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柔らかな朝日が第3新東京市を白みがかったオレンジ色に照らし出す。 この都市を囲んでいる山肌に沿う道路の1つ、ビル街を見下ろせる場所に止めた車の中で葛城ミサトは10本目の缶コーヒーを飲み干した。 彼女が考え事をする時には、この車の中が一番落ち着いた。ダッシュボードに固定した、蛇のような形の携帯式ライトの明かりがミサトの手元を照らしている。彼女はライトのスイッチを切り、運転時に視界を遮らないようアーム部分を折り畳んだ。一晩中資料を眺めて疲労した目を閉じて、ミサトはシートに体を預けた。 ミサトは、ここ数日間の出来事を思い返していた。彼女が正式にネルフ職員となって1週間。つまり、あの使徒との最初の戦いから1週間が経った。 ミサトは突然世界の真ん中に放り出された気分だった。人類の敵とされている『使徒』と呼ばれる物体。特務機関ネルフが技術の全てを結集して造り上げた人類史上最強の兵器、エヴァンゲリオン。そしてそのエヴァに乗り込み、命を賭けて戦う子供。 ネルフからしてみれば敵とみなされるであろう自分が、何故彼らの指揮官として指名されたのか未だに理解できなかったが、今のミサトにとってはそれは重要な問題ではなかった。 意図せずにネルフの中枢部へ入り込んだミサトは、通常なら絶対に触れることの出来ない情報をこれ幸いとばかりに読みあさった。しかし、彼女が真に欲している情報はそこにはなかった。 自分の任務として課せられた人類の守護とやらには、さほど興味が湧かなかった。 あの日に起きたことの真実を知ることが彼女の生きる目的であり、全てだった。自分に与えられた地位は、その目的を達するこれ以上ないほどのチャンス。ネルフが自分を利用するなら勝手にすれば良い。自分もこの状況を最大限に利用するまでだった。 朝日を見つめながら、ミサトは胸に下げた十字架のアクセサリーを握りしめた。 特務機関ネルフ本部、司令執務室には2人の男がいた。碇ゲンドウは巨大なガラス窓のそばに立ち、ジオフロントの風景を眺めていた。 ジオフロントの天井を蜂の巣状に覆っている光誘導採光ユニットが、ネルフ本部施設周辺に広がる森林を昼間のような輝きで照らしている。 冬月コウゾウは普段ゲンドウが使っている机の横に椅子を置き、十数枚にまとめられた書類をめくっていた。人類が初めて体験した使徒との戦い。その記録をまとめた報告書の内容の大部分は、大衆が知ることのない情報だった。 一通り目を通した冬月は書類を机の上に放り出し、ゲンドウに視線を向けた。 「初陣としては悪く無い結果だな」 「ああ。これで委員会も少しは大人しくなるだろう。零号機の修復予算も異例の早さで承認だ」 「……で、レイの行動についてだが」 「今は放っておく」 あっさりと言ったゲンドウの背中を、冬月は意外そうな顔で見ていた。 西暦2015年、第3新東京市。 人類を守るプロジェクトは大規模ではあるが、ある部分では徹底した秘密主義の下に進められていた。 15年前、すなわち西暦2000年に世界を襲った大災害の残滓は、この時代になってようやく薄れつつあった。 南極大陸への大質量隕石衝突による破壊とそれに続く地球レベルでの気候変化。『セカンドインパクト』によって世界人口の40%が何らかの形で失われた。 死が身近になった人類はその危機察知能力を極限にまで研ぎすませた。 そして人類は新たな脅威が近付いて来る足音を耳にした。いかにしてその危機を察知したかについては、知る者は少ない。 未知の物体としか形容不可能、人類に危害を与え、人類の力を凌駕する物。 沈む船ならそこから逃げ出せば済む話だが、人類に逃げ場は無かった。人類は圧倒的に不利な戦いに身を投じることを決断した。 『敵』についてはその存在自体が表向き極秘となっている。しかし、現在多くの人々が噂という形でその敵の存在を意識していた。世間に流布している情報は様々であったが、ヒトそのものの生存を脅かすという一点については足並みが揃っていた。 そして、その一点はまぎれもなく真実であった。 国連はセカンドインパクトからの世界復興を指揮する一方、この敵に対抗すべく一つの組織を結成した。それが特務機関ネルフである。 一民間研究所から、非公式国連組織へと転換を遂げた存在。そのネルフの中枢である本部施設が置かれている地、ジオフロント。セカンドインパクトの混乱覚めやらぬ時期に発見された、神奈川と静岡の県境付近、箱根の地下深くに広がる巨大な地底空間である。 ここは周囲が戦略的に恵まれた地形ということもあり、人類の砦を築くにはこれ以上ない環境とされた。大規模な土木工事による人工の森と湖。外部からの採光システムによる、昼と夜の区別。そして現代科学の集合体とも言える、ネルフ本部施設。この空間には人類の全てが凝縮されていた。 そして、ジオフロントを守る強固な蓋として地上に設けられた街、第3新東京市。その中心街は、当初から戦闘行動に特化した都市として設計された。一見不規則だが、戦術的観点から綿密な計算によって配置されたビル群は、敵の攻撃に対する遮蔽物であり、近中距離誘導兵器の格納施設でもあった。 街の形をした巨大な罠であるこの『都市』において、一般的な市民の生活活動は皆無だった。 実際の市民の生活はこの都市からやや離れた地域で営まれている。この地域は元々一地方都市として目立たない場所であったが、ジオフロント開発につれて急速に大きな街へと変貌していった。 そして今、この『都市』が、本来の役目の為に動き始める時が訪れたのだった。 ネルフが経験した初の実戦から1週間が過ぎた現在、戦闘によって破損した第3新東京市の修復はハイペースで進行していた。ここは元々人間が生活している街ではない。そのため、人々の生活上の都合に気を配る必要も無く、全ての時間とスペースを都市の復興作業に充てることができた。 この地で人類の命運がかかった戦いが行われたことは公表されていなかったが、噂として流れ出た情報については無理に抑えつけるようなことはされなかった。事実を隠そうとすることに労力を割く余裕は、ネルフにはなかった。どのみち、国連軍まで巻き込み、これだけ大規模な戦闘行動をおこなった後では、多少の隠蔽工作など焼け石に水だった。 とはいえ、年端も行かない子供達を最前線に送り、生還できる保証のない戦いを強いているという事実だけは可能な限り秘匿されている。大人達は後ろに隠れて、10歳にも満たない子供を無理矢理戦わせる悪の組織ネルフ(別に間違ってはいない情報だが)、というイメージを世間に植え付けられるのは、今の時点では得策では無かった。 彼女は頬杖をついてじっと画面を眺めている。薄暗い室内で端末に囲まれている彼女は、身じろぎ一つせずにモニターに集中していた。常人には追い切れない速度でスクロールする文字列が眼鏡に映りこむ。彼女がキーボードに指を走らせるとテキストの奔流が止まった。 日付け順にラベルを付けられたデータ群のリストが現れた。