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SpiCata


第六話 融けない、氷




 人工的な闇の中に浮かび上がる老人達の視線が、1人の男に向けて注がれている。

 碇ゲンドウは部屋の中央で手を後ろに組み、ゆったりと立っていた。10人程の老人がゲンドウの周囲を取り囲み、油断のない目付きで彼の表情の奥に隠れた物を読み取ろうとしている。無言の詰問を無表情で受け流すゲンドウの目は、真正面にいる大柄な老人の顔に向けられていた。

 顔面を覆うアイマスク状の器具のスリット部分が発する鈍い赤色光には、微かな威圧の感情が込められているように見えた。ゲンドウは老人達の中でも最も強大で危険な男の言葉に、静かに耳を傾けていた。

「今回の事件、使徒はエヴァンゲリオン弐号機を目標として出現した、という見解がネルフより提出されている。これに相違無いな、碇」

「はい」

 淡々としたゲンドウの答えに、老人達が口々に愚痴とも議論ともつかない会話を交わす。押し殺したざわつきの中で沈黙を守っているのは、ゲンドウとその正面にいる老人だけだった。

「想定外の事象だな」

「エヴァ弐号機が使徒の標的になるとはな。今後のシナリオにもいささか不安が残るぞ」

「これ以上のイレギュラーは危険ではないか」

「ある程度のリスクは致し方あるまい」

「こればかりはな。人間と違ってカネで買えないのが残念だよ」

 ゲンドウは老人達の呟きにまるで無関心といった面持ちで、目の前の1人の老人が発する圧力を静かに受け止めていた。

「碇」

 その一言で場が静まり、ゲンドウの正面に立つ老人に全員の視線が集まる。

「今回の事は不慮の災難として処理しよう。だが、スケジュールには遅延も修正も認められん。これは『人類補完委員会』正式の言と心得ておけ」

「承知しております、キール議長」

 ゲンドウの答えと同時に老人達の投影映像は音も無く消えた。ネルフ本部司令執務室の窓も透過性を取り戻し、室内に明るさが戻る。ゲンドウは視線をちらりと外界に向け、緑に満ちたジオフロントを見下ろした。


──────────


 厨房の奥から、鼻をくすぐる様々な匂いを包んだ暖かく湿った空気が流れてくる。列の最後尾に回り、レーンの上にトレイと食券を置いて順番を待つ。間もなく、トレイの上に湯気をもうもうと立てている丼が乗せられた。

 葛城ミサトは昼食を胸の前に持ったまま、食堂の中を見回した。不幸にも、一番混み合う時間帯のようだった。空席を探しながら奥へ奥へと進む。どの方向を向いても談笑と食器の鳴る音が満ちていた。

 自分が姿を現した瞬間、周囲の空気が微妙に変化したことにミサトは気付いた。

 背中に向けられる冷たい視線を感じながら、ゆっくりと足を進める。ミサトは立ち止まり、さり気なく辺りの様子を窺った。露骨な態度でミサトから目線を外し、顔を寄せあって囁きあう職員もいた。

 小さく肩をすくめて、ミサトは再び歩き始めた。

 ジオフロントを見下ろす窓際のテーブルにようやく空きを見つけた彼女は、軽くため息をついてそこに歩み寄り始めた。

 そこは彼女とは別の方向から、2人の人物が同時に近付いているテーブルでもあった。

「げっ」

「よう」

「あら」

 その3人はテーブルの前でトレイを持ったまま、数秒間互いに顔を見合わせた。


──────────


「こういうの、懐かしいな。大学の頃に戻ったみたいでさ」

 加持リョウジが人懐っこい笑顔を浮かべながら焼き魚の身を箸でほぐしている。

「3人が並んで座る日がまた来るなんて、思いもしなかったわ」

 赤木リツコはコーヒーで喉を潤しながら、パスタを口に運ぶ。

「………」

 ミサトはうどんをすすりながら会話に加わる素振りも見せなかった。

 とりとめもない話をしている加持とリツコの横で、ミサトはひたすら食べる事に専念していた。学生時代には周りが圧倒される程の量を誇っていたミサトの口数の多さだったが、この場ではその栄光も鳴りを潜めていた。

 それは年令を重ねることで彼女が得た落ち着きのせい、などと言うものでは当然無かった。組織内部における自分の微妙な立ち位置から来る、この同席者達への苦手意識の様な物が彼女の口を重くさせていた。

 それとは別に、エヴァの運用計画立案に際し生じている、作戦部への反発じみた動きも少し気になっていた。遠回しの表現ではあったが、エヴァの運用は技術部主導であるべきだ、という勧告がいくつかのセクションから正式に上げられていた。

 日向マコトとの雑談の中でそのような動きがあると彼から聞かされた時も、ミサトは苦笑いするしか無かった。作戦部への感情というよりは、自分個人への感情が大きいのかも知れない、とミサトは思っていた。

 技術部が批判の的としていたチルドレンの安全管理についての考慮不足、という点はミサトも自覚していた。チルドレンの生命が優先されなければならないのはミサトも承知しているが、それは使徒との戦いでは二の次にするべき事項だという結論に、彼女はとうの昔に行き着いていた。目的は使徒に勝つ事であり、チルドレンの生存では無い、と。しかし、敢えて反論しようというつもりも無かった。自分の行動に余程の悪影響が無い限り、大抵の事は無視するつもりだった。

 とは言え、感情的な面で言えば、彼らの言い分も理解できない事は無かった。日々の実験の中でパイロットと直に触れ合う機会の多い技術部の人間ならば、チルドレンに情が移るというのは十分理解できた。しかもそれが年端も行かない子供なら尚更だろう、と。

 しかしどう言い繕おうが、必要ならば死ぬのが当然という立場にいるのがチルドレンであるとミサトは知っていた。そして、その彼らをネルフの連中がどう扱おうがミサトの知った事では無かった。

 さっさとこの場から離れようと、ミサトは黙々と麺を口の中に放り込む。その横で、いつの間にか一足早く食事を終えたリツコが煙草に火を着けた。

「そう言えば、正式に辞令出たわね。リョウちゃんの本部出向」

「ええーっ!?」

 テーブルに両手を叩き付けて腰を浮かせたミサトの顔が驚愕に凍り付いた。彼女を見つめる加持の瞳に、からかうような微笑が浮かぶ。

「そういう事なんで、よろしく」

 そう言って、彼は箸でVサインを作ってミサトに向けた。彼女は椅子にどっかりと座り込むと、癪に触る彼の笑顔から目を逸らして窓の外を眺めた。眼下に茂る緑を見つめてどうにか心を落ち着けようと試みる。頬杖をついて外を眺めながら、ミサトは不満げに呟いた。

「聞いてないわよ」

「言ってないもの」

 しれっとした顔で煙を吐き出すリツコの声には、どことなく嬉しそうな響きが混じっていた。昔の自分を知られている人間と接するのが、これほどやりづらい物だとはミサトも思っていなかった。

 ため息をついて食事を再開しようと箸を取ったミサトだが、その動きがぴたりと止まった。彼女は視線を彷徨わせてわずかに考え込み、口を開いた。探るような目が加持に向けられている。

「こっちでもアスカ絡みの仕事なのかしら?」

 作戦部のトップとしてパイロットと関わる人間については一応把握しておく必要があるだろうとの考えでもあったが、それ以上に加持に対して抱いている不信感が、ミサトにその質問をさせた。

「まさか……セカンドチルドレンの本部着任と同時に、随伴任務もめでたく終了さ。俺は昨日付けで本部特殊監査部に配属。今日も朝からあちこちに挨拶回りだよ」

 さも疲れたように自分の肩を揉みながら、加持がおどけた顔を見せる。ミサトは彼に対する疑念が高まる一方であったが、それをこの場で表情に出すような事は無かった。自分が知らない何かを知っているであろうこの2人に、心の内を読まれるような行動は出来るだけ避けたい、という計算がミサトの中で働いていた。

 しかし、それとは別の感情をリツコと加持に抱いている自分がいる事も強く意識した。セカンドインパクトの本当の意味を自分の目で確かめるためなら、どんなものでも切り捨てる自信がミサトにはあった。事実、ネルフと関わりあうまではそうやって生きて来た。それでも、3人でこうして顔を突き合わせていると自分が心の中に積み上げて来た防塁のどこかが揺らいでくるような気分になっていた。

 ただの気のせいだとしても、ミサトはそれを自分の弱さが生み出した物だと思った。これ以上誰かに感情をかき乱されるのを嫌ったミサトは、心を小さくして体の奥に押し込めた。そうするのが、他者との十分な距離を維持し、自分の心を誰にも触れさせずに済む一番簡単な方法だった。


──────────


 教室の中は、相田ケンスケが教科書を朗読する声だけが響いていた。午後の気怠い空気が大人も子供も分け隔てなく、彼らの意識の表面を少しだけぼやけさせている。

 山岸マユミは教科書を片手に教卓の後ろに立ち、朗読に耳を傾けながら視線を子供達の方に向けた。誰かを贔屓するような性格ではなかったが、最近の彼女の注意はどうしてもその人物に向きがちだった。

 教室の最後列に座る少女は、目を落として静かに文字を追っていた。ジオフロントの天蓋から注ぐ光と校舎の窓枠が作る影が、少女の白いブラウスと薄青い髪の上に落ちてなだらかな帯になっている。

 少女の赤い瞳は机の上に広げられた教科書だけに向けられ、それ以外の物へ視線が振られることは無かった。当然、隣の空席に少女が関心を向ける様子も全く無かった。今まで少女といつも一緒だった少年が座るべき席は空のまま、この日で2週間が経過していた。

