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「実験開始」 エヴァ実験用ケイジの制御室に赤木リツコ技術部長の命令が響く。ほぼ自動化された実験のため、オペレーター達の仕事は多くない。実験全体のモニタリングを行っている伊吹マヤが、進行状況を口頭で伝達する。 ケイジでは直立したエヴァンゲリオン零号機が、両肩を壁に固定されていた。オレンジ色にカラーリングされた巨人。その頭部に埋め込まれた単眼は、まるで誰かを見つめているようだった。 「エントリープラグ、通常モードで起動」 「各部動力伝達、問題無し」 「パイロット─エヴァ間、神経接続開始します」 マヤの後ろからモニターを見守るリツコ。そこには零号機をかたどったグラフィックが映し出されている。起動プロセスが完了した部位の色がオレンジからグリーンに反転していく。 「神経接続フェーズ、最終リストクリア。零号機、起動しました。シンクロ率、34.1%」 制御室の窓から見えるオレンジ色の零号機に視線を移すリツコ。 「引き続き、各部動作試」 突然、アラームが響き、マヤの声は遮られた。それまでグリーンだった画面上のシンボルが次々と赤色に反転していく。リツコが慌ててモニターを覗き込む。 「どうしたの!」 「伝達回路のパルス、大量逆流。計測限界突破しています」 「パイロットの神経グラフ、乱れています」 零号機の上体がねじれた。両肩を固定しているパーツを壁面から引き剥がし、前に歩み出る。剥離した金属製壁材の巨大な破片が激しい音と共に床に突き刺さる。 間髪入れずにリツコが指示を出す。 「実験中止!全動力緊急カット!」 マヤが素早い動作でコンソール上の緊急用の動力切断レバーを引くと、零号機のアンビリカルケーブルがボディから弾け飛んだ。依然として悶え苦しみ続ける零号機が、目に見えない何かを振り払うように大きく右腕を回すと、偶然かケイジと制御室を仕切るガラスを激しく叩いた。高い強度を誇る特別仕様のガラスが、目に見えて彎曲し亀裂が走る。一瞬遅れて室内に飛び散った破片に、スタッフがひるんだ。リツコとマヤも思わず腕で顔をかばう。 さらに1歩踏み出したところで、零号機は突然糸の切れた人形のように両膝をついた。まるで苦痛をこらえるように、零号機は両腕で自分自身を抱き、体を震わせた。そして、一気に上体を大きく後ろにそらしたかと思うと、その反動を利用して頭部をケイジの床に激しく何度も打ち付けた。床を覆っている金属板が歪み、裂けていく。その衝撃の轟音と震動が、制御室まで伝わる。 頭部レンズに亀裂が入り、零号機はケイジにひれ伏すような体勢で停止した。その頭部は窪んだケイジ床面に半分以上めり込んでいる。 「ベークライト注入急いで!」 ケイジ壁面に設置されたパネルが開き、オレンジ色の液体が勢いよく吹き出した。液体は零号機の下半身を覆いながら、急速に凝固していった。 それに反応したように、零号機のボディが痙攣を始めた。 零号機は頭を床にめりこませたまま、その左腕だけが別の生き物のごとく不規則に暴れだした。左腕が背中に向かって、構造上ありえない角度にねじれ始める。腕と肩の付け根を被覆している人工筋繊維が、音を立てて次々と断裂する。 何かが折れ、外れる鈍い音がケイジに響いた。肩から完全に分離した零号機の左腕が半回転しながら落下し、ケイジの床で一度弾んで止まった。腕と肩の切断面から大量の赤い液体が吹き出す。 「免疫システムから過剰侵食警報!拒絶反応が始まります!」 うずくまった零号機の腹部装甲が盛り上がり、弾け飛んだ。さらに、苦しそうに持ち上げた右腕が、風船のように膨らんでいく。 「プラグ、強制射出されます!!」 「まずい!」 リツコの叫びと同時に、零号機の背面装甲がスライドした。その直後、勢い良くエントリープラグが射出された。 金属製の円筒は、推進剤の燃焼により更に加速度を与えられた。天井と壁の合わせ目に衝突したエントリープラグは激しい衝撃にも変型することなく、摩擦で火花を散らしながら継ぎ目に沿うように飛行を続けた。間もなく推進剤の消耗とともに勢いを失ったプラグは、床に向かって自由落下していった。 エントリープラグが床に叩き付けられるのとほぼ同時に、零号機の活動停止が確認された。 「で……事故の詳しい原因は未だ不明と」 エヴァ零号機格納ケイジを見下ろす通路、その手すりに両ヒジを預けた葛城ミサトが言った。リツコはその後ろで壁に背中をもたれ、白衣のポケットに両手を入れたまま天井を見つめている。 零号機の修復作業は完了していた。オレンジ色の機体は1ヶ月前の事故の名残りをまったく感じさせず、赤い冷却液にその体を沈めている。 ミサトは、リツコがぽつぽつと語る当時の状況に興味深く耳を傾けていた。 「エヴァそのものに問題は見られなかったわ。事故の瞬間、綾波レイの脳神経パルスが異常な値を示していたけど、因果関係は不明」 「心の問題……ってこと?」 「かもしれない、ってだけよ」 学生時代には良き友人、現在は微妙な距離を置いた同僚であるこの2人の間に、沈黙が流れる。零号機の周囲で作業を続ける技術部員達の足音と、作業用機械が発する騒がしい音がここまで聞こえている。 「……次は大丈夫なんでしょうね。前回レイが怪我だけで済んだのは、幸運以外の何物でもないわよ」 ミサトは眼下の零号機に視線を向けたまま言った。その言葉にこめられた物は、傷付いたパイロットへの配慮ではなく、安定したエヴァ運用を要求する作戦部長の立場に起因した物だった。 「ではもう1度、初めから」 エヴァの視覚に重ねられた第3新東京市の仮想映像の中に、シンジが初めて戦った使徒の映像が現れた。 初号機はビルの間、使徒から死角になる位置に機体を移動させた。都市の各所に設置された索敵カメラが捉えた(という設定の)使徒の位置情報が、初号機に転送される。エヴァが使用することを前提にデザインされた火器の1つ、パレットライフルを構えた初号機がビルの角から徐々に身を乗り出した。 コクピットのモニターに表示されている照準に使徒を重ねる。 連続した射撃音とともに、弾丸の軌跡が使徒と銃口を結ぶ。残弾数がゼロとなった時点で使徒は映像から消滅した。 外部の人間からは、今のエヴァ初号機は訓練用ケイジの中で、見えない敵に向かってライフルを構えているようにしか見えない。初号機がその場で足踏みしたり中腰になったりする様は不自然だったが、モニター内で合成された仮想都市映像と初号機の動作はごく自然に溶け合っていた。 制御室から初号機の様子を見守るリツコは満足げに言った。 「思った以上に初号機は安定しているようね」 「シンジ君の精神パルスに揺らぎが少ないのが効いてますね」 シミュレータの環境パラメータを設定しながらマヤが頷く。ミサトは制御室の壁にもたれかかりながら、初号機とシンジの様子をつまらなそうに見ていた。 今までとは別の場所に使徒の映像が現れ、ライフルの残弾数がフルに戻る。初号機は再び機体を移動させ、使徒に向かって銃口を向ける。 単調な繰り返しはシンジの精神に親和していた。 ネルフ本部施設内の一画、第一検討室と呼ばれるこの部屋に十数人の人間が集まっていた。作戦部、技術部から集められた彼らは、エヴァの運用その他の方針を決定するメンバーである。この中には、ミサトやリツコは当然、その部下の日向やマヤも含まれている。彼らは部屋の中央に据え付けられた長方形の大テーブルの周りを囲んで立っていた。 テーブルの表面は画像表示用のディスプレイとなっており、そこではシンジと初号機のシミュレーション訓練映像が流れていた。 「くどいようだけど」 リツコが全員を見回す。その視線は主にミサトに向けられていた。 「射撃、格闘等の動作は基本的にMAGIがサポート。ただ、あくまでも挙動の最適化を行うだけ。パイロットが意志決定しない限りエヴァは動かないわ」 彼女の言葉を引き継いで、マヤが口を開いた。 「さらに、MAGIにも応答速度や挙動パターンの限界があります。臨機応変な対応が求められる場合、やはりパイロット個人の資質が大きく影響します」 日向がため息まじりにつぶやく。 「ギリギリの場面で子供達任せというのは、やはり不安ですね」 それはごく自然な発言であり、誰もが抱く率直な感情だった。 だが、ミサトは『子供』という部分でのメリットデメリットを論ずるのは、シンジとレイに関する限り意味がないと考えていた。感情を殺し、弱音を吐かず、命令には絶対服従する。9歳という、その年令を考慮すれば彼らはパイロットとして優れた適性、精神力を持っていると言わざるを得ないだろう。人間離れしているという言葉がよく似合う子供達だった。 それ故に人間相手のパイロット運用セオリーが、この異常な子供達に通用するかどうかも含めて、問題はその先にあるような気がしていた。 意志を持たない『パーツ』が、エヴァのような強大な力を扱う事への危惧をどうしても拭い去る事ができずにいた。ミサトは、シンジとレイを心を持つ人間として扱うことを放棄しかけている自分に気付いたが、その事で後ろめたさや罪悪感を持つことは無かった。 15年前、天高くそそり立つ光の翼を、海に投げ出された救命ポッドから見つめていた時の喪失感が彼女の心を埋めつくし、他の物が入り込む余地を奪っていた。自分から全てを奪った物の真実を知りたい、という欲求だけが彼女をこの世界につなぎ止めていた。あるいは自ら命を絶っていたかもしれないほどの、空虚感と絶望感がないまぜになった感情は彼女の中に居座り続け、いつしかそれは彼女自身の一部になっていた。 ミサトは画面を見つめたまま質問した。 「レイの調子は?」 「テストプラグによるシンクロテストは良好よ。最初の使徒戦以来、レイは順調に伸びつつあるわ」 「それは、例のチルドレン同士の接触による影響?」 リツコは肩をすくめただけだった。もとより答を期待していなかったミサトは、そのまま続いて日向に目を向けた。 「武装については?」 大テーブルの表面にライフルと、柄の長い斧のデザイン図が映し出された。手元のファイルをめくりながら日向が報告する。 「パレットライフルは納品された12挺全て問題ありません。スマッシュホークの配備時期は、実機による試験結果次第ですね」 モニターの表示が日付けのリストに切り替わった。棒グラフ状の作業工程表を見ながら、ミサトは頷いた。 「後は零号機ね……」 「零号機の起動試験は、予定通り9日後に行います」 マヤの言葉で室内の緊張感が少し増した。1ヶ月前の記憶が皆の脳裏に甦っていた。 プラグスーツを脱ぎながら、少女はこの後のスケジュールを記憶の中でチェックした。テストプラグを使用したテストがほぼ連日行われている。この日はテストの後の指示は特に受けていなかった。 スーツを床に放り出したまま、彼女はシャワー室に入った。蛇口をひねり、ノズルから勢い良く噴き出す湯の下に立つ。両手をだらりと下げ、体を動かさずに熱い水流に身を任せる。 自分の体を見下ろすと、色素が抜け落ちた白い肌と丸みのない体が目に入る。 起動実験中の事故による腹部と左腕の傷跡はほとんど消えていた。治療を担当した医師が「良かったね」という言葉をかけてきた。何が良いことなのか理解できなかったが、彼女は「はい」とだけ答えた。エヴァとのシンクロ率が向上したと、リツコに告げられた時も「そうですか」としか答えなかった。 自分は命令された通りに行動していればいい、そう教えられてきた。 何も考えずに。あの少年と同じように。 (……同じ?) 自分の手を見つめて考える。掌からこぼれていく水の流れと一緒に、自分の中に湧いた疑問も流されていく気がした。少女は考えるのを諦めた。髪にこびりついたLCLが十分落ちたので彼女はシャワーを止めた。 タオルで体を拭いていると、更衣室の扉が開き脳天気な声が飛んできた。 「レイ、着替え終わった?これからお散歩に行かない?シンジ君も一緒よ」 オレンジ色の車体が流れるように滑り出し、タイヤと路面が小気味よく触れあう音が響いた。彼らが乗っている小型電動カートは屋根がついていなかったが、雨の心配がないこの場所では特に問題は無く、頬を通り過ぎる風が心地よいくらいだった。 「……作り物にしちゃ、悪く無いわよねえ」 電動カートのハンドルを握り、辺りを見回しながらミサトは後部座席の2人にルームミラー越しに話し掛けた。定員が大人4人の小さな車だったが、9歳の子供二人が座る分には十分すぎる余裕だった。 土と樹木の匂いの中に彼らはいた。ごくありきたりの自然の風景だった。唯一違いがあるとすれば、森を照らす光源が、天井を覆っている無数の6角形の透明なユニットの集合体であることくらいだった。 ジオフロント内部、人工的に作られた森の中は穏やかな空気が漂っていた。人工森林の中には鋪装された道路がネルフ本部施設から放射状に伸びており、ジオフロント各所の建物や設備同士を繋いでいた。言うまでも無く、ジオフロント内の建築物は、地下に設置された高速で手軽な自走通路で接続されているのだが、予備的手段としての屋外道路も確保してあった。3人を乗せたカートが走っているのもその道路の1つだった。 「できれば街の方にも連れていきたかったんだけど、ダメって言われちゃったのよねえ。おじさん連中は過保護で良くないわね」 ミサトはこの2人をより知ることが自分の武器になると考えていた。どこの誰だか知らないが、『碇シンジが葛城ミサトの命令だけに高い従順さを示す』ように仕込んでくれたのは千載一遇のチャンスだった。と同時に、この一点のみがネルフと自分を繋ぐ何とも心細い1本の線であることも理解していた。 こうしている最中にも、恐らくリツコ以下ネルフの技術陣が少なからぬ労力を割いて、シンジをミサト抜きでコントロールする方法を探っているはずだった。仮にミサト以外の人間でもシンジに対して、容易に命令を与えられるようになったとしたら、それは即ミサトのお払い箱を意味するだろう。 