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<HEAD><TITLE>SpiCata　第七話</TITLE></HEAD>

<BODY bgcolor=#ffffff Text=#000000>

<BR><BR>
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<FONT SIZE=6>
<BR>SpiCata</FONT><BR><BR><FONT SIZE=5>第七話　二つの、光<BR><BR>
</FONT>
</CENTER>
<HR>
<CENTER><TABLE BORDER="0" WIDTH=80%><TR><TD>
<BR>
　夕方近くになってから、空は灰色に暗く翳り始めた。黴びた匂いを含んだ蒸し暑い空気が、間もなく降り始めるであろう雨粒達の兆しとなって感覚の隙間に入り込んでくる。<BR>
<BR>
　第３新東京市民間居住区に連なる住宅街の中、つい先日彼女がどこかの別人の名義で部屋を借りたマンションの茶色い外壁が見える。<BR>
<BR>
　膝上でカットされたジーンズから伸びる足がその歩みを止めた。<BR>
<BR>
　立ち止まった彼女の横を５、６人の小学生のグループがはしゃぎながら追い抜いて行った。<BR>
<BR>
　葛城ミサトは両手にビニールの買い物袋をぶら下げ、道路の真ん中で立ち止まって空を見上げた。袋一杯に詰め込まれた缶ビールが互いに押し合いへし合いして、軋むような音を立てる。<BR>
<BR>
　少し顔を傾け、ライトグリーンのＴシャツの肩口で頬の汗を拭った。サンダルから外した右足のかかとで、左足のふくらはぎをぽりぽりと掻く。<BR>
<BR>
　そのまま彼女は暗い雲が垂れ込める空をしばらく見つめていたが、頬に感じた雨の最初のひと粒を切っ掛けにして再び早足で歩き始めた。<BR>
<BR>
<BR>
<CENTER>──────────</CENTER><BR>
<BR>
　紫の巨人の背中は装甲が取り払われ、内側の生体組織がむき出しになっていた。真新しい人造皮膚が背に受けた数週間前の損傷をつぎはぎのように覆い隠している。<BR>
<BR>
　エヴァンゲリオン初号機はネルフ技術部棟内の実験用ケージに拘束されていた。前回の戦闘によって受けたダメージが完全に癒える間も与えられず、このような作業が行われているのは、それほど重要かつ緊急に確認すべき事項が存在しているせいだった。<BR>
<BR>
「各数値、変化ありません」<BR>
<BR>
　伊吹マヤが戸惑うような視線を時折隣に向けながら報告する。<BR>
<BR>
　マヤの横に立つ赤木リツコが見つめる制御卓埋め込みの小型モニタの中では、プラグスーツを身に着けた少年が、シートの上でそのぼんやりとした視線を彷徨わせていた。<BR>
<BR>
「触媒の交換効率をコンマ４上げてみて」<BR>
<BR>
　リツコの声にマヤが即座に反応し、キーをタイプする。色とりどりのグラフがうごめくモニタの中で、一部の色彩がオレンジから緩やかに赤方向へと変化していく。その様子をしばし見つめていたマヤが徐々に表情を曇らせ、小さく呟いた。<BR>
<BR>
「先輩……」<BR>
<BR>
　しばらく画面に見入っていたリツコは、やがて感情のこもらない声で命じた。<BR>
<BR>
「もういいわ」<BR>
<BR>
　映像の中の少年は、最初から最後まで死体のようにぴくりともしないままだった。<BR>
<BR>
<BR>
<CENTER>──────────</CENTER><BR>
<BR>
　綾波レイの隣が空席である事は、この教室では既に日常となっていた。<BR>
<BR>
　時折自分に物問いたげな視線を向ける山岸マユミには気付いていたが、少女が答えられることは極めて限られており、それはマユミも理解しているようだった。<BR>
<BR>
　少女はこの日も昼休みには読書を続けながら、椅子を寄せて話しかけてくる洞木ヒカリに時折頷いて返すという事を繰り返していた。<BR>
<BR>
　他のクラスメイトらもレイを遠巻きにしてはいたが、それほどの違和感も無くこの少女の存在を受け入れ始めていた。<BR>
<BR>
　ふと、レイの瞳が本の頁から離れ、窓の外に向く。誰かに呼びかけられたような気がした。当然ながらそこには何者も存在せず、グラウンドを走り回る子供達の小さな姿が遠目に見て取れるだけだった。<BR>
<BR>
　レイは視線を反転させ、主のいない隣の机の表面を見つめる。小さな引っかき傷が無数についている、ごく普通の机。何の変哲も無い光景の一つ一つが、レイに対して何かを訴え掛けていた。そんな幻とも錯覚ともつかない音無き声を、最近のレイは頻繁に耳にしていた。<BR>
<BR>
　それが内なる何かから発せられた声である事に、少女は気付きつつあった。<BR>
<BR>
<BR>
<CENTER>──────────</CENTER><BR>
<BR>
　少年は孤独だった。<BR>
<BR>
　しかし、その内的世界から自己と他者という概念が消え失せた彼が、孤独を理解する事は出来なかった。<BR>
<BR>
　とは言え、少年は生物としての機能を失ったわけでは当然無い。<BR>
<BR>
　彼は意識の内部に定義付けられた、生きるための行為を継続させていた。周囲に存在する事象に関する知識や、自らの体から意識に伝えられる種々の感覚が、少年にいくつかの行動パターンを緩やかに選択させ、彼自身の肉体を生きた状態に保ち続けている。<BR>
<BR>
　その少年の姿は他者にとって、全てのコミュニケーションを拒否し、何の意思表示もせずただ黙々と食い、眠るだけの単調なパターンを繰り返す、生きた機械以外の何物でも無かった。<BR>
<BR>
<BR>
<CENTER>──────────</CENTER><BR>
<BR>
　薄暗い部屋の中で、１台のモニタを数人の男女が取り囲み、そこに流れている映像に注意深い視線を向けている。<BR>
<BR>
　少年が照明の落ちた部屋でベッドの上に横たわっている映像、その同じ部屋の一角に設けられたテーブルについて食事を取っている様子などが、複数のウィンドウ上で並行して再生されていた。<BR>
<BR>
　未知の生命体、使徒によって一時的にではあるが物理的に侵食された碇シンジの姿がそこに映し出されている。彼は前回の戦闘の直後からこの特別病室の中に隔離され、この中から外に出る事を許されていなかった。完全に制御不能になったこの９歳の少年を、今までのように一般職員宿舎で生活させる事は論外だというのが、リツコ達の結論だった。<BR>
<BR>
　画面に映し出されている少年の振る舞いはどれも機械的だった。時折完全に動きが止まり、僅かのタイムラグの後に再び動き出す。一々じっくりと思案を重ねてからようやく行動に移っているかのような辿々しさが感じられた。もっとも、この少年が何を『考えて』いるのかを、誰も理解することは出来なかった。<BR>
<BR>
「だが、一応の行動パターンらしき物は存在しているようだが」<BR>
<BR>
　冬月コウゾウが、端末席でキーを叩くマヤの背後でモニタを見下ろしながら言った。彼の隣に立って同じくモニタを見つめているリツコが頷く。画面から発せられる光が彼女の眼鏡に反射した。<BR>
<BR>
「はい。生体を維持する上で不可欠と思われる行動……食事、睡眠、排泄等については極めて正確なサイクルを維持しています」<BR>
<BR>
　モニタの上に、ここ数週間のシンジの行動記録が表示される。１日を１５分毎に区切った表がずらりと並んだ。そこに記述された少年の行動内容は日によって変わる事は無く、判で押したような正確さを維持していた。リツコは画面を見つめたまま言葉を続けた。<BR>
<BR>
「問題は、それ以外の行動は決して起こそうとせず、私や担当医師の指示にも全く従わない、という点にあります。いくつか検査を行ないましたが、サードチルドレンは他人の存在そのものを『認識』できていない。そう結論せざるを得ません」<BR>
<BR>
　日向マコトはマヤの隣に置いた椅子に腰掛け、モニタの中の少年を注視しながらリツコの言葉に耳を傾けていた。彼は視線を上げて、リツコを見上げる。彼の口調にはどうにも理解に苦しむ、という感情が込められていた。<BR>
<BR>
「つまり……シンジ君が見ている世界に、我々は存在していないということですか？」<BR>
<BR>
　シンジの行動は極めて不可解な物と言わざるを得なかった。使徒との戦闘で負った傷がほぼ治癒した現在、彼は彼自身のルールに従い生きているように見えた。そこに他人からの意志や強制力が介入する余地は無く、彼に向けられたあらゆるコミュニケーション手段は全て無駄な努力に終わっていた。<BR>
<BR>
　この少年はこれまで大人達の命令には程度の差こそあれ、一応は素直に従っていた。しかし、今では誰の命令に対しても完全な無視で応えている。<BR>
<BR>
　シンジは誰の言葉にも従わず、かといって何かを主張することも無く、ただその小さな体を生き長らえさせる為だけに呼吸し、食い、眠っていた。<BR>
<BR>
　腹が減れば目の前に食事が現れる、眠気を催す頃にはベッドが整えられ部屋の明かりも消える。周囲の環境が自分の欲求に合わせて変化してくれることを、彼が当たり前だとか不思議だとか思うような心は持っていなかった。少年は何かをその意志で決定する訳ではなかった。その精神奥深くに刷り込まれた、ただ生きるため必要な行動を繰り返し続けているだけだった。<BR>
<BR>
　リツコは自分達の背後に置かれているホワイトボードに、マーカーで簡単な図形を描き始めた。大きめの円の中に更に１つの円を描き加え、ドーナツのような二重円が出来上がる。<BR>
<BR>
　内側の円の中心部に『ｓｅｌｆ』と書き入れる。次いで、外側から図形全体を指す矢印を引き、その横に『ｏｔｈｅｒｓ』と記した。<BR>
<BR>
「これは推測だけど、今のシンジ君は自分と他者を隔てている意識の外縁部……つまり、人と接しその間で生きる『人間』としての機能の一部が死んでいると、私は考えているの」<BR>
<BR>
　そうリツコは説明しながら、内と外の境界であるドーナツ部分を斜線で塗りつぶしていった。<BR>
<BR>
「しかし、シンジ君は表面上、自分自身の思考や判断で……その、人間らしく……行動しているように見えますが」<BR>
<BR>
　日向はモニタの中の、黙々と食べ物を口に運んだりベッドの上で目を閉じているシンジの映像を指した。彼の言葉にリツコも小さく頷き返す。<BR>
<BR>
「食事や睡眠等の生存本能に近い、心の中でも深いレベルに位置する機能であったが故に、その部分だけは使徒の侵食の影響から免れた……そう考えるのが、比較的自然な解釈の１つね」<BR>
<BR>
「使徒がヒトの心に影響を……？」<BR>
<BR>
　目を丸くする日向に、リツコはため息混じりの表情で応えた。<BR>
<BR>
「あくまでも仮定の話よ。正直、これに関しては分からないことだらけね」<BR>
<BR>
　そう言ってリツコはマーカーを放り出し、肩をすくめる。疑わしげな冬月の目がリツコに向けられた。<BR>
<BR>
「何とも都合の良い話だな。念のため聞くが、サードのこの行動が本人の狂言である可能性は？」<BR>
<BR>
「ゼロです。彼の心は極めて強く閉じられています。これは意志によるコントロールでは有り得ないレベルの物です」<BR>
<BR>
　リツコの答は淡々としていたが、確信に満ちていた。彼女が目配せすると、マヤが手元からプリントアウトを差し出す。一瞬眉をひそめた冬月だったが、やがてその書類に手を伸ばした。戸惑い気味の冬月に向かって、リツコが付け加える。<BR>
<BR>
「先日測定した、シンジ君のパーソナルパターンです」<BR>
<BR>
　冬月は受け取った紙束をめくり、その内容を注意深く追い掛けていった。やがて彼の指がぴくりと止まり、その視線がある一点をじっと捉えていた。<BR>
<BR>
「この結果は確かなのだな」<BR>
<BR>
「はい」<BR>
<BR>
　リツコはモニタの中で動く少年を見つめながら静かに言い切った。<BR>
<BR>
「サードチルドレンは、もはやエヴァ初号機にはシンクロしません」<BR>
<BR>
<BR>
<CENTER>──────────</CENTER><BR>
<BR>
　雨が本降りになる前に部屋に辿り着いたミサトは、薄暗いキッチンの床であぐらをかき、仕入れた缶ビールの山を冷蔵庫の中に詰め込んでいた。<BR>
<BR>
　傍らにうずたかく積まれた缶を眺め、少しばかり買いすぎたかと後悔したが、彼女は黙々と作業を続けていった。<BR>
<BR>
　結晶構造における原子配置と、冷蔵庫内部空間の効率的利用の相似。遥か昔リツコが冗談混じりに言っていた話を思い出して、ミサトは知らず知らず笑みを漏らしていた。<BR>
<BR>
　結局、缶を全て収めることはできずに３本程手元に残ってしまったが、夕食で十分消費できる範囲だった。ミサトは冷蔵庫の扉を静かに閉め、リビングに目を向ける。ベランダには激しさを増した雨が叩き付けていた。<BR>
<BR>
　床から立ち上がりながら、早速１本目の缶を取り上げてプルタブを引き、口をつける。<BR>
<BR>
　洗濯物がクリスマスの飾り付けのようにぶら下がっているリビングを抜けて窓に近付く。クッションに腰を下ろして、ガラスの向こうの雨を眺めながら再びビールを喉に流し込んだ。<BR>
<BR>
　雨はしばらく降り続きそうだった。<BR>
<BR>
<BR>
<CENTER>──────────</CENTER><BR>
<BR>
　ネルフ本部医療施設の中、ある病室の前にリツコと冬月が佇んでいた。２人は扉の中央部、丁度目線の高さに設けられた覗き窓から部屋の中の様子を見つめている。日向とマヤは各々の持ち場に戻っており、人通りのほとんどないこの場所は寒々とした空気に包まれていた。<BR>
<BR>
　照明が煌々と灯る下で、シンジはベッドの上に横たわっていた。天井に向けられた視線は微かに揺れているが、それも彼が何かに心を向けている証拠にはならなかった。<BR>
<BR>
　冬月は覗き窓から視線を外し、リツコの顔を見た。<BR>
<BR>
「結局の所、根本的な原因は分からない、という事か」<BR>
<BR>
「はい。前回の戦闘における使徒との……接触が影響しているのは間違いないと思いますが」<BR>
<BR>
　彼女は白衣のポケットの中で両手を軽く握った。自分の限界を認める事にやぶさかではないが、表現し辛い鬱積があることも事実だった。<BR>
<BR>
　冬月は再び覗き窓に顔を寄せ、少年を見つめた。心持ち細められた彼の眼差しが何を意味するのか、リツコは測りかねていた。部屋の中をじっと見つめたままの冬月の声には、突き付けられた事実と自分の感情を完全に切り離した、年令相応以上とも思える程の落ち着きがあった。<BR>
<BR>
「サードチルドレンのパーソナルパターンの変質。時間を置けば回復する種類の物ではない、という認識でいいのだな」<BR>
<BR>
　リツコは表情をやや険しくさせ、ゆっくりと頷いた。<BR>
<BR>
「前例が無いので何とも言えませんが、自然治癒の可能性を示唆する要素は今の所ありません」<BR>
<BR>
　小さくため息をついた冬月は、軽く首を振ると覗き窓に背を向け、通路からジオフロントに面した窓際へと歩み寄った。<BR>
<BR>
　この日のジオフロントに差し込む光は、地上の天候を反映するようにやや翳りのある輝きだった。しかし、それでも照らし出された人工森林の緑は目に鮮やかで、見つめる者の心を澄み渡らせていた。<BR>
<BR>
　通路の窓からジオフロントの眺望を眩しそうに見つめながら、冬月は独り言のように呟いた。<BR>
<BR>
「しかし、人の心と言うのは不思議な物だ。彼は周囲の世界を認識しその中で行動し、確かに生きている。それにもかかわらず、彼の心には他人が映っていないとはな」<BR>
<BR>
　冬月と並んで外界に視線を向けながら彼の言葉に耳を傾けていたリツコは、何かを心に決めた表情で口を開きかけたが、すぐにその言葉を呑み込んだ。<BR>
<BR>
　たまたま通りかかったナースが会釈をしつつ、２人の後ろをすり抜けていった。彼女が十分離れてからリツコは左右に視線を向けて誰もいない事を確かめると、改めて口を開いた。<BR>
<BR>
「検査の過程で気付いたのですが……１つ、気になる点が」<BR>
<BR>
　リツコのその声に込められた重みを感じ取った冬月が、ちらりと彼女の横顔に目を向ける。窓の外を見つめたまま、リツコは声を低めた。<BR>
<BR>
「シンジ君の精神は、その根幹部分から『人為的』に形成された可能性があります。教育や暗示という表面的な操作ではなく、彼の心そのものが何者かによってプログラムされたアルゴリズムの集合体である、という仮定が成立し得る証拠が幾つか出ています」<BR>
<BR>
「ヒトの脳が、任意に書き換え可能な記録媒体として成立するとは思えないがね。赤木博士」<BR>
<BR>