再びキーボードを叩くと、それぞれのデータの概要を記したテキストの先頭部分がリストとして吐き出される。 「進展は無し、か」 見るだけ時間の無駄だと分かっていたが、最も日付けの新しいデータの再生コマンドを入力した。映像再生用のウィンドウが開き、傍らのスピーカーから声が流れ出した。 ネルフ本部技術部長である赤木リツコの仕事は多岐に渡る。その中でも優先度が高い物の一つが、目の前のモニターに映し出されている。 映っているのは狭苦しい個室の机で向い合せに座る二人を斜め上から撮影した映像だった。 一人は机の上で手を組み、向いの人物をじっと見つめている。赤いジャケットで隠れた豊かな胸の間に下がっている十字架をかたどったペンダントが、画面の中でやけに浮いている。彼女は相手を値踏みするような視線を向けていた。 もう一人は膝の上に手を置き、机の上に視線をおとしている。少年の小さな体には少しばかりサイズが合わない椅子と机だったのか、正面の女性から見えるのは彼の首から上の部分だけだった。眼帯で右目を覆われたその少年の顔からは、感情のようなものは全く読み取れなかった。この映像では左手が机に隠れて見えないが、彼の左手首がギプスで固定されてるのをリツコは知っていた。 『ねえシンジ君』 『……』 『体の調子はどうかしら?』 『……』 『一応私があなたの上司……って分かるかしら?何というか、お世話係みたいなもんね……。だから、色々あなたのことを知っておきたいのよ』 『……』 『エヴァに乗って、使徒と戦ったときのことを憶えてるかしら?どんな感じだった?思った事を何でもいいから教えて欲しいんだけどなー』 『……』 『教えてくれないと、私が怖いオバさんに怒られちゃうのよー。ねぇ、お・ね・が・い』 リツコのまぶたがピクリと震える。 『隣の家に囲いができたってねえ……へぇー』 『……』 リツコは首を振ると再生を中止し、別の仕事にとりかかった。 一般的な昼休みを少し過ぎたこの時間帯、ネルフ本部施設内の職員食堂は閑散としている。 先端技術が投入されている組織の施設にしては安っぽいテーブルが並べられたこの空間。奥の調理場からは、洗い場に放り込まれた食器が互いにぶつかりあう音と食堂勤務の女性達の話し声が小さく聞こえている。 食堂からジオフロントを見下ろせる側は一面ガラス張りになっている。そこに並べられた丸テーブルの1つに、3人の女性が腰を落ち着けている。 葛城ミサトはリツコと共に遅めの昼食を取っていた。テーブルにはもう1人、リツコの右腕ともいえる伊吹マヤが同席していた。 ミサトはお気に入りのメニュー、カツカレー大盛りを嬉しそうに食している。半分程平らげたところでふと顔を上げて、リツコに訊ねた。 「そういえば、あの子……綾波レイの具合はどうなの?」 「あら。やっと自分がネルフに雇われた理由を思い出したみたいね、ミサト」 パイロット及びエヴァ運用の作戦計画を練るでもなく、ミサトがひたすらネルフの内部情報、特に15年前南極で起きたあの事件の情報にアクセスを試み続けていることを、リツコは承知していた。ミサトもわざわざそれを隠蔽することはしなかった。作戦部長の権限として許される範囲の情報にしか手をつけなかったためである。 リツコの皮肉にも動じる事なくミサトは言葉を返した。 「給料分だけは働くわよ。で、どうなのよ。あの時はかなり重傷に見えたけど」 兵装ビルの屋上から回収された直後に見た少女の痛々しい姿がミサトの脳裏に焼き付いていた。売店で購入したサンドイッチをコーヒーで胃に流し込みながら、リツコはつまらなそうな表情で答えた。 「寝てれば治るわ。歩けるようになるまであと1週間ってところかしら。ただ、あの子って時々言うこと聞かなくなるから困るのよね」 「エヴァが戦ってる現場に潜り込んだこと?あれって結局何だったのかしら……?アンタ何か知らないの?」 「あれについては、『不問に付す』って碇司令のお達しが出てるのよ。あなたも知ってるでしょ?」 「だ・か・ら、リツコに聞いてるんじゃなーい。あの子と多少なりとも付き合いありそうなのって、アンタくらいだし」 「私だってあの子と親しいわけじゃないわよ。レイが本部に移されてから、まだ3ヶ月しか経ってないのよ」 持参した弁当を完食し、お茶をすすっていたマヤがやけに目を輝かせて会話に参加してきた。 「ところで、シンジ君ってどういう子なんですか?碇司令の息子さんなんですよね?ずいぶん変わった子みたいですけど」 ミサトとリツコがじろりとマヤを睨む。この状態で、しばしの沈黙が続いた。鋭い視線に耐えきれず、やがてマヤは小さくなってうつむいた。 (それは私が聞きたいわよ……) ミサトとリツコは心の中で同時につぶやいた。 「で、シンジ君の経過は?」 すっかり冷めたコーヒーに口をつけながら、ミサトが切り出した。 食事の後、ミサトとリツコは場所を移していた。 そこは雑然とした部屋だった。行き場をなくしソファに積まれた書類の山、床に巡らされたケーブルの束、机の上を占領するキーボードと3台の薄型ディスプレイ。他人から見れば整頓されていない空間。本人にしか理解できない法則で整理されたこの仕事部屋の主は、キー操作を休めること無くミサトに答えた。 「左手首の骨は小さなヒビが入っただけだし、右目の視力も一時かなり落ちてたけど、回復傾向にあるわ。どちらも短期間で治癒するレベルだから心配ないわよ」 「一度聞こうと思ってたんだけど……エヴァからのフィードバックでどうして肉体に物理的ダメージが発生するのよ?パイロットは痛みを『感じるだけ』じゃないの?」 「いくつか仮説は立てられるけど、エヴァのパフォーマンスを犠牲にしない限りフィードバックを軽減させることは不可能、ということだけは断言できるわ。技術部長としては、パイロットに負担がかからない運用を作戦部に期待する、としか言い様がないわね」 「……なんかイヤミっぽい言い方ね?」 「そのつもりで言ったのよ」 ネルフ本部にある医療施設の廊下は閑散として、人通りも少なかった。 清潔に保たれた床面は外からの光を反射していた。医療施設の総合受付ロビーに繋がるこの廊下は、外に面する部分が斜めに張り出したガラス張りとなっており、その少年の身長でも外の風景を眺めることが出来た。 碇シンジは地下にあることを忘れそうな明るさに反射的に目を細めながら、ジオフロントに広がる森林を見つめていた。 シンジにとって、何かを見つめるという行為は希有なものだった。何かに意識を向けるということを滅多にしない彼にとって、関心を向けた対象は何がしかの重要な意味があった。その意味を本人が意識しているかどうかはともかくとして。 左手首を固定しているギプスは間もなく取れる、と医者に言われたが、彼にとってはどうでもいい話だった。 自室に戻る許可を出されたシンジは、この病院の中を歩き回っていた。目的があったわけではないが、自分でも分からない理由によって、ここを去るタイミングを先延ばしにしていた。 そして、ある病室の前で彼は立ち止まった。 