

「バインダー、圧力ゼロ」

「各固定具、開放位置に展開」

「エヴァ初号機、2番カタパルトへ牽引」

「射出位置、最終確認」

 ミサトは、後ろの席からモニターを見つめている男に意見を求めるように、一瞬視線を向けた。しかし、自分達には選択肢が残されていないということも十分理解していた。

 従って彼女は主モニターに向き直り、命じた。

「エヴァンゲリオン初号機、発進!!」

 轟音とともに、リニアレールが火花を散らしながら紫の巨人を遥か地上に向かって打ち出した。

 特務機関ネルフ総司令、碇ゲンドウは死地に向かう息子を無表情で見つめていた。


──────────


 激しい振動と体にかかる加速度から、少年は自分が上に運ばれているという状況を認識した。

 五感から得られる情報を統合し、自分が置かれている環境の概念を構築することは出来た。しかしその概念は少年の心を上滑りするだけで、心的な意味で彼に効果を及ぼすことはなかった。

 目から入る光、耳から入る音、それらの感覚は彼にとって何らかの感情を呼び起こすものではなく、外と中、自己と非自己を分割するための単なる境界決定情報だった。

 それらの感覚とは全く別の場所から吹き上がった何か─予感のようなもの─が、意識の裏側で行き来していたのだが、彼の精神ではそれを自覚することはできなかった。


──────────


 既に第3新東京市は夜の闇に包まれていた。

 ビルの屋上に設置された投光機から伸びる無数の光の帯が、巨大な球体を照らし出していた。動きは緩慢だったが、何ものも寄せつけない気配がそれの周りに満ちていた。

 ビルの間を転がるその物体は不規則な移動を繰り返していたが、その動きには何かの意志の働きが感じられた。

 突然、大音量の警告音が響いた。

 ビル街を徘徊していた球体の背後、路面の一部だった場所が四角く開き、2本の平行なレールが垂直に飛び出した。一瞬の間を置いて、巨大な影が轟音と共に地下から滑り上がってきた。

 その球体は背後の気配を感じ取ったように停止し、地下から現れた巨人─エヴァンゲリオン初号機─の方に向き直るかのように、その場で水平に180度回転した。

「シンジ君」

 発令所のミサトが呼び掛ける。

「あなたの目の前にいるのが、私達の敵」

 その言葉は淡々としていたが、有無をいわさぬ意志がこもっていた。

「使徒よ」

 人類の想像を遥かに超えるこの異質な物体を目の当たりにしても、モニターに映し出される少年の表情や、その小さな体の仕草に変化はなかった。単なる強がりや虚勢で無い事は、彼の心拍、呼吸、脳波、筋肉等のリアルタイム情報がはっきりと示している。

 人や技術の眼では、この9歳の少年から『感情』を見い出す事は出来なかった。

 そして、シンジはただ使徒を見つめていた。何の感想も持たずに。

 不意に使徒の表面に裂け目が走った。ほぼ完全な球体が中央下部から生じたスリットに沿って広げられていった。夜のビル街で巨大な球体がその形を変えていく非現実的な映像に発令所がざわめく。

 まるで巨大なアルマジロが体を伸ばしているようだ、とミサトは思った。

 その動きと共に内部から8本の棒状組織が伸び出て、ゆっくりと地面についた。球体から形を変化させた結果として、両端がT字型になった平べったい縦長の胴体が、地面近くで水平に保たれている。

 胴体下部でそれを支える8本の足はずんぐりとしているが、極めて柔軟で力強い動きを見せていた。球体の内側だった部分、つまり胴体の裏側は滑らかな光沢を持つ皮膚のようで、それは所々でこぼこに波打ち、生物の臓器のように不規則にうごめいている。

 使徒はT字型の頭部を地面から高く持ち上げ、地下から突然現れた初号機に注意を向けた。そして初号機をもっとよく見ようとするかのように、頭をさらに持ち上げた。その持ち上がる動きにあわせて、胴体が徐々に起き上がってきた。

 8本足の内、胴体後方についている2本の足が突然4倍以上の長さに伸び、その足先に爪状の突起が十数本生えた。使徒はその爪を路面にしっかりと食い込ませ、胴体をやや前傾姿勢に保ったまま2本の足で立ち上がった。