 ネルフが少年の登校を取りやめさせた理由は分からなかった。健康上問題があるというわけでは無いということで多少の安心感を持っていたが、それでもマユミに少年の事を気にするなというのは無理な話だった。紫の巨人から降りて来る少年を見たあの時からずっと自分の中に淀んでいる感情は、錯覚などではないと確信していた。もしそれがただの同情だとしても、マユミが少年と関わるための理由としては十分だった。

 マユミが個人的に少年に会う事は特に構わないという回答が、ネルフ作戦部代表のミサトから返されたのが救いだった。マユミがミサトとそのやり取りをしていた電話の後ろで、技術部代表の女性がぶつぶつ呟く声が聞こえたような気がしたが、それには気付かない振りをした。

「はい、そこまで」

 一区切りついた所でマユミは朗読を遮りケンスケを座らせ、黒板に向き直った。すらすらとチョークを滑らせるその手に迷いは無かった。


──────────


 洋上での遭遇戦にてエヴァ弐号機が受けた損傷は、戦闘直後の報告を聞いたリツコが危惧した程の物では無かった。ダメージは全身にまんべんなく行き渡っていたが、左腕の骨格部に生じた亀裂も含めてそれらは通常の自己再生プロセスの許容範囲に収まっていた。適切な『食事』と『寝床』を与えて安静にしていれば、多少の傷は勝手に治癒する。それが人造人間たるエヴァシステムが持つ特徴の1つだった。

 それでも、この巨人は存在するだけで莫大なコストを消費するのは確かだった。その上ここに来て本部所属のエヴァは計3体となり、そのやりくりに技術部が頭を痛める度合いは増す一方だった。

「……という訳で、まず優先すべきは弐号機の損傷再生及び調整作業、というのが技術部の見解です」

 薄暗い室内で、皆が見下ろす大テーブルの表面ディスプレイが発する光が、説明を続ける伊吹マヤの顔を下から照らしている。第一検討室での作戦部と技術部合同の定例ミーティングには、いつも通りの面々が顔を揃えていた。

 この日議題となっているのは、現状では実戦参加がほぼ不可能な零号機と弐号機に、人手と時間をどう割り振るべきかの意見の取りまとめだった。人類の砦にしては、あまり恵まれていない台所事情のネルフであり、細かな部分での意志不統一が全体の足並みに影響を及ぼしかねなかった。とりわけ、その要たるエヴァの運用については細心の注意が要求されている。ここでの判断が使徒迎撃の成否を左右する、と言っても過言では無かった。

 ディスプレイに棒グラフで表示されている数パターンのエヴァ配備スケジュール案を、ミサトは注意深く見比べた。先の戦闘で目の当たりにした弐号機とアスカの能力は、ミサト自身がよく分かっていた。綾波レイに不足がある訳ではないが、パイロットを含めたシステムとしてのエヴァを考えると、戦力として一日も早く配備したいのはやはり弐号機の方だった。

 弐号機が単独で使徒を殲滅せしめたという事実が、別の意味でネルフ本部に勢いを与えていた。単に戦力が強化されるという事だけではなかった。それは今まで戦闘の中心を担って来た初号機がネルフの中で占めるウェイトの減少を意味していた。

 言い換えるならば、初号機のパイロットを唯一扱える『葛城ミサト』に頼らずとも、十分に使徒に対抗できるという自信が生まれつつあった。最近、職員から自分に向けられる視線が更に冷たくなった理由がこれである事もミサトは理解していたが、部外者である立場を十二分にわきまえている彼女が今さら特に気にする理由も無かった。

 何か疑問を呈するわけでもなく黙したままのミサトの横で、日向が口を開く。

「ドイツ支部の開発という事で、他の2体とメンテナンスや運用の勝手が違うなんてことはありませんか?」

 リツコが眼鏡の奥の瞳をディスプレイに向けたまま答える。

「まあ、動かしてみないと何とも言えないわね。何しろまともな起動実験すら未経験の機体だし」

 3年前のアスカの事故を契機に、本部の外におけるエヴァシステム起動実験が完全に禁止されているのは、この場にいる皆が知っていた。同時に、それだけのネガティブな要素を抱えてなお、あの不利な状況下で使徒を倒した弐号機とアスカのポテンシャルの高さが際立っていた。

 ミサトが周囲を見回して、皆の表情を確認する。

「特に問題なさそうね。それじゃ、弐号機優先で行きましょう。作戦部は前回までの戦闘記録を元に、初号機と弐号機の効果的な連携案を詰める方向で」

 堅苦しい会合から解放され、やれやれと解散していく人の流れの中で、マヤはミサトのその言葉を意外そうな顔で聞いていた。


──────────


 2人は、傾斜のついた壁面をゆっくりと下降していた。手すり代わりの金属製パイプが四方を囲っているだけの簡素な数人乗り用のリフトには、日向とマヤの2人が乗り込んでいた。リフトはネルフ本部施設深部の巨大な外壁に沿うように設置され、エヴァのケイジがあるフロアとその下層部を繋いでいた。

 胸の前で資料を抱えたマヤの視線は、リフトの進行方向にぼんやりと向けられている。彼女がぼそりと呟いた。

「葛城さんも結構迂闊ね」

「何が?」

 数枚綴りの書類をめくっていた日向は、ボールペンで頭を掻きながらマヤを見つめた。彼女は冷めた眼差しで、リフトの横を通り過ぎる鉄骨の数を何となしに数えている。日向の問いに答えるというよりは、独り言に近い口調だった。

「弐号機を推すことが、自分の立場を弱くするって事に気付いて無いのかしら」

「ん……さあねえ」

 ある意味マヤの指摘は事実だと、日向も思っていた。エヴァ弐号機の地位向上は、ミサトの地位低下に直結すると言っても良かった。皆がミサトに不審を抱いており、実際彼女を排斥しようという暗黙の合意のような物が出来上がっていた。そもそも使徒迎撃にそれ程情熱を抱いているように見えないミサトが最前線のトップにいる事を、人類の守護に理想と誇りを掲げているこの組織の人間が目障りに思うのは当然とも言えた。

 結果としては使徒の殲滅に貢献しているミサトなのだが、その過程が反感を呼び込んでいた。まるでゲームでも楽しんでいるようにパイロットとエヴァをもてあそんでいる、というような意味の遠回しな批判がされていた。ひょっとして彼女は死中に活を求めざるを得ない状況に自ら好んで飛び込んでいるのではないかと、日向も思うことがあった。

 そんなミサトがネルフに留まり続ける動機も、日向にしてみれば不透明だった。一度本人に訊ねたことがあったが、見事にとぼけられただけだった。シンジが見せるミサトへの不自然なまでの従属的行動に情が移った、という訳でもなさそうだった。ミサトが敵対組織のスパイである、という馬鹿馬鹿しい噂はともかくとしても、相変わらず彼女から胡散臭さが拭えないのは事実だった。

 どちらにせよ弐号機への期待の高まりと共に、『独裁状態もこれまでか』という視線がミサトに向けられている。それは本人も感じているはずだが、彼女は他人からの評価と言う物に全く無頓着に見えた。それを、特権にあぐらをかいて中身が伴わない人間の最後の強がりだろうと憐れむ職員も多かった。これで少しは反省するだろうと冷笑する向きもあった。

 事実、3体のエヴァ運用指針もそれぞれ軌道修正が続けられており、『初号機』という後ろ楯を持つミサトに偏重していたパワーバランスは、確実に是正されつつあった。これで健全な組織運営が取り戻せるという安堵感が各所で流れ始めていた。

 しかし、敵を油断させておいて後ろから噛み付くのは、作戦としては基本中の基本だと、日向は思っていた。

 願わくは噛み付かれるのが自分ではないようにと思いながら、日向は書類に目を戻した。


──────────


 オレンジがかった光がジオフロントに射し込む。地上から導かれて来た夕陽の色が、地底空間の中に存在する物全てを平等に赤く染め始めていた。

 常に同じ角度で一様に注ぎ込まれる外界の光は、時間によって影の長さを変えさせる事は無かった。夕陽の赤い輝きでありながらほぼ真上から照らされるその光は、そこに作り出された影を見る者にほんの少しの違和感を与えている。

 日々の仕事の一環として教室の戸締まりを確認したマユミは、職員室に戻ろうと人気の無い廊下を歩いていた。窓の外から屋内を照らす赤い光が、彼女の眼鏡や長い黒髪に強いコントラストを描き出している。ネルフのお膝元であるこの地下空間で空き巣の心配と言うのも妙な話だったが、一応建物の施錠だけはしておこうという学園側の判断だった。既に児童は皆帰宅している。彼女の足音だけが静かな校舎の中で、はっきりと響いていた。昇降口から職員室へと抜ける廊下を進みながら、マユミは何気なく外の景色に目を向けた。

 校舎の外周に植えられている樹木の陰にその姿を見つけたのは全くの偶然だった。

 少しの躊躇いの後で、マユミは昇降口で外用のサンダルに履き替えて表に出た。グラウンドで高等部の生徒がクラブ活動に励んでいるかけ声が、小さく響いている。マユミは花壇の間を通り抜けながら、その小さな姿に近付いていった。モスグリーンの地味な手提げ鞄が木の根元に置かれ、それの持ち主は木を背を向けて立ち尽くしたまま、視線を前に投じている。グラウンドで走り回る運動部に関心を向けているわけでも無かった。

 少女は自らの瞳に似た色へ染まり始めた世界をただ黙って見つめていた。

「綾波さん」

 レイは両手を自然に下げた直立姿勢のまま、顔を横に向けてマユミを見上げた。マユミはレイの表情から何かを読み取れるかと期待したが、その望みは今日も叶わないようだった。色彩に乏しい少女の肌と髪は、夕陽の赤に容易く染め上げられていた。マユミは自分でも意外なほど自然に浮かんできた穏やかな笑顔でレイを見つめた。