何故、自分はここに立っているのか分からなかったが、ドアを見上げてある記憶が蘇った。 あの瞬間、自分の口から流れ出た1つの名前。知らないはずの名前。そして頭に流れ込んできたイメージ。 病室のドアの横に、その名前が書かれたプレートが入っている。 たっぷり1分近くドアの前に立っていた後、彼はきびすを返しその場を立ち去った。 窓がなく、照明も設けられていないその場所は、当然のごとく暗闇が支配していた。物理的、電子的に防御されたこの空間の中に、生きている人間の気配はない。 低い唸りとともに幾人かの老人の映像が次々と投影された。椅子に座っている者、杖を支えに立っている者、ベッドに横たわっている者、その外見は様々だった。空間のあちこちに不規則に投影された老人達の視線はまるで別の方向に向いており、この映像が単なるシンボルでしかないことを暗に示していた。 前置きもなく、1人の老人が口を開き、それに他の老人達が答えていく。 「かの予言は滞りなく成就している」 「人類をより良き道へと導く我らの計画。目指す先は遠くとも、概ね順調と言えよう」 「憂慮すべき要素がないわけではないぞ」 「碇のことかね」 「有能な男だが、それゆえに危険だ」 「足元をすくわれぬ内に手を打つべきでは」 「奴にとっては彼女が全てだ。我らと利害が一致している限り、あの男は役に立つ」 「今はまだ見守ろう」 老人達は消え、空間は再び暗闇となった。 巨大な四角い空間。壁面は金属で覆われているが、あちこち裂けたり窪んだりしていた。照明は落ちており、その薄暗さが静寂さと相まって神秘的な雰囲気を演出している。 そのシステムの全てを解明したとは言えないエヴァンゲリオン。それゆえ、一見何の危険も無いように見える作業でも、エヴァに関しては細心の注意が必要とされている。 半月前に、このエヴァ実験用ケイジで起こった事故は、まさにその象徴だった。 制御室からケイジ内部を監視する窓に使われている対衝撃ガラスは、それが新品であることを示すようにビニールが貼られていた。 ケイジの床面には異常な光景が広がっていた。左腕を欠損したオレンジ色の巨人がケイジの床にひざまずき、さらに上体を前屈みにしてその頭部を床にめり込ませている。巨人の胴体の一部は溶けたガラスのような物質で覆われており、その光景の異常さに拍車をかけていた。 今、実験用ケイジを見下ろす制御室にいるのは1人の男だけだった 碇ゲンドウはビニール越しに、ケイジにうずくまるエヴァ零号機を見つめた。眼鏡の奥の瞳の様子を窺うことはできなかった。 少女はその感覚に戸惑っていた。 あの夜、吸い寄せられるように足を向けた場所。予感、ではなく確信があった。自分が求めている物がそこにあるという確信が。 日がな一日、こうして病室のベッドに横たわり天井を眺めていても、その感覚が薄れることは無かった。 『綾波レイ』。 その単語に意味を求めたことはなかった。便宜上、自分につけられた記号でしかなかった。自分という存在を実在感のあるものとして感覚できなかった少女にとって、自分が名前を持つという事実には違和感を拭いきれなかった。 だが、あの夜は違った。自分自身を『綾波レイ』として存在を主張しなければならない、という激しい衝動を感じた。 使徒に傷つけられたエヴァ初号機のイメージ。その向こうにある漠然とした存在感。 彼女は生まれて初めて他者に対する好奇心を持った。 キーボードを叩く音がリズミカルに流れる。 ネルフ本部、技術部の一画。薄型ディスプレイとキーボードを備えた端末が、三方の壁ぞいにずらりと十数台並べられた部屋。部屋の中央には大きめの丸テーブルが置かれ、その上にはファイルケース、書類、電話、コーヒーメーカー、孫の手、ネコのぬいぐるみ、雑誌、スポーツ新聞等が無秩序に積み重ねられていた。 複数の人間が共同作業をする必要がある場合に、この部屋はよく使われる。なし崩し的に談話室も兼ねてしまっている状況は憂慮すべきものなのだろうが、その一因となっている人間が誰あろう技術部の長たる人間であったため、このささやかな安息の場所はいまだに守られ続けていた。 端末席の1つに腰掛け、軽やかにキーを叩き続けている伊吹マヤ。中央のテーブルのそばに椅子を移動させ、書類をめくっている赤木リツコ。リツコの隣でテーブルの上にアゴを乗せてコーヒーカップをもてあそんでいる葛城ミサト。 さすがにリツコはミサトのだらけ加減を見かね、読みふけっていた書類を脇に避け、緊張感のかけらも感じられない友人の方に向き直った。 「あなた、ずいぶんと暇そうね」 返事をするのもダルそうなミサトが、言い訳がましい目をしてリツコを見た。 「やる事ないのよねえ、今って。パイロットは療養中だし、先の戦闘の後始末も広報部の仕事だし」 「サボってる暇があったら、パイロットとの親交を深める努力でもしてみたら?作戦行動の円滑な遂行には有益でしょう?」 「あー。なーんか、アレなのよねえ。どう触れたらいいのか分かんないのよ。特にシンジ君は……さ」 「レイ以上に手強そうね。シンジ君は」 「それに……碇司令はどう思ってるのかしら。仮にも自分の息子が死ぬ思いで戦ったのよ。それを子供一人でここの宿舎に放り出すかしら、普通」 「まるで興味なし、って態度だったわね。碇司令」 体を起こして、椅子の背もたれに寄り掛かるミサト。その目はあらぬ方向を眺めている。 「ねえ、リツコ。一つ聞いていい」 「何?」 「どうして私なの」 「さあ。私が人事権を持ってるわけじゃないし」 淀み無く答えたリツコの様子から、彼女にとってこれが想定済みの質問であるのが分かった。この質問で切り崩すのは無理かとミサトは心の中で舌打ちしたが、もう少し食い下がることにした。 「パイロットの指揮官なら他にいくらでも適任がいるはずでしょ。どうしてよりによって私なの」 本部施設に不法侵入するようなミサトが、決してネルフの味方でないのは誰の目から見ても明らかだった。それにも関わらず、ネルフが彼女を取り込もうとする理由がどうにも腑に落ちない。シンジに対して命令を与える事ができるのはミサトだけである、というゲンドウの言葉も理解に苦しむ表現だった。 「あなたにしては控え目な発言ね。子供の扱いは苦手だったかしら?」 のらりくらりとかわすリツコ。どうあっても核心には触れさせない態度は揺るがないようだった。逆に言えばそこがネルフに対してつけこむ鍵になるとミサトは感じた。 (今はそれが分かっただけでよしとすべきか) それはともかく、碇シンジという存在はミサトにとって(おそらく他の誰にとっても)理解し難い人間だった。心と外界との関わりが極めて薄い少年。そういう性格だから、などという安易なものではないのは分かり切っていた。奥底にある部分が、他人には推し量る事の出来ない次元にある。そんな手応えだった。 「まるっきり聞き分けのない子供じゃないって所が、また不気味なのよ……。命令には忠実に従ってくれるけど、そうじゃない部分での拒絶が極端すぎるわ」 ミサトは使徒との戦闘の後、何度もシンジと顔を合わせる機会を得たが、彼とコミュニケーションを図ろうという努力は見事に失敗していた。