　懐疑的な冬月の言葉にも、リツコは動じなかった。彼女は冬月の方に向き直り、まっすぐに視線を合わせた。長身の冬月が見下ろすリツコの表情には、彼の記憶の中にある彼女の母親の面影が微かに混じっていた。<BR>
<BR>
「副司令。技術部として、『マルドゥック機関』についての情報閲覧許可を正式に請求します。シンジ君の心に何が起きているのかを知る為には、その育成過程において彼の精神に対して何が行なわれたのかを知る必要があります」<BR>
<BR>
「却下する」<BR>
<BR>
　リツコの言葉を予想していたかのように、冬月は言下に切って捨てた。<BR>
<BR>
「マルドゥックは最高レベルの機密事項だ。この場で名前を出すだけでも情報保護条項に抵触しかねない程のな。どの道、私に書類が回って来た時点で、君の請求は棄却される」<BR>
<BR>
　冬月にしては珍しい程に高圧的な物言いだったが、リツコは諦め切れなかった。<BR>
<BR>
「しかし、今後の使徒への対策にも支障が」<BR>
<BR>
「これ以降、使徒迎撃においてサードチルドレンを戦力として考える必要は無い。碇には私から話しておく。いいな」<BR>
<BR>
　リツコの答を待たずに、冬月は背を向けるとその場から立ち去っていった。ぽつりと残されたリツコは俯いたまま、病室の前からしばらく動こうとしなかった。<BR>
<BR>
<BR>
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<BR>
　その少女は、隔絶された環境で働く皆の心を和ませる存在だった。<BR>
<BR>
　高度な技術者集団である彼らの中では、まだ１４歳の彼女が貢献できる作業はほとんど無かった。それでも、少女は彼らの希望と未来の象徴だった。<BR>
<BR>
　その重大性から、一般大衆には事情を伏せられた中で進められるプロジェクト。作り上げようとしている物は人類の未来そのものだった。この仕事に携わる人間は、皆その目標に向かって惜しみない努力を続けていた。誰もが自分達の前に開けている明るい未来を疑わず、この世界はいつまでも続く物だと信じ切っていた。<BR>
<BR>
　しかし、最後の日は唐突にやって来た。<BR>
<BR>
　嵐、などという生易しい物では無かった。大地そのものが叫ぶように震え、大気の巨大な塊が絶えまなく叩き付けられる。頑強な構造を持つ筈のこの施設が容赦なく揺さぶられていた。音として認識することも困難な程の轟音が、確実な終末を告げるラッパの音としてそこに居合せた者の心を恐怖で満たしていった。そして、この未曽有の現象ですら、これから始まる災厄の規模に比べれば前座にも値しないことを彼らは知っていた。<BR>
<BR>
　少女は自分が何故このような深い傷を負ったのかまるで覚えていなかった。気付いた時には、痛みを感じる事も出来ない程に衰弱している自分がいた。一定のリズムで揺られている感覚の理由を確かめる為、鉛よりも重くなっている瞼をゆっくりとこじ開けた。<BR>
<BR>
　少女は、自分が父の大きな両手に抱き上げられ、どこかに運ばれていることを知った。抱えられた腕の中から見上げる父の顔の後ろに、天蓋が無惨に引き剥がされ鉄骨だけになった巨大な屋根の成れの果てがあった。その先には、分厚い黒雲と赤い閃光が複雑に絡まりあい渦巻く、今まで見た事も無い空が広がっていた。どうしようもない恐怖から心を守る為に、少女は再び目を閉じた。<BR>
<BR>
　やがて、自分が何か狭い箱のような物の中に横たえられるのを感じた。同時に、頬の上に何かが落ちてくる。その感覚の源を確かめようと、少女の瞳はおずおずと再び開かれた。彼女が視界に捉えた物は、背後から射し込む光の中で影になった父の顔だった。霞んで行く意識の中で、父の顔だけがはっきりと心に焼き付いていった。『もう二度と会えない』というその直感が、極限状態にある少女の感覚を一時的に研ぎ澄ませていった。<BR>
<BR>
　少女は自分の頬が生暖かい物で濡れている事に気付いた。<BR>
<BR>
　父のこめかみから滴り落ちる赤い液体と、自らの両の瞳からあふれる雫が頬の上で混じり合っていた。何かを伝えなければという衝動だけが一気に膨らみ、彼女は唇を開いた。しかし、そこから言葉が出る事は無く、か細い呼吸音が途切れ途切れに漏れるだけだった。<BR>
<BR>
　その声にならない声に答えるように父の唇が小さく動いた。しかし、薄れゆく彼女の意識と、更に強さを増した前兆活動に刺激された大気の震動が起こす轟音が、少女がその言葉を聞く事を妨げた。<BR>
<BR>
　父は小さく微笑むと、少女の頬を濡らす物を指でそっと拭った。手袋越しでもその指先の暖かさを感じ取れたような気がした。<BR>
<BR>
　あちこちに裂け目が出来ている防寒着を着た少女の胸の上に、父が鎖のついた何かを置いた。少女は反射的にそれに手を伸ばし、その堅い手触りが意味する物を知った。<BR>
<BR>
　頭の上の方で何かが作動する音が鳴り、金属製のハッチが目の前で速やかに閉じられる。少女の視界は完全に闇で覆われ、渦巻いていた轟音も壁の向こうに遠ざかった。その瞬間、自分の中から何かが抜け落ちていった。それが決して元に戻る事のない喪失である事だけは理解出来た。<BR>
<BR>
　ミサトは、そこで目が覚めた。<BR>
<BR>
　身動きすることなく目だけを薄く開けて、自分が今いる場所を確かめる。やがて、クッションの上で丸めていた体をゆっくりと起こした。下にしていた側の頬がやけに冷たくなっていた。<BR>
<BR>
　久しく思い出さなかった記憶が呼び覚まされた事で、心地よい酔いが一気に醒めていった。座卓の上に無造作に置いてある十字架のアクセサリーを、淀んだ視線でしばらく眺めた。<BR>
<BR>
　やがて床に転がる４、５本の空き缶に目を移し、疲れ切ったように顔を両手で上下にこすった。壁に掛けた時計の針は真夜中の２時を指していた。彼女はため息をついて、シャワーでも浴びようと立ち上がったが、少しふらついた。壁に手をついて、小さく悪態をつく。その拍子にふと、窓の外に目が向いた。<BR>
<BR>
　雨はいつの間にか止んでいた。<BR>
<BR>
<BR>
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<BR>
　彼はハッチの開口部に手をかけて、体をその金属円筒の中に滑り込ませた。円筒体の内側に満たされた液体に体が沈降していく感触と共に、細かな泡が彼の体の周囲にまとわりつき、すぐ消えていく。彼に続いて、もう一人の人影が同様に液体の中に体を躍らせる。<BR>
<BR>
　白い光沢のある素材のダイバースーツに似た物を着用した２人の人間が、僅かにオレンジ色がかった液体の中に体を沈めて行く。アクアラングも装備していない彼らだったが、この液体の中ではそれは元から不要な物だった。そもそも彼らの装備は潜水用ではなく、あくまでも医療行為に用いられる事を前提として用意された物だった。<BR>
<BR>
　肺がＬＣＬで満たされるにつれて、液体の中にいるという違和感はすぐに消えた。僅かな浮力を感じつつ、内壁に手をつきながら彼はゆっくりと下に体を移動させていった。さして広くないその円筒体のほぼ中央にある、緩やかな曲面を持つ硬質部品で構成されたシートの横に回り込んで、彼は口を開いた。<BR>
<BR>
「気分はどうかな」<BR>
<BR>
『問題ありません』<BR>
<BR>
　彼の問い掛けに対して僅かの間を置く事もなく、惣流・アスカ・ラングレーは答を返した。少女はいつもと同じようにシートの上で、左腕を失ったその小さな体を横たえていた。青い瞳は右側だけ開き、医師の方を向いている。閉じられた左目の周辺、直線的な網目模様状に硬質化した灰色の皮膚の様子が、彼の目にも良く分かる距離だった。<BR>
<BR>
　その医師は自分が担当するこの少女の声が合成音声であることを知っていた。それでも、職業人として彼の体に染み付いた無意識の習性が、少女の音声から体調を読み取ろうという無駄な行為をさせていた。<BR>
<BR>
　無表情を保っている少女の肌の色つやを確認しながら、彼は彼女の体全体を眺め渡した。当然ながらその赤いプラグスーツはどこにも異常は無かった。左腕が存在するはずのスーツのパーツは無く、その左肩の断面を覆う円形のプレートだけが無機的な銀色を見せている。<BR>
<BR>
　医師はアスカの下半身を丸ごと覆っているプレートの脇に回り、埋め込み型のタッチパネルに指を触れさせた。低い電子音と共に小さな液晶がほの暗く光る。そこに表示されている各種機器の動作情報が、全て正常範囲に収まっている事を確認した。<BR>
<BR>
　アスカの体調を検査するだけならば、エヴァ弐号機のエントリープラグの中に医療スタッフがわざわざ入る必要性はあまり無かった。前回の戦闘による後遺症も存在しない事が既に確認されていた。<BR>
<BR>
　医師が同じく白いダイバースーツを身に着けたナースに頷きかける。ナースが軽く頷き返すと、短かめに揃えられた彼女の前髪がＬＣＬの中で軽く揺れた。狭いプラグ内部でのポジションを彼女と交代する時に、やや扇情的なボディラインに思わず彼の目が向く。体の線がくっきりと出るこの作業は目の保養だなと、同僚に羨ましがられていたことを思い出して彼は苦笑いした。<BR>
<BR>
　ナースは腰に付けたポーチから片方の刃が櫛状に加工されているハサミを取り出した。彼女は反対側の腰に下げていたバキュームタイプの小型クリーナーを左手に持ち、アスカの脇に回った。<BR>
<BR>
「それじゃ、ちょっとだけ動かないでね」<BR>
<BR>
『はい』<BR>
<BR>
　アスカの返事に微笑み返し、彼女は少女の赤茶色の髪を小さな櫛で梳きながら、少しずつ毛先を切り揃えて行く。毛髪の切れ端がクリーナーの中に吸い込まれていくのを横目に見ながら、医師は携帯情報端末を取り出してこの日の所見を入力していく。<BR>
<BR>
　ペンの先端が液晶に触れる度に小さく電子音が鳴る。画面上、それぞれの項目に『異常無し』のマークが付けられていった。<BR>
<BR>
（『異常無し』……か）<BR>
<BR>
　それはどこか皮肉な表現に思えた。最先端の医療技術が投入されているチルドレンについて、どんな些細な身体異常も見逃される事はない。一般的な９歳の子供と比較して数百倍の人的及び物的資源がチルドレンの健康維持に割かれている筈だった。<BR>
<BR>
　特にアスカの場合はその体の特殊性から、ただ生きるだけでも小規模な工業プラントに匹敵するコストが必要とされていた。しかし、それは惣流・アスカ・ラングレーという個人の命の尊さを示す指標では無く、この少女が戦う事で間接的に守られる人命や経済的資産の大きさを表す物でしかなかった。<BR>
<BR>
　人智を超えた何かに対抗する為だけに、この子供達は生かされていた。自分のような単なる末端の一職員には、それが未知の生命体であるとしか聞かされていなかった。だが、この組織で働く時に交わした、厳重な守秘義務を謳った物騒な宣誓契約書から、それが極めて危険な存在であることはおぼろげながら感じていた。<BR>
<BR>
　事実、サードチルドレンは前回の戦闘で肉体及び精神にかなりのダメージを受けたと聞いている。自分は直接の担当では無かったが、伝え聞く所によればサードは今では特別病室に完全隔離されているという事だった。<BR>
<BR>
　ふと、彼は実家にいる兄夫婦とその息子を思い出していた。甥っ子はちょうどこの少女と同じ年頃の筈だった。最近はろくに連絡も取っていない家族の顔が脳裏にちらつき始めた。昔は良かった、と自然に考えてしまった自分に苦笑したものの、心に浮かんで来る過去の情景を無理に振りほどく事はしなかった。彼は端末への入力の手を止め、セカンドインパクトが発生する前、自分が子供の頃に見た故郷の記憶を思い起こしていた。今はもう想像の中にしか存在しない雪景色が妙に懐かしくなる。<BR>
<BR>
　ハサミが少女の髪を切り落とす音で現実に引き戻された彼は、アスカの方をちらりと見た。少女は軽く頭を前に傾け、静かに視線を正面に向けている。この少女の目は常に平静を保ち、子供らしい感情の起伏などという物を感じさせることは無かった。そういう意味では実に扱いやすい子供だった。<BR>
<BR>
　ありがちな子供の我がままに頭を悩ませる必要が無いのは歓迎すべき事の筈だったが、どこか割り切れていない自分が心の隅に存在していた。<BR>
<BR>
　それがこの組織で働く人間の多くが感じている、子供達に対する後ろめたさだというのは分かっていた。そして、同時にそれが自分を慰める為の誤魔化しでもあることに彼は気付いていた。<BR>
<BR>
　仕方ない、と彼は自分に言い聞かせる。この少女を物理的に生かし続ける事、それだけが自分の仕事だ。それが人類の為だと。<BR>
<BR>
　彼は液晶の表面で点滅する『異常無し』のシンボルをペンで叩き、メモリーへの入力を確定させた。<BR>
<BR>
<BR>
<CENTER>──────────</CENTER><BR>
<BR>
　地面に設置された投光機から伸びる幾筋の光が、夜の森の中で立ち上がる青い巨人の姿を照らし上げている。<BR>
<BR>
　エヴァ零号機は右手を軽く握っては開く動作を、確かめるようにゆっくりと繰り返していた。<BR>
<BR>
　レイは零号機の視覚を通してその巨大な手が動く様子を見つめていた。シンクロ状態独特の感覚を確認しながら、少女は視線を上げた。零号機も少女の意志を反映してその顔を僅かに回してレンズのような単眼を闇の向こうにそびえるピラミッド状構造物、ネルフ本部施設に向けた。<BR>
<BR>
　エントリープラグの中でレイは穏やかな表情を保ち続けている。発令所から逐一伝えられる指示に従って零号機を動かすこの作業は既に１時間近く続けられていた。<BR>
<BR>
　機能チェックモードで動作しているオペレーティングシステムが、全方位モニタのあちこちに情報ウィンドウを開いて詳細な稼動状況をリアルタイムに吐き出していた。無数のウィンドウに囲まれたままシートに座る少女にそのデータの渦はまるで理解できなかったが、それをチェックするのは自分の仕事では無い事も知っていた。<BR>
<BR>
『レイ、シンクロに違和感は無い？』<BR>
<BR>
「はい。問題ありません」<BR>
<BR>
　通信機からのリツコの問い掛けに、レイは平坦な口調で返した。<BR>
<BR>
　エヴァ零号機は夜のジオフロントで、大幅な装備改修による機体への影響調査を兼ねた動作試験を行なっていた。本来ならばシミュレーターで済ませる作業だったが、シンジ、つまり初号機が戦線離脱に追い込まれた事によって皮肉にもスタッフと資材の運用スケジュールに余裕が生まれていた。それに加えて、零号機と弐号機の２体のエヴァのみで使徒を迎撃しなければならないという状況では、実戦で万に一つも間違いがあってはならないというリツコの考えもあっての実機動作試験だった。<BR>
<BR>
　発令所からその様子を見守っているリツコが、オペレートを行なっているマヤに訊ねる。<BR>
<BR>
「どう？」<BR>
<BR>
「悪くありません。出力バランスも取れています」<BR>
<BR>
　モニタの上で複雑に波打つグラフや数式の流れに目を落として、リツコは小さく頷いた。初号機があてにならなくなった現状で、零号機の安定したスペックアップは何よりの好材料だった。<BR>
<BR>
　基本的にこの手の作業には関係ない日向と青葉シゲルが、その様子をコーヒー片手に横から眺めていた。<BR>
<BR>
「シンジ君、どうなるんだろうな」<BR>
<BR>
　青葉がコーヒーをすすりながら日向を見る。カップの中に残る液体を揺すりながら、日向はぼんやりと答えた。<BR>
<BR>
「エヴァにシンクロしない以上、実戦どころか実験にも使えないだろうね」<BR>
<BR>
「じゃあ、初号機は？」<BR>
<BR>
「機体は特に問題無いんだから、使わない手は無いと思うけど……」<BR>
<BR>
「フォースが選抜される？」<BR>
<BR>
「さあ」<BR>
<BR>
　日向はそう言って、リツコを見上げた。つられて青葉も彼女の顔を見る。２人の視線を感じたリツコが、主モニターに映る零号機を見つめたまま口を開いた。その彼女の視線は普段の冷たさに加えて、鋭さのような物も増しているように日向には思えた。<BR>
<BR>
「今はまず、零号機と弐号機の調整が先ね。シンジ君と初号機については……未定よ」<BR>
<BR>
　前回の戦闘で左足を失ったエヴァ弐号機の修復作業は最優先で行なわれていた。使徒によって大きな損害を被ったものの、アスカと弐号機が見せた戦闘能力は予想を大幅に上回る物であり、使徒迎撃の主戦力としてトップの優先度を与えられる事は当然の結果だった。<BR>
<BR>
　並行して使徒についての解析も行なわれていた。使徒からの侵食を受けた弐号機の左足は一部をサンプルとして保存し、残りは完全に廃棄された。幾つかの部位に分割されたサンプルはそのままネルフドイツ支部とアメリカ支部に輸送され、そこで分析が行なわれることになっていた。使徒の本質に迫りうるかもしれないこの重要な作業を敢えて本部で行なわなかった理由は、残骸とは言えかつて使徒だった物をジオフロント内部に保管することの危険性を考慮した結果だった。<BR>