単にクビになるだけでなく、あることないこと難癖付けられて、下手をすればネルフの監視下で無期限の拘禁生活を強いられることも十分ありえた。そもそもの発端として、超法規的権力を持つネルフ本部に不法侵入した経緯もあって、スネに傷持つミサトの立場は微妙な物だった。 ミサトにとって都合が良かったのは、周囲の反応を見る限り、このシンジの特殊な精神構造は一部の人間だけが知る情報らしかったことである。多くの職員にとっては、碇シンジという少年は徹底した無感情の部分だけがクローズアップされて見えており、ミサトとシンジの間の関係性についてまで思いを巡らした者は皆無だった。 確かにこの事実を公にしたところで余計な憶測を呼び込むだけで、以後のネルフの運営にとってプラスにはならないだろう。それよりは当面の懸案である使徒迎撃任務に当たるため、ミサトに『エサ』をちらつかせ懐柔しておく方を選択したのだろう、と彼女は推測した。 何故シンジが、全く面識がないはずのミサトの命令にのみ反応するような行動を見せるのか、それは相変わらず彼女を悩ませる謎の1つだった。 ネルフがシンジにそのような処置を施すメリットは見当たらなかった。従って、別の勢力がネルフを妨害しているということになるが、それはすなわち、厳重に保護されているはずのチルドレンに対して干渉できるほどの力を持った組織の存在を意味している。下らない権力闘争に興味は無かったが、反ネルフの勢力が存在するならば、それは自分の味方になりうるという点は十分に承知していた。 そして最大の疑問が、何故自分がシンジの『御主人様』に選ばれたのか、ということだった。 ミサトは、自分がどんな意味でも重要人物であるなどと考えたことがなかった。唯一、心当たりがあるのは、自分が15年前に南極大陸で『あれ』を直接体験した生き残りである、ということだけだった。あの時、あの場所に居合わせたことがこの状況に繋がっているとするなら、自分は求め続けた真実にかつてないほど近付いているはずだった。何にせよ、判断材料はあまりにも少なかった。 ミサトは後ろの2人の様子を伺った。 相変わらず無愛想な表情のシンジとレイが後部座席に並んで座っている。レイが時折シンジに向ける視線は、やはり好意と言うよりも好奇心に近い気がした。シンジの方はレイの視線や外の景色には全く興味を示さず、ややうつむき加減のまま虚ろな視線を足元に落としていた。 一見、2人とも単に感情の発露が極端に少ない人間に見えるのだが、比較的近くで彼らと接してきたミサトの目にはシンジとレイの無感情さには明らかな違いがあった。シンジには感情と呼べるものが全くないのは確かだった。人格が崩壊しているというより、その精神から理性以外の物が全てかき消されたような人間、それが碇シンジだった。 だが、レイには確かに感情が存在した。それの表出は非常に微少で、注意深く観察しない限り認識する事はできなかった。しかし、その事実はシンジとレイの間の明確な差異だった。 ミサトは、綾波レイに関してはシンジのような心理的操作(と思われるもの)は施されていないと判断した。 しかし、普通の子供と同じスタンスで彼らと打ち解けられるとは思っていなかった。ミサトはシンジとレイの特性を理解し、ネルフにおける自分の立場を有利に運ぶことが第一歩だと考えていた。常識から著しく逸脱した精神構造を持つ彼らと人間的な意味で交流することは不可能だとしても、彼らをコントロールする方法に関しては、他の誰よりもミサトは長けている必要があった。今の所、彼女の武器になりそうな物はそれくらいしかなかった。 ミサトはごく自然に笑顔を作り、子供達に話し掛けた。 「2人とも毎日宿舎と訓練施設の往復だけなんでしょ?パイロットと言えど、こっち側の構造を憶えておくのは大事よ。非常時の事とか考えるとね」 運転席備え付けのナビゲーションシステムが短いアラーム音を発し、出発前にマヤから教わった場所に車が近付いていることを示した。助手席においた青いクーラーバッグに目をやりながらミサトは口を開いた。 「ま、たまには気分転換もいい物よ」 その言葉は半ば自分に向けたものだった。木々の隙間から、水面が光を反射するきらめきが漏れ見えて来た。 少年の精神は安定していた。 彼にとって最も高い優先度をつけられた対象物が発する言葉は、彼の意識の内部に易々と入り込んだ。彼の意識の表面に存在するフィルタは、その言葉から自動的に意味を抽出し、必要ならば記憶し、自らの行動様式へのパターン追加を行った。 彼の中には明確に優先度を設定された対象物リストがあった。少年の目や耳といった感覚器は、そのリストのトップにある対象物を捕捉し続けることを最優先していた。 しかし、このリストの序列からは外れた所に位置する、ある1つの対象が彼の意識の隅を占めつつあった。しかし、その存在の意味を認識する方法を彼は未だに持っていなかった。 少年の精神は機械的な処理を淡々と続けるだけだった。 人工湖のほとり、柔らかい草地を選んでミサトはビニールシートを広げた。やや開けたこの場所には、光がまぶしく降り注いでいる。湖面は穏やかで、ジオフロント天井の輝きをそのまま反射していた。 ミサトに促されるまま、シンジとレイはシートの上で膝をかかえるように座り込んだ。 「時間も丁度いいし、まずは腹ごしらえね」 ビニールシートの上、2人を両手に見る位置に腰を下ろしたミサトはクーラーバッグを開いて中から紙袋を取り出した。紙袋の中からは、握りこぶし大のアルミホイルの包みが10個ばかりと、大きめのタッパウェアが1つ現れた。 「さってと……ふふ、おにぎりの中身は食べてみてのお楽しみ。おかずは定番だけど味は保証するわよ」 鶏の唐揚げにポテトサラダ、果物を詰め込んだタッパウェアの蓋を取った後、ミサトは2人にそれぞれフォークを手渡した。ステンレスボトルのふたを外し、左手で器用にまとめて持った3つのマグカップに次々と麦茶を注ぎ、子供達の前に置く。おにぎりの包みの山から2つを取り、シンジとレイに1つずつ渡した。 「はい、召し上がれ」 自分も山から1つ取り、アルミホイルを剥いてかぶりつく。 「お、梅だ」 ミサトは麦茶で口を潤しながら子供達の様子を横目で見た。シンジはおにぎりを持ったまま、視線をぼーっとあらぬ方向に向けている。一方のレイは、戸惑っている風におにぎりを見つめ、時折ちらちらとミサトの方を気にしている。 「食べないの?レイ」 レイはしばらく迷っている様子だったが、やがてそろそろとアルミホイルを剥がし、小さな口を開けておにぎりの端にかじりついた。もぐもぐと口を動かす少女の仕草に、9歳と言う年令相応の物をミサトは感じ取った。そしてミサトは少女の横に目を向け、能面のような表情のまま固まっている少年を見つめた。 呼吸も確認できるし、瞬きもしているので間違い無くその少年は生きているのだが、その瞳には意志の光とでも言うものがまるで見られなかった。ミサトが初めてシンジに出会ってから、この少年が何らかの感情を発したり自発的な行動を起こす所を見たことは無かった。 その時、ミサトの脳裏に使徒との戦闘でシンジが見せた『苦痛』という感情表現が一瞬よぎった。しかし、あの瞬間に自分が感じた違和感も同時に思い出していた。あれは『感情』の表現というよりは、一種の反射行動の延長のように思えたことを。ミサトにとってシンジが、『このスイッチを押せばこういう風に動く』、精巧な機械仕掛けの人形にしか思えないことも確かだった。 確固たる根拠があるわけではなかったが、自分にしろネルフにしろ、この少年の精神の中に人間性に類する物を見い出す努力をしたところで、それは徒労に終わるだろうと、ミサトは確信めいた予感を一層強くしていた。 ミサトは簡潔に命令した。 「シンジ君、食べなさい」 単純な命令でもそれを常識的に解釈して行動に起こす能力については非常に優れている、というのは彼女にとってもありがたかった。高度に設計された人工人格でもこれほど柔軟なアウトプットを生み出すことは難しいはずだった。ミサトの言葉に即座に反応したシンジは、今までその存在すら無視していたであろう手の中の包みを開き、中身に口を付けた。 単調な咀嚼を繰り返し、マグカップの中身を飲み下し、タッパウェアの中から食材をフォークで取り出す。それは作業以外の何物でも無い食事風景だった。 レイがごく自然な動作でシンジの前から空になりかけたマグカップを取り上げ、麦茶を新たに注ぎ込んだ。少女の行為の意味を考えながら、ミサトは次のおにぎりの包みを開けた。考えを集中しているつもりだったが、ここに来て彼女の思考の向く先は定まらず、散漫としていた。 「……たらこか」 最後のおにぎりを平らげたミサトはアルミホイルを握りつぶしてため息をついた。思考がうまくまとまらなくなっていた。ネルフの一員になって以来、心の中のざわめきは日増しに大きくなる一方だった。自分が目的とし続けてきた物に確かに近付いているはずなのに、言い様のない不安感、足元にあるものがあっさりと崩れ去りそうな予感が彼女の中で大きくなっていた。 ミサトはシートの上にごろりと転がり、仰向けになった。ジオフロントの天蓋から降り注ぐ暖かい光は彼女を優しく包み込み、全てがどうでもよくなるほどの魔力を持っていた。数年来感じたことのない穏やかな眠気が彼女に忍び寄ってきた。 小さな水音が彼女の意識を現実に引き戻した。 一瞬で覚醒した彼女の精神と肉体は淀み無く動いた。自然に右手がジャケットの内側に伸び、視線を水音の源に向ける。 レイが靴を脱ぎ、素足で湖に足を踏み入れていた。 必要以上にナーバスになっている自分に呆れたミサトは小さく首を振り、水に足を浸している少女の姿を見つめた。 紺のスカートから伸びる白く細い足が、水面へ溶け合うように続いている。少女の肌の白さは、白いブラウスと肌の境界を曖昧に見せるほどの眩しさだった。 レイは、子供らしく水の冷たさにはしゃぐ姿を見せるわけもなく、ただ立ち尽くしていた。自分の足元に広がる水を見つめ、時折何かを考え込むようにその目を閉じる。その振る舞いは大人びていたが、同時に子供特有のひたむきな集中力を感じさせる仕草でもあった。 ミサトの横に座る少年の知覚は、視界に入るその少女の映像を自分には不要な情報と判定し、意識から切り離していた。 ネルフ本部司令執務室とジオフロントを隔てる巨大な窓ガラスが、一瞬で不透明な壁になる。同時に室内の照明が落ちた。暗闇の中、ゲンドウは両手を体の後ろで組んだまま静かに立っている。 部屋のどこかで低い唸りが起き、ゲンドウを囲むように10人ほどの老人達の姿が出現した。それらの立体イメージは極めて精細で、彼らが実際にそこにいるかのような臨場感をもって投影されていた。 様々な人種が混在している彼らは、いずれも一般的な『老い』のイメージを滑稽なまでに強調した風貌だった。個性的な老人達の間に共通しているのは、身に付けている衣装の基本デザインだけだった。祭司服の仰々しさと軍服の機能性をかけ合わせたようなその服が、老人達が持つ巨大な権力の質を表現している。 「碇。サードチルドレンについての報告、確かなのだろうな」 前置きも無しに、ゲンドウの真正面に立つ老人が口を開いた。アイマスクのように彼の顔面を覆う機器。その表面を横一文字に走るスリットが無気味に発光している。本人が意図しているかは別にして、威圧感のある声だった。 ゲンドウは自分を取り囲む老人達の圧力にまるで動じることなく、淡々と答えた。 「現象からの推測ですが、サードの精神には外部操作された痕跡があります。原因および対処は既知科学の範疇にありません」 「やはり彼女の仕業か」 「『機会』と『手段』を持っているのは彼女だけでしょう」 別の老人達が、皮肉と侮蔑の込められた視線をゲンドウに向ける。彼らの口調には一様に、ゲンドウに対する不信感のような物が滲み出ていた。 「『動機』も、だろう。女性の扱いにはくれぐれも気を付けたまえよ、碇君。君1人の火傷では済まんのだよ」 「何ともタチの悪い嫌がらせだよ。ヒトの未来がかかっているというのに」 「戦力としての初号機、使えるのだろうな。使徒の処理に支障をきたすようでは困るぞ」 表情を殺したまま、ゲンドウは穏やかな口調を保っていた。 「問題ありません。パイロットをコントロールする手段はネルフが抑えてあります。御心配なく」 車両格納庫からネルフ本部施設内へと続く通路を3人は歩いていた。 クーラーバッグを肩から下げたミサトが、エレベータのボタンを押す。彼女の後ろに付いてきている子供達は相変わらず物静かで、時々本当にそこにいるのか不安になるほどだった。 エレベータの到着を知らせるチャイムと共に扉が開いた。その直後、ミサトは脇に1歩移動し、思わず敬礼の構えを取りかけた。反射的な自分の行動に眉をしかめたが、今さら構えを解くのもためらわれ、上げた手は行き場を探し彷徨っていた。 エレベータの中から歩み出た男はミサトにちらりと視線を送ると、そのまま前に足を進めた。男はシンジとレイが立っている間を抜けて歩み去った。彼は子供達には目もくれようとしなかった。 子供達も男の方を見ようとはしなかった。男の存在を認識し意図的に無視したのではなく、完全な無関心さがもたらした行動だった。 ミサトは小さくなっていく碇ゲンドウの背中と、感情の欠片もない子供達の顔を交互に見つめていたが、やがて上げていた手を下ろして、閉まりかけたエレベータの扉の間に差込んだ。その瞬間、ミサトは自分が微かにため息をついたことに気付いたが、その理由は自分でもよく分からなかった。 「ミサト」 背中から自分を呼ぶ声に振り向いた。リツコとマヤの姿をそこに認めた時、ミサトは厄介事の種が増えそうな予感を感じた。 職員食堂は閑散としていた。ミサトとリツコが座る場所からやや離れた席で、マヤがにこやかにシンジとレイに話しかけている。テーブルの上にはパフェが3人分並んでいる。