シンジとレイ、彼らチルドレンに精神的メンテナンスの考慮は無用である、という冬月副司令の話もミサトは少々気に食わなかった。 子供達を気にかけて、ではなく自分の行動をコントロールされている気がしたための不快感だった。実際の所、チルドレンの扱いについてはミサトはそれほど悩んでいるわけではなかった。所詮ネルフ側の駒の一つであるあの子供達に必要以上に肩入れすることはない、と彼女は思っていた。 (とは言え、飼い殺しにしては作戦部長なんて待遇良すぎるのよねえ) ミサトの悩みが子供達とは全く関係ないものだとは知る由も無く、予想外に思い悩んでいる様子の友人の姿にリツコは慰めるような口調で語りかけた。 「まあ、あの子達に一般的な『子供らしさ』なんて、期待しても無意味なのは確かね」 引っ掛かる物を感じながら、ミサトはリツコの顔をまじまじと見つめた。 「……それはあなたの個人的見解?」 「マルドゥックの育成プログラムがそういうコンセプトなの。そういう風に教育されたのよ。適格者は全て、例外なくね」 人類最後の希望にして事実上最強の兵器、エヴァンゲリオンに搭乗可能な人間、『適格者』。適格者として適性を持つ人間はごく少数である。ネルフ技術部の統計試算では、適格者の可能性がある人間は全人類を見渡しても二桁に届くかどうかだろう、という結論だった。 希少な適格者の捜索、確保、保護、育成を行う完全独立非公開組織、『マルドゥック機関』。この組織の詳細および、適格者が選抜される過程は最高レベルの機密事項だった。ネルフ本部作戦部長である葛城ミサトですらそれについては知らされず、簡略化された報告書からその活動を推測するしかない状況である。 ミサトが知る事実はごくわずかだった。マルドゥック機関が適格者の『供給元』であるということ。適格者はごく幼少の時期からマルドゥックの保護下にあること。独特な教育手法を用いることで、戦闘に耐えうる精神を持つエヴァパイロットを育成することが目的の1つであること。 (ま、どこまでが本当の話か分かったもんじゃないわね) そもそも現在見つかっている適格者がすべて『9歳の子供』に限定されている事実からして、欺瞞に満ちあふれていた。 「彼らの資料は見たわよ。にしても……『教育』、ねえ」 嘲るような笑みを浮かべて、ミサトは天井を見つめた。ミサトがその言葉の裏に込めた感情を察したリツコは、言い聞かせるように言葉を継いだ。 「あの年頃の子供は心理的に非常に不安定よ。高度な作戦行動に従事させるのは、高いリスクが伴うの。命令への従属性を高めるための、やむを得ない処置です。『作戦部長』のあなたにデメリットは無いはずよ?」 「あー、はいはい。人類を守るためだもの。わーかってるって」 ミサトが手をひらひらさせてリツコを茶化すような仕草をした時、部屋の扉が開いた。 「葛城さん!こんなとこで何やってんですか!午後から打ち合わせだって言ったでしょう!」 脇にファイルを抱えた日向マコトがずかずかとミサトの方に歩み寄ってきた。しまった、という顔で視線を逸らすミサト。 「後の業務にも差し支えるんですから。いつまでもお客さん気分でいられるとこっちも困るんですよ」 「ちょ、ちょっと忘れてただけじゃない。やーねえ、日向君ったら。そんなに怒っちゃってえ」 渋々と席を立ち、日向に半ば連行されるような形でミサトは部屋を出ていった。ドアが閉じたのを見計らって、マヤがリツコのそばに自分の椅子を動かした。 「大丈夫なんでしょうか、葛城さん。ただの民間人がいきなり作戦部長に抜擢なんて、やっぱり無理ありませんか?あちこちで変な噂がたってるみたいですし」 「それなりに馴染んでるようだし、いいんじゃない?」 リツコは何の興味もそそられないという口調で答え、書類をめくりながらコーヒーに口をつけた。 (まあ、『ただの』民間人ってわけでもないし、ね) その部屋の明かりは消えていた。 12畳ほどの部屋の隅にシングルサイズのベッドが置かれていた。反対側の隅には、2人掛け程度の大きさで背もたれがついたソファが2つL字を組むように置かれ、その前には背の低いガラステーブルがあった。 ベッドの上には1人の少年が仰向けに横たわっている。 体から完全に力が抜けている。暗闇の中でも目は閉じておらず、視線は天井に向けられていた。焦点は曖昧で、目から入ってくる情報に意識を向けることは無かった。 碇シンジはあの戦闘の後、病院での検査と治療を終えてから、この部屋をあてがわれた。ネルフ本部施設内にある、職員宿舎の一室が彼の居室となった。私物に類するものは皆無だった。ネルフに移送されてきたあの日、葛城ミサトの目の前に現れたときに身につけていた物が所持品の全てだった。 日用品としての洗面用具、下着の替えなどはすべてネルフ総務部が用意済みであったのでそれを使ったが、私服といえる物までは準備されていなかった。 よって、普段行動する時のシンジは最初の日の服装のままであったが、本人はそれを全く意に介さなかった。 戦闘の翌日、彼に対してエヴァパイロットとして必要とされる身体的検査がいくつか行われた。それからは日に一度、左手首と右目の経過を診る検査がある以外、彼がすることは無かった。 食事はネルフ施設内の食堂で済ませるように指示されたのでそうしていた。エヴァパイロットの食事メニューは厳密に設定されているため、彼が自ら食事の内容を選ぶ必要は無かった。 シンジは常に1人だった。第3新東京に来てから数週間が経つが、彼と会話を交わした人間はいなかった。指示されたことには従順に従っていたが、その振る舞いはあまりに機械的で、彼に薄気味悪さを感じない大人は皆無だった。 誰とも言葉を交わさず、視線も合わせず、ただ黙々と指示されたスケジュールをこなす。子供にありがちな、拗ねたりふてくされているという感情の現れではなかった。他者を拒絶というよりは、そもそも周囲の人間を人間として知覚していないと言う方がしっくりくる行動だった。 そして食事と病院での検査以外の時間は、彼は必ず自室のベッドでこうして横になっていた。 なぜなら何もする事が無かったから。 ミサトは湯舟に体を沈めて長々と息を吐き出した。あふれ出た湯がベージュのタイルの上を伝い排水口に勢い良く流れ込んでいく。 突然第3新東京の住民となったミサトにとって、ネルフから用意されたこの住居は実に快適だった。この真新しいマンションには人の気配がまるでなく、おそらく住人は自分1人なのだろうとミサトは思った。保安上の理由だというのは見当がつくし、当然24時間の監視もついているはずだった。 ミサト当人からすれば、自分がそれほどの重要人物だとは未だに実感が湧かなかったのだが。 引っ越し作業は至極簡単に済んだ。荷物と言えば、車と日用品の段ボールが3、4つ程。一人暮らしには少々広すぎる部屋の片隅に置かれた荷物を眺め、我ながら色気のない人生だと苦笑した。 与えられた階級こそ高かったものの、ネルフの職員としては全くの新人であるミサトは、連日オリエンテーション漬けになっていた。