<BR>
　リツコは是非自分自身で分析を行ないたいと上申したが、ゲンドウと冬月はそれを一蹴した。今は傷付いたエヴァを完全な形で再配備することが最優先事項であり、その為にはリツコが他の作業に時間を取られる事は避けなければならない、という彼らの弁は至極正論であり、彼女も引き下がるしかなかった。<BR>
<BR>
　リツコはマヤの背後から画面を覗き込んだ。<BR>
<BR>
　エヴァ零号機の内部計測装置からＭＡＧＩへと送られ蓄積されて行く大量の情報が、マヤの操作する端末モニタの上を滝のように流れていく。<BR>
<BR>
　あらかじめ設定されたいくつかの挙動パターンをこなしていく零号機には、運動前の準備体操をしているような人間臭さがあった。それはパイロットとエヴァの間における連携の深さの指標であり、取りも直さず零号機の調整が順調である事の証だった。<BR>
<BR>
　この夜に予定していた試験項目もほぼ消化できる見通しがつき、リツコはほっと一息ついて主モニターを見上げた。ふと、通信ウィンドウの中のレイの視線がどこか余所に逸れていることに気付いた。<BR>
<BR>
「レイ、どうかしたの？」<BR>
<BR>
『いいえ』<BR>
<BR>
　リツコは零号機の映像に視線を向けた。闇の中に浮かび上がる青い巨人はその頭を巡らせて、顔の中央にある単眼を本部施設の脇に建つビルに向けていた。それは使徒迎撃には直接携わる事のない、いわゆる一般職員の勤務するスペースや医療施設などの比較的重要度の低い設備が集められている建物だった。<BR>
<BR>
　少女が何を見つめているのか、リツコには分かるような気がしていた。リツコはマヤの耳元に顔を近付け、小さく呟いた。<BR>
<BR>
「マヤ。レイにシンジ君の事、何か教えた？」<BR>
<BR>
「いえ……？」<BR>
<BR>
　マヤは訝しげにリツコを見上げた。<BR>
<BR>
「そう」<BR>
<BR>
　少しの間考え込んだリツコは、何事も無かったように口を開いた。<BR>
<BR>
「レイ、続けるわよ」<BR>
<BR>
『はい』<BR>
<BR>
　少女は自分の視線を惹き付けた物の正体を考える事を中断し、再び単調な作業へと心を戻した。<BR>
<BR>
<BR>
<CENTER>──────────</CENTER><BR>
<BR>
　淡い青が漂う闇の中、アスカは目を覚ました。<BR>
<BR>
　時刻表示を見ずとも、起床時間までには多少間がある事を正確に把握していた。少女はゆっくりと体をシートから起こすと、手元の操作パネルに指を軽く触れた。エントリープラグ内部の照明レベルが一段階上がる。<BR>
<BR>
　つい今しがた自分の心に浮かび上がったイメージについて考えを巡らせる。コントロールされた睡眠の中、自分の意思とは完全に無関係なプロセスを経て生まれたそのイメージ。それは彼女に自分自身の心が異常をきたした可能性を考慮させるほどイレギュラーな出来事だった。<BR>
<BR>
　自らの意識をほぼ完全に制御できる少女には、意図しない精神活動によって記憶や思考が無秩序に連結されるという現象は無縁の筈だった。<BR>
<BR>
　少しずつではあるが、自分の中に確かな変化が起きていることは感じていた。<BR>
<BR>
　それが前回の戦闘で使徒との『接触』によって生じた物だと言う確信もあった。少女の堅牢な意識をいとも容易く蹂躙したあの異質の意思は、彼女の心の中に不可逆な変化をもたらしていた。<BR>
<BR>
　それでもアスカにとって『心』とは十二分に制御可能な概念であり、自分自身をより効率的に運用するためのツールの１つでしかなかった。<BR>
<BR>
　自分が存在するただ１つの理由である、エヴァをもって使徒を消し去る。その為だけに少女は生き、感じ、考えていた。アスカにとってはそれが全てだった。<BR>
<BR>
　人類に仇なす者への憎しみでもなければ、自らの功名心でもない。世界を守るという発想すら皆無だった。使徒が自分にとって敵と味方どちらに分類されるのかさえ考えたことは無かった。より正確に言うならば、善悪や敵味方という概念は少女にとって理解不可能であると同時に、全く不必要な物だった。<BR>
<BR>
　少女はパネルを叩き、再びエントリープラグの中を闇で満たし、シートに体重を預ける。ゆっくりと瞳を閉じて呼吸を整えた。<BR>
<BR>
　高い秩序性を保っている筈の、その少女の心。そこに不意に現れた『少年』のイメージは、今のアスカには全く必要の無い物であり、彼女はそれを意識の中心から離れた場所へと追いやった。そして少女は再び短い眠りについた。<BR>
<BR>
<BR>
<CENTER>──────────</CENTER><BR>
<BR>
「さて」<BR>
<BR>
　その男の言葉は常に力を持ち、それを聞く者に対して少なからぬ畏怖を抱かせている。<BR>
<BR>
「いささか憂慮すべき状況に陥りつつあるな」<BR>
<BR>
　キール・ローレンツは両手を体の後ろに回したまま、暗闇の中に立っていた。重々しい口調で言葉を続ける彼は、その唇以外は全く動かさずにいた。それにもかかわらず、彼が頭部に着用しているアイマスク状の器具から感じられる視線は、周囲に立つ老人達に強い圧力を感じさせていた。<BR>
<BR>
　円を作るように立ち並んでいる老人達の中央に２枚の映像ウィンドウが浮き上がる。<BR>
<BR>
　青空の下、装甲のあちこちを損傷した紫の巨人がビル街の中を大型クレーンで牽引されていく様子と、真っ白なベッドの上で人形のように横たわる少年の姿が映し出された。<BR>
<BR>
「エヴァンゲリオン初号機専属操縦者、碇シンジ。適格者たる資格を事実上喪失……か」<BR>
<BR>
　キールの言葉に老人達が小さく息をつく。このメンバーの中では比較的若い部類に入る外見を持つ男が、映像を見つめる視線を鋭くした。黒々とした口ひげとがっしりした体つきに似合う野太い声が静かに響く。<BR>
<BR>
「この段階で使い物にならなくなるとはな」<BR>
<BR>
　彼の対面に立つ小柄な老人が骨張った細い人さし指で丸眼鏡の位置を直し、唇の端を上げて皮肉じみた笑みを浮かべる。<BR>
<BR>
「我々の行動表も、切り詰める場所がそろそろ無くなって来たよ」<BR>
<BR>
　やや不謹慎に思える彼の冗談めかした口調に、口ひげの男は鼻を鳴らした。<BR>
<BR>
「ふん。我々とて全能では無い。使徒への対策はネルフに任せるほか無かろう。彼らで無理なら、他の誰であろうと無理なのだからな」<BR>
<BR>
「歯痒いね……やはり、ヒトの手には大きすぎる仕事のようだな」<BR>
<BR>
　束の間の沈黙が場に流れ、老人達はそれぞれ複雑な思いを抱えた表情で映像を眺めた。一般人から見ればありえない程の長い年月を共有してきた彼らの間には、それほど多くの言葉は必要では無かった。<BR>
<BR>
　キールが僅かに俯いていた顔を上げる。その微かな仕草に周囲の老人達の視線が集まった。<BR>
<BR>
「如何に困難な道であろうと、我々が立ち止まる事は許されない」<BR>
<BR>
「かといって、今更シナリオを書き直す猶予も無かろう」<BR>
<BR>
　口ひげの男が肩をすくめ、周りを見回した。<BR>
<BR>
　沈黙の中、老人達は互いに視線を合わせ、相手の思考を測った。自分達は確かに運命共同体ではある。しかし、それがそのまま揺るぎない結束を意味する訳では無いということも、暗黙の了解として彼らの胸の奥に横たわっていた。<BR>
<BR>
　老人達が人類の導き手として存在することを可能にしている要素の１つである、偏執的なまでの思慮深さ。それがこの場にとげとげしい沈黙を生み出していた。<BR>
<BR>
　全てを断ち切るように、キールの声が重く響いた。<BR>
<BR>
「初号機には、予備を回す」<BR>
<BR>
　止むを得ない、といった表情と視線が老人達の間に交わされる。丸眼鏡の老人がその瞳を更に細め、キールを見やる。<BR>
<BR>
「アダムのサンプル紛失の件はどうするね」<BR>
<BR>
　キールが口を開くより先に、口ひげの男が答えた。<BR>
<BR>
「さしたる問題ではない。結局のところ碇が何を企てようが、ネルフは使徒を処理し続けなければならぬ。そしてそれは我々のシナリオ遂行を妨げる要素には成り得ん」<BR>
<BR>
「とは言え、ネルフが我々のコントロールを離れつつあるのは楽観できかねる事態だよ」<BR>
<BR>
　丸眼鏡の老人は声の主に顔を向け、わずかな冷ややかさを加えた声で応じる。そして、彼は言葉の終わり際にさりげなくキールに視線を向け、無言の問いを投げた。<BR>
<BR>
「碇には釘を刺しておく」<BR>
<BR>
　低く呟いたキールの視線は、中空に投影されている少年の映像に向けられていた。<BR>
<BR>
<BR>
<CENTER>──────────</CENTER><BR>
<BR>
　葛城ミサトは自分を小説やら映画の主人公と勘違いしたことは一度たりとも無かったが、いくつかの場面においてなら大抵の人間よりも上手く立ち回れる自信はあったし、事実そのような結果も十分残していた。<BR>
<BR>
　超法規的特権を振りかざして世界中に睨みを利かせている某特務機関の調査網を、鼻歌交じりにかいくぐりながらそのお膝元で虎視眈々と次の機会を狙っているつもりだった。<BR>
<BR>
　ミサトがこの部屋に住んでいる事はおろか、第３新東京市にとどまり続けていることすら、誰にも知られていない筈だった。注意深く自らの痕跡を消しながら行動する習慣が身に着いている彼女は、とある経路で手に入れた偽の身分を使ってこの部屋を借りていた。事実、この時点ではネルフの情報網でさえ彼女の正確な所在を掴めていなかった。セカンドインパクトによる社会システム破綻の名残りが、組織的な追跡から個人が逃れる事を比較的容易にしていた。<BR>
<BR>
　しかし、自分のマンションのリビングの床に転がされ、両手を背中で拘束された今の状況を客観的に見る限り、自分自身に対する評価を少々、というより大いに修正する必要があると仏頂面で考えていた。<BR>
<BR>
　男達はその図々しさとは裏腹に、ほとんど物音も立てず無駄話もせず静寂の中で淡々と仕事を続けていた。金や女目当ての侵入でないことは明白だった。ミサトが彼らに気付いたきっかけは音も無く開いたドアを通じて伝わってきた、昼下がりの住宅街を覆う穏やかな喧騒の気配だった。はっと振り向いた時には既に４名のダークスーツ姿の男が滑るようにリビングに入り込み、ミサトの両腕と口の自由を奪おうとしているところだった。<BR>
<BR>
　彼らがミサトを床に押し付けて両腕を極細の特殊テープで縛り上げている最中に、やせぎすのおよそ荒事とは無縁に見える男が玄関口に現れた。彼は他の男たちとは異なり、きちんと靴を脱いでから部屋に入って来た。こういう礼儀をわきまえた人間は最後に殺してやろうと、床に這いつくばらされたミサトが心に留めていると、彼はおもむろにリビングの座卓の前にあぐらをかいて座った。男は彼女が使用しているノート型ＰＣの電源を入れ、システムが立ち上がるまでの短い間、ちらりとミサトに視線を向けた。<BR>
<BR>
「御父上は幾つかの点で間違いを犯していました」<BR>
<BR>
　一呼吸置いて、彼は画面に目を戻す。トラックパッドを操作する指使いは滑らかで迷いが無く、男の人間性の一端を表しているようにもミサトには思えた。<BR>
<BR>
「彼の提唱したスーパーソレノイド理論は、任意の次元に拡張されたブラウニング空間における全ポリフォトン間の動的な相互干渉パターンを数学的に記述可能にする物です。ただ、既存の理論からの乖離があまりにも大きく、少しでも正気を持ち合わせている研究者からは完全に黙殺されました」<BR>
<BR>
　ミサトの経験上、このように日常会話の中で日本語を使おうとしない人間は、いわゆる学者という生き物に分類してまず間違いなかった。彼女の不機嫌そうな表情を一瞥すると、男は軽くキーボードに指を走らせる。彼は画面を眺め、わずかな感心をその眉間に浮かべた。<BR>
<BR>
「この暗号化されている文書は？　貴方と志を共にする協力者達の名簿ですか？」<BR>
<BR>
　男の指摘は図星以外の何物でもなかった。それはミサトがかつて利用していた匿名の情報提供者達のリストだった。<BR>
<BR>
　現在では彼ら全てと完全に連絡がつかなくなっていた。多くはセカンドインパクトの真実を知ろうとするミサトに対して大いに、あるいは一部賛同した善意のボランティア達であった。従って彼らが事前連絡無しに手を引く事は十分考えられたし、それはむしろ当然のことだとミサトは考えていた。しかし、こうも一斉に潮が引くような動きを見せられると、何か外部からの物騒な働きかけを連想せざるを得なかった。<BR>
<BR>
　連絡を絶った内の何人かは、すでにこの世には存在していないだろう、とミサトは推測していた。ネルフに関わる以前には半信半疑だったが、今では自分が探している知識がこの世界においてずば抜けて危険な代物であることをミサトは確信していた。そして、それだけのリスクを覚悟の上で皆がそれぞれの真実を求めていた。<BR>
<BR>
　それはともかく、男の問いにミサトは殺気立った視線を返しただけだった。彼は無理も無いといった様子で小さく頷くと、ＰＣの液晶を閉じた。<BR>
<BR>
「まあいいでしょう。上の連中はスパイ狩りをしたいようですが、私が知りたいのは貴方自身の言葉でして」<BR>
<BR>
　床に転がるミサトに向かって、男はどことなく困ったような笑みを浮かべる。そしてすぐ思い出したように、ああ、と声に出して頭をかいた。<BR>
<BR>
「失礼。実は私、日本政府の某機関に所属する者でして。本日は葛城さんに是非ともご助力願いたい案件がありまして、お伺いさせて頂きました……ああ、そこの君。拘束を解いて差し上げてくれないか。これでは話もろくに出来ない」<BR>
<BR>
　彼は振り返って奥の寝室を物色しているスーツの男にそう声をかけた。やや渋っている様子だったが立場的はどうもこちらの男が上らしく、やがてミサトの両腕を固定していたテープはすっぱりと断ち切られた。<BR>
<BR>
　やれやれとため息をついて床から体を起こしたミサトは、男と同じように座卓の前にあぐらをかいた。体は自由になったものの、力でこの連中を捻じ伏せることは全く選択の外だった。どうあがいても、この組織化された集団に自分ひとりで対抗することは無謀の極みにしか思えなかった。<BR>
<BR>
「で、私に何ですって？」<BR>
<BR>
　種々の思いが混じりあった末の怒り心頭という調子を隠そうともせず、ミサトは尋ねた。<BR>
<BR>
「単刀直入に申し上げましょう」<BR>
<BR>
　男はミサトに淡々と告げた。<BR>
<BR>
「我々は、ネルフを日本政府の直轄組織として再編したいのです」<BR>
<BR>
<BR>
<CENTER>──────────</CENTER><BR>
<BR>
　空調装置や作業機械から発せられる作動音が、ケイジの中で複雑に反響しあい低い唸りを生み出している。赤い冷却液に肩まで浸された深紅の巨人がその４つの目で見下ろす先に、リツコとマヤが佇んでいた。<BR>
<BR>
　エヴァ弐号機の修復作業はほぼ完了していた。最も懸念されていた左足パーツの完全交換も特に大きなトラブルも無く終わり、戦力不安を抱えた状況での使徒襲来に怯えていたネルフ内部の雰囲気も幾分和らいでいた。<BR>
<BR>
　弐号機の目の高さで固定されている金属製の足場の上で、リツコは滑らかな曲線で構成された巨人の顔を見つめていた。リツコは弐号機から視線を外す事無く、隣に立つマヤに問い掛けた。<BR>
<BR>
「ポジトロンライフルの方は？」<BR>
<BR>
「試作モデルは先日組み上がりました。現在、高負荷時の特性をラボで確認中です」<BR>
<BR>
　リツコは視線を横に向け、ケイジの無骨な内壁を見つめた。その向こうで今も過酷な試験に掛けられているはずの巨大な精密狙撃システムを思い浮かべる。<BR>
<BR>
　人間の予想を軽々と覆す能力を有する使徒に近接戦闘で対応する事は無謀極まりないと、第一次直上会戦の直後から指摘されていた。前回の戦闘を省みるまでもなく、現在エヴァに必要な物は遠距離からの有効な攻撃手段だった。<BR>
<BR>
　そこで、戦略自衛隊技術研究所が開発を続けていた自走陽電子砲に白羽の矢が立てられた。大出力エネルギーによって生成、収束、発射された陽電子による対消滅反応を利用して、ＡＴフィールドの突破すら期待できるこの兵器は、エヴァの武装としてまさにうってつけの代物だった。<BR>
<BR>
　その開発に心血を注いでいた戦自研の人間にとっては気の毒ではあったが、控えめに言っても強引な徴発が特務機関権限によって行なわれた。その際には色々と各方面で揉めたようだったが、そういったごたごたの類にリツコは関心を持っていなかった。<BR>
<BR>
「そう……是非とも形になって欲しい所だけど」<BR>
<BR>
「いつもいつも掴み合いの泥試合じゃ、子供達も堪らないですからね」<BR>
<BR>
<BR>
<CENTER>──────────</CENTER><BR>