「まだ帰らないの?」

「夕食までは自由時間なので、それまでに『戻れば』問題ありません」

 少女が『帰る』ではなく『戻る』という言葉を使った事で、マユミは僅かに現実へと引き戻される。レイは視線を正面に戻し、再び景色を眺める。わずかなやり取りの間に少しだけ周囲に暗さが混じり出したように思えた。

「……何を見てるの?」

「分かりません」

 マユミはレイの横に並び、自分も同じように景色を眺めた。そうすることで少しでもこの少女の心に近付きたかった。この学園の周囲は背の高い木々が作る森林が広がっているため、遠くに向ける視線は自然にやや上方へと流れる。遥か彼方、やや霞んで見えるジオフロントのカーブがかった内壁に斜めに張り巡らされているリニアレールが、所々光を反射して煌めいていた。

 圧倒的なスケール感を持つ人工の風景に目を向けたまま、マユミが静かに口を開く。

「先生ね……次の日曜、碇君に会いに行こうと思うの。急に学校来なくなって心配だから……葛城さんも理由はよく知らないみたいね」

 ちらりとレイを横目で見下ろす。少女は右手を胸の真ん中に置いたまま、少し俯いていた。軽く握られた小さな指が、白いブラウスの生地に押し当てられている。まるで何かの記憶を辿ろうとするような仕草で、視線を小さく左右に動かしていた。

 自分の言葉が、この少女に何か動揺を与えてしまった事に気付いた。

 考える前に勝手に体が動いていた。マユミはレイの後ろから、少女の体を両腕でゆっくりと抱き寄せた。初めて触れるレイの体は余りに小さくて細く、軽く力を込めただけであっさりと手折れそうに思えた。レイの儚げな鼓動を衣類越しに体で感じながら、マユミは後ろから回した右手を少女が胸に当てている右手に重ねる。

 レイは特に抗うような仕草も見せず、なすがままにされていた。少女は重ねられた手からマユミの体温を黙って感じていた。そして、徐々に夜へと近付いていく世界に再び視線を戻した。

 少女を後ろから抱き締めたまま、マユミは別の話題を探した。

「……学校は楽しい?」

「分かりません」

 マユミはレイの頭の上でくすりと笑いを漏らした。髪をくすぐるその息遣いに、レイはちらりと上を見上げる。彼方へと向けられたままのマユミの視線を追って、レイも同じ方向を見つめた。マユミが自分を抱き締める力が少し強くなった気がした。

「みんなとは仲良くしてる?」

「……分かりません」

 多分それでいいのだろう、とマユミは思った。この無垢な少女にとって、この世界はあまりに複雑で残酷すぎる。それでも少女は生きていくしか無かった。他人の生の為に、死と隣り合わせの道を否応無しに進まされ、心の中から何かを刈り取られた子供達。彼らは見返りを求める事も無く、淡々と自分の命を削ぎ落として、この世界に明かりを灯し続けている。自分にそこまでして生き残る価値があるのかどうかは分からないが、この子供達にも未来へ進む権利があるはずだとマユミは思った。

 それでも自分は無力で、子供達を受け入れることしか出来ない。今のマユミにはそれしか出来なかった。

「一番よくお話ししてるのは洞木さんと、かな?」

「はい」

 常に近寄り難い壁を作り続けているレイに、クラスの中で唯一洞木ヒカリだけが積極的に話し掛けていた。話題はもっぱらランチボックスの中身のことのようだった。給食制度のないこの学園では、昼食は持参もしくは購買コーナーで、ということになっている。レイがネルフの職員食堂から支給されている弁当は、作る人間が気を利かせているのか、妙に家庭的なメニューが多かった。

 最近料理を始めたというヒカリがそれに興味を持ったようだった。ヒカリがレシピをレイに訊ね、レイが食堂の人間からそれを聞き出してヒカリに伝える、というやり取りがこれまで少なからず交わされていた。レイはそれを極めて事務的にこなしていたが、ヒカリは無邪気に楽しんでいるようだった。今ではヒカリが半ば強引に押しきる形で、彼女とレイは席を並べて昼食を取るようになっていた。

 チルドレンの食事担当者は、どうも気さくな人物でそれなりの地位もあるらしかった。一応は本部施設の一部であるはずの職員食堂に、良かったらヒカリを連れてこいとレイに言い含めてあるようだった。顔も知らないその人物にマユミは好感を抱いていた。

「ネルフの……お仕事は大変?」

「問題ありません」

 マユミは体を少し傾けて、レイの表情を上から覗き込んだ。少女はやや上目遣いで景色を見つめている。白く薄い肌の色が夕闇の中に浮かび上がっていた。

「葛城さんから聞いたんだけど、ドイツから新しく……女の子が来たんですってね」

「はい」

「その子は学校には来ないのかしら?」

「分かりません」

「そう」

 最後までレイが能面のような表情を崩す事はほとんど無く、肌を通して伝わって来る鼓動と体温だけが、少女から感じられる全てと言って良かった。少女の顔から視線を外し、マユミは辺りを見回す。グラウンドからは既に人はいなくなり、いつの間にか薄暗さが周囲を支配しつつあった。空気から暖かさの逃げていく感覚が、マユミの体に忍び寄る。

 マユミは冷えようとする体を守るように、少女を抱き締める力をわずかに強くした。今日はもう少しだけここにいようと思った。


──────────


 24時間常に明かりが絶やされることのないこの空間だが、今は普段の喧噪もどこかに消え、遠くで唸る機械の作動音が耳に感じられている。数人の作業員がケイジに隣接する休憩スペースで夜間待機の任にあたっており、そこからぼそぼそとした話し声が僅かに漏れていた。エヴァ弐号機の修復作業は順調に進んでおり、同時に行われているMAGIシステムとのリンク作業もこれといった問題は生じていなかった。

 予告無しに出現する使徒に備えるためには、1分1秒も時間を無駄にすることは出来ない。しかし、エヴァという『生き物』を相手にする場では作業工程上の待ち時間というものはどうしても発生し、その時間は人間の休息に利用する事で有効に使われていた。

 拘束ブリッジに固定され、肩まで赤い冷却液に浸されている弐号機の両腕には巨大なチューブが何本も接続されている。素体構成材料や触媒の注入管、組織再生状況の監視用プローブが内蔵されているそれらのチューブは、時折脈打つような動きを見せながら、冷却液の中に浮かんでいた。

 惣流・アスカ・ラングレーは弐号機に挿入されたエントリープラグの中から、外の様子を眺めていた。ケイジとしての機能性を重視した空間設計が辿り着く先は、ドイツも日本も大差なかった。しかし、その類似性が少女に郷愁を感じさせるような事はなかった。彼女の故郷は他のどこでも無く、この金属製の円筒体の中だけに存在していた。

 アスカの手元に、音も無くウィンドウが表示される。一定間隔ごとに自動的に行われるプラグ内部のシステムチェックの結果を示す物だった。『正常』を意味する、警告音無しの結果表示は、少女の視線どころか関心すら引き付ける事は出来なかった。

 緊急時の発進手順に費やされる時間を極力減らす為に、弐号機には『常に』プラグが挿入されたままになっていた。当然、エントリープラグの中が世界の全てであるアスカも、常に弐号機の中で過ごしている。食事、睡眠、排泄を含む全てが管理されたスケジュールの中で行われていた。しかし、アスカは概念としてのプライバシーは知っていても、それを望んだ事は一度もなかった。

 他人が自分をどう評価するかということに興味は無かった。他人という物は、エヴァの最も重要な部品の一つとしてセカンドチルドレンをメンテナンスし、あるいは自分に何らかの命令を与えるだけの存在である、というのが彼女の理解だった。

 誰かが自分に向ける好意や嫌悪という感情が何を与え、または奪うのか、彼女の価値観にとってそれは余りにも曖昧で評価の対象外だった。少女は他人が持つ人間的価値といった物に頓着せず、それは自分自身についても同様だった。

 この日は既に全ての作業を終え、アスカは精神をどこかに集中させるわけでもなく、限られた世界の中で目や耳が知覚する情報の中に意識を自由に漂わせていた。弐号機の視覚センサーを通して、全方位モニタに投影されている赤い水面とケイジ壁面の境目あたりをぼんやりと眺めていた。

 指定されていた時間がやって来た事を、彼女の無意識の計時感覚がやや強い刺激と共に知らせて来た。アスカは反射的に時刻表示に目を向け、その感覚が正しい事を確認した。通達されているスケジュールでは、その指定時刻に至るまで20秒を切っていた。

 アスカはプラグ内部の照明を落とし、目を閉じた。意識の中で常に明晰な論理性を保っている思考の連続体を、不規則なイメージの塊として心から切り離す。少女の小さな肉体は弛緩し、十分なリラックス状態へと速やかに移行していった。

 これが少女にとっての『眠り』だった。


──────────


 マヤは、制御卓に埋め込んである小型モニタの中の少女が瞳を閉じる様子に目を奪われていた。闇の中で眠る少女を監視する為に、プラグ内部のカメラは暗視モードに切り替わっている。キーボードに乗せた自分の指が止まっている事に気付いて、彼女は慌てて元の端末に目を戻して作業を再開した。

 少女は『正確』にスケジュールに沿って行動していた。一応の目安でしかないと思っていた就寝予定時間に数秒と違わず、少女の脳波は睡眠状態へと移行していた。即効性の薬物の力に頼るわけでもなく、自らの意志で完全に制御されている少女の行為は、マヤを魅了していた。

「……凄い」

 腕や脚が失われたアスカの体を見ると胸が痛んだが、この少女の才能はそんな理由で眠らせていい物ではないと、マヤは考えていた。きっとアスカ本人もそう望んでいる筈だと思った。そうでなければ、エヴァに文字通り身を捧げるような選択をするわけがなかった。こんなに小さな少女が人類の為に必死に戦おうとしているのだと思い、マヤは胸を熱くする。そして自分達のような大人も、この少女の思いに全力で応えなければならないと気を引き締めた。