その日々を過ごす中で、ネルフの内情はそれなりに分かって来た。使徒やらエヴァやら現実離れした物を突然見せつけられて半ば麻痺していた思考が、ようやく本来の回転を取り戻し始めていた。 湯の中で力を抜き、目を閉じて情報を整理する。彼女が求めている『あの日』の情報は厳重に管理されている。それ故にネルフが深く関わっているのは間違い無かった。しかし、どうやってその情報に接触したらいいのかミサトは考え倦ねていた。 作戦部長と言うポストは名前こそ仰々しいが、ネルフの中ではさほど重要な役職でないことも気付いていた。全てがエヴァありきで運営されるこの組織において、自分の存在意義は吹けば飛ぶようなちっぽけな物だった。ミサトはネルフとの駆け引きに使えるカードを手に入れる必要があった。仲間は誰もいない。リツコですら信用は出来ない、むしろ最も危険な敵の一人だろう。 (まずは、無愛想なお子様の御機嫌を取る事から始めましょうかね) 浴室を出て、バスタオルを巻いただけの格好で冷蔵庫から缶ビールを取り出し、喉に流しこむ。水分が全身に染み渡るのを感じながら、ふとリビングの電話に目を止めている自分に気付いた。 (こんな時に限って他人の声を恋しがってる。勝手なものね) 十数枚にまとめられた書類のコピーを配りながら、白衣の女性は言った。 「これがいわゆる第一次直上会戦の記録概要」 ネルフ本部技術部長、赤木リツコ博士の仕事部屋には、4人の男女が集まっていた。この部屋の主人、赤木リツコとその部下、伊吹マヤ。そしてネルフ本部作戦部長、葛城ミサトとその部下、日向マコト。 来客用のソファに腰掛けた四人の前には、リツコの淹れたコーヒーが置かれていた。 リツコが3人をぐるりと見回して言葉を続けた。 「記録に抜けは無いと思うけど、一応目を通しておいて」 日向は紙束をめくりながら息を吐き出した。その目には驚嘆と興味の色が浮かんでいる。 「しかし、見れば見るほど、エヴァの非常識さが実感させられますね」 「そうね」 半ば呆れた口調でリツコが応じる。 「破損した左腕の自己再生。ATフィールドを瞬間的に中和しつつ使徒への加撃。自爆する使徒に対してATフィールドによる防御。しかも、現場に居合わせた『レイを守る』ようにフィールドを展開したフシがあるわ」 コーヒーをすすりながら書類を眺めていたミサトの眉がぴくりと上がる。 「ふーん……あの半円形の爆発跡って、そういう意味だったのね」 うっとりとした表情でマヤがつぶやいた。 「お姫さまを守る白馬の王子様って感じですよねえ……素敵だわ」 後輩のズレた言動に、リツコの頬が微妙に引きつる。 「マヤ、真面目にやりなさい」 「王子様はともかくとして、シンジ君はレイの存在に気付いてたってこと?」 「そこが謎ね。初号機の対人センサー周辺は使徒の攻撃で破壊されて、作動していなかったわ。あの位置関係だと肉眼で確認するのはまず不可能だし」 「にも関わらず、シンジ君の行動は『レイを守った』と解釈できる、ってわけね」 「そうね」 マヤの口が半開きになり、瞳が潤み気味になっていくのを、日向は不安な面持ちで見つめた。 「ああ……やっぱり素敵な話ですねえ……小さな恋の物語って感じですよねえ。私こういうの大好きなんですよう……」 リツコの頬が今度は目に見えて引きつる。 「だから、真面目にやりなさい」 「ねえリツコ、シンジ君本人には聞いたの?」 ミサトの問いに、リツコは思い出したくもないと言うように仏頂面を浮かべた。 「聞いたけど答えてくれなかったわ。正確に言うと、私の質問に反応すらしてくれなかったわ」 「……でしょうね」 ミサトはその光景を思い浮かべて苦笑した。じろりと睨んだリツコの視線をミサトは軽く受け流した。仕切り直しの咳払いをして、リツコが言葉を続ける。 「で、これを踏まえて、ここからが今日の本題。技術部から作戦部に提案があります」 「ファーストチルドレンとサードチルドレンの私的接触の推奨、かね?」 ネルフ副司令、冬月コウゾウは読みかけの書類から目を上げて、机の前に立つ白衣の女性を見た。 「はい。先の使徒戦において、サードはファーストの存在を認識していたと思われる状況証拠があります。その場合、ファーストの存在自体が、使徒を圧倒した初号機─あるいはサード─の能力を開放せしめたトリガーである、という推測も可能です。よって、2人を『接触』させる事により生じる心的反応を観察することは、無益ではないと考えております」 冬月の机の上に積まれた書類の山に微かな同情を覚えながら、リツコは整然とした口調で説明を続けた。彼女の言葉を吟味するために、冬月は腕を組み、その体を椅子の背もたれに沈めて目を閉じた。 「ふむ……操縦者の心とのシンクロで動くシステムである以上、あながちあり得ん話でもないな。まあ、問題は無かろう。パイロットに関しては君と葛城君に任せる、と碇も言っとることだしな」 冬月がチルドレンに関しては必要以上の操作を避けていると感じていたリツコは、あっさりと許可が出たことにやや拍子抜けした。 「……では、後ほど正式な計画書を廻しておきます」 「ああ……ところで、一つ確認なんだが……。その、2人を『接触』させると言っても、あまり極端なことはやらせないだろうな?いくら9歳とはいえ……その、何と言うか……色々面倒が起こると厄介だからな」 一瞬、冬月が何を言っているのか理解に苦しんだリツコだったが、すぐに口元に微笑を浮かべて答えた。 「ええ……ご安心下さい。単に『自由時間は共に行動するように』という指示を2人に出すだけですが」 「ああ……そうか……安心したよ」 (……この人は今どきの子供に一体どんなイメージを持っているのかしらね) 気まずそうに顔を書類に戻した上司に、リツコはほんの少しだけ親近感を感じた。 病院の受付ロビーらしからぬ、モダンなデザイン。高い天井と外の光を多く取り入れているこの空間には開放感があった。 人の気配はほとんどなく、医療関係者がたまに通り過ぎるだけだった。 地上から光学的に誘導されてきた太陽光が、傾斜のついた大きなガラス張りの窓の外に見える人工森林にまぶしく降り注いでいる。 毎日恒例の定期検査を終えた碇シンジが乗ったエレベーターの扉が滑るように開いた。左手のギプスは既に外れている。右目の視力もかなり回復してきていた。 フロアに足を踏み出したシンジは、数歩進んだ所でその歩みを止めた。 彼の視線は10メートル先の空間に釘付けになった。 少女がそこに佇んでいた。 おそらくシンジと同年代、10歳前後と思われる少女。病的な白さを見せる肌と、ショートカットの薄青い髪。白の半袖ブラウスに、膝下まである紺のスカートのコントラストが存在感を強調している。 少女はシンジの方を見つめていた。彼女の視線は迷いがなく、純粋さに満ちていた。 少女はシンジに向かって歩き始めた。黒い光沢のある革靴の底が堅い床に当たり、リズムを刻む。そのリズムに合わせて、2人の間の距離が縮んでいった。 シンジの目の前で止まった少女は、彼の目を覗き込んだ。少女の瞳は透き通るような赤い光に満ちていた。