<BR>
　ミサトは男の言葉を笑い飛ばした。<BR>
<BR>
「ネルフはあくまでも国連が各国の支援を受けて運営している超国家的組織よ。それを一政府の所有物になんて、国連が首を縦に振るとは思えないけど」<BR>
<BR>
「問題ありません。すでに承認は得ています」<BR>
<BR>
　男は笑みを浮かべ、上着の内ポケットから１枚のカードを取り出した。イチジクの葉のシンボルが刻まれた赤と白のカード。彼がそれを手にしている意味は誰の目から見ても明らかだった。<BR>
<BR>
　彼はカードを内ポケットにしまった。<BR>
<BR>
「一度その身を置いていた貴方なら分かるでしょうが、現在のネルフはあまり効率的な組織ではありません」<BR>
<BR>
　ミサトは黙ったまま男の顔をじっと見つめていた。<BR>
<BR>
「そのほぼ唯一の存在理由である、使徒との戦争。それを勝ち進むには、彼らはあまりにも能力に乏しい、と言わざるを得ません」<BR>
<BR>
　『使徒』という言葉を男が使ったことで、ミサトの眉が上がる。彼女の表情の変化を敏感に読み取ったのか、男が付け加えるように言葉を継いだ。<BR>
<BR>
「使徒の存在及びその危険性については、今や多くの人間の知るところとなっています。ネルフやその周辺機関には世界中から……ああ、俗な言い方ですがスパイが少なからず送り込まれているようなので。もちろん、日本からも」<BR>
<BR>
　ミサトの脳裏を一人の男の顔がちらりと横切ったが、彼女はそれを敢えて無視した。<BR>
<BR>
「とにかく、ネルフの持つ技術や設備、その他のポテンシャルは極めて高く、一方でそれを扱う人間の意識やスキルは呆れるほど低い。何を考えてあのような組織編制に到ったのか、逆に興味深いほどです」<BR>
<BR>
　それは辛辣ではあったが、完全に否定しきれる論でもなかった。どちらにせよネルフを弁護する義理も無かったので、ミサトは自分の中の最大の関心事について口を開いた。<BR>
<BR>
「で、何故私にその話を」<BR>
<BR>
「人類に害為す使徒の排除、このプロジェクトは非常にデリケートな問題を内包しています。政治、経済、外交、軍事、それに付随する多くの要素が複雑に絡み合っている」<BR>
<BR>
　ミサトは軽く頷いた。男はわずかに身を乗り出し、口調と視線に真剣さを滲ませた。<BR>
<BR>
「必要なのは、状況の正確な認識と適切な対応を遅滞無く実行し得る人材です。それにふさわしい能力、経歴、そして何よりも動機を貴方は持っている」<BR>
<BR>
　鋭さを増したミサトの瞳に臆すること無く、男はその視線を受け止めていた。つかの間の沈黙の後、ミサトが口を開いた。<BR>
<BR>
「ネルフ再編の過程で得られた情報に対する、無制限のアクセス権。それを私に約束できる？」<BR>
<BR>
「貴方がそれを欲していることは知っています。そして、それは業務上必要な、貴方に与えられるべき当然の権利です」<BR>
<BR>
　そう言って男は足を崩し、リラックスした姿勢を取る。相変わらず隙の無い視線を投げかけてくるミサトから目をそらし、彼は窓の外に見える空を呑気な表情で眺めた。男はやや緊張の抜けた声で小さく言った。<BR>
<BR>
「実は私も知りたいのですよ。１５年前、南極で何が起きたのかを」<BR>
<BR>
　猜疑心が形を取ったような冷めた視線で返すミサトに、男は苦笑し肩をすくめた。<BR>
<BR>
「誠意の証、というわけではありませんが、一つ情報を差し上げましょう。セカンドインパクト及び使徒襲来の元凶は南極地下に潜むアダムであると、ネルフが対外的にアナウンスしていることはご存知ですね」<BR>
<BR>
　男は脇に置いていた鞄から、一通の書類封筒を取り出して座卓の上に置いた。<BR>
<BR>
「これは？」<BR>
<BR>
「先日、国連が秘密裏に派遣した南極調査チームからの報告書です。セカンドインパクト爆心地周辺及び地下の測量が主な目的でした」<BR>
<BR>
　ミサトは封筒の中から書類の束を取り出し、内容に目を走らせた。徐々に怪訝さが浮かび上がっていく彼女の表情を見ながら、男は言った。<BR>
<BR>
「結論から言うと、そこには巨大な空洞があるだけでした。正真正銘、何もない」<BR>
<BR>
　それの意味するところに気付いたミサトが顔を上げて男を見る。彼は小さく頷いた。<BR>
<BR>
「そうです。南極の地下深くで使徒を生み出し続けているとされている、最初の使徒アダム。それはどこにも存在して『いない』のです。では使徒はどこからやってくるのか？」<BR>
<BR>
　沈黙が流れた。ミサトは再び書類に目を戻す。参考資料として添付されている、ノイズだらけのモノクロ写真を見つめた。暗闇の中に屹立する、輝く翼を背に抱く光の巨人。右下に印字された１５年前の日付が、彼女の中の記憶を静かに揺さぶった。<BR>
<BR>
　ミサトを過去への沈思から現実へと引き戻すように、男が口を開く。<BR>
<BR>
「この調査結果は、政治的な理由でほとんどの国に対しては公表されないでしょう。デメリットが大きすぎます」<BR>
<BR>
「人類救済を名目にネルフが各国から好き放題に引き出しているカネや人。それが結局ただの無駄遣いになるかも知れません、なんて国連もそうそう口にできないでしょうね」<BR>
<BR>
　ミサトは冷ややかな微笑を浮かべて書類を置く。封筒の中に書類を戻して男は言った。<BR>
<BR>
「これを知る立場にある日本の国防関係者には、この情報は極めて重大な関心事として捉えられています。当然ですね。アダム排除が日本の安全に繋がる、という大前提の下にネルフとの協力関係が築かれているわけですから」<BR>
<BR>
　封筒を慎重な手つきで鞄の中にしまいながら男は言葉を続ける。<BR>
<BR>
「ネルフが重大な見落としをしている、或いは何かを意図的に隠している。どちらにせよ、第三者が介入する理由としては正当な物です。我々もまだ滅びたくは無いですから」<BR>
<BR>
　ミサトは唇に指を当てて考え込む。一瞬視線を窓の外に向けた後、再び男の顔を見て言った。<BR>
<BR>
「立場上、表立って動きたくない国連としては、使徒襲来における最大の当事者である日本にネルフの内偵をやらせたい。少なくとも、それが一番無理の無いシナリオ、ってことね」<BR>
<BR>
「そういう側面もあります。ま、おおよその状況はこんな所なのですが……」<BR>
<BR>
　男がミサトの答を促すように眉を上げる。彼女は指を唇に当てたまま、黙り込んだ。<BR>
<BR>
　彼女にとって千載一遇のチャンスであることは間違いなく、躊躇わせる理由は見当たらなかった。しかし、男の言葉にはいちいち引っかかる物があった。彼女は与えられた情報を総合し評価にかけていったが、その違和感の源に辿りつく事は出来そうに無かった。<BR>
<BR>
　そして男はミサトの顔を正面から見据えた。<BR>
<BR>
「貴方は真実を。そして人類は平和を手に入れる。我々の利害は一致していると思いませんか？」<BR>
<BR>
　そのセリフがいかにあざとく芝居がかった気に入らない物であろうと、他に道が無いことは明らかだった。<BR>
<BR>
<BR>
<CENTER>──────────</CENTER><BR>
<BR>
　アスカの意識は再び乱された。<BR>
<BR>
　テストモードで動作しているエントリープラグ制御システムが、自己診断用に実行させている計測ソフトのためにウィンドウを数十枚投影している。その青くぼんやりとした明かりがＬＣＬを通して、この９歳の少女の冷めた美しい相貌を照らし出していた。<BR>
<BR>
　この瞬間は、エヴァ弐号機本体の機能不全やＭＡＧＩを初めとする種々の環境条件が変化した事態を想定した、シンクロシーケンスの調整及び試験作業が行われていた。とは言え、アスカが要求されている仕事は単に普段通りのエントリー手順を正確に反復することであり、その他の雑多な作業は全て外部の人間やら機械やらが肩代わりしている。<BR>
<BR>
　従って科学的に測定可能な彼女の精神活動において少しばかりノイズが混じったところで、外部の人間はそれを生物として当然持ちうる誤差以外の物として認識することは出来なかった。だが、アスカ自身はその重大性を瞬時に理解することが出来た。<BR>
<BR>
　アスカの中にある『少年』の記憶が、自らの意思とは無関係に彼女の中で互いに組み合わされていく。彼女の意識に点在する空隙の形にあつらえたような的確さで、かつてアスカが知覚したその少年のイメージがはめ込まれていった。<BR>
<BR>
　グラスに満たされた水の中に一滴落ちた黒インク。<BR>
<BR>
　それがじわりと全体へ広がっていくさまを、ただ見守ることしか出来ないような無力感。そしてそれと共に、自分が自分でなくなっていく感覚をアスカは味わっていた。それを為しているのは紛れも無く自分自身であるにも関わらず、決して排除も制御も出来ない自律的な精神作用がそこに存在していた。<BR>
<BR>
　勿論、少女も全く手をこまねいていたというわけでは無く、精神的な免疫機構とでも表現できる防衛手段の構築を自らに対し試みていた。<BR>
<BR>
　アスカは自らの意識の一部を変質させ、それ自体が独立して動作する仮想意識を組み上げると、その内側に現在問題となっている異常なイメージの乱流を隔離した。しかし、その仮想意識は活動開始とほぼ同時に止めどない自己参照と相互矛盾による急激な膨張を見せ、破裂に似た崩壊を迎えた。<BR>
<BR>
　加えてその崩壊過程で仮想意識内から放出された不可解なイメージや、ささくれ立った概念の塊が心のあちこちに撒き散らされ、少女の意識本体の『純度』を更に低下させる。この対症療法が事態を悪化の方向へのみ進めた事に彼女が気付く頃には、最早手のつけようが無くなりつつあった。<BR>
<BR>
　皮肉にも少女の持つ類まれな自己制御能力が、自らが決して望まない道へと状況を加速度的に後押しする元凶となっていた。<BR>
<BR>
　少女にとって世に存在する全ての事象は、明確な論理的整合性を持つ理解可能な概念の集合であり、それが覆されつつあるという事実はアスカにとって解決すべき重大な問題になりつつあった。<BR>
<BR>
<BR>
<CENTER>──────────</CENTER><BR>
<BR>
　抜けるように変化し始めた体の重みが、上昇し続けていたエレベーターの減速を知らせてきた。それが合図になったかのように、日向はもう一人の乗客に向かって口を開いた。<BR>
<BR>
「しかし、突然の話ですね」<BR>
<BR>
「まったくね。何もこんな時期に」<BR>
<BR>
　リツコはそう答えながら、眼鏡を白衣のポケットにしまう。一段階低くなった日向の声に彼女の視線がちらりと向いた。<BR>
<BR>
「どうも国連、それもかなり上からの圧力があったらしいです」<BR>
<BR>
「それを受けて、今回の日本政府の非公式視察？　こないだの陽電子砲徴発の意趣返しなのかしら」<BR>
<BR>
「色々揉めてるらしいですからね。そもそもウチの特務権限と日本の国内法で帳尻合わせがまるで出来てないのが現状ですし」<BR>
<BR>
「どこもかしこも突貫工事なわけね」<BR>
<BR>
　『第３新東京市第五次建設計画要綱』の文字が仰々しく印刷されている分厚い紙束で自分の肩を叩きながらリツコが呟いた。<BR>
<BR>
<BR>
<CENTER>──────────</CENTER><BR>
<BR>
「やっぱり気が進まないわ」<BR>
<BR>
　ミサトは眼下に広がるジオフロントの景色から、その視線を隣に座る男へと移した。地上からジオフロントを繋ぐ手段の一つ、リニアレールの車内は殆ど全ての席が埋まっていた。<BR>
<BR>
　スーツと士官服が半々といったこの奇妙な集団は男女比率もかなり接近しており、大抵は同じセクションから派遣されたと思われる二人ないし三人ほどが隣接した座席を占め、声を潜めて会話を交わしている。申し合わせたかのようにほぼ全員が一定の範囲の色彩とフォーマルさ加減に収まる服装であり、個々人の個性がその視覚効果によって既にかなり減殺されていた。<BR>
<BR>
　『政府関係者の視察団』を具現化した、まさにその物がここに存在していた。わざとやっているのだろうかと疑いたくなる程の統一性だった。<BR>
<BR>
「それについてはお互い散々話し合ったはずですが。何はともあれ、さすがに良く似合っておいでですね」<BR>
<BR>
　戦略自衛隊の士官服を一分の隙もなく着こなしているミサトに、スーツ姿の男は微笑を向けた。ミサトの部屋への無作法な侵入以来、彼女は何度かこの男と接触していたが、彼の本音らしき物を見抜くことは未だ出来ずにいた。<BR>
<BR>
「これに袖を通す日がまた来るとは思ってもなかったわ」<BR>
<BR>
　男の言葉に仏頂面で答えつつ、ミサトは制帽を深くかぶりなおした。長めの髪を上げてその大部分を無理矢理押し込んではいるが、鏡で見る限りそれほどの違和感は無い筈だった。気休め程度に薄く色のついた眼鏡と、普段とは毛色の異なる化粧もしてみたが、どうにも落ち着かない気分を拭いきれずにいた。<BR>
<BR>
　今の自分は、変装というよりは仮装に近い有様にしか思えなかった。ミサトは溜息を飲み込んで口を開いた。<BR>
<BR>
「ネルフ再編を見据えての日本政府によるジオフロント視察。ま、取っ掛かりとしては分からないでもないわ。でも、それに私が参加する必要性があるのかしら」<BR>
<BR>
「大ありです。民間人でかつネルフの指揮系統の一角を担っていた人物など、他に私は知りません。それだけで貴方はネルフに関する事項において、第一級の専門家と言えるんですよ」<BR>
<BR>
「何か勘違いしてるみたいだけど、別に私はここの極秘情報に通じているわけじゃないのよ」<BR>
<BR>
「そういう話ではないんです。我々がやろうとしている仕事には、ネルフの組織的特性に関する現場のバランス感覚や洞察が必要なんです。いかにネルフの人と物を動かすべきか、貴方の視点が最も的確だと私は考えています。この組織に属する誰よりも……そう、司令クラスの人間よりもね」<BR>
<BR>
　首を振ってミサトは視線を正面に向けた。車両の壁面に据え付けられた液晶モニタにニュースやら気象情報の文字テロップがスクロールしている。<BR>
<BR>
「私がこの視察に参加しているとネルフに気付かれた場合のリスクは考慮した？　政治的な火種になるのは御免よ」<BR>
<BR>
「もちろんバレないように努力して下さい。貴方が『こちら側』に付いたとネルフに悟られるのは、出来るだけ後のほうが都合が良いので」<BR>
<BR>
「私は『どちら側』にも付くつもりは無いわよ」<BR>
<BR>
　じろりと睨んだミサトに、男は肩をすくめた。<BR>
<BR>
「今日のところは、元作戦部長殿によるネルフ本部施設実況解説を期待しているんですが」<BR>
<BR>
「マイクが無いのが残念ね。えー皆様、右手に見えますのは御当地名物、人型決戦兵器３色セットでございまーす。続きまして左手に……」<BR>
<BR>
「正直、貴方があの葛城博士の令嬢だとは信じ難く思える時がありますよ」<BR>
<BR>
　ヘリウムガスを吸い込んだような声色でおどけるミサトを手で制して、男が苦笑する。周囲の咎めるような視線を感じたミサトは咳払いをして、制帽を更に目深にかぶり直した。<BR>
<BR>
「ところで……到着する前に確認しておきたいんだけど」<BR>
<BR>
　ミサトの言葉に、男は眉を上げた。<BR>
<BR>
「アンタの『名前』よ。アドバイザーとしてはそれくらい知る権利はあるんじゃなくて？」<BR>
<BR>
　まばたきを３度ほどしてから、男は成る程とばかりに、ゆっくり頷いた。<BR>
<BR>
「ああ、失礼。うっかりしていました」<BR>
<BR>
　上着の内ポケットから名刺を取り出し、ミサトに差し出す。鼻を鳴らして受け取った彼女はその真っ白い紙の上に視線を落とした。<BR>
<BR>
　同時にリニアレールの車体が一揺れし、窓の外にプラットホームの無機質な景観が現れる。周囲の同乗者達が続々と立ち上がり、耳が痛くなっただのトイレはどこだの他愛も無い雑談を交わしながら乗降口へと進んでいく。<BR>
<BR>
　名刺に刻まれた『時田シロウ』という文字にしばらく見入っていたミサトは、やがて溜息を一つつくと、男と共に立ち上がり他の乗客達の流れの中に紛れ込むように歩き出した。<BR>
<BR>
<BR>
<CENTER>──────────</CENTER><BR>
<BR>
　受話器を戻した冬月は、窓からジオフロントを見つめるゲンドウの背中に問い掛けた。<BR>
<BR>
「どう見るね」<BR>
<BR>
「警告のつもりだろう。好きにやらせておくさ」<BR>
<BR>
　ゲンドウの言葉に小さく息を吐き出した冬月がソファに目を移す。足を組んで冷めかけたコーヒーを味わっていた加持リョウジが、その視線に気付きカップを置いた。<BR>
<BR>
「確かに、日本政府周辺で妙な動きは感じられます。今回の非公式視察といい、ネルフも使徒迎撃に構ってばかりもいられんでしょうな」<BR>