甘い物を前にして目を輝かせているマヤが一番子供っぽく見えてしまう。 コーヒーカップに口をつけながらその様子を見て、ミサトはくすくすと笑いを漏らした。食堂に隣接しているカフェテリアの窓側の席に着いたリツコは、咳払いで向いに座るミサトの注意を自分に向けた。他愛無い悪戯を見つかった子供のようなおどけた顔でミサトは肩をすくめ、コーヒーカップを更に傾けることでその陰に身を隠せるのでは、と無駄な努力をしてみた。 リツコの視線がミサトに冷たくまとわりつく。 「あの子達を連れ回すのは程々にしておいてね。保安担当がボヤいてたわ」 「縄張り荒らしたつもりは無かったんだけどねえ」 「一応、ここもれっきとした組織なの。個々の役割が十分果たされて、初めて全体が滞り無く機能するのよ。分かってるでしょ」 ミサトが白けたような表情を窓の外に向ける。ため息をついて、リツコは灰皿を引き寄せて煙草に火を点けた。 「ま、それはそれとして。実はミサトに話しておきたいことがあったのよ。ここからは記録に残せない話よ」 ミサトは窓の外、本部施設の眼下に広がる森と湖をつまらなそうに眺めたまま、リツコの言葉に耳を傾けていた。赤い唇の隙間から紫の煙を一息吐き出すと、リツコは言った。 「教えてあげるわ。あなたが敢えてネルフに入ったそもそもの理由……つまり、あなたが知りたがっている、セカンドインパクトの真実を」 リツコの言葉通り、それは正にミサトが全てを費やして長年求め続けてきた物だった。にも関わらず、外の風景に淡々とした視線を向けたまま、ミサトの表情はまったく変化しなかった。 20世紀も終わりに差しかかる頃、南極大陸の地下で見つかったある物体が全ての始まりだった。生物とも非生物ともつかないその物体は『アダム』と名付けられ、その存在は極秘とされた。 1998年、国連が極秘に組織した、葛城博士率いるアダム調査隊が南極に入る。何故この未知の物体の調査隊に、物理学の世界で異端視されていたスーパーソレノイド理論、通称S2理論の提唱者である葛城博士が参加することになったのか、その経緯は不明だった。だが、一見畑違いのこの人選は的を射ていた。アダム内部に確認されたあるシステムが、S2理論を基本としたエネルギー変換プロセスを可能にする、という事が分かってきたためだった。 このアダムの持つ『S2機関』の研究により、それまで机上の物でしかなかったS2理論の正当性が確認され始めた。 万事が上手く進むかと思われた矢先の1999年、アダムが突然活動を開始した。多くの観測データは、アダムからの膨大なエネルギー放出現象の発生を示唆していた。S2理論が予測するそのエネルギー総量は、TNT火薬換算で1億〜1億5千万ギガトンという絶望的な数字だった。徹底的な破滅以外に考えられないその未来を回避すべく、葛城博士以下調査隊のメンバーは生存の為の模索を始めた。アダムの物理的消去は事実上不可能と判断されたため、次善の策が提案された。それが人為的に『セカンドインパクト』を起こすことだった。 アダム内部にエネルギーループ回路を構築し、膨大なエネルギー解放を緩やかなプロセスに転換すると同時に、エネルギーの一部をアダム自身に相殺させようという計画だった。この影響で地球の平均気温が多少変動することは予測されたが、アダムを放置しておくよりは遥かに賢明な選択だと考えられ、計画にゴーサインが出た。 2000年、セカンドインパクト計画は佳境にさしかかり、最終段階を目の前にしていた。作業がごく順調に進んでいたある日のことだった。 アダム内部のS2機関が暴走を始め、数時間でアダムは臨界状態に達した。 葛城博士の機転でアダムに施した処理により、最悪の事態は免れた。しかし、最後まで南極基地でアダムを制御し続けた葛城調査隊は、1人を除いて全員行方不明。アダムからは初期の計画を遥かに上回るエネルギーが爆発的に放出された。 これがいわゆるセカンドインパクトであり、一般的に知られている『大質量隕石の衝突』という国連による調査報告は、不要な混乱を避けるための情報操作によって生まれたものだった。 人類は瀬戸際で生き残ったが、その犠牲は大きかった。 アダムからのエネルギー放出は、短期的には世界各地の沿岸都市へ津波等による被害を招き、長期的には激しい気候変動による海面変動や農作物の収穫不良を引き起こした。結果、人類の約40%は失われ、世界はこれ以上ない程の疲弊を強いられることになった。 しかし、アダムは依然として南極地下に存在し続け、人類滅亡の危機はまだ去っていなかった。 葛城調査隊が遺した研究データは徹底的な分析にかけられていた。その中でも特に注目されていたのが、南極でアダム周辺に設置されていた観測器が最後の数秒まで衛星経由で転送していた膨大なデータだった。それを調査していたある研究チームが、一つの発見をした。 アダムの内部に、S2機関とは別のシステムの存在が確認された。 構造解析結果から、これはアダムの自己防衛反応の一種と推測された。アダムに触れようとする物を排除するための、『抗体』を生み出すシステム。それが最も有力な仮説だった。その『抗体』はS2機関を内蔵することで自律稼動が可能と予想され、それが人類に与える危険性は計り知れなかった。 この『抗体』を関係者はいつからか『使徒』と呼ぶようになっていた。使徒はアダムにとって害なす異物である『人類』を排除するように振る舞うと予想された。事実上無限のエネルギーを生み出すS2機関、それを備えた使徒に対抗するために、人類が選択できる道はそれほど多く無かった。 「使徒がもたらすであろう人類の根絶、『サードインパクト』を防ぐために作られたのが、ネルフであり、エヴァなのよ。ま、ほとんどのネルフ職員にとって、ここは単に謎の生物を調査、処理する組織でしかないけど。今話したような深い部分まで知っているのは、ネルフ本部では司令と副司令、それに私の3人。そして、たった今それは4人に増えたってわけ」 そう言って、リツコは3本目の煙草に火を点けた。ミサトはリツコが話している間、頬杖をついて窓の外にぼーっと視線を向けたままだった。何の興味も惹かれないという口調で、ミサトはぼそりと呟いた。 「で、パパの仇を取らせてやるから、我々ネルフの命令に素直に従えって?」 リツコがテーブルの下の足を組み直して、目を閉じたまま煙草の煙と一緒にため息を吐き出した。彼女の口調は『やっぱりか』という諦めの色が濃くにじみ出ていた。 「今聞かせた話、これっぽっちも信じてないんでしょうね」 「信じたフリするのは簡単だけど、どうせリツコには私の性格バレちゃってるし」 「あなた、自分自身の記憶まで疑うわけじゃないでしょう。あの時南極で見た光の翼はただの幻だったの?」 ミサトは鼻で笑いとばした。 「記憶?それこそ当てにならない物の代名詞ね」 さっきから自分と目を合わせないミサトの顔を見つめ、リツコは再び煙を吐き出し、言った。 「お父さんとの記憶も?」 ミサトは軽く息を漏らすと頭の後ろで両手を組み、椅子の背もたれに体を預けた。彼女は口元に笑みを浮かべ、目を閉じて何かを思い返しているような表情だった。 「父は私の命を救い、そして死んだ。それを知っているのは私だけ。私が忘れてしまえば、そんな事が存在した事実も消えて無くなるわ」 リツコはミサトの言葉に聞き入っていたが、やがて煙草を灰皿に押し付けて火を消した。火が消える瞬間にゆらりと立ち昇る煙を見つめたまま、リツコは言った。 「ミサト。私はあなたを信じたいの。だから……」 ミサトはいつの間にか再び窓の外に目をやっていた。彼女はリツコの言葉を最後まで待たずに、ぽつりと言った。 「私は使徒と戦う。それだけは約束するわ」 それは偽りのない言葉だと、リツコは感じた。彼女はミサトの顔をじっと見つめていた。やがて、ため息と共に顔を軽く下に伏せ、そして再び顔を上げた。リツコは呆れたような笑顔を浮かべていた。彼女が仕事場でこのような顔を見せることは滅多になかった。 「私はその言葉を信じられるわ。あなたを知っているから。ただ、他の皆はあなたを知らない。皆があなたを信じるかどうかは……」 「身の程はわきまえているつもりだから、リツコが気にすることないわよ」 ミサトは肩をすくめて、そう言った。自分がこの手の組織の中で浮いているのは今に始まったことでは無かった。 リツコは少しの間、何かを言おうか言うまいか迷っているような表情を見せていたが、結局彼女は自分の思いを形にして口に出すことはできなかった。その代わりに彼女は、脇に置いていた大きめの白い封筒からパンフレットを抜き出し、ミサトの方に差し出した。その口調は、既にいつもの彼女が見せている落ち着いた事務的な物に戻っていた。 「……ついでじゃないけど、もう一つ話があるの。これ、目を通しておいて。パイロットの作業項目に追加よ」 パンフレットを開いたミサトは眉をひそめた。 「学校?」 「児童生徒がネルフ上級職員の子女だけで構成された特別スクールよ。施設もジオフロントにあるわ」 ぱらぱらとパンフレットを斜め読みしながらミサトは頷いた。 「ああ……保安上の都合ってやつね。お偉いさんの家族だと色々あって大変そうねえ」 「敵は使徒だけじゃない、ってことよ」 何気ないが、ネルフという組織の状況を端的に示すリツコの言葉に、ミサトは僅かに目を細めた。だが、ミサトはその事にそれ以上触れるつもりも、その理由もなかった。 「シンジ君とレイをそこに通わせるってこと?なんでまた?」 「彼らはエヴァに乗るためだけに生きてるわけじゃないわ。普通の生活を楽し……」 リツコの言葉はミサトの指摘で遮られた。 「友達が出来ればあの子達も変わるだろう?その……『人間らしく』?」 その口調には、どこか他人の不幸や真剣さといった物を知的好奇心の対象として面白がる、悪魔的な冷笑が込められているように思えた。 ミサトは、ネルフがこの行為の目的としているものを的確に突いていた。それはリツコも認めざるを得なかった。 この組織にとって、ミサトは不確定要素の塊でしかなかった。パイロットとしての碇シンジが、葛城ミサトの命令にしか反応しない、という事実はネルフの大きな悩みの種だった。 ミサトが全面的にネルフの味方をすると保証できない現状では、シンジの制御権を何とかしてミサトから奪い取る必要があるという意見が大勢を占め始めていた。安定した起動も覚束ない零号機とレイだけで、今後の使徒との戦いをこなしていくことは、明らかに非現実的であることが、この流れに拍車をかけていた。 当然、このシンジの異常な精神構造を解明する努力は、ミサトには知られる事のないように行なわれていた。これは事情が事情だけに情報秘匿の必要性が高く、研究に動員されている人数はごく少なかったが、技術部でもトップクラスの才能がシンジの精神を徹底的な解析にかけていた。 しかし、その努力にも関わらず、シンジの『心』の謎は一向に解明される気配が無かった。単純な暗示や薬物による精神操作が彼に対して行なわれた可能性はごく初期に否定された。 研究チームは、根本的な原因の解明よりも、シンジをコントロールするための実用的な手段を探す方向にウェイトを移し始めた。例えば、ミサトの声をほぼ完璧に再現した人工音声と、彼女の毛穴の一本に至るまで緻密に作られた合成映像をシンジに見聞きさせ、その反応を見る試みもなされた。しかし、その巧妙に作られた『偽の葛城ミサト』に対して、シンジは全く反応を示さなかった。シンジがどうやって本物のミサトと偽物を区別しているのか、その理由すらお手上げの状態だった。 シンジの精神に刺激を与える事の出来る環境や要素の発見が早急に求められていた。チルドレンを『学校に通わせる』ということも、その研究過程の一つだった。同年代の子供達とのナマの接触が彼の心に影響を与えるのではと、研究チームは期待していた。彼の心に対して何かしらの変化をもたらすことが出来れば、それを足掛かりとしてシンジを『再教育』することも出来るはずだと考えていた。 シンジの心を揺さぶる方法を見つけだし、ミサトの支配から彼を取り返すことが強く望まれていた。例えそれがシンジの精神に好ましからぬ影響を与えようとも、いつ敵に回るか分からない人物に、使徒迎撃任務における最重要パイロットの支配権を握られているよりは遥かにマシだった。 リツコ個人の感情は別にして、ネルフとしての意向はミサトを排除する方向で合意しつつあった。 この液体の中で漂っている感覚は、少女に安らぎを与えた。こうして目を閉じて体をなすがままに任せることが、彼女にとっては何物にも変え難い刺激だった。 これは少女に課せられた退屈な定期作業の一つだったが、心のどこかで彼女はこの作業を半ば楽しみにしていた。着衣を何一つ身に付けていないその幼い体は、僅かな液体の循環や、細かな気泡をも敏感に知覚する。それと同時に、体の表面だけで無く内部までも液体で満たされるイメージが彼女を包む。 単に肺に満たされたLCLがもたらす感覚ではなく、体そのものが際限なく液体に溶け込んでいくような、一種背徳的な感覚が少女の意識を理性から本能へと傾けていく。 少女はオレンジがかった液体を通して外部の様子を眺めた。直立した透明な円筒体の中に浮かんでいる自分を、2人の人間が見つめている。 がらんとした薄暗い部屋の中には少女を含めて、この3人しかいなかった。 円筒体内部の天井部分に設置されている照明が、この部屋の主な光源だった。LCLを通して外に漏れるオレンジ色の光が、申し訳程度に室内を照らしている。部屋の天井から伸びた大小のしなやかな素材のチューブが円筒体上部に接続され、一定のリズムで生物的な拍動を繰り返していた。 白衣を着た女性が、少女の入っている円筒体の横に置かれた作業用デスクで端末を操作している。その傍らに立っている男は少女をじっと見つめていた。 眼鏡の表面で反射している光が、彼の瞳を隠している。男が唐突に発した言葉は、キーボードを叩く女性の指の速度を僅かに衰えさせた。 