シンジも少女の瞳を見つめ返した。2人はほぼ同じ身長であったため、その視線は互いにまっすぐに伸びていた。 少女は、意志の動きがまるで感じられないその少年の瞳の底で影のようなものが揺らぐのを見た。 1分近くじっと見つめ合った後、少女の唇から言葉が発せられた。 「あなたは……」 遠くから騒々しい足音が響いてきた。全力疾走しているとおぼしきその足音の発生者は、看護婦の冷たい視線を無視した。シンジと少女がいる場所に駆け寄った走者は、息を軽く弾ませながら開口一番、その頭を下げた。 「ハァハァ……遅れてごめんね……ちょっち仕事が長引いちゃってさ……」 妙な雰囲気を感じ取り、頭を上げた葛城ミサトは、見つめあう少年と少女を不思議そうに眺めた。 「んじゃ、改めて。シンジ君……この子がファーストチルドレンの綾波レイ。レイ……こちらがサードチルドレンの碇シンジ君よ」 カフェテリアに場所を移したミサトは、丸テーブルに向い合せになるようにシンジとレイを座らせ、その二人を左右に見るように自分も席についた。子供二人の前にはオレンジジュース。ミサトの前にはアイスコーヒーが置かれている。 「それじゃあ、初対面同士ということで、質問タイムにしましょう。えーと、レイ。シンジ君に何か聞きたい事ない?趣味とか、好みのタイプとかさ?」 「……ありません」 「……」 十分予想された展開だった。シンジほどではないにしろ、この少女、綾波レイも他人との繋がりを積極的に求めない人間だった。 ミサトの脳裏に、 『別にわざわざあなたが無駄なちょっかい出す必要無いのよ。 あの子達は、命令すればそれなりに従うんだから』 と、忠告していたリツコの勝ち誇った顔が浮かんできた。 半分意地になって、何とかこの2人から会話を引き出そうとしたミサトだったが、レイは「はい」「いいえ」のどちらかだけ。シンジに至っては焦点のあわない瞳でテーブル近辺を見つめたまま、返事をする様子もない。 普段から口の減らないミサトでもさすがに敗北感が強くなってきた。 だが、ミサトはこの砂を噛むような作業にも、1つだけ収穫があったことに気付いた。この顔合わせの当初からレイはシンジから目を離していない。その視線には何かの感情というより、好奇心と呼べる物がこめられていた。 (このレイの態度は好意的に解釈すべきかしら) ふと、子供達の前に置かれた飲み物が手付かずになっているのが目についた。少し間を取ろうとミサトが笑顔でレイに促す。 「レイ。ジュース、飲んでいいのよ」 その言葉に、レイはグラスに目を落としやや考えていたが、すぐ素直にストローに口をつけちびちびと飲みはじめた。 「シンジ君も。飲んでいいわよ」 だが彼は反応しない。ため息をつきかけたミサトだったが、ふと思い直して再び口を開いた。 「シンジ君。飲みなさい」 シンジは迷いのない動作でグラスを手にとった。グラスの端に口をあてると、その中の液体を一気に飲み干し、グラスを元の位置に置いた。少年の機械的な動作がミサトの感覚に一瞬何かを訴えたが、彼女はその感覚を取りあえず脇に追いやった。 今日の所はこれで諦めようと観念したミサトは、場の締めくくりに入った。 「では、最後に2人に命令を伝えます。これは正式な命令なので心して聞くように。えー、『綾波、碇両名は今後、パイロットの勤務時間外においては可能な限り行動を共にすること』。……まあ要するに、『暇な時は2人一緒に遊んでてね』ってことよ。いいわね。命令だからね。拒否権はナシよ。では解散」 ミサトの言葉が終わると、シンジはふらりと立ち上がって席を離れていった。それを見たレイも立ち上がり彼の後ろについていき、ミサトの元から立ち去った。 (あれは一応、命令通りにしようとしてる………のよね?) 「……だから、保護が必要なか弱い子供じゃなくて、普通のパイロットとして見るべきなの。もっと正確に言うなら、あの子達は単なるパーツよ。酷な言い方だけどね」 リツコはプリントアウトされた計測データにボールペンで印をつけながらそう言った。 ネルフ本部、技術部実験棟のエリアの一つ。彼女達がいる実験制御室の窓からは、赤い液体が満たされたプールと、そこに半分浸かるように設置された金属製の円筒が2本並んでいるのが見えた。 マヤが操作を行っているコンソールの脇に備えられたモニターには、プラグスーツを身につけたシンジとレイの姿が映し出されていた。2人とも、その顔には表情らしきものの欠片もなかった。 ミサトは胸の前で腕を組み、子供達の顔を見つめながら押し黙っていた。 テストプラグ内部の映像には、それぞれリアルタイムのシンクロステータス計測値が付加され、その数字は刻々と目まぐるしく変化していた。 実験は滞り無く進んでいた。マニュアル通りに作業は行われ、問題らしい問題はなく、パイロット達にも異常は見られない。にも関わらず、ミサトとリツコの間に重苦しい物が積み重なっていくのが分かる。誰も言葉を発せず、プリンタがシンクロデータを吐き出す低い唸りだけが大きく聞こえる。張り詰めかけた空気に居心地の悪さを感じたマヤが、椅子の上で体をもじもじさせた。 シンジとレイの映像から目を離さないまま、ふっとミサトが口を開いた。 「あなたは優しい人よ。子供達と距離を取りたがるのは後ろめたさの裏返し」 ペンを片手にプリントアウトを見つめるリツコの目が、一瞬ミサトの方に向いた。そして彼女は再び、味気ない数字の羅列に視線を戻した。 少年は命令にただ従っていた。 『行動を共にしろ』と命令された対象に付与されたラベルを知覚し、その行動を模倣していく。抽象的な複数の命令に優先度をつけ、自分の行動にフィードバックする。 彼の精神は、記憶─概念─パターン化─行動のサイクルを機械的かつ高度にこなすシステムだった。そこには『心』や『感情』と呼べる程の冗長性は存在していなかった。 時折彼の意識の表面から飛び出そうとする不規則なイメージの塊は、そのシステムにとってノイズでしかなかった。 作戦行動中は殺伐とした空気に満たされるこの発令所も、平時は数人のオペレーターが交代制で常駐しているだけだった。更にその作業内容も、各地レーダーサイトから自動的に上がって来る警報を待ち受けるという、極めて退屈なものが主だった。 発令所の中央、中枢機能を一括して管理するメインコンソールには3人分の席がある。そして今も通常のマニュアル通り3人のオペレーターが席につき、いつ来るかも知れない敵に対し備えていた。 青葉シゲルは椅子の上で体を大きく伸ばし、首の関節を鳴らしながらぶつぶつと呟く。 「別に俺らが詰めてる必要ないのにな、ここ。最近休みも少ねえし、仮眠室でいいから寝てたいよ」 「ま、大事な所に人間様を置いときたいってのは感情的にアリだろ。それに意外とのんびりできるっしょ、ここって」 発令所備え付けの給茶器にやかんで水を補給しながら応えた日向マコトに対して、青葉がからかい半分の目を向ける。 「お前の場合は葛城さんにこき使われるのが嫌なだけだろ」 「最近は妙に張り切って仕事してるんだよな……葛城さん。