<BR>
「やれやれ。また余計な仕事が増えるな」<BR>
<BR>
　冬月は皮肉を混ぜた口調で呟きながら、ゲンドウへと視線を戻す。下界を見下ろしていた顔をわずかに上へ向けたゲンドウが、自分自身に言い聞かせるように口を開く。<BR>
<BR>
「我々も老人達も、もはや後戻りは出来まい」<BR>
<BR>
<BR>
<CENTER>──────────</CENTER><BR>
<BR>
　少女の歩みが止まり、その白い手がやや黒ずんだ木の幹に当てられた。この日はパイロットとしての作業予定も特に無く、彼女は人工林の中をどこへともなく彷徨っていた。<BR>
<BR>
　綾波レイは周囲を見渡し、自分の足を止めた物の正体を探そうとした。やがて少女の赤い瞳が遥か彼方へと向けられる。木々の間からネルフ本部のピラミッド構造と、その向こうにあるビルが見えている。<BR>
<BR>
　その建物の一角に、いつしか少女の視線は縫い止められていた。焼ける様な渇きにも似た感覚が、小さな体の奥に積もっていく。<BR>
<BR>
　木肌から手を離し、白いブラウスの胸にそっと掌を添えると、レイは少しだけ俯いた。ゆっくりと瞳を閉じ、自らを闇の中に押し沈める。浅い呼吸を繰り返す内に、９歳の少女の心は人肌に似た緩やかな温もりを持つイメージで満たされていった。<BR>
<BR>
　自分の意識に湧き上がって来るイメージが意味する物を理解するにつれて、レイは胸に当てていた手を戸惑うように握り締めていった。ゆっくりと瞼を開ける。その瞳に込められた意志は、少女にとって生まれて初めて得た種類の物だった。<BR>
<BR>
　少女は再び視線を上げ、今はまだ遠くにあるビルを見つめた。そして、その中に『彼がいる』ことを確信した。<BR>
<BR>
　同時に、レイの中を言い知れない悪寒が駆け巡った。その感覚から連想される記憶が、少女の衝動を瞬間的に突き上げる。<BR>
<BR>
　自分でも気付かぬ内に、レイは走り出していた。<BR>
<BR>
<BR>
<CENTER>──────────</CENTER><BR>
<BR>
「ここはネルフが誇る最先端医療技術が集積した施設であり、激務の絶えない本部職員その他に対する体調管理を主に司っております。特筆すべき点の１つは構内ネットワークの充実振りであり、各専門医の緊密かつ即時の連携を可能とし、質及び効率性においても世界に類を見ないほどの……」<BR>
<BR>
　広報部の人間の説明は予想通り毒にも薬にもならない退屈なもので、ミサトは集団からやや離れ、欠伸を噛み殺しながら周囲に見知った顔がないかぼんやりとした視線を巡らせていた。<BR>
<BR>
　このネルフ本部の医療施設にミサトは数回しか訪れていないが、それでも自分を見知っている者が皆無だとは思えず、彼女は警戒を完全に怠る気にはなれずにいた。<BR>
<BR>
　いつの間にか隣に立っていた時田がミサトの耳元に口を寄せる。不意に吹きかけられた息にミサトは眉をしかめて彼の方を見た。<BR>
<BR>
「エヴァンゲリオンを見てみたいんですが。誰にも見咎められないルートに心当たりありませんか」<BR>
<BR>
　唇を引きつらせたミサトが口を開く前に、時田は内ポケットからプラスチック製の輝きをちらりと覗かせた。彼が初めてミサトに会った時にも見せたネルフのＩＤカードだった。<BR>
<BR>
「一応、フリーパスは持参しているので。とある信頼できる筋から提供されたＩＤらしく、ここの監視記録にも残らないそうです。ご安心を」<BR>
<BR>
　ミサトは制帽の縁に指をかけ、今の自分の変装がどこまで信頼できるのかわずかに逡巡する。ちらりと他の面子の様子を伺った。<BR>
<BR>
　にこやかに案内を続ける女性広報部員が、本部施設の通路を表示した案内板を指して小難しい数字を並べ上げている所だった。最新の土木技術と材料工学がどうこうとか、読み上げるようにすらすらとまくし立てている。頷きながら聞いている者もいるが、どこまで理解しているかは怪しいものだった。<BR>
<BR>
　時田の話では『非公式』ゆえのメリットととして、視察団全員の詳細なプロフィールはネルフに渡っておらず、更に幾つかの複雑な政治的駆け引きによって、この観光ツアー参加者の正確な人数もネルフは把握していない可能性が高い、という事だった。その言を信じるならば、たとえここでミサト達が一時的に行方をくらましたとしても、即警報が鳴り響いて武装警備隊が押し寄せるような事態は避けられそうに思えた。<BR>
<BR>
　こちらに注意を向けている者はいなかった。さりげなく左右に振った視線のどこにも監視らしき者の姿はなかった。<BR>
<BR>
　ミサトは一度だけ頷くと、作業用通路へと続く階段を顎で指してみせ、何気ない素振りで歩き始めた。<BR>
<BR>
<BR>
<CENTER>──────────</CENTER><BR>
<BR>
　それは、いかなる手段でも知覚することのできない存在だった。<BR>
<BR>
　既知宇宙の座標系に属せず、あらゆるパラメータは閉じられたまま、時間の概念すら意味を成さない。永遠という言葉に限りなく近い属性を持ち、論理と実存の狭間で息を潜めるように漂う存在。<BR>
<BR>
　しかし、絶対と思われたその不可侵性も結局の所、より急進的な他相へとシフトしていく過程の一つに過ぎなかった。やがてそれにとっては不可知の方向からの干渉により永遠の一端が失われ、揺籃の頃は終焉する。<BR>
<BR>
　緩やかな確率的勾配に逆らうように、それは徐々に浮き上がっていった。<BR>
<BR>
<BR>
<CENTER>──────────</CENTER><BR>
<BR>
　窓の無い、やや湿度の高い通路をミサトと時田は歩いていた。彼のリクエスト通り、ミサトは可能な限り人気が少ない区画を選んでいた。途中、電子的に施錠された扉が幾つか彼らの目の前に現れたが、それらは時田のカードによっていずれもあっさりと開き、彼の言葉の一部を証明していた。<BR>
<BR>
　時田は既に上着を脱いでおり、時折ネクタイの結び目を窮屈そうに指で直している。<BR>
<BR>
「大分歩いた気がするんですが」<BR>
<BR>
　階段を昇っては降り、通路をあちらからこちらへと進む内に現在位置の感覚も失せてきているのがその口調からも窺えた。<BR>
<BR>
「まだ半分も来てないわよ」<BR>
<BR>
　小さく首を振る時田。ミサトはその様子を横目に悪戯っぽい微笑を浮かべる。<BR>
<BR>
「技術棟に入るまでが面倒なの。たまには運動するのも悪くないわよ」<BR>
<BR>
　彼はやれやれといった表情で辺りを見回した。このエリアは医療部やら総務、監査部などの使徒迎撃とは直接関係しない部署が寄り集まったビルの一画だった。ネルフ本部施設の上端とも言えるピラミッド型構造物を見下ろす形の建造物ではあるが、作戦部及び技術部の直轄からは遠く離れた場所に位置している。<BR>
<BR>
「これは職業上の好奇心からお尋ねするんですが」<BR>
<BR>
　馬鹿丁寧な前置きにミサトの視線が引き寄せられる。<BR>
<BR>
「エヴァンゲリオンのパイロット……チルドレン、でしたか。彼らを貴方はどう評価していますか？」<BR>
<BR>
　沈黙の中、二人の足音が１０回ほど続いてからミサトは正面を向いたまま口を開いた。<BR>
<BR>
「子供よ。ただの子供」<BR>
<BR>
「本当に？」<BR>
<BR>
「何が言いたいっての」<BR>
<BR>
「彼らについての情報は我々の所にも多少は入っています。貴方とサードチルドレンの奇妙な関係についてもね」<BR>
<BR>
　ミサトはちらりと時田に視線を向けた。続きを促されていると判断したのか、彼は引き出しの奥から記憶を取り出しているような視線で言葉を続けた。<BR>
<BR>
「ネルフを取り巻く要素……エヴァ、使徒、それに連なる様々な事象は互いに関連しあっています。ですが、チルドレンをその輪に含めるには、論理上のギャップとでも言うべき非線形な境界を導入せざるを得ない」<BR>
<BR>
　眼鏡をずらして眉間を押さえ、ミサトはうんざりした声を返す。<BR>
<BR>
「もう少し分かりやすくお願い」<BR>
<BR>
「何故彼らがチルドレン足り得たのか、ということですよ」<BR>
<BR>
　むっつりした眼差しでミサトは彼を見つめた。<BR>
<BR>
「我々が持っている情報において、チルドレンに関する『何か』のピースが決定的に不足しているんです。そして私はそれを見つけなければならない。それが鍵になると私は確信しているのです」<BR>
<BR>
　余韻たっぷりに言葉を締めくくり、時田は恋人に語りかけるかのような情熱と真剣さでミサトの視線をじっと捉えた。<BR>
<BR>
　彼の言わんとしていることを呑み込むにつれ、ミサトの顔は苦虫を数十匹まとめて噛み潰したかの如く変化していった。<BR>
<BR>
「……私に『何か』があるなんて言う訳じゃ無いでしょうね？」<BR>
<BR>
「或いは。と、期待するのはいけませんか？　現にサードチルドレンは、おっと」<BR>
<BR>
　吐き捨てるように息をついたミサトは、時田の言葉を手振り一閃で切り上げさせた。答えるのも馬鹿馬鹿しいとばかりに、彼女は歩調を上げ通路をずかずかと進んでいく。<BR>
<BR>
　時田がようやくミサトに追いついたのは、彼女の前に再び頑丈な扉が現れてからだった。ミサトは無言のまま、扉脇の開錠装置のスリット部分を顎で指す。肩をすくめた時田が内ポケットを探り、カードを取り出す。<BR>
<BR>
　その瞬間、警報がけたたましく鳴り響いた。<BR>
<BR>
　真っ赤に回転するランプの光の下で互いに顔を見合わせた二人は、『自分の責任じゃない』といった表情で同時に首を横に振った。<BR>
<BR>
<CENTER>──────────</CENTER><BR>
<BR>
　文字通り『リング』としか表現できない物体だった。<BR>
<BR>
　完全な黒で塗りつぶされた巨大なリングが、ネルフ本部施設の真上の空間で静止している。<BR>
<BR>
　それは本部ピラミッド構造の頂上を見下ろす高度に、何の前触れも無く突然出現していた。いかなる科学的計測手段をも超越した存在がそこにあった。<BR>
<BR>
　リングはその巨大さにも関わらず、ジオフロントの中に影すら落としていない。くっきりと浮かび上がるその輪郭は中空に描かれた趣味の悪い落書きのようだった。<BR>
<BR>
　真っ黒な天使の輪を被せられたような風情のピラミッド構造物が主モニターの上に映し出されているが、そこに注意を向けていられる程に暇を持て余している者はここにはあまりいなかった。<BR>
<BR>
　唯一、冬月だけが主のまだ到着していない司令席の横でその映像を静かに見つめていた。<BR>
<BR>
　一方で、恐慌一歩手前の喧騒が発令所の中を駆け巡っていた。青葉がインカムからの応答を聞きながら、後ろを振り返って声を荒げた。<BR>
<BR>
「侵入経路は未だ不明！　各地レーダーポイントも検知していません！　いきなりジオフロント内部に現れました！」<BR>
<BR>
　それは取りも直さず、ジオフロントを幾重にも囲むように張り巡らされた、地表のありとあらゆる警戒網を正体不明の物体が文字通り音も無くすり抜けてきた事を意味している。<BR>
<BR>
　途方も無い相手を目にした戦慄を意識の奥に押し込みながら、リツコが声を張る。<BR>
<BR>
「分析急いで！」<BR>
<BR>
　主モニターに立て続けにウィンドウが開いたが、その殆どが数字のゼロと、解析不能を示すメッセージを並べているだけだった。日向が額に汗を滲ませて、端末を凝視しながら震えを抑えるような声で言葉を返す。<BR>
<BR>
「パターン識別不可能、目標を使徒と確認することは出来ません。質量ゼロ、エネルギー反応ゼロ、光学観測機器以外の全センサーは目標の『存在を否定』しています」<BR>
<BR>
「んなバカな。あそこにいるじゃないか」<BR>
<BR>
　声を裏返らせた青葉が、主モニターの真ん中で不気味に浮かぶ黒いリングを見上げる。<BR>
<BR>
「目標を使徒と仮定し、総員第一種戦闘配置。ＭＡＧＩは第６深層回路まで強制覚醒、デルフォイモードで目標について推論させろ」<BR>
<BR>
　リフトに乗って床からせり上がってきたゲンドウが、司令席に歩み寄りながら低く通る声で命じる。リツコは一度だけ頷いて、マヤに視線を移した。<BR>
<BR>
「弐号機と零号機は？」<BR>
<BR>
「弐号機は起動済みです。零号機はパイロット待ち、保安部がファーストチルドレンの迎えに出ているところです」<BR>
<BR>
「そう。まずは相手の正体を探りましょう。迂闊に手は出せないわ」<BR>
<BR>
　流れるような動作で椅子に座り込むゲンドウを、冬月がちらりと横目で見る。冬月は主モニターに視線を戻し、小さく呟いた。<BR>
<BR>
「碇」<BR>
<BR>
「ああ。予定が繰り上がり始めている」<BR>
<BR>
　応じたゲンドウの声は冷静そのものだったが、楽観の意はまるで表れていなかった。冬月の視線が更に険しくなる。<BR>
<BR>
「我々は間に合わないのか？」<BR>
<BR>
「間に合わせるさ。その為のネルフだ」<BR>
<BR>
　ゲンドウの顔の前で組み合わされた、白手袋をした両手。それが互いに擦れるような音を立てた。<BR>
<BR>
<BR>
<CENTER>──────────</CENTER><BR>
<BR>
　小走りで通路を逆戻りするミサトと時田の影が、回転灯の赤い光によって小刻みな振幅と共に目まぐるしく揺れている。<BR>
<BR>
「エヴァ見物は次の機会にしますよ」<BR>
<BR>
「賢明な選択ね。いきなり状況レッドってのはただ事じゃないわ。次の扉を出て」<BR>
<BR>
　ミサトが指差す先を見て、時田が眉をひそめる。<BR>
<BR>
「入ってきたのは、まだ大分先の扉だと記憶していますが？」<BR>
<BR>
「このごたごたの中なら、多少の人目は問題ないわ」<BR>
<BR>
　返事をする暇も惜しむように、扉にかじりついた時田がカードをスリットに通す。<BR>
<BR>
　案の定、人々がせわしなく行き来している空間に二人は出くわした。職員の制服から医療施設フロアの一つと思われた。あれだけ歩き回った後なのに、それほどスタート位置から離れていなかったことに気付いたのか、時田の表情がやや暗くなる。<BR>
<BR>
　このやや開けたスペースはビル全体のほぼ中層にあり、大きな窓ガラスからジオフロントの雄大な眺めが一望できる造りだった。<BR>
<BR>
　しかし、それ以上の存在感を持つ光景が時田に口を開かせた。<BR>
<BR>
「これは凄い」<BR>
<BR>
　窓の外にネルフ本部の一角であるところのピラミッド構造体が見て取れ、その頂上付近に巨大な漆黒の『リング』が見えない糸で吊られているかのように静かに鎮座していた。<BR>
<BR>
　身動きのとれない入院患者をベッドごと移送しているスタッフをやり過ごし、人の波を縫うようにミサトと時田は窓際に歩み寄った。<BR>
<BR>
「あれが使徒ですか？」<BR>
<BR>
　囁くように問い掛ける時田に答える素振りも無く、ミサトはその威容に見入っていた。<BR>
<BR>
　ちらりと視線をジオフロントの上面に向ける。これ程の巨大物体が侵入してきたような形跡はどこにもなく、採光ユニットパネルは普段通りの輝きを見せていた。警戒配置をすっ飛ばして出された第一種戦闘配置の警報と合わせて考えるまでも無く、この相手の非常識な手強さは明確な物だった。<BR>
<BR>
　ミサトは、作戦部長の視点でこれへの対応策を無意識に立案している自分に気付いたが、小さく首を振ってそれを心の外へ追いやった。<BR>
<BR>
「かもね。どっちにしろ長居は無用よ。早いとこ避難しましょ」<BR>
<BR>
　他人事のような口調で答えつつ、一般職員向けの緊急マニュアルを記憶の底から引っ張り出す。ミサトは避難ルートと、部外者が紛れ込んでいる事に気付いた者がいないかの確認を兼ねて、辺りを見回した。<BR>
<BR>
　それにミサトが気付いたのは、それが他の多数の人々の流れとは逆方向に動いていたが故だった。<BR>
<BR>
　ミサトの視界の中、人々がぞろぞろと移動している光景の端に一瞬だけ映ったそれは、通路の角を曲がり消え去った。他の大人たちは窓の外の異形に目を奪われ、傍らを通り過ぎていく小さな人影になどまるで気付く余裕が無いようだった。<BR>
<BR>
　しかし、ミサトはその姿に気付いた。その二つの小さな背中は彼女の中に確かな記憶として残っている物だった。<BR>
<BR>
　自分自身でも思いがけない感情がミサトを動かした。<BR>
<BR>
　彼女は時田が持っていたＩＤカードを無理矢理ひったくると、彼を人々がごった返しているエレベーターホールの方へ押しやった。<BR>
<BR>
「あれに乗ったら誘導に従ってシェルターに。誰何されたら道に迷ったと答えなさい」<BR>
<BR>
　呆気に取られる時田の返事も聞かずに、ミサトは子供達を追いかけて走り出した。<BR>