「え?何か言った?」

 隣で同じように端末のキーを叩いているリツコが、視線をモニタに向けたまま訊ねて来た。弐号機格納ケイジを見下ろす制御室では、2人を含めて数名の技術部職員がおそらく徹夜になる筈の作業を続けていた。

「あ、いえ。何でも」

 その声に不審を抱いて、リツコがマヤの方をちらりと見る。口にくわえたペンを上下に揺らしてリズムを取っている。それは彼女の体が煙草を求めている証拠だという事をマヤは知っていた。リツコはマヤが視線を向けていたと思しきモニタに目を止め、呟いた。

「ああ。アスカね」

 それほど興味をそそられないといった表情だった。マヤはリツコのその口調にも気付かないほど舞い上がりつつあった。

「……この子、凄いです。人間が訓練で到達できるレベルを超えています」

 目を輝かせるマヤから視線を外して、リツコは頬杖をついてモニタに目を戻す。マヤは自分自身が発した言葉で更に気分が高揚しているようだった。まあ、仕事に支障がなければいいだろうとリツコは思った。

 画面にはデバッグツールが開かれ、複雑なプログラムソースの中に存在するコーディングエラーと疑われるポイントに、警告レベルに応じた色のマークを付与する作業を自動的に続けていた。

 モニタの隅には各グループの責任者がリツコと技術的な質疑応答をリアルタイムで行うための対話用ソフトが動いていた。少し目を離しただけで既に10通近い問い合わせが寄せられている。リツコは素早い指使いで1通当たり数秒のペースで回答を返しながら、マヤに向かって言った。

「これで少しは楽になるといいんだけどね」

「なりますよ」

 自信満々に断言するマヤ。アスカと弐号機の実戦配備は、少なくともマイナスにはならないとリツコも思っていた。確かに、リツコの目から見てもこの少女は間違い無く天才だった。

 ミサトが提出した戦闘報告書の所見はもとより、リツコが注目したのはコクピット内部のレコーダーから回収されたエヴァの活動記録だった。弐号機がMAGIと未接続の状態での戦闘だったためそれは断片的な記録であったが、そこから読み取れる少女の人並み外れたパイロットとしての才能は、リツコの技術者としての感性を刺激した。

 MAGIのサポートも無い状態でエヴァを自在に操り、あまつさえ決して無能とは言えないドイツ支部の技術チームが往生していた『タンデムシンクロ』の実用化を、使徒との戦闘の真っ最中に成し遂げてしまった。適格者の中にこれほどの才能を持つ人間が存在した事実だけでも、人類は幸運に恵まれていると言うべきかも知れなかった。

 しかし、リツコが最も興味を引かれたのはアスカの精神的な強靱さだった。使徒との戦闘中にプラグの内部映像カメラや生体モニタが記録した少女は、いかなる状況でも自分の命さえ単なる要素の一つと捉えているような振舞いだった。決して揺るがないその精神は、ある意味碇シンジに通じる物があった。

 リツコはこの少女がドイツ支部で育って来た環境は十分知っていた。人類の生存の為には完璧なパイロットが求められ、従ってこの少女から曖昧で不安定な人間的感情を取り除くことが必要である。アスカを育てるにあたって、ドイツ支部の技術者がそう判断したということを容易に推測させる物だった。

 そして、その試みは十分成功しているように見えた。ドイツ支部が送ってきた報告書の端々から読み取れる、セカンドチルドレンの育成結果に対する自信は正当な物だった。3年前の事故による身体的なハンディキャップも、この才能の前にはあまり意味をなさなくなっていた。むしろ、パイロットの完全な管理のためには、今のアスカの体の方が好都合なのかも知れないとリツコは思った。

(『管理』……か)

 だが、自分達はこの少女を本当に管理できているのだろうか、とリツコはふと疑問になった。生命維持装置を兼ねたエントリープラグの助けがなければ数時間と生きられないこの少女は、大人達に反抗することなどあり得ない筈で、事実そうだった。物わかりが良く、しつけの行き届いた従順で優秀なパイロットであると、ドイツ支部だけでなく本部の人間までもがそう信じている。しかし、リツコはその見方に若干の不安を感じていた。

 アスカが見せる驚異的な才能は、少女の『優秀性』ではなく『異常性』がもたらした物に思えてならなかった。

 『天才パイロット』や『セカンドチルドレン』という表現は、アスカの本質を示すにはまるで言葉が足りない気がしていた。自分達が目にしているこのアスカの才能や振る舞いは、少女の本質が潜む深い淀みの様な場所から水面へ気まぐれに浮かび上がってきた、小さな泡のような物にすぎないのではないか。人間の価値観でこの少女を理解できると考えるのは、とんでもない思い上がりではないか。そんな風に考えることが時折あった。

 物思いに沈むリツコの視線が、モニタの片隅で動く物に引き寄せられた。

 画面の隅でアイコンが点滅していた。リツコはキーを叩いて、そのアイコンを開く。チルドレン3人の1日の活動報告を簡略化したドキュメントが、リツコのメールボックス宛に転送されていた。保安部からは日常の行動記録、技術部からはチルドレンを動員した作業記録の要点がリスト形式で報告されてきている。全く同じ物がミサトにも送られている筈だった。今日も子供達はトラブルを起こす事も無く、スケジュールに忠実に従っていた。

 シンジとの私的接触を絶つようにしてから、レイの心理面は安定しているように見えている。というより、『あの瞬間』のレイの言動だけが異常なまでに情緒に満ちあふれていた、と言うべきかも知れなかった。使徒との戦闘の際にレイが見せた感情らしき物は、限界を超えたATフィールド展開よる精神的ストレスが起こした一時的錯乱に過ぎない、という可能性もあった。実際、戦闘の前後でレイの心理的傾向は殆ど変化は無かった。シンジとレイを別行動させるべきだと進言したリツコの根拠も、大部分は彼女の私見による物だった。

 シンジの行動については、何の変化も無かった。どんな処置を試しても変わる事のない機械的な人格は、誰の手にも負えない物としてほぼ結論付けられていた。変化があったとすれば、それは周囲の環境の方だった。ネルフの内部において、この少年に感情の回復を求める理由は少しずつ低くなっていた。意思疎通もままならない1人のチルドレンに対する見込みのない心理療法で時間を費やすよりは、他の御しやすい2人のチルドレンに対してより力を注ぐべきだという流れになっていた。

 これも危険な傾向かもしれない、とリツコは思っていた。

 シンジの特異性の影に隠れて、レイとアスカがあたかも正常な人格であるかのような印象を少なからず与えていたが、3人のチルドレンは漏れなく全員が異常な精神を持っていた。それがマルドゥック機関の『教育』の賜物なのか、あるいは彼らを適格者たらしめている『何か』がその原因なのか、その真実の在り処はリツコの理解を超えていた。

 そして、この子供達の感情面とは別の部分、理性面での素地を作り上げたマルドゥック機関の能力にリツコは背筋をわずかに冷たくした。子供の学習能力は確かに大人の感覚からすれば底知れない物だが、チルドレンの行動から垣間見える判断力や集中力は、単なるスパルタ教育で身につく種類の物とは思えなかった。

 そこまで考えて、リツコは目を閉じてまぶたの上から指で軽くマッサージした。自分の心に次々と浮かんで来る余計な思考が、疲労がたまっていることを示唆していた。

 メールボックスにまた一つ新しくメッセージが届いているのに気付いた。ドイツ支部から転送されて来たことを示すそのドキュメントは、リツコにとっては開く前から内容が分かっている物だった。

 リツコは、胸の奥にまた一つ重い疲労が積もるのを感じた。


──────────


 冬月コウゾウはソファにゆったりと腰掛け、湯飲み茶碗を手に取った。器の七分ほどまで注がれている液体の緑は、心を落ち着かせる効果を持っているように思えた。中身を一口だけ味わい、ガラステーブルの上に湯飲みをそっと戻す。

 背中を後ろにもたれかけさせて、天井を眺める。司令執務室の暗い照明は考え事をするのには向いていた。腕を組んで、ふっと斜め後ろの机に視線をやる。

「例の回収作業はどうする」

 冬月の問いに、ゲンドウは両手を顔の前で組んだまま答える。

「あの男に一任してある」

「……少しばかり性急ではないか?」

「いつまでも『あそこ』に置いておく訳にもいくまい。これに関しては一刻も早く事を進める必要がある」

 ゲンドウは窓ガラスに目を向けた。完全な闇に支配されたジオフロントの様子を室内から見る事は難しかった。それでも、彼が視線をその闇から外す事は無かった。ゲンドウはそのまま言葉を続けた。

「ドイツからの正式な技術報告を元に、本部が正式に作業を行う。問題は無い。誰も疑わんさ」

「キール議長は疑い始めているぞ。今すぐ我々を更迭、というわけでも無いだろうがな」

 冬月の指摘にゲンドウは押し黙ったまま、微動だにせず眼鏡の奥からその視線を闇に向けていた。いかにも呆れた、といった感じで冬月が肩をすくめて苦笑する。こんな時、かつて1人の女性がこの男を評した言葉は愉快なほど的確だったなと、冬月はつくづく感じる。

「まあ、良かろう。お前の好きにするがいいさ」

 そう呟いて、冬月は再び湯飲みを手に取り、少しだけ冷めた茶をすすった。


──────────


 その少年は飽きもせずに天井を眺めていた。部屋の片隅から自分に向けられる視線を気にする事は当然無く、照明が消された空間で寝台の上に横たわっている。

 シンジが暮らしている職員宿舎の個室には、彼以外にも1人の人物が存在していた。彼女は薄暗い部屋の隅でソファに腰掛けていた。軽く身を乗り出して肘を太ももに乗せ、猫背気味の姿勢で少年を静かに見つめていた。闇の中で、彼女の瞳だけがざらつくような光を帯びている。