「葛城一尉はサードのことに気付いているようだな」 リツコはミサトを弁護するための言葉を一瞬で1ダースほど思い浮かべたが、この男に駆け引きを挑むのは無謀だと彼女の直感が告げていた。ありのままを彼に報告し、その上でミサトのフォローに回るのが自分にできる精一杯だと思った。内心の動揺を押し隠して彼女は答えた。 「はい。部分的にですが」 「そうか」 リツコは声の震えを悟られないように言葉を続けた。 「彼女なりのやり方ですが、我々に協力しようという姿勢は感じられます」 「動機は問わん。彼女が我々の役に立っている内はな」 ゲンドウは、LCLの中に浮かんでいる一糸纏わぬ綾波レイの姿を見つめたまま、そう言った。彼を見つめ返す少女の瞳は静かな赤い光に満ちていた。 彼女が自分の受け持つ教室に入った瞬間から、子供達の間にざわめきが広がった。 「きりーつ。おはよーございます」 そのざわめきを無視するかのように、クラス委員長の少女が号令をかける。この少女は最近、髪をお下げにするのがお気に入りのようだった。それはある少年の一言がきっかけになったのを、その女性教師は知っていた。そばかすを気にするような仕草をよく見せているのも原因は同じだろう。 起立した子供達が少女の声に続いて「おはよーございます」と声を合わせる。「ちゃくせーき」の号令で子供達がガタガタと椅子を鳴らしながら席につく。子供達の視線は女性教師の脇に立つ二人、少年と少女に向けられていた。 このクラスの担任教師である彼女、山岸マユミは、教え子達の興味津々であけすけな視線に思わず微笑んだ。背中の中程まで伸びている黒髪は手入れが良く行き届き、彼女の細やかな性格を窺わせていた。縁なし眼鏡の奥から穏やかな瞳が子供達を見つめている。 その成り立ちが非常に特殊なここ第3新東京学園では、児童及び生徒の数が極端に少なく、1学年に1つずつしかクラスが存在しない。 その理由はただ一つ、ここに通う子供達の『全て』がネルフ職員の家族だからである。 ネルフを快く思わない第三者から子供達を未然に保護するため、急遽作られたおざなりの教育機関であるが故の少人数クラス編成だった。ジオフロント内部、ネルフ本部施設の並びに建設されたこの学園は、幼小中高一貫教育のシステムを採用していた。一貫教育と言えば聞こえはいいが、実際の所は効率的な運営、つまり費用削減のため学校設備の簡略化と共用化、その他諸々を前面に押し出した結果、必然的に導き出された結論だった。 ネルフという同じ基盤の下に属する子供達は、その仲間意識とでも言うものによって1つの共同体、あるいは大家族のような校風を自然に作り出していた。彼らの間には学年ごとに厳密な序列関係があるわけでもなく、ごく穏やかで呑気な学校生活を営んでいた。 マユミは教員の資格を取った直後にこの学校に勤務することになった。父親がネルフ技術部に勤めているということから、かねてから彼女にはここで働いて欲しいという依頼が来ていた。この学園の性質上、あまりネルフの外から人間をいれたくないという方針があり、ネルフ職員の娘であるマユミはここで働く教師として実にうってつけに見えたのだろう、と彼女は思った。事実、他の教職員もネルフ職員の縁故の者がほとんどであることをマユミは後に知った。 教師としてはまだ2年程度の経験しかないが、彼女はこの仕事が好きだった。教育と言う物に高尚な理想を掲げているわけではなく、子供達と触れあうことが単純に何より楽しかった。 マユミが担当する初等部4年のクラスには14人の児童が在籍していた。そしてこの日、ここに2つの新しい顔が加わった。 「はい、静かに……相田君、カメラはしまっておいて下さい。えー、今日は、皆さんに新しいお友達を紹介します」 マユミはざわつく子供達を制して、傍らの二人を紹介した。 「綾波レイさんと、碇シンジ君です。みんな、仲良くして下さいね」 「はーい」 条件反射的な返事が一斉に上がる。 「綾波さんと碇君は事情があって、体験入学扱い……えー、しばらくの間だけこの学校でお勉強するということですね……ですから授業は皆さんの後ろから見学、という形になります。2人とも、お家の都合であまり学校には来られないかも知れませんが、色々教えてあげて下さいね」 「はーい」 「じゃ、綾波さん、碇君。あそこ、一番後ろに空いてる2つの席について下さい」 「はい」 レイが小さく返事をして指示された席へ歩き出した。ワンテンポ遅れて、シンジも無言のまま自分の席へ向かった。 子供達の視線が2人に集まる。ほとんどの視線は当然、その髪と肌から大いに目を引かざるを得ないレイへと向けられていた。透き通るような色彩の少女に対して、怪訝さと嘆息が混在するざわめきが上がる。制服着用の規則があるのは中等部からだったので、2人は洒落っ気も何も無い普段の服装のままだったが、そのシンプルさが一層レイの特徴を際立たせていた。 シンジとレイは、新しい環境や見知らぬクラスメートに物怖じする様子はなかった。といって、逆に愛想よく振る舞う事も当然無かった。この2人の行動ににじみ出ている物は、周囲に対する完全な無関心だった。 数日前、マユミが初めてシンジとレイに会った時、彼らに付き添ってきた女性の言葉を思い出した。地位的には自分の父親の上司、というよりネルフ内でもトップクラスの女性が直接関わる子供達という時点で、何かワケありというのは薄々予想していた。 彼らの監督を担当しているという赤木博士(ネルフ技術部のトップとは思えない外見の女性だった)の話では、彼らはネルフで非常に重要な任務に就いているという。ネルフという組織の仕事が公にできないものらしいというのは、父親の言動から常日頃感じていた。とはいえ、まさかこんな小さな子供達まで動員しているとは想像もしていなかった。 彼女の説明によると、この2人、特にシンジはその任務の性質上、極めて特殊な環境で育てられたため、他者とのコミュニケーションにおいて問題を抱えているという。そういうわけで、社会に馴染むため一種のリハビリテーションとして、シンジとレイをマユミのクラスに一時的に編入させてもらいたいとのことだった。この2人はネルフの重要機密に関わっており、情報保護の面を考慮すると一般の教育機関の類に預けるわけにもいかないので、この学園しか頼れる場所がないのだと。 赤木博士の説明は理路整然として、シンジとレイという異常な人格を学校という環境の中でどう扱うべきか判断するための情報を過不足なくマユミに伝えてきた。その一方で、何か重要な部分についてはどこまでもぼかそうとする姿勢を感じた。 「異例なお願いだということは承知の上ですが」 そう前置きする赤木博士の言葉には不可解な部分があった。 レイについては普通の児童と同じように扱ってくれて構わないが、シンジに関しては『基本的に彼は存在しない』ものとして扱って欲しい。その方がお互いに労力の無駄にならないだろう、と。シンジは自分の意志を表現する能力に欠陥を持っており、双方向の意思疎通を彼と図る事は事実上不可能であるという説明だった。こればかりは先天的な要素も深く関わっているため、治療やその他の方法で改善する可能性は限り無く低い、ということだった。 今回はとにかく、普通の子供達がいる環境に2人を慣れさせることが目的であると、赤木博士は言った。 不安そうな顔を見せたマユミに対して、赤木博士は、 「反応は鈍いでしょうが、先生の指示には素直に従うはずです」 と安心させるように笑顔で付け加えた。 そんな子供を学校に通わせる理由は見当もつかなかったが、それは子供達に対する教育とは全く別の所にあることは明白だった。おそらくはネルフが進めている何かと関わりがあり、シンジとレイはその何かを構成する要素の一部としてこの学校に入れられるのだろうう。疑念と同時に憤りがマユミの中に湧き上がったが、それを表に出した所で何も変わらないという事も分かっていた。 更にマユミが首を捻らされたのは、学校生活で多少問題が発生してもよほどの事がなければ2人を放っておいてもらいたい、という要望だった。彼女の説明の端々から読み取れる、ネルフにとってのシンジとレイの重要性に矛盾しているのではないかと、マユミは眉をひそめた。ともすれば、問題が発生するのを期待しているようにも取れるこの言葉について、その真意を赤木博士に問い質そうとしたマユミは同席していた学長によって遮られた。 ここが限り無くネルフの私物に近い教育機関である以上、それがいかに理不尽な物であったとしても彼らの意向を尊重すべきなのは理解していた。とにかく、マユミはこの2人については出来る限り注意を払っていこうと考えた。 シンジとレイのことに関しては前日に子供達に簡単に説明しておいた。一応分かりやすく説明したつもりだったが、どこまで理解してくれたかは疑問だった。2人がこのクラスに馴染むのは難しいかも知れない、と彼女は思った。 子供が持つ率直さは、残酷さと表裏一体だということも、マユミは十分理解していた。 「ねえ、綾波さん」 洞木ヒカリはクラス委員長としての責任感というわけでもないが、休み時間に入った直後、先陣を切って転入生に話し掛けた。それに気付いた子供達のざわめきが1レベル下がる。周囲の面々が興味深げにその様子を見ている。机に座り、静かに文庫本を読んでいたレイがヒカリを見上げた。 「わたし、洞木ヒカリ。クラス委員長やってるの。何か分からないことがあったら、何でも聞いてね」 レイは、こくりと頷いただけで、本に視線を戻した。ヒカリは少しの間、彼女が何か言葉を発するかと待ち構えたが、レイが再びヒカリに注意を向けることは無かった。特にそれ以上話をする理由もなかったので、ヒカリは戸惑いつつも、そのまま自分の席に戻った。 「なんか、おとなしいね。綾波さんって」 レイの方を見つめながら、ヒカリはぽつりと呟いた。すると、彼女の後ろに座る少年の、いかにもつまらなそうな声が耳に入ってきた。 「やめとけや、いいんちょ。あいつら、特別なんやろ。昨日、マユミ先生も『放っとけ』言うとったやんけ」 黒のジャージを着込んでいるその少年は、今にもずり落ちそうな姿勢で椅子に身体を預けていた。彼の視線は、ぼーっと前方へ向けられており、自分の後方でクラスの興味を一身に引き付けている新参者にはまるで頓着していなかった。 「お話するくらいいいじゃない、鈴原。それに、『放っとけ』じゃなくて、『2人は上手くお話ができないかも知れませんが、怒らないであげて下さいね』って言ったのよ、先生は」 「ろくに口利かれへんのやったら、同じことちゃうんか」 ジャージの少年の横に、首からカメラを下げたメガネの少年が寄ってきた。シンジとレイの方をちらちらと盗み見ながら、鈴原と呼ばれた少年の机に腰掛けた。その目には隠しようの無い程、強い好奇心が浮かんでいた。 「なあなあ、トウジ。パパが言ってたんだけどさ、あいつらネルフでなんかすげー事やってるんだって。どんな事やってんのかなあ」 「んなもん、知るかいな」 こいつもか、という表情でトウジが答える。 「聞いたら教えてくれるかなあ。やっぱ秘密なのかなあ」 2人の会話を聞いていたヒカリが咎めるような表情で振り向く。 「相田くん、碇くん達に変なちょっかいだしたら先生に言いつけるからね」 「なんや、人にばっかり注意しくさってからに。自分だけは特別かいな」 「な、なによ」 心無しか赤くなったヒカリが頬をふくらませ、ぷいっと前に向き直った。どことなく気まずくなったトウジは、さりげなく後ろに視線を外した。そのまま2人の転校生の方を何とは無しに眺めてみる。 眉一つ動かさず読書に集中しているレイと、机の上に視線をぼーっと向けたまま、ぴくりとも動かないシンジ。どうやらこの転校生はお互いに知り合いらしいが、別に会話を交わす風でもなく、自分の世界にこもっているように見えた。新しい環境に放り込まれる不安などには無縁の2人だった。 「変な奴やな」 トウジが抱いた第一印象は実に的確な物だった。 リツコの執務室で、ミサトはソファに座って報告書に目を通していた。そこにはシンジとレイの行動記録が、どうやって調べたのか感心するほど事細かに綴られていた。報告書に視線を合わせたまま、ミサトは呟いた。 「予想通り、浮いてるみたいね。あの2人」 溜まっていた仕事に一区切りつけた後、コーヒーで心のリフレッシュを図っていたリツコが答える。 「露骨なイジメがないのが救いね。先生がよく気を使ってくれてるわ」 ミサトは意外そうな顔でリツコを見た。 「あら。その手のトラブルを期待してたんじゃないの?」 「否定はしないわ。『精神的ストレス』によるシンジ君の心の変化は期待してるし」 リツコは事も無げにそう言ってのけた。ミサトの視線が冷たくなっていくのを感じながら、リツコは言葉を続けた。 「今のネルフにとって、シンジ君の心を開かせることは最優先事項の一つになってるわ。あなたも分かってると思うけど、今の彼の異常な精神状態では、いつか必ず使徒との戦いで致命的なミスが出るわ。なり振り構ってる場合じゃ無いのよ。あなたは『既得権益』を侵されるようで気に入らないでしょうけどね」 「今日の赤木博士はずいぶん率直ね。学生の頃を思い出すわ」 茶化すようなミサトの態度を、リツコはあえて無視した。 「私はシンジ君に正常な心を取り戻させる。それがあなたの意に沿わないことだとしても。これは私個人の願いでもあるのよ、ミサト」 リツコの言葉に、ミサトはソファのひじ掛けにもたれ掛かり、頬杖をついて考え込んだ。心底つまらなそうな表情だった。 その日、マユミ宛に綾波レイは本日欠席する、という連絡があった。 欠席の理由について訊ねることが出来なかった自分に少々幻滅した。シンジとレイを扱うネルフのやり方を思い返すにつれ、この子供達には深入りするな、と暗に警告されている気がしていた。その漠然とした威圧感に気圧された、自分の無力さを強く自覚した。 シンジとレイが体験入学という形でこのクラスに編入してから、数日が過ぎていた。