<BR>
<BR>
<CENTER>──────────</CENTER><BR>
<BR>
　発令所は低いざわめきの中、多くのスタッフがそれぞれの作業に向かい合っていた。<BR>
<BR>
「結論から言えば、あれは物質ではありません」<BR>
<BR>
　オペレーター席の背後、リツコ達が囲んでいる大テーブルの表面がディスプレイとなり、その映像が彼らの表情を下から照らし上げている。<BR>
<BR>
　リツコはテーブルの表面に映し出されているアイコンを数度叩き、映像を切り替えた。<BR>
<BR>
　巨大な黒リングを真上と真横から捉えたアングルと共に、その表面を最大望遠で拡大しデジタル処理を加えた映像が出力される。<BR>
<BR>
　真横からの映像ではほぼ厚さゼロ、肉眼では未だに平滑な黒色体としか見えないが、いくつかの試行錯誤の結果、そのリングが持つ性質が推測可能になっていた。<BR>
<BR>
「Ｓ２理論における数学上の矛盾を解消する為に導入された、『事象泡』と呼ばれる概念があります。物質と非物質との境界を記述した物、とお考え下さい」<BR>
<BR>
　リツコが再びディスプレイ上のアイコンに触れると、リングの一部が仮想的に切り取られる。抜き出された扇形がディスプレイ中央に移動しながら立体的に回転し、その断面図解が表示された。極めて薄いその内部は奇妙な規則性によって配列された、光でできた泡の集まりにも似ていた。<BR>
<BR>
　眼鏡の位置を軽く直し、リツコが言葉を続ける。<BR>
<BR>
「光学観測データのみが材料ではありますが、ＭＡＧＩは目標がその事象泡の集合体であり、まさに非物質から物質への転換反応がこの瞬間発生し続けている、そう結論しています」<BR>
<BR>
　日向が自分の理解を確認するかのように、リツコに怪訝な視線を向ける。<BR>
<BR>
「つまり、目標が我々のセンサーにかからないのは、敵がまだこの現実宇宙に存在していないからだ、と？」<BR>
<BR>
「そう。ステルス技術としては究極形の一つと言えるわね。探知されることも迎撃されることも決してあり得ないのだから」<BR>
<BR>
　仮想的に構成されたイメージ映像の中でそれらの泡は互いに融合と分裂を繰り返しながら、各々の相対位置を常に変化させている。<BR>
<BR>
　生まれ出るために最もふさわしい『形』。それを手探りで見つけ出そうとしているような意思すら垣間見え、マヤの体をわずかに震えさせた。<BR>
<BR>
　ディスプレイを凝視しながら顎を撫でていた冬月が視線を上げる。<BR>
<BR>
「つまり、現段階では物質として存在していない以上、『殲滅することも不可能』、という理解でいいのかな」<BR>
<BR>
「はい。いかなる攻撃手段も無効でしょう。論理的な帰結として、敵から我々への攻撃も不可能なのは不幸中の幸いですが」<BR>
<BR>
　ゲンドウの眼鏡に、無数の泡が不気味にうごめく様が映りこんでいる。黙って映像を見つめていた彼は、やがてレンズの奥の瞳をリツコに向けた。<BR>
<BR>
「敵が実体化しつつあるのは間違いないかね」<BR>
<BR>
　リツコが大テーブル上の画面を切り替えた。十種類近いグラフがずらりと並び、それらの幾つかはリアルタイムで変動を続けている。<BR>
<BR>
「７分前から、パターン青の予兆及び、極めて微弱なＡＴフィールドが観測され始めました。不規則ながらその強度は上昇傾向を示しています。更に」<BR>
<BR>
　再びディスプレイが、リングを真上から見下ろす映像に変わる。同時に、画面右下に時間進行を示すカウンタが動き始める。<BR>
<BR>
　リング中央部のぽっかりと開いた空隙に、青と白の飛沫の集合が湯船の栓を抜いた後のように巨大な渦を形成している。<BR>
<BR>
「極めて膨大なエネルギーの流れです。今回の使徒はその構造自体が、粒子加速器の亜種とでも言うべき性質を持っているようです。このエネルギー流も使徒本体と同様に、現在はこの宇宙に存在していません」<BR>
<BR>
　カウンタの進行につれ、渦はリング中央に収斂し一つの白い点へと変わっていった。やがて強調されたフォントで『Ｒｅａｌｉｚｉｎｇ』という表示がカウンタの上で点滅すると同時に、映像の視点はリングを斜めから俯瞰するアングルに移行する。<BR>
<BR>
「使徒の実体化と同時に、このエネルギーも現実空間に現出します」<BR>
<BR>
　リング中央の点から一直線に一本のラインが真下に向けて伸びていく。透視図で表現された本部施設のピラミッド部の頂点を貫き、そのラインはひたすらに地下深くを目指していった。<BR>
<BR>
「リング周辺を螺旋状に展開しているＡＴフィールドの斥力効果も相乗した結果、使徒の中心部から超高出力エネルギー集束帯が垂直方向に投射されるものと思われます」<BR>
<BR>
「本部施設を真上から貫くのか」<BR>
<BR>
　冬月が呆れ返ったように溜息をつく。微塵の動揺も見られないゲンドウが口を開いた。<BR>
<BR>
「予想され得る被害規模は？」<BR>
<BR>
「熱と衝撃波によって、本部施設の大部分は原型を留めることは不可能でしょう。加えて、Ｓ２機関からの二次的なエネルギー放出過程における放射線によって、ジオフロント内部の生物に極めて深刻な被害が考えられます」<BR>
<BR>
　ジオフロントの内部構造が映像に現れ、使徒実体化以降の各域における温度、放射線強度分布の時系列変化の予測図となった。５秒毎の変化を示すその映像は、緑から赤へと塗り変わっていくモザイク状のパターンで中央部付近から急激に埋め尽くされていった。<BR>
<BR>
　リツコが付け加える必要もなく、その意味は皆の胸に確実に染み渡っていた。<BR>
<BR>
<BR>
<CENTER>──────────</CENTER><BR>
<BR>
　レイは湖の岸辺で、樹にもたれ掛かるように座り込んでいた。<BR>
<BR>
　木々の間からぼんやりと見上げる先に、巨大なリングが黒々とした威容で静止している。<BR>
<BR>
　ゆっくりとしたまばたきの後、少女は視線を下に落とした。<BR>
<BR>
　レイの左手がしっかりと少年の右手を握り締めている。少女の細い指の関節の白さは、そこに込められている力の証でもあった。<BR>
<BR>
　世界から切り離されたような表情で特別病室のベッドに横たわる少年を、力任せに引きずり出して無理矢理にここまで連れて来るのは、この華奢な少女にとって相当の重労働だった。<BR>
<BR>
　今もシンジはレイに対してはっきりと抗いはしなかった。しかし、彼は決して少女の意のままに動くわけではなく、少年がどこかにふらりと立ち去ってしまうのではないかという不安にも似た感情が、レイに彼の手を離させる事をしなかった。<BR>
<BR>
　二人が幹を背にしてここに腰を下ろしてから、どれくらいの時間が経っているのか、少女にも分からなくなってきていた。<BR>
<BR>
　この場所を選んだ理由は、彼女自身にも分からなかった。ミサトに連れられて少年と共に訪れた時の思い出が、そうさせたのかも知れなかった。湖に足を浸した時の心安らぐ記憶が、無意識の内に少女の帰巣本能にも似た何かを刺激したのかも知れなかった。<BR>
<BR>
　レイは伺うように、隣に座るシンジの顔を見つめた。疑問でも拒絶でも、どんなささいな言葉でもいい。この少年から何かの意思が汲み取れることを期待していた。それでもシンジは右手をレイに掴まれたまま、何をするでもなく時折視線を左右に彷徨わせるだけだった。<BR>
<BR>
　少女は小さく震えかけた瞳を少年から逸らした。視界の端に垣間見える黒いリングに焦点が合う。<BR>
<BR>
　それがもたらす破滅の匂いを本能的に感じ取った今、その異形の存在が現在の自分の不安と衝動的な行為を呼び起こした物であることを理解しつつあった。<BR>
<BR>
　それでも、これからどうすればいいのか、少女には見当もつかなかった。<BR>
<BR>
<BR>
<CENTER>──────────</CENTER><BR>
<BR>
「問題点は二つ」<BR>
<BR>
　リツコは通路を早足で進みながら、やや遅れてついてくるマヤにプリントアウトを挟んだバインダーを手渡した。<BR>
<BR>
「一つ。使徒が実体化するまでは、こちらから攻撃をかけることは不可能」<BR>
<BR>
　ＭＡＧＩが吐き出した最新の観測データが並ぶ数字を確認しながら、マヤはリツコの背中を追いかける。<BR>
<BR>
「もう一つ。使徒は実体化した『直後』に我々に対して回避不可能かつ致命的な一撃を与えることが出来る。さて、ここから導き出される結論は？」<BR>
<BR>
　唇に人差し指を当てたマヤが、少しだけ考え込んでから口を開く。<BR>
<BR>
「使徒が実体化してから攻撃を行うまでの間を狙う以外、現実的なプランは無さそうですね」<BR>
<BR>
　振り返りもせずに頷くリツコが、白衣のポケットから携帯電話を取り出す。幾つかの専門用語が混じる会話に耳を傾けながら、マヤはプリントアウトに目を走らせていった。数行も読み進めたところで、自分自身の目を疑うような声がマヤの口から思わず出た。<BR>
<BR>
「使徒の実体化からエネルギーが放出されるまでの時間的余裕は……１秒未満！？」<BR>
<BR>
　更に瞳を険しくしたリツコが携帯電話をポケットに戻し、手のひらを上に向けて押し出すような仕草をする。<BR>
<BR>
「しかも敵の位置を見る限り、エヴァによる近接戦闘を仕掛けることは不可能よ」<BR>
<BR>
「そもそも敵ＡＴフィールドを中和して攻撃、なんてのんびりやっている暇が無いですね」<BR>
<BR>
　思わず『撤退』という言葉が口から出かけたマヤだったが、もとより逃げる場所などはどこにもなく、ネルフの敗北は人類そのものの死である事を自らに強く言い聞かせる。彼女は胃を強ばらせるような緊張を押し包むように息を飲み込み、扉の前で立ち止まったリツコの横に並ぶ。<BR>
<BR>
「そこで、これよ」<BR>
<BR>
　リツコが叩きつけるように壁のスイッチを押す。二人の目の前の扉が左右に分かれる。<BR>
<BR>
　鋼鉄製の壁面で囲まれた巨大な空間。その側面を伝うように渡された通路に出たマヤの視界に、やはり巨大な構造物が現れる。<BR>
<BR>
　鈍い銀色を見せる砲身と、その底部に接続されたボックスと無数の極太ケーブル。周囲で忙しく動き回る作業服姿のスタッフの大きさと比較すると、そのスケールが一層際立っている。<BR>
<BR>
　自分達が身を投じようとしている圧倒的に不利な賭けを前にして、マヤは唇を噛み締めて折れそうになる心を抑え込んだ。<BR>
<BR>
<BR>
<CENTER>──────────</CENTER><BR>
<BR>
　主モニターに映し出された通信ウィンドウの中では、リツコが声高に背後のスタッフに指示を与えていた。<BR>
<BR>
　発令所からその様子を見ていた冬月が怪訝な声で問い返す。<BR>
<BR>
「試験段階のポジトロンライフルによる精密狙撃だと？　ＡＴフィールドを中和せずにか？」<BR>
<BR>
　冬月の声にリツコは顔をカメラに戻したが、その視線は作業の進行状況をつぶさにチェックするために横に向けられたままだった。<BR>
<BR>
「はい。この使徒の特性と我々の現有兵器とを勘案すると、それ以外に勝機は存在しません」<BR>
<BR>
「ＡＴフィールドを貫く程の大出力が、本部のリアクターだけでまかなえるのかね？」<BR>
<BR>
　リツコは冬月の問いに答える代わりに、ウィンドウの外に手を伸ばした。キーを叩いているらしき音が聞こえると同時に、通信画面の横にグラフが現れる。使徒が展開するであろうＡＴフィールド強度の変化をミリ秒単位で予測した緑のラインが、強調されるように点滅した。<BR>
<BR>
　映像越しに解説するリツコの視線は常に左右に振られ、どんなささいなミスも見逃さないという意志が現れていた。<BR>
<BR>
「使徒が完全に実体化してから、ＡＴフィールドの強度が突破不可能なレベルに上昇するまで、やはり１秒程度のタイムラグがあります。そこを狙います」<BR>
<BR>
　深い溜息と共に顎に手をやった冬月に追い討ちをかけるように、リツコが言葉を続ける。<BR>
<BR>
「もう一つハードルがあります。ポジトロンライフルですが、ソフト上の完成率が１０％に達していません」<BR>
<BR>
「作戦上、具体的にどんな支障がある？」<BR>
<BR>
　冬月がげんなりした気分を滲ませ、ちらりとゲンドウを見やる。その無表情の裏にある物を探ろうとしたが、眼鏡に映りこむ主モニターの様々な明滅がそれを妨げていた。<BR>
<BR>
　不意に、作業スタッフ達に向けられたリツコの声が一段上がり、ついに立ち上がった彼女の顔が画面からフレームアウトし、やや豊満な腰つきが映像の中央で揺れる。大写しになった白衣の前に乗り出すようにマヤの顔が現れ、リツコに代わって応答を始めた。<BR>
<BR>
「陽電子は地球自転、磁場、重力の影響で直進しないわけですが、それを補正する射撃管制システムがまだ存在していないんです」<BR>
<BR>
「つまり……撃っても『当たらない』のか？」<BR>
<BR>
　背後のリツコの様子を気にしながら、マヤが口を開く。<BR>
<BR>
「照準そのものは、基本的にパイロットの感覚に頼らざるを得ませんが、それを補助するための暫定的な射撃支援用モジュールを現在セカンドチルドレンがコーディング中、ＭＡＧＩに急ピッチで組み込んでいます」<BR>
<BR>
「パイロットにやらせる仕事とは思えんが」<BR>
<BR>
　怪訝そうな冬月に、微かな苦笑を唇に浮かべたマヤが肩をすくめてみせた。<BR>
<BR>
「使うのはアスカ本人ですから。それに……正直、我々がやるよりも遥かに速く、精確です」<BR>
<BR>
　黙って画面を見つめていたゲンドウが、静かに口を開いた。<BR>
<BR>
「作戦は弐号機単独による遂行か？　零号機によるバックアップは？」<BR>
<BR>
「不要です。エヴァのオペレート精度、シンクロ率その他を考慮すると、砲手はセカンドチルドレン以外の選択肢が無く、そもそもこの作戦の性質上、バックアップもリトライのチャンスもまたあり得ません」<BR>
<BR>
　マヤは言葉を終えると、意見を伺うようにリツコを振り仰いだ。リツコの表情からこれ以上特に何も無いと判断したのか、マヤは軽く頭を下げると画面の外に消えた。<BR>
<BR>
「分かった。作業を続けてくれ」<BR>
<BR>
　冬月の言葉が終わらない内に通信画面も消え去り、入れ替わるように一枚のウィンドウが主モニターの隅に現れる。<BR>
<BR>
　ＭＡＧＩの推論による、使徒実体化時刻までの予想値が表示されていた。<BR>
<BR>
　『２５分３７秒』から着実に減算していくタイマーの値は、文字通り人類に残された時間と同値であった。<BR>
<BR>
<BR>
<CENTER>──────────</CENTER><BR>
<BR>
　アスカの周囲に投影されている１０以上のウィンドウに表示された膨大なコード群は、全てが不規則なスクロールを繰り返しつつ、凄まじい速度でテキスト列の削除、挿入、修正が実行されていた。<BR>
<BR>
　五指それぞれに独立したスイッチが表面に割り当てられているトラックボールを小刻みに揺さぶりながら、アスカは全ての画面の内容を完全にコントロールしていた。<BR>
<BR>
　視線入力、思考コマンドを併用したオペレーションは、ネルフ技術部ソフトウェア作業従事者全体の総作業効率の理論最大値に迫りつつあった。<BR>
<BR>
　それだけの非常識的なパフォーマンスを叩き出して尚、少女の意識にはまだかなりの余力が残っている。急造されたポジトロンライフルの構造がリアルタイムでアスカの下に転送され、それに応じて射撃支援システムに修正が加えられる。<BR>
<BR>
　同時に、アスカは『より重要な問題』の解決に向けた作業を継続していた。<BR>
<BR>
　ポジトロンライフルの射撃支援モジュールをＭＡＧＩのサブシステムとしてリンクさせるために、少女には暫定的に高レベルのシステムアクセス権が与えられていた。<BR>
<BR>
　一パイロットにそれだけの中枢機能への接触を許す事に、この状況下で疑問を挟む者は皆無だった。むしろ、この繁雑な作業をたった一人でこなせるという時点で、誰もが少女の能力に無言の賞賛を与えていた。<BR>
<BR>
　アスカは弐号機とＭＡＧＩとの間に確立したリンクを通じて、ネルフ本部の各システムに速やかなアクセスを開始した。改竄記録を完璧に消去しつつ、無数のデータバンクを探り、目的の物の痕跡を探索し続ける。<BR>
<BR>
　やがて少女は、いくつかの館内監視システムのログ内に『それ』の移動痕跡を見つける。<BR>
<BR>
　同時にシステムバンクから抜き出した保安部の通信コードに割込みをかける。保安部員が『それ』に接触することが出来ないように、虚偽の情報を彼らの端末に送り込む。機械を信頼せずに自分の足で情報を集めるような仕事熱心な職員が存在する可能性も考慮し、念を入れて適切なルート上のドアロックに原因不明の動作不良を生じさせた。現場から管理職レベルへと転送されるであろう緊急メッセージは、あるレベルで当たり障りの無い状況報告に化けるようフィルタを仕掛ける。<BR>