 ミサトは仄かに明滅する腕時計のデジタル表示に目を凝らす。暗がりの中、少年の様子を観察し始めてから30分程が経過していた。何かを期待していたわけではないが、ミサトがそばにいる事でシンジが特に変化を見せることは無かった。

 シンジは瞳を薄く開いたまま、規則的な呼吸を繰り返している。

 ミサトはゆっくりと立ち上がり、ベッドに近付いた。首を傾けて、少年の顔を見つめる。薄気味悪いほどに無反応を貫くシンジの視線を、自分の顔で遮った。少年の視線はミサトの頭を突き抜けた後ろの、何も無い空間に焦点を結んでいる。

 顔を上げたミサトは何も無い壁を見つめ、口を結んでしばらく考え込んだ。やがて彼女は軽く息を吐き出すと、闇の中で死体のように横たわる少年に何も言葉をかけることなく部屋から出ていった。


──────────


 ミサトは空いている端末の椅子に腰掛け、両手を頭の後ろで組んでいた。周りで忙しそうに動き回るエンジニア達を気にする様子も無く、大あくびをして目をこする。制御室のガラス窓の向こうに眠たげな視線をさまよわせた。3本のエントリープラグが、赤いプールの水面にその底部を浸す位置で斜めに固定されている。

 アスカが常に弐号機の中に拘束されている形であるため、このようにチルドレン3人が同時にシンクロテストを行うというのは初めての試みだった。シンジとレイは普段通りテストプラグを使用しているが、アスカについては当然、弐号機に使用しているエントリープラグをそのまま使った作業だった。

 制御室に置かれた3台のモニターにチルドレンの様子が映し出されている。プラグスーツを身に着けたチルドレンの全身を確認できるカメラアングルだった。ミサトは背もたれにもたれかかって顔を上に向けたまま、目だけをぼんやりと動かす。退屈そうな視線で子供達の映像を見つめた。レイとアスカは目を閉じて静かに意識を集中しているようだった。

 ミサトとリツコの立ち会いで、この2人の少女がモニタ越しに初めて顔を合わせたのはアスカが来日した次の日の事だった。アスカの肉体そのものには戦闘によるダメージは皆無だったため、2人を会わせるくらいは構わないだろうという判断だった。この2人の性格では、9歳の女の子同士だからといって意気投合し話が弾むとも思えなかったが、彼女達には良い関係を築いて欲しいと周囲は考えていた。しかし結局、レイとアスカは何も言葉を交わす事無く、そのまま初顔合わせは終了した。それはミサトとリツコにとっては予想通りの結果だった。

 細部の構造が他の2つと異なるエントリープラグを、ミサトは窓から眺めた。そのプラグは、1人の少女をその内部で生き長らえさせる事を第一目的として設計された物だった。その上、医療チームが1分以内に駆け付けられる位置で24時間体制の待機についており、少女の体に起こりうる突発的なトラブルへの監視を続けている。世界最高のテクノロジーを投入した機械仕掛けの金属水槽の中で数年間、いや、恐らくは命が尽きるまで飼育される気分はどんなものだろうと思いながら、ミサトは口を開いた。

「これからもテストの度に、いちいち弐号機のプラグをここまで持ってくるの?」

「今回だけよ。たまたまスケジュールが合ったから」

 ミサトが座っている椅子の横に立ち、腕を組んで実験を見守っているリツコが答えた。その向こうで端末のモニタを見つめていたマヤが、ちらりと2人の方に視線を向ける。

「セカンドチルドレンと弐号機のエントリープラグはこのまま、解体メンテナンス用の特別作業棟に移します」

 しばらく斜め上に視線をさまよわせ、ミサトは自分の記憶を探った。数日前にサインした書類を思い出し、ああ、と頷いた。

「はいはい……アレね。そういえば書類回ってきてたっけ」

「そう。明日から1週間くらいかかるから」

 リツコが付け加えた言葉の中にミサトは『何か』を感じたが、彼女はその違和感を表情に出さなかった。ミサトは椅子にもたれかかると、何食わぬ雑談のスタンスを崩す事無く口を開いた。

「結構大がかりなのね」

「命に関わることですから。アスカちゃんの肉体と生命維持プラントを接合している部品に材質劣化の恐れありと、ドイツ支部より報告が来ました。その確認作業がメインです」

 マヤの口調が妙にとげとげしくなっていたが、ミサトの注意はリツコの方に向けられていた。初めは気のせいかとも思っていたが、この話題になってからリツコの態度が微妙に変化していた。それは友人として数年間付き合って来たミサトだからこそ気付いた、本当に些細な変化だった。

「何か頼り無いわねえ」

 心の中を隠したまま呆れ気味に呟くミサトに、リツコは弐号機のプラグを見つめたまま答えた。

「文字通りの特注品だから、扱いには慎重なのよ」

「検査項目見る限り、プラグそのものは弐号機に挿入したままで作業できなくも無いですけど……やっぱりきちんと分解して確認すべきですよね」

 マヤが何気なく漏らした言葉に、リツコが必要以上に冷たい口調で答える。

「そうね。念には念を入れて、ね」

 リツコが一瞬見せた躊躇いは微かな物だったが、その裏に隠された何かの思いをミサトが感じ取るには十分すぎる材料だった。ミサトはモニターに映る子供達を眺めながら、自分の心に浮かんだ直感が正当な物かどうか慎重に吟味していた。


──────────


 日向は発令所で待機任務の引き継ぎをする準備をしていた。この日は特に異常があるわけでもなく、平和に1日を終えられる筈だった。久しぶりに自宅でゆっくりできる時間を有効に使うべく、日向は掃除や洗濯の効率的な手順を頭の中でシミュレーションしていた。

 その人物は、気配を全く感じさせずに日向の背後に現れた。

「日向君」

 不意に後ろから耳元にかけられた声に一瞬動揺した。日向はいつの間にか自分の横に立っていたミサトの顔を見上げる。彼女の口調はあっさりとしており、これは何かのついで、といった雰囲気があった。

「セカンドチルドレンの情報って、ドイツ支部の部外秘項目から外れたのよね?」

「……ええ。弐号機の引き渡しと同時に、情報プロテクトレベルは下げられています。本部でもアスカちゃんに関する各データは閲覧可能になっていますが」

 狼狽えかけた頭を即座に切り替えて、日向は答えた。それなら良いという表情でミサトが頷いた。

「それ、全部まとめておいて」

「ええと……『全部』ですか?」

「そう。一つ残らず。あ、エントリープラグの仕様や運用情報も忘れないでね。それもアスカの『一部』だから」

 両手をジャケットのポケットに突っ込んだまま、ミサトはさりげなく周囲を見回した。日向は確認するようにゆっくりと口を開いた。

「かなりの量になりますよ……?」

「必要なデータの選り分けは自分でやるから、機械的にまとめて私のアドレスに転送しておいてくれればいいわ」

 恐らく自分の行動は何処かの誰かに筒抜けになっているはずだが、何を調べようとしているのか悟られる訳にはいかなかった。時間があればもっと念入りに偽装したい所だったが、それほど悠長に構えていられる余裕があるとは思えなかった。

 どこまで効果があるかは不明だったが、この他にも目くらましとしてミサトは独自にネルフのデータベースからエヴァやチルドレンに関する膨大なデータを引き出していた。とりあえずこれで自分の目的は曖昧にできる筈だと踏んでいた。少なくとも多少の時間は稼げるとミサトは思いたかった。

 日向は今一つ納得がいかないという表情だったが、やがてゆっくりと頷いた。

「はあ……分かりました」

「じゃ、よろしく」

 そう言い残して、ミサトは発令所から去っていった。未だに首を捻り続ける日向は、隣で同じく次のシフトの人間への引き継ぎ準備をしている青葉シゲルを見た。

「今の、どう思う?」

「さあね。お前さんの帰宅時間が何時間か先延ばしになった、ってことは分かる」

 意地悪そうに笑う青葉の指摘によって日向の中に生まれた憂鬱感が、彼が一瞬抱いたミサトに対する違和感をあっさり吹き飛ばした。


──────────


 シンクロテスト用の実験区画から、エヴァ弐号機のエントリープラグがクレーンで吊り出されていく。大型車輌のエンジン音や作業員が互いにやり取りしている大声が、実験区画とトンネル状の通路を連絡する空間に反響していた。作業員達が搬送用のトレーラーの荷台にプラグを手際良く固定していく様子を、加持は実験区画上方の通路から手すりに寄り掛かってぼんやりと眺めていた。

 トレーラーの前方に立つ作業員が誘導ライトを振って、ドライバーやクレーンオペレーターのもう1つの目としての役割を果たしていた。中に生きた人間が入ったままのエントリープラグを取り扱う作業は極めて慎重に行われ、1手順毎に厳重な安全確認がなされている。ジオフロントのサイズから言えばほんの僅かの距離である数百メートルを運ぶだけでも、うんざりするほどの時間が費やされていた。

 加持は自分の方に向かって来る1つの足音を認識していたが、彼がそちらに視線を移すことは無かった。金属製の通路の床を叩いていた一定のリズムが、加持の背中で止まる。

 ゲンドウは加持の隣に進み、手すりに指をかけて弐号機のプラグを見下ろした。加持は口元に小さく笑みを浮かべ、口を開いた。

「今の所、大きなトラブルはありません。やや遅れ気味ですが、誰にも気付かせないようにするのが肝要ですからね、この場合」

 独り言のように呟く加持の言葉に、ゲンドウが低く答える。

「ああ。君には手間をかけさせているな」

「仕事ですから」

 普段の砕けた口調が消えた加持は、トレーラーの荷台に固定されてゆっくりと移動していくエントリープラグをじっと見下ろしていた。


──────────


 夜の空気がゆっくりと流れて、穏やかな水面を撫でていた。

 森を背景にして小さな人影が闇の中に浮かび上がっている。その人影の視線は正面の湖に静かに向けられていた。靴を脱ぎ捨てた素足を通して、柔らかい草地の冷たさが伝わって来ている。ジオフロントの夜は静寂に満ちて、目を閉じれば完全に近い孤独を得る事が出来るほどだった。