しかし、いまだにこの2人、特にシンジは決して誰とも関わりを持とうとしなかった。何人か、彼に話しかけた子もいたようだったが、彼から何らかの反応を引き出すことは結局できなかったらしい。マユミが事前に言い含めておいたこともあって、シンジとレイに対する子供達の印象はそれほど悪いものにはなっていないようだった。悪いものではない、といってもそれは好意ではなく無関心でしかなかったのだが。 そこにいる『だけ』のオブジェに対して、子供達が何がしかの感情を持つ理由はなかった。 彼女は、教室の一番後ろの席で机の上に焦点の定まらない視線を向けているシンジ、そしてその隣の空席をちらりと見ると、小さくため息をついて授業を始めた。 マユミは、シンジとレイ、この2人とどう接するべきなのか決めかねていた。仮にこれ以上踏み込んだとしても、彼らが応えてくれるとは思えなかった。打算だけで生きているつもりはなかったが、背負わなくても良さそうなリスクには腰が引けてしまうのも正直な所だった。 しかし、どんな形であれ、自分の教え子である以上、彼らと関わりたいという欲求が自分の中に芽生えていることも分かっていた。それが弱い自分を誤魔化すための、自ら作り出した詭弁でないことを彼女は願った。 少女の華奢な身体をぴったりと包んでいる、白のプラグスーツから送られて来た生体情報の羅列がモニタ上に表示される。 「パイロット、問題ありません。落ち着いています」 マヤの報告にリツコが頷く。 「始めましょう。零号機、起動プロセス開始」 全ては40日前の実験と同じ手順だった。1つ違うのは、実験用ケイジの制御室からオレンジ色の巨人を見守る面々の中に、ミサトが加わっていることだった。ミサトは皆から離れた場所で1人、制御室の壁にもたれかかっていた。彼女が零号機を見つめる目には、期待でも不安でもなく、ただ観察する意志だけがこめられていた。 「零号機、起動しました。シンクロ率、32.9%。システム、パイロット共に異常ありません」 リツコの両肩からわずかに力が抜けた。 「では、手順通り次に行きましょう。マヤ、お願い」 「はい」 ミサトのジャケットのポケットから振動が伝わってきた。彼女は機械的な反応で携帯を取り出し、耳にあてた。相手の報告に短い相づちで答えたミサトは、通信を切るとリツコに伝えた。 「リツコ、未確認飛行物体が接近中よ。レイと零号機は臨戦待機へ移行させるわ」 「実戦はまだ無理よ。フィードバックの微調整が要るの」 「念のためよ。万一の時は、シンジ君が来るまでの時間稼ぎをしてもらうわ」 「シンジ君、まだ学校にいるの?」 「今、迎えに行かせたわ。すぐそこなんだから、十分間に合うでしょ」 教室のドアが断わりも無しに突然開かれた。マユミと子供達の視線が一斉にそちらに向けられる。黒スーツの男達が3人、廊下に立っていた。いずれも強面というよりは、柔和な佇まいの男達だった。「皆さん、ちょっと待ってて下さいね」と子供達に断わり、怪訝な顔でマユミは廊下に出た。 男達の1人が身分証明書を出した。ネルフ本部の人間であることを示す物だった。ここがジオフロント内部の施設である以上、そんな事は当たり前だったのだが。 「碇シンジ君に呼び出しです。我々が引き取りに参りました」 マユミが返事をする間もなく、教室のもう一方のドアが開かれ、黒スーツの1人が中に入った。シンジの脇に立つと、携帯電話を彼の耳に押し当てた。 そこから聞こえて来る女性の一連の命令をシンジは速やかに認識した。シンジは逡巡する事なく席から立ち上がり、男達の後について教室から出ていった。これまで、自発性の欠片も感じさせなかったシンジがこのようなきびきびとした行動を取れる、という事実はマユミにとって軽い驚きであった。 「あ、あの」 マユミの声にリーダー格の男が振り向く。 「何か?」 マユミは胸の前で右手をもじもじさせていたが、言うべき言葉が見つからなかった。何かを言わなければならないと思っていたが、それが形となって彼女の口から発せられることは無かった。 「い……いえ」 「では、失礼します」 男は軽く会釈すると、左右から黒スーツに挟まれて歩くシンジの後ろにつくように立ち去った。彼らが廊下の曲り角に消えるとほぼ同時に、校内放送用スピーカーからチャイムが流れてきた。緊急時の放送に使われるチャイムパターンに、マユミの顔が曇った。 『お知らせします。特別広域災害警報が発令されました。各先生方は所定の手順通りに避難誘導をお願いします。繰り返します、特別……』 その機械的な音声を背に受けながら、マユミは哀しげな表情をシンジ達が消えた曲り角へ向けた。しかし、彼女はすぐに表情を引き締めると、子供達が待つ教室の中に戻っていった。 ミサトは携帯電話を上着のポケットにしまいながら、発令所に駆け込んだ。オペレーター席で各部署への伝達作業を行なっている日向の後ろに立ち、彼女は言った。 「今、サードチルドレンを直接ケイジに向かわせたわ。初号機の発進準備は?」 「問題ありません。後はパイロットだけです」 「目標の現在位置は?」 青葉が答える。 「現在、真鶴上空を通過中。UN航空部隊の迎撃も今の所効果ありません」 冬月が首を振りつつ苦笑する。その横ではゲンドウが静かにモニターを見つめている。 「解析結果出ました。パターン青です。目標を使徒と確認しました」 日向の報告と同時に、発令所壁面の主モニターに使徒が映し出される。 生物的な凸凹の表面を持つ、緑青色をした円柱状の物体。その下部から、無数の触手状器官が垂れ下がっている。本体の頂上部から触手の先まで含んだ全長は、およそ40メートル程。イソギンチャクをひっくり返したような巨大物体が空中を浮遊していた。 「目標の能力は?」 ミサトの問いに、青葉が振り向き、肩ごしに答えた。 「不明です。UN軍に対する反撃も皆無なので検討材料が足りません」 マヤが猛烈な勢いでキーボードに指を走らせている。目と指は端末に集中させたまま、彼女は後ろにいるはずのミサトとリツコに報告した。 「映像から内部構造の推測完了。MAGIの解析による前回使徒との構造比較結果、出ます」 使徒が映されている主モニターの右下にウィンドウが開く。ワイヤーフレームで描画された使徒の画像が表示された。画像が滑らかに回転し、使徒を下から覗き込むアングルになった。触手が集中している本体下部の構造がズームアップされる。 触手の間に埋もれるような、半球体の存在が確認出来た。画像の中では、その重要性を強調するように、赤くペイントされた半球体が点滅を繰り返している。 「あれか。弱点にしては、えらく無防備だけど……」 ミサトの呟きにリツコが答える。 「何にしても、情報が少なすぎるわね」 「初号機パイロット、エントリーしました。シンクロスタートします」 扇形で表示されている、使徒の予想移動ルートの範囲が変化した。扇の角度が狭まり、その先は確実に第3新東京市を指していた。 発令所中央の大テーブル表面のディスプレイに、主モニターに表示されている物と同じ地形図が表れた。ミサトはテーブルサイドに備え付けのペンを取り、テーブルの上にすらすらと筆を走らせた。それに同期して、主モニターに映っている地形図にもミサトのペンの動きをトレースした軌跡が白い線で描かれていく。 「移動ルート上の迎撃施設で目標を攻撃しつつ、継続して使徒の分析を。平行して都市外縁部……この位置にエヴァ初号機を配置。パレットライフルによる中距離からの迎撃準備。後は臨機応変に行くしかないわね」 マヤの後ろで初号機起動の指揮を取っていたリツコが、ミサトの方に振り返った。 「ミサト、零号機はどうするの?」 「準備だけはしておいて」 「現在、起動状態のまま待機中。一応、いつでも出せるわよ」 「使わずに済む事を祈りましょう」 インカムからの報告を受けた日向が、ミサトを見た。 「初号機の発進準備完了です」 ミサトが頷いた。 「エヴァ初号機、発進!」 快晴の空が広がっていた。 第3新東京市の市街が山林地帯に接する場所に、エヴァ初号機は立っている。その手にはパレットライフルが構えられていた。初号機を遠巻きにするように攻撃用VTOLが数機ホバリングしている。 アンビリカルケーブルの長さとエヴァの運動範囲の兼ね合いから、このエリアが現段階でのエヴァの作戦行動限界だった。使徒の能力が未知数であるため、できるだけジオフロントから遠い場所で戦線を展開する、という方針による配置でもあった。 『シンジ君。目標がATフィールド中和可能な距離に入ったら、こちらから指示を出すわ。それまでは待機』 エントリープラグ内のシンジの意識は、その命令を実行すべく作業を開始した。 意識が知覚を経由して拾い上げる情報の上限を減らし、神経系と筋肉への定常負荷も必要最小限にまで減らす。同時に、やがて下されるであろうミサトの命令を優先的に拾い上げるよう、知覚表面のフィルタを再設定する。 一時的にアイドリング状態へと遷移したシンジは、ミサトからの命令を待ち続けるだけの存在になっていた。 プラグスーツに内蔵された計測器群は、シンジの脳、神経、筋肉、内分泌系などの生体情報を極めて精確に捉えてMAGIへと転送していたが、結局、単に『良く落ち着いている』という概念でしか、彼の状態を表現できなかった。 シンジの精神の中で、何が行なわれているかを知る手段はどこにも無かった。 その時、青葉が異常に気付いた。 「目標、移動ベクトル変化します」 それまで、触手が地上に触れるかどうか、という高さで浮遊移動を続けていた使徒が突然真上に急上昇した。観測カメラが追尾機能を最大限に発揮して使徒の姿を追っていく。 「目標、鉛直方向に移動中。高度200……500……800、820……停止」 使徒の不可解な行動に、ミサトの表情が険しくなる。 望遠レンズが捉えた、遥か上方の青空に浮かぶ使徒は、地面に対してやや傾いていた。 それまでゆらゆらと柔らかく揺れていた個々の触手が、一束にまとまった。直後、その触手のまとまりが捻られ、先端が細くすぼめられた。短い鉛筆のような形になった使徒の先端部分は、捻れと触手の凹凸によってネジのような形状になっていた。 使徒の映像が陽炎のように揺らめいた。 次の瞬間、使徒が映像から消えた。 ミサトの背中に寒気が走った。彼女が問いかける前に、青葉が叫んだ。 「目標、急加速!!ゼロエリア到達まで7秒!!」 主モニターの地形図上で、使徒の現在位置を示しているシンボルが狂ったようなスピードで移動を始めていた。 パレットライフルを持って待ち構えるエヴァ初号機を嘲笑うかのように、使徒はその遥か頭上を圧倒的な速度で通り過ぎていった。 使徒の位置を割り出したレーダー情報に連動する観測カメラが、目標の映像を再び主モニターに映し出した。死の宣告を携えた神の使いが、見る見る内に頭上へと近付き舞い降りて来る様を、発令所のオペレーター達は呆然と見つめていた。自分達がどれだけ必死な努力をしようと、結局は無駄な足掻きでしかないような脱力感に包まれた。 毒気を抜かれたままモニターを見つめていた日向の肩に手が置かれた。はっと我に返った日向が後ろをそっと振り返ろうとしたが、突っかい棒のように頬に当てられた人さし指のせいで、それ以上振り向く事ができなかった。 「よそ見しない。ちゃんとモニターして」 ミサトの声はこれ以上ない程に落ち着いていた。怒りも不安も苛立ちもない、どこか気楽な雰囲気さえ漂わせていた。日向は自分の心の中のしびれが消えていくのを感じた。 「は、はい」 音速を遥かに超える飛行速度で、第3新東京市中心部に向かって急降下を続けながら、使徒はその体を高速で回転させ始めた。 巨大な弾丸と化した使徒が地表に激突し生じた衝撃波は、着弾点近隣の兵装ビルを完全に破壊した。数秒前まで建築物を構成していた物質が、細かい瓦礫へと粉砕され、轟音と共に空中に巻き上げられた。 使徒は運動エネルギーを余す所なくその先端に集中させると同時に、人類が未だ解明していない何らかの効果によって、更に前進するための加速度を得た。使徒の高速な回転は全く衰えることなく、ジオフロントに向けて地中を常識外れな速度で一直線に掘り進んでいった。 「第4装甲まで損壊!!更に掘削侵攻しています!!速い……ジオフロント侵入まで約50秒!!」 冬月が顔をしかめ、呆れた口調で呟く。 「一足飛びにここまで来るつもりか」 ゲンドウは眉一つ動かさないまま、主モニターの中で次々と貫通されていく天蓋装甲のイメージ映像をじっと見つめていた。 ミサトは抑えた声で淡々と命令を下した。 「初号機、急いでジオフロントに戻して。零号機にライフルを持たせて、本部施設の防衛を。初号機が戻るまで、できるだけ時間を稼いで」 リツコがマヤの後ろから指示を出す。 「零号機の射撃管制、MAGIの優先度を高めに。レイはシンクロする事にだけ集中させましょう」 「非戦闘員の避難率、80%まで確認」 「エヴァ零号機、発進準備完了しました」 間髪入れずにミサトは命令した。 「エヴァ零号機、発進!」 この建物は今は校舎だが、将来的にはネルフ施設としての再利用を見込んでいるため、いかにも学校然としたデザインではなく、柔軟性のある運用が可能な設計になっていた。移動可能なパネルを壁として使い、教室と廊下を造り出しているこの空間は、学校と言うよりビジネスオフィスのような趣きだった。 廊下では2列になった子供達が歩いている。他学年の児童も廊下に並び、順に歩き始めていた。マユミが受け持つ初等部4年生は、5年生の後についてシェルターへと向かっていた。 マユミは子供達の様子を一瞥し、彼らが思った以上に落ち着いていることに安堵感を覚えた。 「はい。みなさん、避難訓練を思い出して。転ばないように、落ち着いてゆっくり歩きましょう」 「はーい」 子供達を誘導しながら、マユミは地下深くに守られたジオフロントほど安全な場所は無いと自分に言い聞かせていた。