そうそう、聞いてくれよ。こないだなんか消耗品扱いでビールの領収書を……」 背筋を伸ばして各モニター類をチェックしていた伊吹マヤが、2人の会話にため息をついた。 「ちょっと、2人とも緊張感なさすぎよ」 「堅い堅い、伊吹二尉」 「大体マヤちゃんだって、さっきまで何か画像眺めてニヤニヤしてたじゃん」 と、コンソールの脇に無造作に置かれた、マヤの私物のノートブックをアゴで示す日向。すると、突然マヤが不自然なまでに慌てはじめた。 「ああああ、あれは違いますよ!あれはお仕事なんですう!」 直感的に面白いネタの匂いをかぎつけた日向がさらに追求する。 「ふーん。ちょっと見せてよ」 「ダメです。えーと、機密なんです」 (嘘こけ。私物にそんなデータ入れるのかよ) 一瞬考え込んだ日向がマヤの腰あたりに視線を落とし、目を丸くした。 「あれ、マヤちゃん、ズボンのお尻破けてるよ」 「きゃっ!うそうそ!やだ!!」 顔を真っ赤にして椅子から飛び上がるマヤ。日向の目配せを見て、瞬時にその意図を理解した青葉が手を伸ばす。 「いっただきー」 動転したマヤの隙を突いて、青葉がひょいとノートブックを取り上げる。早速液晶を開いてスリープモードから復帰させる。 「やーん!だめだってばー!」 内股で腰をくねらせながら取りかえそうとするマヤの両手首を日向が後ろから抑えつつ、青葉と共に興味津々で液晶を覗き込む。 直前まで起動していた画像閲覧システムらしきウィンドウが現れる。 「あ」 少年と少女の画像があった。それは見た目には全く普通の幼い子供達だった。 ある1日のシンジとレイを時系列に追っている画像と思われた。背景はネルフ職員宿舎、本部施設内部の休憩ロビー、エヴァの格納ケイジ、本部施設周辺の人工森林などバリエーションに富んでいた。どちらかというと、レイが進むそばをシンジがついていくという印象の画像がほとんどだった。 ミサトの命令通り、あの日以来2人は終日ほぼ一緒に過ごしていた。訓練も2人まとめて行うものがほとんどだったため、結局シンジとレイは常にセットだった。 人類を守る最前線の施設には不似合いな子供達のポートレート。妙に気持ちを惹かれるこの画像の前で、この3人はいつの間にか言葉を発することも忘れ、ディスプレイに見入っていた。 「あーら、良く撮れてるわね」 気付かぬ内に背後に立っていた2人の女性の気配に3人の背筋が伸び、思わず声が出る。 「げっ!」 ミサトが呆れ笑いを浮かべて3人を見回す。その後ろからリツコの視線が自分を突き刺しているのを感じて、マヤが首をすくめる。遊び道具を手に入れた子供のような顔でミサトが言葉を続ける。 「アンタたち、上司に向かって『げっ』はないでしょ」 「し、失礼しました」 リツコはシンジとレイの画像に興味を惹かれたようで、キーボードに手を伸ばして勝手に画像をめくっていく。 「呆れた……これ監視カメラのログから抜いたのね、マヤ」 リツコの口元にうっすら笑みが浮かんでいるのを見て、マヤが少し安心する。誤魔化し半分で自分も身を乗り出してディスプレイを見つめる。 「だってえー、ほらほら、これなんかすっごいカワイイんですもん。レイちゃんがお姉さんみたいで」 マヤが指し示した写真の中では、職員食堂らしき場所でシンジとレイが並んで食事をとっていた。レイがハンカチを取り出して、シンジの口元を拭ってやっている。マヤの言う通り、確かに小さな姉弟の微笑ましい場面に見えた。 「ほら、ここ!ここ!きゃー!」 今にも床を転がり出しそうな勢いで身悶えるマヤ。ミサトの背後に立った1人の男の気配には誰も気付いていなかった。 「ほう。赤木君のプランも、それなりに順調なようだな」 「げっ!!」 ネルフ内ナンバー2の男の声がいきなり後ろから聞こえてくれば当然の反応を、この5人はした。さすがにミサトとリツコは声を上げることまではしなかったが。 「上司に向かって『げっ』はないだろう」 冬月が呆れた調子で5人を見回す。 「し、失礼しました!!」 身を乗り出して画像を見つめる冬月。 「ふむ。それで、2人の接触による影響は見られたかね?」 冬月の質問に、画面に見入っているリツコに替わりマヤが答えた。 「時間を置いて3度彼らに心理テスト及びエヴァとの疑似シンクロテストを行いましたが、有意な変化は未だ現れません」 「そうか。まあ結果はどうあれ、パイロット同士で親交が深まるのは歓迎すべきことだな」 「まあ、ほどほどに頼むよ」と言い残して冬月はすぐに発令所から立ち去った。 ノートブックの画面ではシンジとレイが一緒に写った画像が次々と現れては消えていった。画像の背景が技術部施設や訓練施設などの非日常的なモチーフに移るに従って、画像をめくっていくリツコの指の速度が落ちていった。 テストプラグの前でエントリー準備をしている、プラグスーツ姿の2人の画像が現れたところで、リツコがキーを打つ動作は完全に止まった。 その様子をミサトは静かに見つめていた。 「さっきのレイの写真、どう思った?」 リツコの仕事部屋のソファにどっかりと腰を落とし天井をぼーっと見上げながら、ミサトが切り出した。リツコが淹れてくれたコーヒーは手付かずのまま、すでに冷めかけている。リツコはデスクに山と積まれた書類を1枚づつ上から取り上げ、内容をチェックしながら答えた。 「さあ?別に」 「レイはシンジ君にきっと何か思うところがあるのよ。チルドレン同士ってことで何か感じあうことがあるのかしらね?」 「どうかしら」 「同じ年頃の子がそばにいれば安心するのかもね。レイも普通の9才の子供ってことなのね」 リツコが書類をあらためる手を止めた。ミサトの方を見ながら、しばらく何かを考え込んでいたリツコがおもむろに口を開いた。 「最近、シンジ君の部屋にレイが通ってるの。で、これがその時の映像記録。あなたも見ておくべきだと思うわ」 そう言ってリツコは机の脇に避けてあったキーボードに指を走らせた。部屋の壁面に埋め込まれた薄型ディスプレイに電源が入る。ソファの背もたれに頭を預けたまま、目だけを画面に向けるミサト。その表情が少し曇った。 「部屋ん中まで監視入れてるの?趣味悪いわねえ、アンタ」 「いいから黙って見なさい。これ動画だから、そのつもりで見てちょうだい」 リツコの意味不明の注意に眉をひそめた。やれやれと、視線を画面に向けたまま体を起こすミサト。コーヒーカップを取ろうとした彼女の手がぱたりと止まった。 彼女の目が画面に釘付けになった。 「これ……何?」 暗視モードのカメラが捉えた映像が映っていた。 照明が消されたシンジの部屋。ベッドの上にはシンジが横たわっている。部屋の隅に置かれたソファにレイが腰掛けている。暗闇の中で、2人とも身じろぎ一つしていない。 ミサトが映像に目を凝らし、つぶやく。 「シンジ君は寝てるわけじゃないわね。目を開けてるし」 「レイもそれをただ眺めてるだけよ」 映像の中の2人は全く動きを見せない。画面の隅、100分の1秒単位まで記録される時間表示だけが無機的に進んでいく。 「この状態が4時間ほど続いたわ。