 その時、レイは背後に気配を感じ、湖から視線を外した。

 白い人影がこちらをじっと見つめている。レイはその人物としばらく目を合わせた後、再び湖に視線を戻した。微かな光の下でも、少女の赤い瞳は深い輝きを放っていた。

 リツコは特に表情を変える事も無く、レイの隣に歩み寄った。レイは、サンダルが草を踏む音を背中で聞いていた。右手に持っていた携帯情報端末を白衣のポケットに戻し、代わりに煙草の箱を取り出して1本唇に挟む。リツコは少女と同様に湖面へと視線を向けたまま、静かに口を開いた。

「眠れないの?」

「分かりません」

 小さな硬い音と共に、ライターの明かりがリツコの顔を下から仄かに照らし出した。煙を一筋吐き出して上を見上げる。平衡感覚がおかしくなるほど巨大で暗い天井が広がっていた。最後に星や月を眺めたのはいつだったかしらと、闇の中に昇り消えていく煙を見つめながらぼんやり考えていた。

「赤木博士」

 レイが自ら他人に呼び掛けるというのは珍しい出来事だった。リツコは少女を見下ろした。レイの表情は前髪に隠れてよく分からなかった。ブラウスの袖から伸びる少女の白い手がやけに瑞々しく見える。レイは少しだけリツコの方に顔を動かした。

「弐号機パイロットは学校に通わないのですか」

 リツコはレイをまじまじと見つめた。アスカの事についてはレイにも説明していた。常識的に考えればそれは無理な話だと、この少女でも理解できると思っていた。自分の説明が悪かったのかと記憶を辿ってみるが、誤解を招くような表現をしたつもりも無かった。そんなに飲み込みの悪い子じゃない筈なのにと思いつつ、リツコは煙草を唇から外した。指先につまんだ小さな火を見つめながら、軽く目を細めた。

「……アスカはエントリープラグの外では生きられないわ。何故そんな事を聞くの?」

「学校でそう質問されました」

「山岸先生に?」

「はい」

 リツコはため息をついた。特別職員に関する情報保護規則をあっさりと無視する人間の心当たりは1人しかいなかった。

 チルドレンの情報は、おいそれと外部に漏らすようなことはできない。大衆のほとんどはチルドレンの存在すら知らない。そしてチルドレンの『真実』を知る者は更に少なく、ネルフ本部技術部長のリツコでさえそれを正確に把握しているとは言い難かった。

 マルドゥック機関がチルドレンに施した教育カリキュラムの内容は、リツコにも知る事を許されていなかった。更に、リツコが定期的にレイに施している作業も、ある人物が残したマニュアルを忠実に再現しているだけで、その意図についてまでは彼女の知識ですら及ばない所にあった。

 今はまだその片鱗さえも見出せないその真実に、自分の手が届く日は来るのだろうかと、ネルフ最高の頭脳らしからぬ弱気な考えが頭をよぎった。

 エヴァ、チルドレン、使徒。リツコはそれらを深く理解しているつもりだったが、完全な理解ではないことも承知していた。確証はなかったが、自分でも知らない何かが意図的に隠されていると感じていた。かといって、自らそれを探るだけの勇気は持てなかった。

 今の自分はただの傍観者だと思う。いや、今に始まった事では無い。昔からそうだったと、リツコは首を振った。

 偉大な科学者を母に持ち、自分はその付帯物でしかないと自覚していた。それは別段屈辱でもなく、そう考える事がリツコにとって楽な生き方だった。母親はことあるごとにあなたは自分以上の才能の持ち主だ、とリツコ本人に言い聞かせていた。しかし、リツコはそれをただの親の欲目だと今でも思う。期待されるのは悪い気分ではなかったが、母親を落胆させることも怖かった。誰よりも大好きな母を悲しませない程度に、その期待に応えて来たつもりだった。

 研究の道を選んだ事もその一つだった。特にやりたい事があった訳でもなかったが、こんな事で母が喜ぶならそれもいいだろうという軽い気持ちだった。学生時代を無難に過ごした後、いざ卒業というところに冬月からスカウトされた時も、あまり深く考えずにネルフ入りを承諾した。

 冬月はリツコ本人の能力だけを評価しての打診だったと説明していたが、おそらく母の差し金でもあるのだろうと、その時のリツコは思った。そして、それが母の望みなら自分に異は無かった。流されるまま足を踏み入れた世界だったが、この仕事は楽しかった。水が合う、というのはこの事なのだろう。リツコはそれが自分の才能では無く、自らの適性を正確に見抜いた母や冬月の慧眼による所が大きいと思った。

 ネルフで働くようになってからも、リツコのスタンスはあまり変わらなかった。大した出世欲も無く、一介の研究者として進んで行くつもりだった。

 しかし、あの日を境に全てが変わった。

 一身上の理由による退職、として母はネルフを突然去った。一人娘であるリツコにすら何も告げずに彼女は皆の目の前から消え失せた。ゲンドウと冬月は後任にリツコを据えると、ネルフ本部における技術面の一切を任せた。母はその知識を緻密に系統だった文書として残していたため、業務において大きな支障が生じる事はなかった。

 リツコは、行方知れずになった母を探す事は初めから放棄した。母との決別は、自分でも驚くくらいにあっさりと割り切れた。それなりの理由があっての行動だろうし、あの母が身を隠そうと決めたのなら、それを見つけだす事はおそらく不可能だと分かっていた。ゲンドウや冬月は何かを知っている様子だったが、わざわざそれを詮索する気分にもなれなかった。

 図らずもネルフの中核人物となったリツコは、その才能を存分に発揮した。彼女はまだ若すぎるのではという周囲の懐疑的な視線には、結果を出す事で応えていった。人類の為などいう大仰な題目は二の次だった。母の跡を継いだ以上、不様な真似はできないという一心でリツコは仕事にのめり込んでいった。同時に、日々の忙しさの中で少しずつ母の影が自分の中から消えて行くのも感じていた。

 そして、とあの日の記憶に辿り着いたリツコは、思考の糸を静かに切った。

 心のどこかで自分は母の事を忘れたがっているのかもしれない、と思った。

 鼻の奥が小さく疼いた。再び暗闇を見上げ、深く息を吐き出す。しばらくそのままで心が落ち着くのを待ってから、リツコはレイに視線を落とした。少女は相変わらず夜の湖面を見つめたまま静かに立っていた。レイの背丈はせいぜいリツコの胸の高さ位までしかない。史上最強の巨大人型兵器を操るこの小さな体は、滑稽なほど華奢で脆弱に見えた。白衣のポケットに入れていた手の指先が、無意識の内に強張っている事に気付く。

 いつしか、レイの姿が子供の頃の自分に重なっていた。

 母もこうして自分を見下ろしたことがあったのだろうかと、リツコはぼんやりと思った。親子らしい会話をした記憶はほとんど無く、母が自分をどれくらい理解していたのか、あるいは理解しようとしたのか、それを知る術は今では何処にも無かった。こんな風に母を思い出そうとするのは久しぶり、と言うよりほとんど初めての経験だった。リツコは少ない思い出を頭の奥から引っ張りだし、あれこれ眺めては元に戻すという事を漫然と繰り返したが、結局それは単なる徒労に終わった。

 考える事に疲れたリツコは目を閉じ、手に持ったままの煙草を再び唇に挟んだ。軽く目頭をマッサージして、ここ最近たまる一方の疲労を追い出そうと試みる。

 不意にレイの存在を近くに感じ、はっと目を開いた。リツコは戸惑いながら、少女を見下ろした。レイは別段変わった様子もなく佇んでいる。少女の瞳は湖に向けられたままだったが、リツコは何故か自分の心を見透かされているような気分になった。

 いや違うと、リツコは思い直した。自分がこの少女の中にある物を知りたいのだと気付いた。それが自分の中の純粋な知的好奇心からくる欲求なのか、あるいは別の感情が働いているのかは良く分からなかった。ただ、科学者として、世界の命運を左右する場に居合わせる一人の人間として、この子供達の事をもっと知りたいと思った。それこそが自分のやるべき事のような気がした。

 リツコの静かな声が響いた。

「マルドゥックで、あなた……あなた達は何をされたの」

「言えません」

 レイは考える仕草も見せずに即答する。少女の言葉には迷いの欠片すら浮かんでいなかった。リツコは少女からその答えが返ってくる事が分かっていた。大人達が子供達に向けて何度となく繰り返した質問だったが、彼らから返ってくるのは常に同じ答えだった。子供達をこの年令まで育て上げたマルドゥック機関の関連情報は、ネルフ本部技術部長ですら知る権限の無い最高機密とされ、チルドレンもそれを頑なに守り続けていた。この口の堅さをミサトも見習うべきね、とリツコは内心で苦笑した。

 自分が何処かの誰かの手駒の一つであることを再認識させられただけだったが、リツコは落胆することもなく晴れ晴れとした表情になった。心の中で絡まっていた糸が少しだけほぐれていた。リツコは幾分和らいだ眼差しをレイに向けた。

「今日はもう遅いわ。宿舎に戻って休みなさい」

「はい」

 レイは放り出していた靴を拾うと、履き直すこともせず素足のままで歩き始めた。小さな背中が本部施設を目指すように、道も整備されていない暗い森の中へまぎれて消えていった。それを確認したリツコは手に持っていた煙草を最後に一度だけふかし、そのまま湖へ無造作に放り捨てた。