しかし、この学校がジオフロント内に立地しているからこその危険が、今まさに近付いて来ていた。それに彼女が気付いた切っ掛けは、子供達の歓声だった。 窓に貼り付いた子供達が、視線と指を外に向けて興奮している。マユミもつられて窓の外に視線を向けた。 校舎に近接している、ピラミッドの形状をしたネルフ本部施設の脇に、オレンジ色の巨人が立っていた。 ロボットというには生物的にすぎる曲線で構成されたフォルム。巨大なネルフ本部施設と、その横に立つ、余りに人間に酷似した輪郭を持つ巨人との不自然な対比に、一瞬遠近感が狂う。巨人の首がすっと回され、その顔がマユミ達のいる校舎に向く。その動きは全く自然で、薄気味悪いほどに人間的だった。顔の中央に一つだけついた、眼ともレンズともつかない部品と視線が合った気がした。 生物的な体に不思議とマッチしているその無機質な眼に、マユミの体がすくんだ。 マユミは、自分達が置かれている状況がのっぴきならない物である、と直感した。自分は今まで、『特別災害警報』が意味するものを知る立場になかったが、恐らく今からそれを目の当たりにするのだろう。そして、それは自分達にとって好ましからざる物なのだろう、と。 そんな彼女の危惧などお構い無しな存在が、目の前の突発イベントにボルテージを上げていた。巨人の脇に地中からせり上がって来た、巨大なライフル銃のようなものが、それに拍車をかけた。 「おー!」 「すっげー!!」 盛り上がって避難どころではなくなった子供達の声が一層高くなる。ケンスケにいたっては窓から身を乗り出してカメラを向けている。廊下の先では他学年も似たような騒ぎになっており、担任教師がたしなめる声が響いている。マユミも慌てて声を高くする。 「みんな!静かに!!きちんと2列に並んで下さい!!」 2、3度大声を張り上げたあたりで、ざわめきも静まり始め、子供達は元のように列を組んで歩き始めた。呼吸を整えながら、マユミは窓の外に注意を向ける。巨人は空の一点、正確にはジオフロントの天井部分の一点を見つめているようだった。その手には既に先程出現したライフルが握られている。 マユミは、急いだ方がいい、と判断した。焦燥感に襲われたマユミは一刻も早く子供達をシェルターへと進ませたかった。彼女はクラスの列の最後尾へと回って、遅れる子がいないように注意した。進んでいく子供達の列に後ろから目をむけた時、彼女は『それ』に気付き、何故今まで気付かなかったのかと自分自身を呪った。 子供達の数が足りなかった。 ちゃんとシンジとレイの分は計算に入れた上でなお、この列に入っているべき人数が足りていなかった。そもそも、この少人数のクラスでは、数えるまでもなかった。一度眺め渡すだけで誰がいないか一目瞭然だった。 慌てて周囲を見回すが、目当ての物は見つからなかった。 「嘘でしょ……」 マユミは生まれて初めて、血の気が引く、ということがどういう事なのかを体感した。 零号機がネルフ本部施設の脇でぎこちなくライフルを構え直す。そこかしこに感じられる零号機の挙動の不自然さは、シンクロ率よりもフィードバックの調整不足による要因が主な物だった。 ミサトが状況を確認しようと、口を開いた。 「初号機は?」 「まだ地上です。リニアリフトに再固定中。収容時間も含め再配置までおよそ2分」 「目標のジオフロント到達まで、後10」 「レイ、貫通予想ポイントに照準合わせ。目標侵入と同時に発砲開始」 『はい』 零号機がパレットライフルを上方に構える。コクピットから見えるジオフロント天井の映像、そのある一点に横倒しになった三角形が表示され、点滅を繰り返している。レイはその頂点が示す位置に、照準のシンボルを重ねた。 その一点を見つめる綾波レイの瞳には、恐怖や焦りは無かった。 階段を駆け上がっていく2人の少年の表情は正反対だった。黒いジャージの少年の不安顔とは対照的に、胸の前でカメラを構えた少年は瞳を爛々と輝かせ、一心不乱に足を動かしていた。その呼吸が荒いのは、激しい運動のせいか、あるいは興奮のためなのか傍目には判断がつかなかった。 「おい、ヤバいんちゃうんか、ケンスケ」 「大丈夫だよ、マユミ先生ならそんなに怖くないだろ」 「ちゃうがな。危ない、いうとるんや」 「ビビってんのか、トウジ?屋上からちょっと写真とるだけだってば」 一瞬ムッとしたトウジだが、そのまま放っておく気にもなれず、結局ケンスケの後ろに渋々ついていった。 自分のクラスの誘導を同僚の教師に頼んだ後、ここまでマユミは5つか6つの教室を走り回ってチェックしていた。乱れた呼吸を少し整えようと、辺りを見回しながら、小走りを早歩きへと切り替える。ふと目を外に向けると、窓の外の巨人が動きを見せていた。手に持った巨大なライフルを上に向けて構え、今にも撃ち始めそうな体勢を取っていた。 休んでいる場合ではないと、彼女は再び走り始めようとした。 「せ、先生……」 後ろからいきなり聞こえて来た、今にも泣き出しそうなか細い声に、マユミは飛び上がった。 お下げの少女が心細そうな表情で自分を見上げている。 「洞木さん!?どうしてここにいるの?みんなと一緒に避難しなかったの?」 「え、と……鈴原と相田くんが……さっき、屋上に行くみたいな、こと……先生に言わなきゃって思ったんですけど……あの……」 見る見る内にヒカリの頬が紅潮し、瞳が潤み、涙があふれそうになる。マユミは慌ててしゃがみ込んで膝をつき、ヒカリと視線の高さを合わせた。落ち着かせるように、肩に手をかけて頭を撫でてやる。 「屋上ね、分かったわ。ありがとう。あなたは早くみんなの所に……」 遠くから聞こえて来た、何かが崩れるような音に、マユミは言葉を途中で呑み込んだ。マユミは、無意識にヒカリの体を抱き寄せ、窓の外に目を向けた。 ジオフロントの天井を覆っている採光ユニットの一部に亀裂が入った。次の瞬間、採光ユニットを構成している透明樹脂素材が、その亀裂を中心にして砕け散り、岩盤の破片や土砂と共に爆発的な勢いでジオフロントの内部に降り注いだ。岩や土がネルフ本部施設周辺の土壌に、絨毯爆撃の如く突き刺さっていく。 零号機が見上げる先、使徒がジオフロント内部に向けて穴を穿った部分には土煙が立ちこめ、そこにいるであろう使徒の姿を視認することを妨げていた。 音響センサーからの情報をモニターしている青葉から声が上がった。 「目標、ジオフロントに侵入!」 「レイ!」 ミサトの合図より一瞬早く、レイの指はコントロールレバーのトリガースイッチを引き絞った。パレットライフルから放たれた弾丸が、未だ肉眼では確認できない土煙の中の使徒へと撃ち込まれていく。 「目標は!?」 「ダメです、ダメージ確認できません!降下して来ます!」 使徒が土煙の中から姿を表した。 岩盤を掘削するためドリル状に収束されていた使徒の触手は、すでに元のように一本一本が分かれて柔らかく揺らめいている。緑青色で表面が凸凹のボディには、パレットライフルの弾丸による損傷は見当たらなかった。寸胴鍋のような使徒の体の下部で蠢く無数の触手の隙間から、無気味に光る赤い半球体が覗いている。 空中をゆっくりと降下してくる使徒に向かって、零号機が再び射撃を開始する。MAGIによる射撃誘導は極めて正確で、使徒の中心部から狙いが大きく逸れることは無かった。連続した射撃により発生した煙が使徒の姿を隠す。 煙の中から再び現れた使徒は、まるで辺りを見回すようにゆっくりと一回転し、空中で戸惑うような動きを見せた。使徒は、消えかけた煙を引きずるように空中を動いている。ミサトは使徒の一挙手一投足をじっと見つめていた。 そして、使徒の周囲の空気が陽炎のように揺らいだ。 使徒の次の行動を悟ったミサトが、発令所の誰よりも早く叫んだ。 「来るわよ!レイ!」 ゆっくりと降下していた使徒が、急加速する。あっという間に使徒と零号機の距離が縮んでいく。零号機の運動能力では、この速度で一直線に突っ込んで来る使徒をかわすことは不可能だった。 殆ど残弾の無いライフルを放り出すと、零号機は使徒を真正面から受け止めた。零号機の装甲板と使徒の表面が激突した大音響が響き渡り、衝突の余波が起こした振動で周囲の樹木が放射状に傾いだ。自分の数倍はある質量の衝撃は流石に吸収しきれず、零号機は使徒と組み合ったまま1、2歩後ずさった。 かろうじて踏み止まった零号機の両腕が、使徒の体をがっしりと固定する。零号機に受け止められながら、なおも前進しようとする使徒の圧力は強大だった。零号機の両足が地面に食い込む。使徒は背後のネルフ本部施設へ向かって零号機を徐々に押し込んでいった。 「……くっ」 レイの口から息が漏れる。 零号機が右膝をやや深く曲げ、体を半身に開いた。使徒の前進する力を斜め後方に受け流しながら、零号機が上体を反らす。その反動を利用して、本部施設から引き離す方向に、零号機は使徒を投げ捨てた。 本部周囲にある施設をいくつか押し潰し、土煙を上げながら使徒が横倒しになる。 「レイ、そのまま押さえ込んで!初号機が来るまで持ちこたえて!」 零号機がややもたつきながら、使徒に駆け寄る。体を起こしかけた使徒の上に零号機が覆いかぶさり、叩き付けるように使徒を地面に押し付けた。触手を激しく振り回しながら暴れる使徒と零号機の根比べが始まった。 「葛城さん、初号機の再射出準備完了です!」 「出して!」 射出されてから初号機がネルフ本部施設脇に姿を現すまで、実際は5、6秒だったが、見守っている人間に取ってそれは永遠にも感じられる長さだった。零号機と同じルートで出現した初号機、その両肩を固定していたリフトの拘束パーツが、火花を散らして開放された。 ミサトがシンジに呼び掛ける。 「シンジ君。目標に取り付いて」 初号機は弾かれたように走りだし、零号機が組み敷いている使徒へと向かった。 初号機は、暴れ回る使徒の胴体上部にしがみついている零号機の反対側、つまり胴体下部の触手の付け根側に回り込んだ。勝機がこちらに傾いてきたのを感じながら、ミサトは冷静に指示を出した。 「シンジ君、標的は使徒胴体下部の半球体。プログレッシブナ……」 使徒が振り回している触手の一本が突然長さを増して、初号機の右手首に絡み付いた。使徒は驚異的な力を持ったその触手で、大きな軌跡を描きながら初号機を軽々と振り回し、何度も地面に激しく叩き付けた。初号機が大地に打ち付けられる度に、土砂と樹木の破片がもうもうと舞い上がる。 ミサトが息を呑む。 「シンジ君!一旦離れて!」 彼女のその言葉が終わらない内に、使徒は最後に触手を大きく振り上げると、初号機を人形のように放り捨てた。200メートル近い距離を投げ飛ばされた初号機が、人工森林で覆われた地面に激突し、周囲の木々をなぎ倒した。 初号機のエントリープラグ内を映している映像ウィンドウが、発令所の主モニターから消滅した。 「シンジ君?!立って!」 ミサトの声にも、初号機はぴくりとも動かなかった。初号機のシステムをチェックしていたマヤが叫ぶ。 「ダメです、初号機の通信回路断線!映像、音声共に不通です!復旧出来ません!」 「何ですって……!?」 リツコの顔が蒼白になる。その報告がいかに致命的なものか理解できるのは、ネルフの中でも数人しかいなかった。 『ミサトの声が届かないシンジ』に使徒殲滅を期待するのは、神頼みよりも当てにならない行為だった。 事実上、戦力として期待できるのはレイの零号機だけだが、今は使徒を抑えるだけで手一杯、それもいつまで続くか怪しい物だった。ましてや、殲滅など望むべくもなかった。 リツコはミサトの方を見た。手の打ちようが何もないのは分かっていたが、声をかけずにはいられなかった。少なくとも、この絶望感を誰かと分かち合わなければ、今すぐにでも押しつぶされそうでたまらなかった。 「ミ……」 リツコはそこに、予想とはまるで違う物を見た。 ミサトは既に主モニターには目もくれていなかった。ジャケットの内側から拳銃を取り出し、残弾を確認し再びホルスターに戻す。彼女の目は、敗北を受け入れ諦めるどころか、勝利に向かって自分がなすべきこと、それを明確に理解している強い意志に満ちていた。 「ミサト……?」 「初めからこうすべきだったわね……日向君、『足』用意してくれる?最優先で」 日向が素頓狂な声を上げる。 「はい?」 主モニターの中では、激しくのたうちまわる使徒に必死にしがみついている零号機がいた。ミサトがモニターを見上げて、声を張り上げた。 「レイ、聞こえる?」 『はい』 「絶対に使徒を放しちゃダメよ。もう少しだけ頑張って」 『はい』 リツコが慌ててミサトに詰め寄り、彼女の肩を掴んだ。 「ちょっと、ミサト?どうするつもりなの!?」 ミサトは、きょとんとした表情でリツコの顔を見つめた。 「決まってるでしょ。シンジ君に、私が直接、指示を出すの」 彼女はそう言って、主モニターに映る初号機を親指でくいっと示した。 「あそこでね」 悲鳴を上げる暇もなかった。 激しい衝撃と共に、外に面した窓ガラスに一斉に細かい亀裂が走った。マユミは反射的にヒカリの上に覆いかぶさったが、幸いにもガラスの破片が飛び散るようなことはなかった。 マユミは何より先に、自分の体の下で震えるヒカリの様子を調べた。見た目、ケガは無いようだった。 「洞木さん、大丈夫?ケガしてない?」 ヒカリはマユミの腕の中、青い顔で頷く。ほっと息をついたマユミは、合わせガラスをこの建物に採用してくれた設計者に心の中で短く感謝した。 マユミは、窓ガラスからヒカリを守る盾になる位置に自分の体を動かし、ゆっくりと立ち上がった。その腕はしっかりとヒカリを抱きかかえている。マユミは自分の顔だけを動かし、網目のように亀裂が入ったガラス越しに外の様子を恐る恐る窺う。 現実離れした光景が目の前で展開されていた。 オレンジの巨人が巨大な生物のようなものと取っ組み合いを演じていた。巨人の下で暴れている物は、彼女が今まで見たどんな物にも当てはまらなかった。