<BR>
　それらは全て、ポジトロンライフルの射撃支援モジュール構築と完全に並行して行われた。少女が全精力を傾けて使徒殲滅に向け粉骨砕身していることを誰も疑わず、大人たちはひたすら目の前の危機に対して邁進していた。<BR>
<BR>
　十数分後に迫った使徒迎撃という緊張状態の中で、この少女が極めて危険な因子に変化しつつあることに誰も気付くことは出来なかった。<BR>
<BR>
<BR>
<CENTER>──────────</CENTER><BR>
<BR>
　発令所に向かって上昇を続けるリフトの手すりを掴みながら、リツコは携帯端末で各部署の作業状況をチェックしていた。マヤと相乗りするには少々窮屈な乗り物だったが、この際贅沢を言っている暇は無かった。<BR>
<BR>
　この作業に携わる者全員が完全に能力を発揮していたと思えた。恐らくこれ以上の成果を望むことは出来ないと、リツコの厳しい目からも評価できた。精神的プレッシャーと時間的制約を同時に敵に回した戦いに彼らは勝利しつつあった。<BR>
<BR>
　特にソフトウェア周りに関するアスカの貢献が大きかった。あれで１０％近くは人的資源の節約になったと、手元の数字が物語っている。<BR>
<BR>
　互いの肩を触れ合わせながら、ふとリツコはマヤに顔を向けた。<BR>
<BR>
「ところで、レイは？　今どこ？」<BR>
<BR>
　マヤもボールペンを口元に当てて首を傾げる。<BR>
<BR>
「さあ？　現行命令は『控室にて待機』でホールドです。何かあれば保安部から報告が上がってくるはずですが」<BR>
<BR>
「……そうよね」<BR>
<BR>
　リツコが妙な違和感を振り払うと同時に、二人の乗ったリフトは発令所に到着した。<BR>
<BR>
<BR>
<CENTER>──────────</CENTER><BR>
<BR>
　日向が端末を操作する手を緩めて、振り向いた。<BR>
<BR>
「ギリギリ間に合いましたね」<BR>
<BR>
「全く。奇跡的だわ。弐号機は？」<BR>
<BR>
　溜息混じりに答えたリツコが、つかつかと日向の席の後ろに歩み寄る。ちらりと見上げた主モニターのタイマー表示は３分を切っている。<BR>
<BR>
　全員の血を吐くような努力が搾り出した貴重な３分間であり、絶対に無駄にする事は出来ないとリツコは心を引き締めた。<BR>
<BR>
　端末に視線を戻した日向の指がせわしなくキーの上で躍る。<BR>
<BR>
「エヴァ弐号機、間もなく射撃位置に到達です。各リアクター、ライン接続。加速器予備運転継続中。いずれも異常無し」<BR>
<BR>
　ネルフ本部施設のピラミッド部からやや離れた位置にある、人工森林に擬装された巨大なハッチが、重々しい音と共に開いていく。リフトの上昇と共に、片膝を付いた姿勢のエヴァ弐号機がせり上がってきた。<BR>
<BR>
　赤い巨人の傍らにはポジトロンライフルの巨大な砲身が斜め上に突き出している。<BR>
<BR>
　弾倉に相当する部位には左右に突き出した一対のシリンダーが備わっており、シリンダーの底部が交差する位置から極太のケーブルが伸びていた。<BR>
<BR>
　席についたマヤが休む間もなく、端末に指を走らせた。<BR>
<BR>
「エヴァ弐号機、ＭＡＧＩへのリンク問題ありません。各回路、コンディショングリーン。射撃管制モジュール、正常動作しています」<BR>
<BR>
「陽電子生成プロセス、フェーズ５に移行。強制収束機、作動。全エネルギー、ポジトロンライフルへ」<BR>
<BR>
　ジオフロント内部に点在する射出口のリフトを利用して、弐号機の周囲に配置された多数の機器が一斉に唸りを増す。人工林の間を縫うように這い回るケーブルが、その内側に押し込められたエネルギーを持て余し、焦げ付くような臭いを漂わせながら外装の樹脂材質を徐々に空気中へと昇華させていく。冷却器の巨大ファンが悲鳴を上げ始め、あちらこちらの地面から陽炎と水蒸気が立ち上り始めた。<BR>
<BR>
　リツコはマヤの横から身を乗り出すように、主モニターに視線を上げる。通信ウィンドウの中、アスカはその青く澄んだ右目をゆっくりと左右に巡らせていた。<BR>
<BR>
「作戦を確認します。今からおよそ２分後、使徒が実体化。同時に、リング部分中央に敵コアが出現します。使徒がエネルギー集束帯を本部施設に向けて発射する前に、そのコアを狙撃、破壊して欲しいの」<BR>
<BR>
　アスカの手元にウィンドウが開き、カウントダウンしていくタイマーが表示される。<BR>
<BR>
「砲身の再冷却システムは時間の都合で未実装、だから勝負は最初の一発のみ。使徒が実体化してからエネルギーを投射するまでは、およそ０．９２秒。射撃のタイミングが早すぎても遅すぎても、私達の負けよ。申し訳ないけど、貴方に全て託すしかないわ、アスカ」<BR>
<BR>
　通信ウィンドウの中の片目の少女は応答を返す様子も無く、冷たい視線を外界のある一点へと投じていた。<BR>
<BR>
　不意に、弐号機がゆらりと立ち上がり、その威圧的ともいえる体躯をジオフロントに晒した。足元に広がる木々の緑が、巨人の赤と神秘的な調和感をもたらしている。<BR>
<BR>
　森の中に屹立したエヴァ弐号機が、その頭部を僅かに横へ回す。<BR>
<BR>
　あと数分で徹底的な破壊をもたらすであろう巨大なリングになど、まるで興味が無いように、エヴァ弐号機は微動だにしない視線で森の中の一点を見つめていた。<BR>
<BR>
「アスカ？」<BR>
<BR>
　リツコの問い掛けも、既に少女の意識には届いていなかった。<BR>
<BR>
　アスカは自分が解決すべき、『より重要な問題』の源をそこに見つけていた。<BR>
<BR>
<BR>
<CENTER>──────────</CENTER><BR>
<BR>
　レイはその視線を確かに感じた。<BR>
<BR>
　少年の手を握る左手に反射的に力がこめられると同時に、少女は素早く立ち上がる。シンジは掴まれた右手に引きずられるように体を傾かせたが、彼は座ったまま相変わらず何処ともつかない所へ目を向けていた。<BR>
<BR>
　レイの赤い瞳に、強い警戒の意志が宿る。少女は少年の右手を握り締めたまま、こちらを射抜くような鋭い視線の源に顔を向けた。<BR>
<BR>
　緑の木々の梢の彼方、ピラミッド構造とその上に浮かぶ巨大な黒いリングを背にした赤い巨人。<BR>
<BR>
　エヴァ弐号機の四つの瞳が、真っ直ぐにこちらを貫いていた。<BR>
<BR>
<CENTER>──────────</CENTER><BR>
<BR>
　エヴァ弐号機の光学カメラが捉えた映像の一部が四角く切り取られ、素早い補正処理によってノイズを除去された画像が拡大される。<BR>
<BR>
　それを目にした瞬間、アスカの思考は一点へと集束していった。<BR>
<BR>
　ここ数日の間、自分の存在基盤を揺るがし続けた全ての源。いかなる思考的処理も受け付けさせず、惣流・アスカ・ラングレーの意識を錆付かせ、腐食させ続けたイメージの集合体。<BR>
<BR>
　完璧に制御されたアスカの精神をもってしても、自分の中にあるそのイメージを濾し取る事は不可能であった。不可解に濁り続ける自分自身を止める事が出来ない、それを看過せざるを得ないという状況そのものが、少女にとっては何よりの『問題』だった。<BR>
<BR>
　自分の心、という内的要因に原因を求める事に限界がある以上、外的要因を排除する以外に選択肢は存在しなかった。<BR>
<BR>
　故に、アスカは結論した。<BR>
<BR>
　サードチルドレン、碇シンジを『消去』しなければならない、と。<BR>
<BR>
<BR>
<CENTER>──────────</CENTER><BR>
<BR>
　何が起きたのか、一瞬誰も理解できなかった。<BR>
<BR>
　エヴァ弐号機の右肩に突き出しているウェポンラックのカバーが弾けるように開き、連続した爆音と共に白煙が上がる。同時に幾つかの細長い影が飛び出した。<BR>
<BR>
　完全な想像外の出来事に、発令所のオペレーター達の思考が硬直する。<BR>
<BR>
　呆然と画面を見守る大人たちをよそに、元々使徒との接近戦用として両肩のウェポンラック内に装備されていたニードルガンの弾芯が高速で飛翔し、林の中に次々と突き刺さり地面を抉っていく。砕け散った樹木の破片を追いかけるように土煙が巻き上がった。<BR>
<BR>
　同時に動体感知システムからの警告音がなり、着弾箇所がズームアップされた。土埃が収まっていくにつれて、その向こうにある人影が徐々に浮き上がり出す。映像から推測される体格及び顔の特徴は、人物照合システムが理解できる記号の一群へと即座に翻訳され、膨大な人物ライブラリに対して高速な検索が行われる。<BR>
<BR>
　主モニターの中でいまだに破壊の余韻が土埃となって濃く残る映像の中にいまだ不鮮明な人影。その横に矢印つきのウィンドウが開き、９７％以上の確度でそれと判定された二人の人物プロフィールが顔写真と共に映し出された。<BR>
<BR>
「レイ！」<BR>
<BR>
　リツコが思わず声を上げる。ようやく視界を遮り続けていた土埃が目に見えて晴れていく。<BR>
<BR>
　木の根元に座り込む碇シンジの手をしっかりと握り締め、もう片方の手で土埃から顔をかばいながら立ちすくむ綾波レイの姿がそこにあった。<BR>
<BR>
　ようやく頭が事態に追いつき始めた日向が、慌てて保安部のチルドレン管理責任者に緊急回線で照会をかける。他人の空似など万に一つもあり得なかったが、使徒迎撃の最中にチルドレンが所在不明ならば保安部より報告が届けられている筈だった。しかし、『メッセージボックスへの不正規な介入の痕跡』がどうこうと、要領を得ない担当者の言い訳に苛立ち、日向はもういいとばかりに子供達の確保を最優先事項として命じて通話を打ち切る。<BR>
<BR>
　子供の悪ふざけにしては尋常ならざる弐号機の様子に、リツコの判断は素早かった。<BR>
<BR>
「エヴァ弐号機、兵装制御のみをコクピットから切り離して！　急いで！！」<BR>
<BR>
　動揺を隠し切れない表情ながら、マヤが必死でキーを叩く。途端にモニタの大半が真っ赤なウィンドウで埋まり、彼女の頬が引きつる。<BR>
<BR>
「ダメです！　コントロール受け付けません！　弐号機コクピット、第三次緊急独立モードで動作しています！」<BR>
<BR>
「バカな、発令所のコマンド無しにだと！　認証シーケンスは動いていないぞ！」<BR>
<BR>
「何だこりゃ……」<BR>
<BR>
　青葉の端末画面上、ネットワークの状況をイメージ化した映像が表示される。ＭＡＧＩを頂点とし、そこから下部へとピラミッド状に張り巡らされたリンクを示す無数の緑のライン。それぞれのラインが猛烈な勢いで赤いラインに書き換わって行く。<BR>
<BR>
　全ての異常の中心にあるのは、ＭＡＧＩのサブシステムに直結した一つのモジュールであり、その名称が青葉の血の気を引かせた。<BR>
<BR>
「多数の強制コマンドが各データリンクへのアクセスを遮断しています！　発信元は『セカンドチルドレン』がＭＡＧＩに組み込んだ射撃支援モジュールです！！」<BR>
<BR>
　同時に、マヤが信じられないとでも言いたげな顔で振り向く。<BR>
<BR>
「エヴァ弐号機及びポジトロンライフルの全制御権がセカンドチルドレンに移りました！」<BR>
<BR>
　リツコは少女が何をしたのかを理解した。<BR>
<BR>
　この少女はポジトロンライフルの射撃支援モジュールという複雑極まりないシステムを、ネルフ技術部の専門家が束になっても敵うかどうか怪しい程の速度で組み上げつつ、『同時に』そのモジュール内部からＭＡＧＩを介して戦闘指揮システムへの侵入を果たす機能も紛れ込ませていた。<BR>
<BR>
　システムを熟知しているリツコですらそれだけの代物を作り上げるのに数日は要するはずだった。だが、アスカはこの作戦が始まった後から指揮システムの機能を解析し、その盲点を的確に突いたのだろう。<BR>
<BR>
　時間にして約２０分強。文字通り、人間の技ではない。リツコの肌が粟立った。<BR>
<BR>
　少女の仕事をチェックする必要など思い付かなかった。誰もがアスカの才能に信頼を寄せていた。しかし、何もかもを見誤っていた。<BR>
<BR>
　畳んだ眼鏡を握り締めるリツコの右手に力がこもり、銀色のフレームが軋んだ。<BR>
<BR>
　かつてアスカに対して抱いた、ぼんやりとした危惧。それを放置してしまった自分に怒りがこみ上げる。<BR>
<BR>
　これは自分のミスだ。片腕と片目の無いこの少女は、自分達のような凡人の尺度で計りきれる相手では無い。その行動論理は、自分も含めて誰にも理解など出来はしない。『比類なき天才少女・セカンドチルドレン』として皆に賞賛されるべき存在などでは、もちろん有り得なかった。<BR>
<BR>
　惣流・アスカ・ラングレーは、まぎれも無い『怪物』だ、と。<BR>
<BR>
「どうする、碇」<BR>
<BR>
　淡々とした口調で冬月が問い掛けた。ゲンドウは、主モニターの中で明確な殺意を放ち続ける赤い巨人を見つめつつ、静かに言った。<BR>
<BR>
「作戦は続行だ。　カウントダウンを続けろ」<BR>
<BR>
　冬月が小さく息を漏らす。<BR>
<BR>
　言われるまでも無く、リツコは理解していた。最早、退く道など残されてはいない。しかし、完全にこの巨人を我が物にしてしまったアスカを制御する術もまた思いつかなかった。<BR>
<BR>
　日向が時間の経過を遅らせでも出来ないかとばかりにタイマーを睨みつける。<BR>
<BR>
「使徒実体化まで、あと９０秒！」<BR>
<BR>
「アスカ、落ち着いて！　使徒が目の前なのよ！　貴方はそんな子じゃないでしょ！？　私たちの言う事を聞きなさい！！」<BR>
<BR>
　堪えきれなくなったマヤが叫んだ。<BR>
<BR>
　しかし、その悲痛な声も聞こえていないのか、通信画面の少女の表情からは何も見出す事は出来なかった。<BR>
<BR>
　更に声を荒げようとするマヤを、リツコが肩に手をかけて制止した。<BR>
<BR>
「やめなさい。アスカは冷静よ。これ以上無いほどにね」<BR>
<BR>
「で、でも……」<BR>
<BR>
　激情にまかせて暴れるような人間ならば、ネルフのスタッフがその兆候を見出せている。アスカは他人には想像もつかない思索の積み重ねの果てに、レイとシンジを手にかけようとしている。その結論に至る論理は少女以外には理解できず、故に反駁不可能な固く閉ざされた鉄扉であった。<BR>
<BR>
　人が弄するいかなる理も情も少女には一切通用しない事を、リツコは無力感と共に確信していた。<BR>
<BR>
　エヴァ弐号機がウェポンラックからプログレッシブナイフを抜き出した。せり出した刃先が鈍い発光を始める。赤い巨人がナイフを持った右手をゆっくりと斜め後方に振りかぶった。その視線は未だに森の奥の一点を捉え続けている。<BR>
<BR>
　次に何が起こるかを悟ったリツコの呼吸が思わず止まった。<BR>
<BR>
<BR>
<CENTER>──────────</CENTER><BR>
<BR>
　林を縫うように甲高い駆動音がけたたましく響いた。<BR>
<BR>
　その黒塗りのボディには、イチジクの赤いペイントがなされている。<BR>
<BR>
　草が淡く茂る地面を削り取りながら、木々の隙間から１台の車がバックで突っ込んできた事に、茫然としていたレイは一瞬遅れて気付いた。<BR>
<BR>
　緊急時の移動用車両としてジオフロント各施設に配置されているこれらは、見かけこそ一般的なセダンではあったが相当の悪路も走破可能なスペックを与えられており、この瞬間もその性能を余すことなく見せ付けていた。<BR>
<BR>
　リアバンパーがレイとシンジの脇を掠めるように通り過ぎる。一瞬の制動音と共に、車体はその慣性によってスライド状態に移行しつつ、巧妙なステアリングとアクセル操作で進行角度を流れるように変化させ始めた。<BR>
<BR>
　子供達を中心にスピンターン気味に回る車体が、エヴァ弐号機の視線と二人の間に割り込む位置に達する直前、レイの目の前で運転席側のドアが開いた。同時に運転者がアクセルを再び踏み込んだのだろう、タイヤが唸りを上げて土と小石を巻き上げる。<BR>
<BR>
　滑り続ける車の中から素早く伸び出した手がレイの襟首を掴む。有無を言わさぬ力強さで引き込まれた少女は、運転者の膝の上を通って助手席に放り込まれる。<BR>
<BR>
　突然の事で少年から引き離されたレイが、はっとシートから顔を上げ、手放してしまったものを求めて体を起こす。<BR>
<BR>
　途端に、レイの視界はこちらに向かってやはり押し込まれつつあるシンジの顔でふさがれた。少女と少年は助手席のシートにもつれあうように倒れこむ。少年の背中に回された少女の両手が無意識の内に強く彼の体を抱きしめた。レイは瞳をぎゅっと閉じて、頬を少年の横顔に押し当てる。<BR>