 リツコが思わず声を上げる。

「一瞬で構造がここまで変化するのね。実に興味深いわ」

 使徒は胴体の裏側だった部分を初号機に向けている。胴体中央部には、鈍く発光する赤い半球体の器官が見え隠れしていた。

 ネルフが誇る地球最高速の情報処理システムがリアルタイムに吐き出す敵の解析結果をモニターしているオペレーターが報告を続けた。

「目標の形状、更に変化します」

 残った6本の足がゆっくりと長さを増していた。やがて柔らかい6本の足は、直線的なシルエットが印象的な6本の硬質的な『槍』へと変貌した。それらの槍は、胴体との付け根と中央部の2ケ所で自在に折れ曲がる関節を備えていた。

 直立した足の長いムカデとでも形容すべきその物体は生物のように体を揺らし、6本の槍状の腕を複雑なパターンで振っていた。

「どうするの、ミサト。あれは明らかな攻撃姿勢よ」

「どうもこうも、やることは1つでしょ」

 ミサトは息を吸い込んだ。

「エヴァ初号機、リフトオフ!」

 ミサトの号令で、初号機は自らを地上まで導いたレールから切り離され、その2本の足だけで地上に立った。間髪入れずにリツコがシンジに呼び掛ける。

「シンジ君、まず歩くことだけを考えて。エヴァはあなたの思考を読み取り、その思考に従って動きます」

 当然のごとくパイロットから応答はなかった。リツコの指示が聞こえたのかどうか定かではなかったが、少しの間を置いて初号機はその右足をゆっくりと踏み出した。右足が接地した衝撃で路面がわずかに軋んだ。

 エヴァが『歩く』という行為それだけで発令所がどよめきに包まれた。まともに起動するかどうかも怪しかった代物が、『歩く』という極めて複雑な作業を達成した意義はそれほど大きかった。

 初号機が2歩目を踏み出そうとした時、モニターを見守っていたミサトは胃をつかまれるような緊張を感じた。

 使徒が唐突に、滑らかに初号機に向かって歩み寄ったのだ。

「シンジ君、前!気をつけて!」

 シンジはふっと正面に眼を向けた。自分の視界の中で、何か巨大な虫のようなものが何本もの鋭い槍を振り回している姿がどんどん近付いて来ている。それにも関わらず、少年の目は何かの意志を見せるでもなく、ただその様子を無表情に眺めていた。

 使徒の槍は初号機に伸びていた。

 無造作に突き出された使徒の槍が、初号機の左肩に衝撃を与えた。衝撃そのものは何のダメージも与えなかったが、歩行動作中に加えられた力は初号機のバランスを崩すには充分なものだった。

 ふらついた初号機は近くにあったビルの外装を肩で削りながら、コンクリート破片をまき散らして倒れこんだ。

 ミサトは歯ぎしりした。

「まずい……!シンジ君、早く立って!」

 土煙の舞う中、初号機が体勢を立て直すために支えにしようとした左腕を、使徒が右足であっさりと踏み折った。その音は、まさに骨が折れるようなリアルで不愉快な音だった。

 シンジの左手が、びくっと震え、彼の目がわずかに見開かれた。少年の口から漏れる呼吸が少しだけ乱れた。少年は、ありえない筈の感覚を訴え続ける左手に目を向ける事はなく、正面の異形の物体を変わらぬ視線で捉え続けている。

「………ぅぅ……」

 シンジが息を呑み微かにうめく声がスピーカーを通して発令所に響く。小さな音声だったが、発令所で見守るスタッフの胸に突き刺さる声だった。モニターに映るシンジの表情からはその苦痛がはっきりと読み取れた。

 だが、ミサトはその表情に何か腑に落ちない物を感じた。確かにそれは苦痛の表現であったのだが、妙な不自然さがまとわりつく表情だった。痛みという感情が引き起こした表情というよりは、単に肉体に与えられた刺激に対して、肉体が素直に反応しているだけのような、機械的な物をミサトはそこに見たような気がした。

 だが、少年が受けている苦痛は確実にそこに存在しているのは事実であり、それは自分達にとって不利な方向に働くこともまた事実だった。

 エヴァの操縦とは、エヴァと一体になること。すなわち、エヴァが受ける痛みをパイロットも『感じる』ということが予想されていた。『予想』というのは、今まではその検証が出来るほどエヴァそのものの起動実績が無かったための表現である。しかし、今のシンジはその予想を見事に実証していた。あまり好ましくない形ではあったが。