 火が水面に落ちる瞬間の音が、やけに大きく聞こえた。


──────────


 空は星がまたたき、夜が明けるまでにはまだ時間があった。高台から第3新東京の夜景を見下ろす展望台の駐車場は閑散として、敷地のほぼ中央に車が1台いるだけだった。青いスポーツカーの中から漏れる僅かな光が車内の人物をぼんやりと照らし出している。助手席のシートにはミドルサイズのピザの箱とコーヒーの空き缶が散乱していた。

 靴を脱いだミサトは後部座席で横向きに体を置き、背中を窓側に寄り掛からせている。彼女はノート型端末を膝に乗せて、画面にじっと見入っていた。自分が目にしているこの情報は特に隠されている物ではなく、一定以上の権限を持つネルフ職員ならば自由に閲覧できるデータだった。1つ1つは確かにどうということのない情報の断片だったが、ミサトはいくつかのピースの間に奇妙な連携を感じていた。

 自分でもただのこじつけに思えそうな仮説だったが、何気ない会話の中でリツコが見せた表情がどうも心の中に引っ掛かっていた。

 数日間ほとんど休む事無く、大量の文書と睨み合ってようやく端緒が見えて来た。そうと意識しない限り、それらの情報の裏に巡らされた企てを読み取る事はほとんど不可能だと思えた。それがどういう意図で行われるのかまでは想像の埒外だったが、おそらく『彼女』のタイムスケジュールの隙間に空いた僅かな時間に何かが起きる。ミサトはそう読んだ。

 端末の液晶を閉じると、ミサトは窓の外に視線を向けた。山と空の境目が白み始めていた。冷たい空気の中に朝の気配を感じながら、ミサトは1人の男の顔を思い浮かべた。


──────────


 まだ約束の時間までは余裕があったので、環状線の改札を出てもすぐにジオフロント直通のリニアレールに乗り換えることはしなかった。駅舎からショッピングモールへと続く広場に足を踏み出すと、厳しい日射しが容赦なく降り注いで来た。

 タイルがモザイク状に敷き詰められた歩道には、視覚的に清涼感をもたらすためか、かなりの量の樹木が植え込まれていた。ここ数年で大きく栄えるようになったこの駅前通りには、新規参入してきた大型の量販店や老舗が並ぶ商店街が連なり、混沌と活気を兼ね備えた町並みを作り出していた。

 マユミは帽子を持ってくるべきだったかと思いながら、最初に見つけたカフェテラスで暑さを凌ぐことにした。息をつきながら、ジャケットを脱いで隣の椅子の背もたれにかける。空調の利いたネルフ本部を訪問する時は、彼女は決まってこのベージュのスーツを身に着けることにしていた。

 休日の昼下がりということで流石に人通りが多かった。ここはジオフロントに通じるゲートと、第3新東京市周辺を巡る鉄道路線を繋ぐ重要な場所だった。巨大な地下空間も、敵を倒す為だけに存在する要塞都市も、ここからは地下リニアレールで山一つ分以上の距離がある。実際の戦闘がここまで被害を及ぼす事はない筈だった。

 ストローに口をつけて、背の高いグラスに注がれたアイスティーを喉に流し込む。家族連れやカップルが彼女の目の前を楽しそうに横切っていく。途切れる事無く続く人の流れに、舞台の上の芝居を見ているような感覚を覚えた。そして、これが作られた平和だと言う事をマユミは知っていた。知己の子供達が戦い、勝ち残る事で得られた束の間の安らぎだった。マユミはテーブルの上で両手を組んで作ったアーチの上にアゴを乗せて、ぼんやりと辺りを眺めていた。

 見た目4、5才の少年が突然母親の手を振りほどいて駈け出した。慌てた母親が声をかけると同時に、その少年がマユミが座るテーブルの真ん前で足をもつれさせ派手に転んだ。マユミは反射的に背筋を伸ばしかけ、指をぴくりと震わせた。すぐに母親が追い付き、少年を立たせると再び手を繋いで歩き出す。互いに堅く握られている2人の手を横目で追いながら、マユミはシンジとレイの事を思い出していた。

 マユミが差し出そうとしているその手は、子供達にとって果たして何の意味があるのか、彼女自身にも分かっていなかった。ふと腕時計を見たマユミは、思いのほか時間を潰した事に気付き席を立った。彼女はジャケットを片手に持ち、ジオフロントに向かうため炎天下を再び歩き始めた。

 テーブルの上に残されたグラスの中で、解けた氷がくるりと回転して小さく音を立てた。


──────────


 軽快な効果音とBGMがその部屋に流れていた。テレビの中ではデフォルメされた色鮮やかなキャラクターがボールのように跳ね回っている。

 カーペットの上であぐらをかいたその少年は、体を小さく揺すってリズムを取りながら、手にしたコントローラーを器用に操っている。画面全体を均一に注視する眼鏡の奥の瞳とその滑らかな指捌きが、このゲームに対する彼の習熟の度合いを示していた。

 少年の背後では、ベッドの上にもう1人の少年が寝そべり、週刊の漫画雑誌をつまらなそうに斜め読みしていた。冷房の利いた部屋の中では、長袖のジャージは快適な服装のようだった。

 ケンスケは、画面に集中しながら後ろの少年に声をかけた。

「なあ、トウジ」

「ん……」

 雑誌に視線を向けたままトウジは気の無い調子で答えた。ケンスケは友人のぞんざいな口調に不満の色を浮かべかけたが、何とか堪えて言葉を続けた。

「あの転校生……碇のほうさ……学校にもうこないのかな」

「さーなあ……聞いてみたらええやん。綾波のほうにでも」

 ケンスケが顔をしかめると同時に、テレビから物悲しいBGMが響く。コントローラーを放り出して、ケンスケはごろりと仰向けに寝転んだ。天井をぼーっと眺めながら、吐き出すような口調でぼやいた。

「無理だよ。委員長、休み時間とかずっと綾波の隣にいるんだぜ。変なことしたら告げ口されるって」

「なんか仲良うなったみたいやな。あの2人」

「いいよなあ……委員長って。あんな風にできるんなら俺が委員長やりたかった。碇とも遊んだりできそうじゃん」

 無邪気に語るケンスケに、トウジは呆れ笑いで返した。

「どうせネルフの事とか教えてもらおう思うとんのやろ。こないだめっちゃ怒られたやんけ」

 ネルフの秘密に接触する事が単なる悪戯では済まされないというのは、戦闘に巻き込まれた経験からトウジでも何となく理解出来た。父親にもらったげんこつの痛みを思い出して、トウジが眉間にしわを寄せる。

 ケンスケは寝転がったまま頭をのけぞらせてトウジを見た。逆さになった視点でも、トウジがその話題に触れたく無いという表情をしているのが分かった。

 前回、トウジを誘って避難の列から抜け出した事が、自分の非だというのは分かっているつもりだった。友人に申し訳ないという思いは子供心にも十分持っていた。それでもケンスケの中の欲求は、本人の意志では抑え切れない物になり始めていた。

「ちょっとくらい、いいじゃん」

 喉元を過ぎた罪悪感と、今この瞬間も沸き上がる好奇心の狭間でケンスケはぶつぶつと呟いた。


──────────


「碇君、元気そうね。安心したわ」

 午後の職員食堂は閑散として、マユミとシンジが向かい合う丸テーブルの周囲には誰もいなかった。事前にマユミが指定されたこの場所で、少年は静かに待っていた。彼は正面に座ったマユミが着用しているベージュのスーツの、胸元辺りに視線を向けている。ときおり瞬きをする他は、身じろぎ1つすることは無かった。少年はグレーの半袖シャツに、ヒザ下あたりでカットされた紺のズボンを身に着けている。マユミが見なれた、いつも通りの服装だった。

 マユミは、シンジが特に体を悪くしているわけでは無い事を自分の目で確認して、ほっと息をついた。

 彼女は椅子を動かし、シンジの隣に移動した。互いの腕が触れ合うくらいの距離にまで近付いた。テーブルの上に身を乗り出し、シンジの顔を横から覗き込む。何故か、思わず笑みがこぼれた。少年は両手をだらりと下げて、背もたれに脱力した体を預けている。無造作に置かれた人形のような姿勢だったが、規則的な呼吸で微かに上下する胸や、バランスを取る為か微妙に揺れる上体が、少年が間違い無くそこに生きて存在していることを示していた。

 シンジの視線が、自分の方に向けられているような気がした。しかし、その視線はこちらに向けられているというだけで、何も『見て』はいないということも何となく分かっていた。マユミは、ぽつりぽつりと話し始めた。最近の学校の出来事や、クラスの子供達の様子、思い付くまま言葉にした。慈しむような微笑みでシンジを見つめたまま、マユミは話し続けた。

 時々、シンジに対して問いかけるような言葉になることがあった。何を訊ねた所で、この少年からは応答が決して返ってこないことは分かっていた。それでも、マユミはしばらくシンジの返事を待つように、間を置くことを欠かさなかった。いつか少年が応えてくれる事を彼女は信じていた。

「……鈴原君や相田君も気にしてたわよ。碇君はもう学校に来ないのかなって。自分達が何か悪い事しちゃったんですか、って変な心配してたわ。それにね……」

 マユミは自分の言葉がシンジに届いているかどうかは、あまり気にならなくなっていた。自分の気持ちを形にして確認するために語り続けている気がした。心が感じるままに、思った事を隠す事無くシンジに打ち明けていた。