<BR>
　その温もりが、何よりも今は愛しく思えた。<BR>
<BR>
　運転者が左手で二人の体を上から押さえながら更にアクセルを踏み込み、車体を急加速で後退させ始めた。<BR>
<BR>
　同時に大気を切り裂くような音がしたかと思うとフロントガラスの向こうに大きな影が生じ、数秒前までレイとシンジがいた場所に巨大な物体が激突した。凄まじい衝撃で車体が僅かに浮き上がる。<BR>
<BR>
　寸前でその致命的な凶器から逃れた車体を、石や土の塊が雨のように叩きつけた。何が起きたのか確認する間もなく、人の腕ほどもある細長い金属物体がフロントガラスを激しい音とともに突き破り、シンジを抱きしめたまま助手席にうずくまるレイの体の数センチ上を掠め、その鋭い切っ先をシートの背もたれに深くえぐりこませる。<BR>
<BR>
　それが巨大落下物の衝撃によって破砕され吹き飛んだニードルガンの弾芯の残骸であることに大きな意味はなく、更に叩きつける石礫の雨が、車体の屋根に不愉快な音と共に次々と深い窪みを刻んでいった。<BR>
<BR>
　エヴァ弐号機が投擲したプログレッシブナイフの質量と速度は、物理法則に従って周囲の土壌や樹木を半径１０数メートルに渡って木っ端微塵にし、それらの破片を周囲に撒き散らしていた。<BR>
<BR>
　土の中に斜めに突き刺さったプログレッシブナイフの刃が、それの触れている部分の草や木の破片を超振動効果による高熱で焼き始める。わずかに間をおいた後、ぐらりと傾いたナイフが大地に倒れこんだ。高温状態を維持している刃の一部が水しぶきを上げて湖の水面を叩くと、耳障りな音を立てつつ猛烈な勢いでもうもうとした水蒸気が立ち昇る。<BR>
<BR>
　すんでのところでレイとシンジを拾い上げた車は、狂気的な速度で木々をかわしながら、ジオフロント内部の施設を繋ぐ林間道路へと鼻先を向けた。<BR>
<BR>
　レイはようやく運転席に視線を向ける余裕が出来た。ハンドルを巧みに操る人物は、見上げてくる少女の視線を目の端に捉えたのか、独り言ともつかない言葉を呟いた。<BR>
<BR>
「あのエヴァ弐号機、一体どうしたの……あんたとアスカってそんなに仲悪かったっけ？」<BR>
<BR>
　葛城ミサトは、フロントガラスに刺さった太い金属片を押し出しながら、実に怪訝そうな表情を浮かべていた。<BR>
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<CENTER>──────────</CENTER><BR>
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　その様子は発令所の主モニターでもはっきりと見て取る事が出来た。<BR>
<BR>
「誰だ今のは！？　ネルフの人間じゃないぞ！！」<BR>
<BR>
「戦自の制服にも見えましたが……女性だったような？」<BR>
<BR>
「何でもいいから、さっさと保安部に確保させろ！」<BR>
<BR>
「映像、記録しているな？　すぐ再生しろ」<BR>
<BR>
　そう言って、冬月が身を乗り出す。<BR>
<BR>
　オペレーターが映像の拡大処理を行う様子がリアルタイムで主モニターの上に現れた。運転席から身を乗り出して子供達を引っ張り込む人物の顔が大写しになる。<BR>
<BR>
　戦略自衛隊の士官服に、制帽を深くかぶる眼鏡の女性。<BR>
<BR>
　日向の記憶のどこかが既視感のような物で軽く押される。再び自律起動した人物照合システムが、やはり９０％以上の確信をもって一人の顔写真と簡略化されたプロフィールを表示した。<BR>
<BR>
　どこかふてくされたような顔でカメラを見つめる赤いジャケットの女性。<BR>
<BR>
「ミサト」<BR>
<BR>
　呆気に取られたリツコの口が開く。<BR>
<BR>
　端末からの警告音に日向が慌てて画面を視線を戻す。<BR>
<BR>
「使徒実体化まで６０秒切りました！！」<BR>
<BR>
<BR>
<CENTER>──────────</CENTER><BR>
<BR>
　正直、逃げ切れる自信はミサトにも無かった。<BR>
<BR>
　道路に到達する直前に、周囲が突然爆発したかのような衝撃が生まれた。<BR>
<BR>
　エヴァ弐号機が残っているニードルガンの弾芯を全て撃ち尽くした中の一つ。それが車体後部のトランクスペースを地面まで貫いた。反動でリアを跳ね上げられた車体は、不規則に地面を伝う木の根に更にバランスを崩し、運転席側が一気に浮き上がる。<BR>
<BR>
　車が完全に横転する寸前、反射的にミサトは子供達に覆いかぶさる。ボンネットが木の幹に強く叩かれて、車体は助手席側を下にした状態のまま、ずるずると半回転した。<BR>
<BR>
　横倒しになった車が完全に停止すると、薄暗い森の中には不気味なほどの静寂が満ちた。<BR>
<BR>
　ミサトは窮屈な姿勢から、ゆっくりと体を起こした。自分の体の下、レイがシンジをしっかりと抱きかかえている。時折まばたきをする赤い瞳がちらりとこちらを向き、少女が意識を保っていることを示していた。<BR>
<BR>
　小さく息を吐き出したミサトは周囲の状況を見ようと、更に顔を上げた。ひび割れてこすり傷だらけのフロントガラス越しの外界は、ここがまだ湿っぽい林の中であるという以上の情報を彼女に与える事は無かった。<BR>
<BR>
　不意に側頭部を鈍い痛みが走り、顔をしかめたミサトの頬を生暖かい感触が伝う。<BR>
<BR>
　レイとシンジの顔に自分の体内から流れ出た赤い液体が一つ二つと落ちていく光景に、ミサトは強烈なフラッシュバックを覚えた。<BR>
<BR>
「くそっ」<BR>
<BR>
　誰に向けた悪態か、自身もよく理解できないままミサトは背中に手を回し、ヒップホルスターから拳銃を抜き出した。<BR>
<BR>
　念の為に、と時田から密かに預けられていた品だった。ろくなボディチェックも無しに武器をジオフロントに持ち込めたのは、やはり時田が言うところの政治的な工作の一環なのだろう、とぼんやり考えながらミサトは金属の感触を手のひらで確かめる。戦略自衛隊でも制式採用されているそれは、彼女にしてみれば目をつぶっても分解組立が出来るほど手になじんでいる物だった。<BR>
<BR>
　子供達に覆いかぶさったまま、ミサトはフロントガラスのフレームを一周するように連続して発砲した。機械のように正確なリズムが木々の間にこだまする。破片のいくつかがミサトの上に降り注ぎ、彼女の頬や手に引っかき傷を作る。<BR>
<BR>
　弾倉が空になるまで撃ちつくし、ミサトはひび割れだらけになったガラスを不自由な体勢で蹴りつける。３度目か４度目でぐらついたフロントガラスが思いのほかあっさりと外れ、地面にばたりと落ちる。<BR>
<BR>
　ミサトは体を引きずるように車から這い出すと、辺りを見回しながらレイとシンジをまとめて引っ張り出した。地面にへたりこんだまま、少年の体をきつく抱きしめて放そうとしないレイの様子に首を傾げかけたが、再びこめかみに走った鈍痛がそんな思考を消し飛ばす。<BR>
<BR>
　傷口を手で押さえつつ地面に片膝をついたミサトは、さてこれからどうしようかと息を吐き出した。<BR>
<BR>
　瞬間、彼女は背中に冷たい視線を感じた。<BR>
<BR>
　そんな物が無いのは半ば承知の上で、予備の弾倉を求めて左手が泳ぐ。<BR>
<BR>
　気は進まなかったが、やがて彼女はゆっくりと視線を後ろへと巡らせていった。徐々に視界に入り込んでくるのはまさしくその予想通りの光景であり、臓腑に氷を押し込められたような感覚がミサトの思考を軽く麻痺させる。<BR>
<BR>
　エヴァ弐号機が、両手で抱え上げた巨大な砲身をこちらに向けていた。<BR>
<BR>
　少なくとも自分の頭を撃ち抜く一発くらいは残しておくべきだったかも知れないと、ミサトはヤケ気味に唇を吊り上げて空の拳銃を握り締めた。<BR>
<BR>
<BR>
<CENTER>──────────</CENTER><BR>
<BR>
　コントロールレバーを握る右手の人差し指が、ゆっくりとトリガースイッチに添えられる。<BR>
<BR>
　同時にポジトロンライフルのシステム情報を表示するウィンドウが手元に現れる。アスカはそれを一瞥しただけで数十項目に及ぶパラメータを読み取り、全ての制御が自らの手中に収まっている事を確認した。<BR>
<BR>
　正確に照準する必要は無かった。それなりの近傍に着弾すれば目的は達せられる。陽電子流が直撃せずとも、その余波によって少年の小さな体は一瞬で蒸発し、この世界から文字通り跡形も無く消え去る。<BR>
<BR>
　惣流・アスカ・ラングレーの意識を蝕む存在は消え、少女は再び完全な自己を取り戻す事が出来る。<BR>
<BR>
　使徒による攻撃が十数秒後に迫っている事実も、それが全人類に対する絶望的な結末と同義であるのも、少女は正確に理解していた。<BR>
<BR>
　しかし、アスカにとってそれらを放棄する事に大した意味は無くなっていた。<BR>
<BR>
　もちろん、『使徒を殲滅する』、『ネルフの一員として命令を遂行する』などの文言は間違いなく少女の中で高レベルの優先事項として厳然とそびえ立っている。それは周囲の人間はもとより、アスカ自身ですらそう認識していたほどだった。しかし、それら全ての前提にある条件がこの瞬間、アスカの意識の中で明瞭な形を取った。<BR>
<BR>
　それが、『惣流・アスカ・ラングレーはセカンドチルドレンである』という事だった。<BR>
<BR>
　セカンドチルドレンに与えられた使命を実行するには、自分がセカンドチルドレンであり続けなければならない。アスカが惣流・アスカ・ラングレーであり続けることこそが彼女が最も順守すべき事柄であり、それは自分の生命にも、あるいは人類の存亡にすら優先する『最重要事項』として、少女の意識に強く再定義されつつあった。<BR>
<BR>
　アスカが認識している世界はいまや、『自分』と『それ以外』という純粋な二値構造によって占められつつあった。そして今、少女は自分自身を変質させる全要素の徹底的な排除を結論しようとしていた。<BR>
<BR>
　それは、世界その物の排除に限りなく近似していた。<BR>
<BR>
　トリガースイッチに当てられた少女の人差し指に力が込められ、接点が押し込まれていく。ポジトロンライフルを構えるエヴァ弐号機もそれに遅滞無く追従し、巨大なトリガーを緩やかに引き絞っていく。<BR>
<BR>
　視界の中心では、地面に座り込んだ碇シンジが小さな体を無防備に晒している。<BR>
<BR>
　その瞬間、コクピットの中を風が切り裂くように吹き抜けた。<BR>
<BR>
　アスカは反射的にスイッチから指を離す。自分が今感じた物が錯覚であることを確認しようとした少女の心が、全方位モニタの一点に吸い寄せられる。少年の隣に立っている少女の存在に、アスカは初めて気が付いた。<BR>
<BR>
　綾波レイの赤い瞳が、アスカを静かに見つめていた。<BR>
<BR>
　碇シンジの手を握り締めたまま立つ少女の視線が、赤い巨人ではなくその内側にいるアスカ自身を見つめている。アスカにはそれが理解できた。<BR>
<BR>
　アスカはレイの視線を受け止め、その意味を考えた。怒りではない。嘆願でもない。まして絶望でもない。<BR>
<BR>
　再び、自分が自分でない何かに変わって行く感覚がアスカを蝕む。<BR>
<BR>
　アスカは思考を妨げる外界の光を締め出すように目を閉じた。右手をコントロールレバーから離すと、そのまま左肩にそっと触れる。<BR>
<BR>
　かつて左腕が存在していた場所を覆っている保護具の硬質な手触りが、初めて感じる種類の『痛み』をアスカの意識に芽吹かせた。<BR>
<BR>
　ゆっくりと瞼を開いたアスカの視界の中心に、レイとシンジの繋がれた手が映る。<BR>
<BR>
　アスカはそこに見落としてはならない情報が含まれている事を直感し、意識の全てをそこに集中させる。発令所のオペレーターが切羽詰った調子の声で残り数秒のカウントダウンを続ける通信音声も、何処か遠くの出来事として知覚されていた。<BR>
<BR>
　アスカは一度だけまばたきをすると、一挙動でコントロールレバーに右手を戻し、トリガースイッチに当てた指を躊躇無く押し込んだ。<BR>
<BR>
<BR>
<CENTER>──────────</CENTER><BR>
<BR>
　光の奔流が緩やかな曲線を描いて、黒々としたリングの中央に浮かぶ赤い光球へと吸い込まれる。<BR>
<BR>
　白い閃光が一瞬で網目状にリング全体を多い尽くす。<BR>
<BR>
　紙を引き裂くような乾いた音が響き、巨大なリングは粉々に弾け飛んだ。<BR>
<BR>
　雪のように降り注ぐ使徒の残骸の中、ポジトロンライフルを上方へと掲げたエヴァ弐号機は、射撃姿勢のまま静止していた。<BR>
<BR>
　膨大なエネルギーの名残が小さな帯電現象となって、エヴァ弐号機の装甲表面でぱりぱりと音を立てる。ポジトロンライフルからボックスやシリンダー状の部品が接合部分でねじ切られるように剥落した。銃身から伸びる、許容量を超えたエネルギーに耐え切ったケーブル。その所々から細い煙がたなびく。<BR>
<BR>
「パ、パターン消滅……目標は完全に沈黙しました」<BR>
<BR>
　日向は自分の言葉であるにも関わらず未だそれを信じられない、といった戸惑いを滲ませつつ報告した。発令所が深い溜息で包まれる。冬月も目に見えて息をつく。軽く俯いたまま、リツコが不自然なまでの穏やかさで口を開いた。<BR>
<BR>
「エヴァ弐号機は？」<BR>
<BR>
「緊急独立モードは既に解除されています。エヴァ弐号機の諸機能は我々の制御下に戻りました」<BR>
<BR>
「アスカがＭＡＧＩに組み込んだモジュールは即時削除。ＭＡＧＩについては、各メモリ空間に対して全域システムチェックを３０分毎に実行。手の空いてる者は射撃支援モジュールのコード解析、１時間以内に概要を私のところへ報告。遅れは認めません」<BR>
<BR>
「は、はい」<BR>
<BR>
　静かにたぎるリツコの怒りを感じたマヤがごくりと唾を飲み込んだ。<BR>
<BR>
　リツコはゆっくりと体を後ろに回し、司令席を振り仰いだ。見下ろしてくるゲンドウと冬月の視線を真っ向から受け止めながら、リツコはまるで自分の怒りの原因がこの二人であるとでも言いたげな光をその瞳に宿していた。<BR>
<BR>
　やがて、主モニターに視線を戻したリツコはいたわるような声で呼びかけた。<BR>
<BR>
「アスカ」<BR>
<BR>
『はい』<BR>
<BR>
「作戦終了よ。帰投しなさい」<BR>
<BR>
『了解』<BR>
<BR>
　ネルフを、ひいては人類をも崖っぷちにまで追い込んだとも言える少女に向けられたリツコの声に込められた柔らかさは、マヤには不思議と何一つ虚飾の無い物に思えた。<BR>
<BR>
　モニターの中のエヴァ弐号機がゆっくりと右腕を下げ、その手からポジトロンライフルだった物の残骸をずるりと地面に滑り落とした。<BR>
<BR>
<BR>
<CENTER>──────────</CENTER><BR>
<BR>
　赤い巨人と静かに対峙していたレイを、呆気に取られたミサトは片膝をついたまま、ただ見守る事しか出来なかった。<BR>
<BR>
　やがて少女が小さく唇を開いた瞬間、凄まじい閃光と大気を引き裂くような轟音が響き、ミサトがはっとそちらに注意を向けた時には、全てが終わっていたことを彼女は知った。<BR>
<BR>
　それと同時に、レイが膝からゆっくりと崩れ落ちた。<BR>
<BR>
　慌てて膝立ちになったミサトは、レイを抱きかかえる様に支えた。ミサトの胸に頭を預け、少女は徐々に瞳を閉じた。少女の呼吸が規則的なものに変わっていくことを確認したミサトは、ほっと緊張を解く。<BR>
<BR>
　ミサトは、そっと地面に横たえたレイの左手が、隣に座り込んでぼんやりしているシンジの右手に繋がれたままなのに気付いた。<BR>
<BR>
　無意識にそれを引き離そうと手をかけたミサトは、熱い物に触れでもしたかのようにぴくりと体を引いた。それは自分がしてはならない事のように思えた。<BR>
<BR>
　突風がミサトに吹き付け、制帽を飛ばした。押し込めていた髪が解かれて、緩やかにたなびき顔にまとわり付く。むっつりして目を細める彼女が空を見上げた。<BR>
<BR>
　数機のＶＴＯＬが彼らの上を取り囲むように滞空し始めていた。<BR>
<BR>
　機体側面の細く開けられた扉の隙間から、優秀な狙撃手が自分の眉間に向けて照準を合わせているであろう事を確信し、ミサトはやれやれといった調子で両手を上げて立ち上がった。<BR>
<BR>
　ちらりと落とした視線の先では、安らかな寝顔で横たわる小さな少女の手が相変わらず少年の手を握り締めていた。<BR>
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</TD></TR></TABLE></CENTER>
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