 パイロットの表情を見ながら冬月がつぶやく。

「苦痛をコントロールするには、やはり幼すぎるかな」

 眼鏡の奥の目をシンジに向けたままゲンドウが答える。

「こればかりは仕方あるまい。人体の限界と割り切るさ」

 使徒は、初号機の左腕を踏んでいた右足を上げ、後ろに1歩下がった。そして1本の槍を初号機の頭に近付けた。槍からすっと硬さが失われ、触手状の器官に変わった。使徒はその触手を初号機の首に巻き付け固定し、初号機を軽々と高く持ち上げた。

 リツコがマヤの後ろからモニターを覗き込む。

「初号機のフィールドはどうしたの!?」

「ダメです、フィールドの展開、確認できません」

 宙吊りになった初号機はまるで抵抗する様子を見せずに、四肢をだらりと下げ使徒のなすがままになっていた。初号機を吊り下げている触手の1つ下の槍が持ち上がり、その鋭い先端が初号機の右目に突き付けられた。

 ぴくり、と槍が後ろに引かれた次の瞬間、鈍い音と共に初号機の頭部へ槍が打ち込まれた。無抵抗の初号機に対し、使徒は躊躇なく続けざま攻撃を加えた。槍が打ち込まれる音と頭部を覆っている装甲がきしむ音が、繰り返し夜のビル街に響き渡る。

 単調なリズムの音が、それを見る者の絶望感をかき立てていった。

「頭蓋装甲に亀裂!」

 シンジは、痛みに対し反射的に動いた手を、右目に当てた。少年の呼吸がさらに乱れる。生物としての原始的な反応が、少年の口から声にならない音を発生させた。

 槍が打ち込まれる衝撃で、吊り下げられている初号機の体が、固定されている首を中心にして前後に大きく揺すぶられる。発令所から見える映像の中のシンジは右目を押さえ、うめき声を上げ続けていた。

「シンジ君、使徒から離れて!」

 そう叫ぶミサトの声が届いたのか、初号機の右手がゆっくりと持ち上がり、首に巻き付いている触手に指をかけた。徐々に力が加わる初号機の指が、使徒の触手に食い込んだ。初号機の右手が力強い動きで触手を首から引き剥がし始める。

 それまで攻撃に参加していなかった槍の1つが触手に変化し、初号機の右手首に絡み付いた。そして、首に巻き付いた触手を掴んでいる初号機の右手を圧倒的な力で引き離した。

 左腕を折られ、右腕も使徒によって拘束された初号機は頭部への打撃に抗する術を持たなかった。なすすべも無く攻撃を受け続ける初号機を、ミサト達は見つめることしか出来なかった。

 使徒は初号機の右目に槍を打ち込みながら、余っている槍を初号機の腹部に押し込んだ。槍は複合装甲をあっさりと突き抜け、内部の生体組織に食い込んだ。そして腹部に当てられた使徒の槍が次の攻撃の予備動作として、今の頭部への攻撃に比べてもずっと大きい振り幅で後ろに引かれた時、ミサトは敗北の足音が近付いて来るのを感じた。

 初号機の腹部に槍が打ち込まれる音に耐え切れず、マヤは目をきつく閉じた。

 使徒からくり出されている際限なく往復運動を繰り返す槍が、初号機にダメージを与えていく。

「腹部装甲、貫通されます!」

 何かが千切れるような音と共に、槍が初号機の胴体を貫いた。一瞬遅れて、初号機の頭部から装甲の砕ける音が響き、槍が右目から後頭部にかけて貫通した。

「頭部生体部品破損、モニターできません!」

「神経伝達回路、30%が制御不能です!」

 貫通したにも関わらず、使徒は槍を打ち込む動作を止めようとしなかった。初号機のボディに開いた穴から液体が噴き出す。止まることを知らない槍の往復に合わせて、内部から生体組織の断片がかき出されていた。

 シンジは、生きながら体を、頭をえぐられる激痛を感じているはずだった。

 使徒は持ち上げていた初号機を地面に叩き付けた。その衝撃で近隣のビルの壁面に亀裂が入り、砕けたガラス破片が飛び散った。

 初号機を吊り下げる必要のなくなった触手が再び槍へと変化した。使徒は6本の槍を思う存分使って、地面に大の字になった初号機を串刺しにしていった。初号機のボディを貫いた槍が勢い余ってその下の舗装面をも突き破っている。