これを監視する保安部の人間に同情しちゃうわね」 「まあ確かに『一緒にいろ』って命令通りにしてるんだろうけど……」 ミサトが言葉を失う。リツコは机の上に肘をついて両手を組み、ミサトを見つめている。 「ミサト。彼らの精神は普通じゃないってことを忘れないで。エヴァに乗るために最適化された心の持ち主。そこを忘れると、土壇場で命取りになるわよ」 ミサトの目が厳しくなる。 「……マルドゥック機関って何なの。あの子達に何をしたの?」 ミサトの問いただすような視線を受けても、リツコは表情を変えなかった。 「私達が知る必要は無いわ。エヴァにシンクロして命令に従ってくれさえすれば、私は満足。あなたもパイロットの素性を知る必要はないでしょう」 「効率的な運用が第一、というわけね」 手に持ったままのコーヒーカップに気付いたミサトは、それを一気に飲み干した。ディスプレイの中の子供達は相変わらず彫像のように固まっていた。 地下空間であるジオフロントの夜は当然月も星もない夜だが、完全な闇というわけでもなかった。外壁に設置された照明が明滅を繰り返すネルフ本部施設。その神秘的な趣きの外観が、暗い森に囲まれた空間に青白く浮かび上がっている。 ネルフ本部の灯りがわずかに明るく照らしている人工湖のほとりに小さな人影があった。闇に溶け込んでしまいそうなスカートの紺とは対照的に、少女の着ているブラウスの白が穏やかに波打つ水面に映りこんでいる。靴を脱いだ素足のくるぶし辺りまでが水に浸かっていた。 ひんやりとした水の感触の中、綾波レイは星のない暗闇を見上げていた。 不自然な黒で塗りつぶされたその人工的な空は、自分の心に似ていると彼女は感じた。自分の心が何かを渇望しているのは分かっていたが、それが何なのかまるで見当がつかなかった。 ある集団の中に外部から混入した要素が際立って目立つのは、普遍的な現象だった。特にそれが奇異な挙動を見せている場合には、その傾向は更に高くなる。 ある日の午後、ネルフ本部施設内のカフェテリアに男2人が連れ立って入ってきた。どちらも一般職員の制服を身に着けている。片方の男の視線がある一点に向いた。 「おい、あれ。噂の新人作戦部長じゃないか?」 「ああ、そうだな。葛城……とかいったよな。っていうか何やってんだ、あれは?」 ミサトはカフェテリアで丸テーブルを3つ、1人で占領していた。50冊近くの書類やファイルがテーブルを埋めつくし、ミサトはそれらを一望できる位置でぼんやりと眺めていた。 ふと思い出したようにあちらの書類を手に取ったかと思えば、次はこちら側の書類をめくる。時折、目を閉じ頬杖をついてじっと考え込む。 その様子は近寄り難い空気を作り出し、まわりの席には誰も寄り付こうとしなかった。 ここに居合わせた他の職員が時折ミサトの方に胡散臭気な目を向けている。新たにこの状況へと迷いこんだ2人の男もミサトからはやや離れた席についた。 タバコに火をつけながら片方の男が言った。 「そういや総務の知り合いが彼女のファイル見たって言ってたな。前は戦自の幹部だったらしいぜ」 もう一方の男が目を丸くする。 「おいおい、マジかよ。今回の人事も何かのコネか?」 「天下りにしちゃ随分とアレな感じだがな」 男はそう言って苦笑しながら缶ジュースのプルタブを開け口元に持っていく。 突然、どん、と大きな音がした。2人は、びくっと身をこわばらせ、物音の方向を恐る恐るうかがった。 ミサトがテーブルの上に両足を乗せた音だった。胸の前で腕を組み、顔は天井に向くようにふんぞり返っている。タイトミニスカートを気にする様子もなく、テーブルの上に投げ出した足を左右に揺らしている。目を閉じたまま物思いにふけっている彼女の表情は、妙な魅力を持っていた。 ミサトは思索の中へ完全に没入していた。彼女の意識の中で、無数の場面が駆け巡っていた。今までの記憶が心の後ろをゆるやかに流れていく。多くの人の言葉、自分自身が見た場面。そこで感じた違和感。そこから浮かび上がって来る1つのパターンがあった。 ミサトは、自分の中でパズルのピースが音を立てて収まるのを感じた。 「なんだ、そういうことか……」 ミサトは目を開けると何もない中空を見つめた。 その日、リツコはミサトの雰囲気が違うことに気付いた。 ここ数日、ミサトがエヴァパイロット、つまりシンジとレイの行動データを片っ端から参照していることは知っていた。普段の生活監視記録、使徒戦での行動記録、各種心理テストの結果などの膨大な資料をろくに休みも取らずに調べているようだった。 いささか管轄を外れた行動かもしれなかったが、実質的にエヴァ運用のためだけに存在しているネルフの作戦部長としては、パイロットの管理は当然重視されるべき事項と言えなくもない。しかし、リツコにはその行動の裏にあるミサトの意図が何となく分かっていた。今にして思えば、自分はわざとミサトの不信感を煽ったのかもしれなかった。 エレベーターの中にはミサトとリツコの2人だけだった。腕を組み、壁にもたれかかったミサトが口を開いた。 「教えてくれる?どうしてシンジ君が私の命令『だけ』に対して高い応答性を見せるのか」 リツコは扉の前に立ったまま押し黙っていた。沈黙を肯定と受け取ったミサトは視線を天井に向け、言葉を続けた。 「やっと分かってきたわ。どうして私がスカウトされたのか」 2人を運ぶエレベーターの機械音は正確に一定のリズムを維持している。 「シンジ君は何らかの理由で、『葛城ミサトの命令に優先的に従うよう』動機付けされてる」 ミサトの言葉に、リツコの視線が一瞬揺らいだ。 「多分、私以外の人間の命令にもそれなりに従うだろうけど、その場合の応答性は戦闘時のような極限状況下ではまるで使い物にならないレベルでしかない。私が初めてここに来た時の碇司令の言葉はそういう意味だったのね」 ネルフの業務に携わりシンジ達と接触の機会があるミサトが、この結論に達するのは時間の問題だと思っていたが、それはリツコの予想よりもかなり早かった。いや、自分はむしろ気付いて欲しかったのかもしれない、とリツコは思った。誰かと秘密を共有することで、自分の荷が軽くなるのではないかと淡い期待を持っていたのかもしれない。 今ミサトが辿り着いた真実は、まだ入り口に過ぎなかったが、それでもリツコは胸の奥の疼きが多少和らいだ気がした。そしてリツコは身勝手な自分に嫌悪し、友人に対してまた新たな罪悪感を持つことになった。 「ま、どういう方法でそれが可能かはどうでもいいの。何故『私』なのかが知りたいのよ」 リツコはわずかに頭を動かし静かに答えた。 「誰にも分からないわ。それを知っているおそらくただ1人の人間は、もう死んだもの」 「私がそれで納得するとでも思ってる?」 「あなたがどう思うかなんて私の知ったことじゃないわ。それが事実よ」 チャイムが鳴り、エレベーターが停止した。滑らかに扉が開き、リツコはフロアに歩み出た。 壁によりかかったままのミサトは、リツコの背中をじっと見つめていた。リツコはミサトの方に振り返る事は無く、扉は再び閉じた。 |