緑青色のドラム缶のような体から伸びる無数の触手が激しく蠢き、地面を苦しそうに叩いている。地面を叩くその触手が巻き上げている土や木との大きさの対比から、その破壊力は推して知るべしだった。 見物している場合ではなかった。とにかくヒカリを安全な場所に、と思ったところで思考が凍り付いた。まだ2人の教え子がこの建物のどこかに残っている。ヒカリを1人でシェルターに向かわせるのは論外に思えた。かといって、残りの2人を置いていくわけにもいかなかった。 マユミは、ヒカリを抱き締める腕に力を込めた。 「いい、絶対に先生から離れちゃダメよ。鈴原君と相田君を見つけて、シェルターに行きましょう」 VTOLが初号機の上でホバリング状態に入った。ミサトは機体側面の扉をスライドさせ、風に舞う髪を押さえながら眼下の様子を眺めた。ジオフロントの人工森林地帯に横たわる巨人。初号機はうつ伏せの状態で、微動だにしていなかった。 リツコの話だと、システムに重大な損傷は見当たらない、初号機は動くはずだということだった。シンジさえ無事なら、と付け加えたリツコの皮肉めいた響きに、ミサトは心の中で肩をすくめた。胸ポケットに収めた携帯通信機のスイッチを入れ、スピーカーとマイクが一体になったワイヤレスヘッドセットを耳に付けると、エンジン音に負けないようにやや大きな声で話しかけた。 「リツコ、聞こえる?」 『聞こえるわ。そっちは大丈夫?』 「問題ないわ。この通信機、レイとも話せる?」 『ええ。発令所にいるのと同じ感覚で交信できるわ』 「了解」 ミサトは一旦通信を切ると、VTOLのパイロットに向かって、初号機の真上に接近するように呼び掛けた。滑らかな機動で高度を下げていく。顔を上げて、遠方で組み合っている零号機と使徒を見つめる。あの使徒の激しい抵抗に、零号機は思いのほか善戦していた。贔屓目だとしても、レイはよく持ちこたえていた。 あの零号機の動きもMAGIのサポートの賜物かしら、とミサトが感心している内に、初号機の背中が目の前に迫って来ていた。ミサトの目からおよそ2メートル程下に、エントリープラグを保護している、初号機の背面装甲板があった。 パイロットに感謝の言葉を投げてから、ミサトは飛び下りた。 着地の瞬間、装甲板のカーブがかった表面でバランスを崩しかけたが、右手をついて体勢を何とか維持した。ミサトは、教わった通りに背面装甲の側面のスペースに滑り込んだ。通信機のスイッチを入れて、再び呼び掛けた。 「リツコ。取り付いたわ、お願い」 発令所のリツコがマヤに頷きかける。マヤが流れるような指さばきで、一連のコードを端末に投入する。 ミサトが見守る前で、初号機の背中を覆っている装甲板が縦にスライドし、エントリープラグが滑らかな動きで全体の長さの半分ほど排出された。それに続き、空気が漏れ出すような音と共に、プラグの外殻の一部も縦方向にスライドした。 ミサトは勢いをつけて跳び上がり、プラグ内部へと通じる開口部の端に手をかけて中を覗き込んだ。透明な液体に満たされた空間の中に、シンジの姿が見えた。 シンジはシートに座ったまま、何をするでもなくぼやけた視線を前方に向けていた。 躊躇なく、ミサトは水しぶきをあげてプラグの中に飛び込んだ。知識としては理解していたが、液体を意識して肺の内部に取り入れる瞬間の違和感は形容し難いものがあった。LCLの中に漂いながら、ミサトはシンジの座るシートの脇で片膝をついた。シートの背面に手をかけて自分の姿勢を安定させる。 ミサトの様子を発令所から映像で見ていたリツコの指示だろう、エントリープラグが再び初号機内部に収容され、プラグの内部照明のスイッチが入る。 携帯通信機に施された防水加工技術が、LCLに対しても有効であることを祈りながら、ミサトは通信機のスイッチを入れる。 「リツコ、準備はいい?」 『ええ。いつでもいいわ』 「レイは?」 『圧され始めてるわ。急いでちょうだい』 ミサトは横に座る少年に対して、機械的に命令を下した。 「シンジ君、距離100まで目標に接近」 ミサトの命令にシンジは迅速に反応する。バネ仕掛けのような動きで、初号機が立ち上がる。LCLによって衝撃が緩和されているものの、その動作だけでもミサトの体は浮き上がりかけ、彼女は慌ててシートに掴まり直した。 同時に初号機が走り出す。少なからぬ振動で体が揺すられ、ミサトは顔をしかめた。 (結構きついわね、これ) ミサトは辺りを見回して状況を確認した。遠くで零号機がかろうじて食い止めている使徒の動きは激しさを増していた。零号機もレイもそろそろ限界だろう、と彼女は思った。 「リツコ、さっき言った通り、予備のライフルは4番に。それから零号機の視覚に目標のエコー映像を重ねといて。シンジ君、走りながらパレットライフルを装備、射撃準備」 人工森林の一角の地面が四角く開き、そこからリフトに固定されたライフルが現れた。初号機はリフトの脇を駆け抜けながら、ライフルを拾う。シンジの動きは訓練通りに淀み無く動いていた。 零号機と力比べを演じていた使徒が、更に激しく跳ね回った。使徒の体を掴んでいた零号機の指がついに外れ、零号機はのたうちまわる使徒に弾き飛ばされた。地面に激しく叩き付けられた零号機には立ち上がる気配が無かった。 ようやく自由の身になった使徒は、ゆらりと空中に浮き上がり、ネルフ本部へと接近しはじめた。 使徒からやや離れた位置で初号機が立ち止まり、射撃姿勢を取った。ミサトは、通信機越しに零号機のレイへ何かを告げた後、シンジに命令を与えた。 「シンジ君。目標の胴体中央部をターゲットに、フルオートで。全弾叩き込みなさい」 高速で打ち出される弾丸が次々と使徒に命中する。パレットライフルのフルオートモードによる反動は凄まじく、エヴァの力でもコントロールしきれなくなるほどに銃身が振れて狙いが逸れ出す。使徒の周囲の地面に突き刺さる弾丸が爆煙を巻き上げる。 激しい煙の陰に使徒の姿が隠れ、肉眼で確認する事が困難になりはじめた。 発令所のリツコが不安な表情を見せる。敵の姿を見失う事が良策とは思えなかった。 「大丈夫なの……?ミサト」 使徒は煙の中で立ち止まっていた。周囲の様子を探るようにゆっくりと回転運動を続けている。もし、この使徒に背後という概念があったとしたら、間違い無くその方向から『それ』は現れた。 立ち篭める煙の中から巨大なオレンジ色の手があらわれ、使徒の体をむんずと掴んだ。意表をつかれた使徒はパニックを起こしたような動きで、触手を襲い掛かって来た手の持ち主の方へと伸ばした。 零号機は使徒の触手にも動じず、歩みを前に進めた。両手で抱え込むように使徒の体を押さえ付け、地面に押し倒す。使徒の触手が零号機の首や胴体に絡み付き、猛烈に締め上げ始めた。触手が人工筋組織に音を立てて食い込む。 レイの顔に苦痛の影が走るが、少女の視線は使徒へと真直ぐに向けられたままだった。 通信機越しに、ミサトの命令がレイの耳に届く。 『レイ、そのまま使徒のATフィールド中和。絶対に放さないで』 レイはその命令を何の感慨もなく受け止めた。 「はい」 ミサトは使徒から視線を離さぬまま、傍らのシンジに言った。 「シンジ君、プログレッシブナイフ装備」 初号機の左肩に備え付けられたウェポンラックが開き、プログレッシブナイフの柄が斜めに飛び出した。初号機はそれを右手で抜き取り、腰の高さに構えた。機械的な唸りと共に刃の表面が鈍く発光を始める。 「目標の胴体下部、赤い半球体がターゲット。破壊しなさい」 ミサトの言葉が終わると同時に、初号機は横倒しになっている使徒に飛びかかった。 初号機は、逆手に持ち替えたナイフを黙々と振り下ろした。零号機によって中和されたATフィールドを易々と突き抜け、その刃は使徒の体に突き立てられた。触手に囲まれた半球体にぶつけられる刃先から火花が散り、硬質的な音が響く。 急所を守ろうとする本能なのか、使徒の触手が寄り集まり半球体を隠した。シンジはそれも目に入らないのか、ひたすらにナイフを振り上げ、振り下ろす作業を続けた。高振動する刃によってあっさりと次々に両断された触手が、内部の体液をまき散らしながら地面に転がり落ち、痙攣する。 半球体にヒビが入る。赤い半球体が一瞬青にフラッシュしたが、再び赤色に発光する。 使徒は残り少ない触手を、自分の体に組み付いている零号機の左腕に巻き付けた。余力を振り絞るかのように、使徒は触手を収縮させる。使徒と初号機の間に、零号機が引きずり出された。 使徒の触手の締め付けが目に見えて強くなった。零号機の左肩から左上腕部が、初号機のナイフの軌道を遮る位置、つまり、使徒の半球体を完全に覆い隠す位置で固定された。 使徒の盾にされた格好の零号機の背中が、初号機の視界を妨げた。目標を見失ったシンジの操る初号機が、ナイフを振り上げたままその動作をこわばらせる。 発令所でもその様子は詳細に見て取れた。冬月は眉を上げると、小さく呟いた。 「まずいな」 同時にリツコが慌てて叫んだ。 「レイ!離れて!!」 リツコの声にかぶせるように、ミサトの命令がスピーカーから響いた。 『放しちゃダメよ、レイ』 『はい』 ミサトとレイの間に交わされた会話の冷たさに、リツコを始めとする発令所の面々は、一瞬言葉を失った。 ミサトは、使徒が『そのような』行動に出る可能性は十分にあり得ると、この攻防が始まった直後から予想していた。そして、彼女はそれに対する命令を準備していた。 「シンジ君、零号機の存在は無視しなさい」 ミサトの命令は発令所でも聞く事が出来た。オペレーター達が凍り付く。 初号機は躊躇なく、ナイフを叩き付けた。 「あっ!」 レイの口から思わず悲鳴が上がる。 零号機の左上腕パーツを貫通した刃先は、その向こうにある使徒の半球体に食い込んだ。使徒の体がぶるっ、と震える。初号機は単調な動作でナイフを上げ下ろす作業を飽く事無く続けていた。 振り上げ、振り下ろす。そのサイクルの度に零号機の左腕が、他でもない初号機の攻撃により引き裂かれていく。飛び散る体液や組織が、使徒の物なのか、零号機の物なのか既に判別できる状態では無かった。ミサトはちらりとシンジの横顔を見つめる。 少女に対して能動的に苦痛を与えているその少年の顔には、ミサトの予想通り、何の感情も浮かんでいなかった。 これが、碇シンジの本質だ、とミサトは確信した。 『んっ……んっ……あぁっ』 繰り返し加えられる攻撃。その苦痛を押し殺すレイの声が、インカムを通してミサトの耳に入り、発令所にも響き渡る。モニターに映るレイは、歯を食いしばり小刻みに震えている。シンジよりもシンクロ率が低いとは言え、彼女は十分すぎるほどの苦痛を感じていた。少女の悲痛な声が響くたび、発令所スタッフから状況判断力が奪われていった。 リツコが、胸を手で抑え蒼白になっているマヤに向かい、叫ぶ。 「マヤ、左腕神経接続カット!」 「は、はい!」 マヤの指がキーボードの上に走る。 苦痛から解放されたレイが、一気に息を吐き出し、シートの上で上体を折り曲げる。激痛の余韻を引きずる左腕を意識しながらも、少女はその赤い視線を使徒から逸らす事はなかった。 冬月の目が、すっと細められる。 「……碇」 「構わん。使徒殲滅が最優先だ」 初号機が何十回目かの打撃を加えたその時、ナイフの刃が一気に半球体の奥まで貫通した。使徒の体が目に見えて引きつった。ミサトは勝利の手ごたえを感じた。 使徒は断末魔の叫びの代わりに、全身を大きく震わせて初号機を弾き飛ばした。 「がっ!!」 虚を突かれたミサトが、プラグの内壁に体を強烈に打ち付ける。遠くなりかけた意識を無理矢理引き戻して目を開けると、眼下の地面が猛スピードで流れていた。宙に弾き飛ばされたことを一瞬で理解したミサトは、間もなくやってくる筈の衝撃に備え、口を閉じてシートにしがみついた。 マユミは、ヒカリの手を引いて階段を上がっていた。外からは何かが叩き付けられるような音が延々と響いて来ている。それが何の音なのかは、想像するのも嫌だった。 ヒカリは怯えた表情で黙りこくったまま、マユミの手にしがみつき、必死について来ている。マユミの胸に、少しばかり後悔の念がよぎった。ヒカリの足に合わせた早さで歩いていたのだが、マユミの動悸はまるで早鐘のようだった。 果てしなく続くのかと思わせる長さの階段を昇りきり、マユミは屋上に通じるドアを開けた。外の新鮮な空気が流れ込み、視界が明るく開ける。そして、マユミの視線はある一点に固定された。 空中を自分達に向かって一直線に飛んで来る、紫色の巨人。 それを見たマユミは、自分でも信じられない反応速度でヒカリを押し倒し、その上に覆いかぶさった。ごめんなさい、ごめんなさい、と意味不明な謝罪の言葉を心の中で連呼しながら目をきつくつぶった。 大地を揺さぶる衝撃を全身で感じながら、最期の瞬間をただ待つしか無いという無力感と恐怖で心が満たされた。 だが、いつまで待っても、終わりの瞬間は来なかった。マユミはそっと目を開けた。目の前には、ぎゅっと目を閉じて震える少女がいる。こわごわとヒカリの体を見回したが、とりあえずは無傷のようだった。ヒカリの上で四つん這いになったまま、マユミは首を回した。うっすらと土埃が一面に漂っていた。 紫の巨人が校舎の目の前、建物に触れるか触れないかという位置で、マユミ達に背を向けて仁王立ちしていた。彼女の位置からは見えなかったが、着地の衝撃を物語るように、その両足が地面に長々と深い溝を刻んでいた。 「せ、せんせえ……」 それは、自分の体の下でうずくまる少女の声とは別の物だった。 はっとして、周りを見回す。屋上に通じるドアの脇、フェンスにもたれかかるようにへたり込んだ2人の少年を見たマユミは、一気に体の力が抜けた。 体の震えが止まらないヒカリの体を起こして、その場にぺたりと座らせる。マユミは、トウジとケンスケの元に駆け寄った。 腰が抜けて動けない2人の前に膝をつく。