 槍の往復運動のスピードが目に見えて増加し、初号機の体をえぐる音がそれまでのような単発音から、絶えまなく響く連続音に変わった。使徒から攻撃を加え続けられている初号機の体が激しく痙攣を始めた。

 兵器とは言え、なまじ人型をしているエヴァがのたうち回る光景は、それを見る者に本能的な恐怖を与えた。

 パイロットの状態をモニターしていた日向マコトが叫んだ。

「パイロット、脳波乱れています!」

 それを聞いたリツコがマヤに指示する。

「シンクロ率を起動限界までカット。フィードバックを下げて」

「待て」

 威圧的な声が発令所に響いた。

「シンクロ率は現状を維持だ」

 碇ゲンドウはモニターに映るシンジを見つめたまま命令した。

 ミサトは司令席に背を向けたまま表情を険しくする。この状況下では、おそらくこの男の命令が正しい。それが分かっているだけに、ミサトの心中は複雑だった。

 追い討ちをかけるように日向の声が響く。

「パイロット意識レベル、更に低下!これ以上は持ちません!」

 曲がりなりにも自分の息子が危機にある状況で、ゲンドウは落ち着き払っていた。

「自我展開剤、レベル2で投与しろ」

 その命令の意味を知るリツコは動揺した。

「シンジ君の薬物耐性は未検査です!現段階での投与は危険が伴いますが……」

「パイロットが意識を失えば全てが終わりだ。急げ」

 吐き気をこらえつつ、目を潤ませたマヤがコンソールに指を走らせる。シンジのプラグスーツの左肩に埋め込まれたボルト状の突起が、小さな作動音と共に滑らかに回転し、内部に向かってわずかに押し込まれた。

 瞬間、シンジの目が大きく見開かれ、弾けるようにその小さな体がのけぞった。数秒間、体を激しく痙攣させたかと思うと、シンジは大きく息を吐き出しシートの上でゆっくりと体勢を戻した。相変わらず右目を押さえたままであったが、その顔から苦痛は消えていた。

 未だに激痛は体中を蝕んでいた。しかし、その痛みは既に彼の意識の中の『使用していない部分』へと追いやられていた。少年の幼い顔は平静、と言うには無機質にすぎる表情を取り戻した。

「い、意識レベル、通常域に戻りました」

 呆れたように冬月がつぶやいた。

「碇……ヘタをすればパイロットが死ぬぞ」

「我々には時間が無い。エヴァとパイロットの実戦稼動データは貴重だ。可能な限り収集する」

 ミサトは青葉に指示を出した。

「目標近傍の誘導システム起動、逐次射撃開始。初号機が体勢を立て直す時間を作って」

「了解」

 使徒周辺の兵装ビルから次々と放たれたミサイルは、ターゲットへと殺到していった。この攻撃に効果があるとは誰も信じていなかったが、何もせずに見ているのは耐えられなかった。

 爆発の煙が収まった。

「目標のATフィールドは変化ありません」

「初号機の神経パルスが消失寸前です。いつ制御を失ってもおかしくありません」

 無数のミサイルの直撃を受けたにも関わらず、使徒から放たれる槍は初号機を打ち続けている。発令所に重苦しい空気が満ちた。

 シンジの映像が映っているモニタウィンドウが突然暗転した後、ウィンドウごと消失した。

「コクピットからの映像回線、途絶しました」

「生体モニタは機能しています。パイロットには異常は見られません」

 使徒に対する唯一の対抗手段であるエヴァンゲリオンですら、為す術なく蹂躙をうけている。もはや形勢を逆転する要素はどこにもなかったが、ミサトの頭脳は休むこと無くこの危地を打開する手段を探し続けていた。

 その時、日向の手元の通信回線から低くブザーが鳴った。これは高い機密性が求められる通信に使用される回線ではあるが、作戦中は使う理由が無いはずの回線だった。嫌な予感を感じながら受話器を耳に当てた日向は、相手の報告を聞いた瞬間狼狽した声を上げた。

「保安部からの緊急連絡です!」

 ミサトとリツコは怪訝な顔を日向に向けた。

「ファーストチルドレン、ロスト!医療フロアから消えました!」

 リツコの顔色が変わる。

「レイが!?」

 資料の中には無かったその名前とただならぬリツコの様子に、何事かとミサトは訝しんだ。

 冬月がちらりとゲンドウに視線を送り、小声で問いかける。

「碇、これは……」

「ああ」

「あるいは彼女の意志か」

 諦観の空気を含んだ冬月の言葉は青葉の声にかき消された。

「Dエリアの対人センサーに反応あり!」

 ズタズタになった初号機。その背後にそびえる兵装ビルの屋上。危険極まりないその場所をズームアップした映像が、モニターに映し出される。

 小柄な体。色彩に欠けた髪と肌。眼帯で覆われた右目と、包帯に包まれた左腕が痛々しい。ミサトの目に映るその少女は10歳前後、碇シンジと同じ年頃のように思えた。

 少女は感情のない顔で、兵装ビルの屋上から傷付いた紫の巨人を見下ろしていた。

 リツコは自分の見ている物が信じられなかった。

「どうしてあんな所に………レイ」


──────────


 夜のビル街を風が鋭く吹き抜ける。風が耳を掠める音に紛れて何かを叩き付ける連続音と振動が下から響いてくる。

 少女は兵装ビル屋上の手すりを乗り越え、狭い足場に立っていた。 入院患者用の着衣が風に大きくはためく。それを着ている少女の体もやはり風に煽られ、今にも吹き飛ばされそうな危うさを見せている。左腕を包む包帯も一部がほどけて、風に吹き流されていた。

 少女は眼帯で覆われていない左の紅い瞳で、じっと眼下の光景を見つめていた。数週間前に少女が負った腹部の傷が再び開いたのだろう、着衣の上から分かるほどに血が染みだしている。流れ出した血は少女の足元に血溜まりを作りはじめていた。

 地面に仰向けになった初号機は、容赦なく続く使徒の槍の攻撃を受けていた。

 しかし、シンジの目は上方から自分を見つめる紅い瞳に吸い寄せられた。

 実際にその少女の姿が見えていたわけでは無かった。しかし、そこに『いる』ことだけは、はっきりと感じていた。

 少女の口がわずかに開いた。

 全身に走る痛みを意識の裏側で受け止めながら、シンジは自分の唇が自分の意志と無関係に動くのを感じた。

「綾波……レイ」

 ふいに静寂が満ちた。

 発令所で戦闘を見つめている大多数の人間は、それに気付くのが一瞬遅れた。

 永遠に続くかと思われていた使徒の攻撃が止まっていた。その視線は足元に転がる紫の巨人にはなく、正面ビルの屋上、自らの目と同じ高さにいる小さな人影に向かっていた。

 使徒はゆっくりと体を起こすと、今まで初号機を貫いていた槍を抜き、静かに上に向けた。槍には初号機から吹き出した濃赤色の体液がまとわりついている。

 その槍が指し示す先には、少女がいた。

 次に起こることを本能的に理解し、ミサトが叫ぶ。

「いけない!!シンジ君、使徒を押さえて!!」

 ミサトの叫びに合わせたかのように、使徒の槍が少女に向かって突き出された。 

 空気を切り裂きながら少女へと迫る巨大な槍。

 猛烈な勢いで眼前に迫りくる、自らに確実な死を与えようとしている巨大な槍を目の当たりにしながらも、その少女の顔に表情が宿ることはなかった。

 槍の軌跡を遮るように紫の影がきらめいた。

 硬い物同士が擦れあう耳障りな音が響き、少女の顔の数十センチ手前で槍の先端は停止した。急停止させられた勢いで、槍にこびり着いていた初号機の赤い体液が少女の全身とその周辺にまで飛び散った。

 赤い液体によって彩りを与えられた少女の顔が投光機に照らされ輝く。

 少女の目の前、彼女が手を伸ばせば届くほどの位置で完全に押さえ込まれた槍。触れるだけで死をもたらすであろう巨大な凶器を目の前にしても、少女の表情は全く変化しなかった。

 何が起きたのかをようやく理解したミサトが言葉を絞り出した。 

「……シンジ君」

 上半身を起こした傷だらけの初号機が右手を上に伸ばし、槍をがっしりと掴んでいた。亀裂が走っている頭部装甲の奥から、隻眼となった初号機の視線が使徒を捉えている。意志を持たないはずの兵器が発する威圧感が、使徒の行動を抑え込んでいるかのようだった。