巨人の着地の衝撃か、あるいは単に驚いたかで転倒したのだろうか、少年達は所々擦りむいていたが、他に目立った外傷は見当たらなかった。 「だ……大丈夫?痛い所ない?」 何が起きているのか分からないという顔で頷く2人。マユミは2人の手を取って立たせた。膝が笑っているが、ケガによるものではなさそうだった。 ケンスケが囁くような声で、ようやく言葉を絞り出した。 「あ……せんせ……」 その瞬間、手が勝手に動いていた。乾いた音が2つ、屋上に響く。 頬を張られた2人の少年の顔が、少し歪んだ。 唇を噛み締めたマユミの瞳から涙が溢れ、頬を伝う。何も言葉に出せないまま、彼女はトウジとケンスケを両腕できつく抱き締めた。そのまま、時間の流れが止まった気がした。 何かが軋む小さな音で、マユミの意識は再び現実へと戻った。 ゆっくりと頭を動かし、音の源を確認する。その音の主は、果たしてあの紫の巨人だった。徐々に巨人が校舎に向かって傾き始めていた。あの大きさの物体が倒れ込んで来たら、建物がどうなるのか見当もつかなかった。物理法則に忠実に従っているその巨人は、傾く速度をどんどん速めていた。 マユミは弾かれるように走り出し、未だにへたりこんでいるヒカリの腕を掴むと、巨人から少しでも遠ざかろうと、屋上から建物内部へ通じるドアに向かった。走りながら、倒れつつある巨人を呆然と見つめる2人の少年に呼び掛ける。 「2人もこっちへ!!早く!!」 その言葉と同時に、衝撃で足元が揺れ、マユミはふらついた。たたらを踏んで立ち止まった彼女は、思わず後ろを振り向いた。 紫の巨人が校舎に背中を預けた姿勢で、外壁にめり込んでいた。 息を止めて次に何が起きるのか、待ち構えた。心臓の鼓動が10回ばかり脈打つのを無意識に数えた後、マユミはゆっくりと体を動かした。自分の息遣い一つで、建物全部が崩れ落ちるのではという、強迫的な不安で満たされかけていた。 どうやら、今すぐに建物ごと崩壊することはなさそうだったが、マユミはドアのノブを回して校舎の中に入ろうとした。 「え」 押しても引いてもドアがびくともしなかった。先ほどの衝撃のせいでドアの枠が歪んでいるようだった。良く見ると、ドアの周囲の壁にヒビが入り、心無しかドアそのものも傾いでいるような気がした。 この日、何度目かの絶望感を味わいながら、マユミは途方に暮れた。 軽い衝撃を切っ掛けに、ミサトは暗闇の中で覚醒した。目が慣れて来るにつれて、自分がエントリープラグの内部にいることを思い出した。最前まで外界の風景を映し出していたプラグの内壁は、無機質なパネルで覆われた単なる壁になっていた。 シンジの方を見やると、少年は目を開けたまま、ミサトが見慣れたいつもの無表情を保っていた。子供が平気な顔をしている横で伸びていた自分を情けなく思ったが、とりあえずほっと息をついて、通信機に呼び掛ける。 「リツコ?聞こえる?」 『あら、ミサト……生きてたの?』 「……その様子だと、ケリはついたみたいね」 『ええ。初号機最後の攻撃の後、パターン消滅。殲滅完了よ』 「私達、今どうなってるの?外の様子分からないのよ」 『なかなか上手い着地だったわよ……シンジ君、そっち方面の才能があるのかもね。今は本部脇の建物に寄り掛かった状態で活動停止。こっちからの制御も届かないわ……手動でプラグイジェクトして外に出るのが手っ取り早いわね。その建物の屋上に直接乗り移れると思うんだけど……さっき、回収班を回したから、そろそろ着くわよ』 「了解」 ミサトは、リツコから通信を引き継いだマヤの指示に従って、プラグ排出手順を開始した。 わずかに残った内部電源は、装甲板をスライドさせて、エントリープラグをハーフイジェクトするのが精一杯だった。 LCLが徐々に排出され、その水面が鼻の下にまで下降した途端、ミサトは激しく咳き込んだ。肺から液体を追い出す作業があることをすっかり忘れていた。 仏頂面のまま、エントリープラグから体を出す。ため息をつきながら、エヴァの背面装甲に沿って、ゆっくりと下に降りていく。LCLを吸った衣服が、やたらと重く感じられた。初号機が寄り掛かっている建物の屋上に降り立ったミサトは、プラグを見上げて叫んだ。 「シンジ君!!降りてらっしゃい!!」 すぐに、シンジもミサトと同じルートで降りて来る。体重が軽い分だけあまり苦労もしていないようだった。 シンジが屋上に足を着く直前、ミサトは背後で誰かの足が小石を踏む音を聞いた。 ジオフロント内部と言えど、まず周囲のチェックをしておくべきだった、と反省しながら、ミサトは無駄の無い俊敏な動作で上着の内側から拳銃を抜き、セーフティを解除しつつ音の方向に銃口を向けた。 長くまっすぐな黒髪が印象的な20代半ばの女性が、メガネの奥の瞳を丸くしていた。彼女の後ろには10歳くらいの子供が3人、隠れるようにこちらを見ていた。 生まれて初めて向けられる銃口に、マユミは体のこわばりを禁じ得なかった。それでも何とか子供達を自分の体の陰に隠しながら、彼女は言葉を探した。 「あ、あの……こんにちは」 何とも間の抜けた挨拶を耳にしたミサトは、銃を向けたまま、わずかに緊張を解いた。多分、害は無さそうに見えた。ミサトは他に誰かいないかと、素早く視線を左右に振った。 この女性、どこかで見たような顔だと思いつつ、ミサトは質問した。 「あなた……何やってるの?避難命令聞かなかった?」 「ちょっと……色々あって、で、あの、それ、しまって下さい……子供がいるんです」 マユミが、震える人さし指でミサトの拳銃を示す。 「ちょっと待ってね。こっちも事情があって、はいそうですかってワケには……」 「て、転校生や」 マユミの後ろに隠れていたトウジが、ミサトの脇に立っているシンジを指差した。ケンスケとヒカリも目を丸くしている。異様な外見のスーツで身を包んだ少年を見たマユミは息を呑んだ。それは間違い無く、シンジだった。 ミサトにも事の次第が呑み込めてきた。 「あ?ああ、ここ……学校かあ。子供いるんだから、そりゃそうね……あ!山岸さんか!シンジ君の担任の」 「は、はい……」 チルドレンの生活行動報告書で見た顔写真と、実物のマユミが一致する事を、記憶の中で確認したミサトはようやく銃を下ろし、それをジャケットの内側にしまった。 「リツ……赤木博士から聞いて無い?私ね、シンジ君のもう1人の監督責任者。葛城ミサト。よろしくね」 ミサトと握手を交わしながら、マユミの視線はシンジに釘付けになっていた。今日、自分が見た非常識な出来事の数々が、頭の中で渦巻いていた。ミサトの手を握り返したまま、マユミは戸惑いがちに口を開いた。 「あの……碇君は、その、どういう……」 マユミの言葉は、作戦部の回収作業チームが屋上へ通じるドアをハンマーで叩き破る音によって遮られた。 首にタオルをかけた格好で発令所に戻ったミサトを出迎えたのは、スタッフの沈黙だった。その理由は何となく分かっていたが、彼女はまず仕事の続きをすることにした。 「日向君、現在の状況は?」 「司令の指示により、現在、第一種警戒体制。零号機およびパイロットの回収完了。初号機は回収準備中。使徒残骸周辺地域の確保が済み次第、避難命令解除の予定です」 「そう。レイは?」 マヤの後ろからモニターを覗き込みながら指示を与えていたリツコが、顔も動かさずに答える。 「軽いショック症状を起こしているけど、一日休めば問題ないわ」 「それは何より」 ミサトの言葉に、周囲の温度が少しばかり下がった。彼女に明らかな不審の目を向けているスタッフもいる。ミサトは、ふっと笑みを浮かべると、タオルを掴んでLCLがこびりついた髪をこすった。 「じゃあ私、部屋で報告書作るから、何かあったら呼び出して」 ミサトは日向の返事も待たずに、さっさと発令所から出ていった。通路の突き当たりにあるエレベータのボタンを押して、ボックスが現在通過しているフロアを示すランプをぼーっと見上げる。 自分の後ろに立ったのが誰か、声を聞く前にその香水の匂いで分かっていた。 「皆、あの時のあなたの命令、聞いてたのよ」 「でしょうね」 エレベータの扉が開く。ボックスの中に入ったミサトの後に、リツコも続いた。目的のフロアに着くまで、2人とも無言で押し通した。 幹部クラスの職員の執務室が並ぶフロアの通路は、作戦終了直後ということもあってか、人通りが全くなかった。ミサトとリツコはここを通り抜ける途中でも言葉を交わす事は無かった。 ミサトは自分の執務室のドアを開けて中に入り、首から下げたタオルをソファに向かって放り投げた。彼女の後ろについて入室したリツコが、作業デスクの上に腰かけて、ミサトの姿を横から見つめる。ミサトは部屋の隅にあるロッカーの扉を開けて、中から下着とシャツの替えを取り出した。 LCLを吸ったシャツを脱ぎ、紙袋に放り込む。ミサトの腹部に走る大きな傷跡を見たリツコは視線を逸らした。学生時代に何度も見たことのある傷だが、何度見ても慣れることはできなかった。 リツコはミサトから目を逸らしたまま、重々しく口を開いた。 「24時間準待機扱い、しかも交代要員もいないパイロットの運用姿勢としては、ちょっと問題があったんじゃなくて?今日の指揮は」 「そう?不可抗力の範囲でしょ」 「レイへのダメージは避けられた筈よ。意図的にチルドレンにストレスをかけるような行動は慎みなさい。人類は、あの子達を失うわけにはいかないのよ」 リツコの言葉の『ストレス』という部分でミサトは、ぷっと吹き出した。 「そのセリフ、そっくりそのまま返してあげるわ」 ミサトはそう言って、自分のデスクの上の書類をアゴで示した。それがシンジとレイの学校における行動監視報告書であるのを見てとったリツコだが、ミサトへの厳しい視線を軟化させるつもりはなかった。 「ミサト、チルドレンはあなたの所有物ではないのよ」 「そんなに気に食わないんだったら、早いとこ私を追い出す算段でも捻り出す事ね」 「……そうね。あなたを信じていいものかどうか、私にも迷いが出て来たわ」 リツコはそう言って、部屋から出ていこうとした。彼女の背中に向かって、ミサトが問いかけた。 「ねえ、リツコ。いつだったか『シンジ君の心を開かせる』って言ってたわよね」 ミサトに背を向けたまま、リツコは黙って彼女の言葉の続きを待った。 「初めから『心を持たない』人間のそれを開かせる事が出来ると、本気で思ってる?」 リツコはそれに答えず、ミサトの部屋から出ていった。 あの場所に居合わせたマユミと3人の子供達は、簡単な事情聴取を受けた後、あそこで見た事は他言無用ということで解放された。ネルフ職員の身内でなければ、もっと酷い扱いも有り得たのだろうかと、マユミは思った。 子供達の保護者には、箝口令を念押しする意味で何らかの連絡が行っているだろう。自分も帰宅した後に父親に呆れられた。 頭の中で、一連の出来事を思い返す。あの紫の巨人の中から姿を現したシンジを見た時に感じたのは、驚きでは無く、胸を締め付けられるような切なさだった。 シンジとレイの保護者が共通しているということは、この少年と少女が似た立場にあるということを意味するのだろう。つまり、紫の巨人に対応するのがあの少年ならば、オレンジ色の巨人には恐らくあの少女が。と、そこまで考えてマユミは憂鬱な気分になった。 自分の知らない場所で繰り広げられている非日常の世界。テレビの向こうの話ではなく、その気になれば自分が直接触れる事ができる子供達が関わっている世界。それは自分がいる世界でもあるはずなのに、決して手の届かない物のような気がした。 次の日から授業は通常通りに再開された。あの巨人が寄り掛かった校舎はさすがに立ち入り禁止となっていた。しかし、もともと収容人数には余裕がある、というより児童生徒の数が絶対的に少ない学校なので、大した手間もかからず別棟の校舎に教室を新しく用意できた。 3人の子供達も元気に通ってきている。トウジとケンスケが個人的に謝りに来た時は、何故かこちらが恐縮してしまった。子供達の前で感情を高ぶらせてしまった事で、少しばかり気恥ずかしい思いをしていた。 どうやらこの2人、自分達で相談の末、ヒカリにも謝ったらしい。マユミはその事にほのかな嬉しさを感じた。 マユミは、初めて子供達に手を上げた自分の掌を、時折じっと見つめるようになった。あの瞬間、自分の中で何かが変わった気がした。まだぼんやりとした手ごたえだったが、確実に分かっていることも一つ二つあった。彼女はそれを心の中にそっと留めた。 2、3日後から、シンジとレイも普通に登校して来た。例の3人は、シンジとレイに何か言いたげな表情をしきりに見せていたが、自分達から働きかけるまでには至っていないようだった。 あの日から1週間ほど経った日、心を決めたマユミは、下校しようとするシンジとレイの前に立った。廊下には自分達の他に誰もいなかった。 マユミは、2人を見下ろしたまま静かに言った。 「2人にお話があります」 ベッドの上の少年は肉体的な疲労のため、いつもよりやや早く眠りにつこうとしていた。 毎日のルーチンワークの一つとして、彼は眠る前に記憶の整理を行っている。この行動は誰かに訓練された物ではなく、彼自身の意識を形あるものとして維持するため、試行錯誤によって彼の無意識が導き出した物だった。 その日、彼に入力されたある情報、敢えて言語的な表現をするならば『低優先度命令』とでもいうべき概念に分類されるであろう情報の一つが、記憶の中から取り出された。 「あなた達が何をしているのか、させられているのか、私には分からない。多分、命がけの何かだと思う。とっても大事な何かだと思う。でも、私はあなた達に無事でいてほしい。大袈裟だけど、どんな時でも自分が生きる事を考えて。必ず、生き残る事だけを考えて。上手く言えないけど、これが、先生からのお願いです」 彼の精神内に構築されたフィルタによって、『不要』と判断されたその情報は、彼の意識の制御下にある記憶には収容されず、他の雑多な記憶と共にノイズとして意識の外に放り出された。 |