 使徒は突然自分を妨害した力に戸惑うかのように、槍を前後させようとした。しかし、今までの猛攻が嘘のように槍は微動だにしなかった。槍を受け止めた瞬間の摩擦で初号機の掌は一部融解していたが、掴む力はわずかたりとも緩むことはなかった。

 そこから後の攻防は常軌を逸した速度で行われたため、正確に視認できた人間はいなかった。

 今までの使徒の動きからは想像不可能なほど、素早い動作だった。初号機との力比べを諦めた使徒は、予備動作なしに自由な側の槍を3本同時に前に振り上げ、少女に向け放った。音速に迫る速度で打ち出された槍は、やはり少女を消し去るのに十分な力を持っていた。

 またも、物が擦れあう甲高い音が響いた。その異常に滑らかで高速な動きの3本の槍を、初号機の左手がまとめて掴み取っていた。

 間髪入れずに、初号機は槍を掴んだまま両腕を一息に振り降ろした。熟した果実を潰すような不愉快な音と共に四本の槍はあっさりと千切れ、突然支えを無くした使徒はバランスを失い仰向けに倒れ込んだ。

 重力を無視するように一瞬で立ち上がった初号機が使徒にのしかかり、右手を使徒の体奥深くに突き入れた。その瞬間の初号機の右手は完全に脱力し、まるで水の中に手を入れるような気楽さだった。

 体を貫かれた使徒は、2、3度震えたかと思うと一気に体を膨らませ、ゴムのように初号機に絡み付いた。初号機の上半身を完全に包み込んだ使徒の内部から閃光が発せられる。

 その意図する所を理解したミサトは息を呑んだ。

「自爆する気!?」

 初号機と使徒が白い光に包まれ、一瞬遅れて轟音と衝撃波が第3新東京市を襲った。爆発によって放出されたエネルギーが、周囲数棟のビルを瞬時に瓦礫に変えた。


──────────


「モニター回復します」

 爆発によって生じたノイズが収まり、発令所のモニターが再び地上の様子を映し出した。

 都市は綺麗な半円形のクレーター状に破壊されていた。

 およそ半径100メートルほどの範囲の建築物は完全に破壊されており、舗装面もえぐられ、下の地表部分がむき出しになっていた。その範囲外の建築物の外壁も、高熱を浴びたことを窺わせるように黒ずんでいるものがある。

 半円形の中心部分にはエヴァ初号機が立っていた。両手をだらりと下げたまま、動く気配は微塵もない。装甲は焼けただれ、剥離し、内部の生体部品が見えている。

 使徒の爆発により破壊された都市の範囲は、初号機の前方にのみ拡がっており、初号機の後方には全く被害が及んでいないように見えた。まるで、初号機の背後に見えない壁が存在していたかのようだった。

 各種センサーをチェックした日向が報告した。

「パターン、消失……目標は完全に消滅しました」

「パイロットは!?」

「……生命反応確認、無事です!」

「さっきの子は!?」

 ミサトの言葉を受けて青葉が無傷な監視カメラを検索し、最後に少女を確認した位置にカメラを向けた。ズームされた映像に、先ほどと変わらず無表情に前を見つめる少女が映った。

「確認しました。初号機背後の兵装ビル屋上……無事のようです」

 発令所に安堵のため息が流れた。一気に緊張が解けたオペレーター達に笑顔が出る。

 リツコは早速マヤに向かって初号機の遠隔システムチェックを指示している。日向は保安部に少女の所在を伝達していた。その様子を見ながら、ミサトは落ち着いた口調で宣言した。

「……第一種戦闘配置を解除します。パイロット、えー、ファーストチルドレン?及びエヴァ初号機の回収作業よろしく」

(とりあえずは勝った……いや、問題はこれからか)

 ミサトは戦闘開始以来、初めて後ろを振り返り、司令席を見上げた。

 そこには既に誰もいなかった。


──────────


 初号機の背後、まるで守られたかのように無傷な兵装ビルの屋上で、少女は巨人を見つめていた。

 紅く光る瞳が夜景の中でくっきりと浮かび上がっていた。



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