「そうそう。ドイツから来た女の子ってどんな子かしら? 可愛い子?」

 彼女はからかうような視線でシンジの顔を見つめる。

「先生もその子とお話しできるのかしら。どこにいるのかな?」

 普段の自分なら言うはずのない大胆な言葉だったかもしれない、と思った。チルドレンの情報が高いレベルの機密性の下にある事はマユミも十分知っていた。とは言え、この言葉は単純に話題の流れの中で出て来た物であり、シンジに対して何かのリアクションを求めたつもりはまるで無かった。少しの間シンジの顔を見つめた後、マユミは次の話題を探しながら口を開こうとした。

 シンジが不意に椅子から降りて、食堂の出入り口に向かって歩き出した。

 一瞬呆気に取られたマユミは、辺りを見回した。相変わらず空席ばかりが並んでいて人の気配は無かった。次いで腕時計に目を落としたが、シンジとの面会に許された時間はまだかなり残っている。歩き去ろうとしているシンジの背中を見つめた後、もう一度周囲の様子を窺った。

 マユミは唇を軽く結ぶと、少年の後を追いかけるべく自分も席を立った。


──────────


 まさにスパイ映画の登場人物になった気分だった。

 マユミはシンジの後ろについて、ネルフ本部の通路をどんどん奥へと進んでいった。時折すれ違う職員がちらりと自分の方を見る度に、生きた心地がしなかった。冷や汗を流しつつ彼らの視線と表情の変化を観察した。やはりジャケットの胸ポケットにつけたIDカードにはかなりの効力があるようだった。

 自分が危険な行動を取っていると理解していた。それでも、シンジが自分の言葉に反応らしい反応をしてくれたことの方が重要な出来事に思えていた。この少年の背中を見つめて歩きながら、マユミは自分の中の覚悟が確固たる物になっていくのを感じた。

 自走通路とエレベーターをおっかなびっくり乗り継いで辿り着いたフロアは、マユミがこれまで見て来たネルフの施設とはかなり雰囲気が異なる物だった。ネルフ本部には、最先端のビジネスビルのフロアという印象を持っていたが、彼女が今立っているのはそれとは広さも高さも桁違いの大きさの通路だった。天井に一定間隔で強力な照明が取り付けられて煌々と照らされているここは、むしろ巨大な重機の移動を前提にしたトンネルと言うべきだった。蟻の巣のように巡らされているトンネルの壁際に設置されている歩行者用のレーンの上を、シンジは進み始めた。マユミも慌ててその後ろについていく。

 時折大型トレーラーや、作業員を満載したマイクロバスが2人の横を通り過ぎていく。自分に向けられる物珍しそうな視線を気にしないように、マユミは前だけを見つめてひたすら歩き続けた。

 曲り角毎にペイントされている壁のアルファベットと数字の組み合わせを記憶していった。これで何とか帰り道が確保できていればと思いつつ、マユミは歩く速度を上げてシンジの隣についた。シンジが内部の構造に通じているとしても、マユミが9歳の子供の足に追い付くのは簡単だった。

 2人の足音が広大な空間で無気味にこだましていた。無機的な風景と、足音の単調なリズムが時間の感覚をもぼやけさせつつあった。

 すれちがう人や車輌もまばらになってきた。余裕が出て来たマユミは、あちこちを見回しながらシンジの足音についていった。突然体に感じた抵抗が、彼女の体勢を崩した。

「きゃっ!」

 前触れなく立ち止まったシンジの背中に覆いかぶさる形になってしまい、慌てて足を踏ん張る。2人ともどうにか倒れずにすんだが、シンジの頭を胸に抱きかかえて支えにしている事に気付いた。恐る恐るシンジの顔を覗き込んだ。マユミのやや大きめの胸に顔を押し付けられてもシンジの表情は何の変化も無かった。少しばかりプライドを傷つけられた気分になったマユミは、シンジの頬を人さし指で軽く押した。それにもシンジは全く反応しなかったが、なすがままにされている少年の様子にマユミは微笑んだ。

 シンジが自分とマユミの体の間を引き離すように右腕を上げた。無言の拒絶を思わせるその行動に、マユミは思わず体を引いた。しかし、それと同時に視界に入った脇の壁にある頑丈そうな扉を見て、少年の動きが自分に向けられた物では無い事に気付いた。シンジは右手の親指を扉の横に設けられた装置表面のレンズに押し当てた。

「あ、碇君、ちょっ……」

 マユミが心の準備をする間もなく、空気の圧搾音と共に分厚い扉が滑らかに開いた。

 突然開かれた扉を前にして頭の中が真っ白になり、マユミは一瞬その場で凍り付いた。彼女はしばらく動けずにいたが、やがて眼鏡の奥の目を上下左右に動かし、扉の外からそっと内部の様子を窺った。室内は沢山の機械やケーブルが複雑に並ぶ、差し渡し30メートル四方はあろうかという広い空間だった。

 シンジが足を踏み出し、扉をくぐった。それに引きずられるようにしてマユミも思わず室内に入ってしまった。3歩ほど進んで、背中から聞こえた扉が閉じられる音に身を強張らせる。ちらりと振り向いてから、再び周囲を見回した。何となく倉庫のようにも思える場所だった。自分が入って来た扉の正面に大きなシャッターが据え付けられている。高い天井には白い輝きを放つ照明がいくつも設置され、マユミの足元に四方に伸びる薄い影を作っていた。あちこちで機械が小さく唸る音がしていたが、ここに人の気配は無かった。

 マユミは前に目を戻した。機械の間を縫うようにシンジが進んでいくのが見えた。自分も床に這わされたケーブルをまたぎながら、早足で後を追いかける。少年の小さな体が柱や装置類の間に隠れ見失いそうになり、マユミは足を速めた。フロアのほぼ中央部で、2つの頑丈そうな台座を橋渡すように横たえられた、巨大な金属製の円筒体がマユミの行く手を遮った。円筒体の下は高さ1メートル半ほどの隙間があり、シンジはそこをくぐって向こう側に抜けたようだった。マユミは腰を落としてその下をゆっくりとくぐる。途中で円筒体の底に頭を軽くぶつけて顔をしかめた。

 頭をさすりながら、ため息と共に腰を伸ばした。目の前に置かれた大きめの作業机の上に端末らしき物があった。液晶モニタの背面は、円筒体の前に立つマユミの方を向いており、何が映し出されているのかはこの位置では分からなかった。机の向こうにシンジの顔を認め、ほっとしながらマユミは机を回り込んで少年の横に立った。

 シンジは端末の前でぼんやりと立ち尽くしている。小型カメラやスピーカーらしきものが側面に取り付けられているモニタには何枚かのウィンドウが開かれていた。そこでは、マユミにはまるで理解できないメッセージのスクロールが続けられていた。マユミは机の上に並べられた高価そうな装置の山に気圧されながら、この少年は何故こんな所まで自分を連れてきたのだろうかと、シンジを見下ろした。

 どうしたものかと、再び周囲を見回す。先程からここの雰囲気から妙にちぐはぐな印象を受け、一体何に使う施設なのかと考えていた。生き物の匂いと機械の硬質さが入り交じり、まるで病院と工場を一つ所に詰め込んだような場所だった。専門的知識など当然持っていないマユミだが、透明ビニールのテントに覆われた手術台のそばに、建物の解体工事にでも使うような大型エンジンカッターが置かれている光景には首を傾げるしか無かった。

 突然、断続的な警告音と共に、壁に取り付けられた小型の回転灯が動きだし、黄色い点滅を始めた。

 マユミは飛び上がって、その音に振り向いた。2人が入って来た扉とは反対側の壁で、大型のシャッターがゆっくりと上がり始めている。徐々に開いていく隙間に、作業員らしき人間の足元がずらりと並んでいるのが見えた。作業責任者らしき人間が何やら指示を発し、それに各人が復唱するような声も聞こえて来ていた。

 逃げ出す事はおろか、言い訳の台詞を考える事も出来なかった。マユミの思考回路は完全に止まり、上がり続けるシャッターとその陰から現れつつある作業員達の姿を、凍り付いた表情で見つめていた。恐怖と動悸が高まっていく。暗い部屋の中で椅子に両手両足を固定され、注射やら電気ショックやらで拷問を受ける自分の姿が目に浮かんで来た。我ながらあまりにも貧困なイメージが感じさせる馬鹿馬鹿しさが、マユミの心を少しだけ落ち着かせた。これはもう、なるようにしかならないと自分に言い聞かせる。

 シャッターが完全に開き切る前に、作業員達が体をかがめて次々と入って来た。10人程の人間がフロアの各所に散り、自分の作業の為にてきぱきと準備を進め始める。この場の責任者らしき作業員が他のメンバーの動きを見ながら、マユミ達がいる方へ歩いて来た。帽子に隠れて顔は良く見えなかったが、50代前後のがっしりした体だった。

 その男の視線がふっとマユミの目と合う。マユミは背筋が冷たい棒を入れられたように強張るのを感じた。

 一瞬、男は目を丸くしたが、歩みを止めることなくマユミの顔を見つめたまま、机上に置かれた端末の前に進んだ。そして彼はモニタを眺めている少年を見下ろし、それから再びマユミに目を戻した。少し考え込むように首を傾げて、男は口を開いた。

「……見学か何かですか?」

「は、はい……ええ……まあ」

 マユミは声が裏返りそうになるのを抑えて、できるだけ理知的に見えるように上品な微笑を浮かべる。

 男はマユミの胸のIDとシンジを交互に確かめると、軽く頷いた。

「そうですか。ま、邪魔にならん所でなら勝手に見て下さいな」

「ええ。どうぞお構いなく」

 マユミはにっこりと微笑んだ。どうにか切り抜けられた様子で、マユミの心も冷静さを取り戻し始めた。男は肩をすくめて軍手を外すと、端末のキーボードに指を走らせる。

 モニタに新しく黒く塗り潰されたウィンドウが1枚開かれる。一瞬遅れてその中に映像が現れた。画面を何とは無しに見つめていたマユミの目がそこに釘付けになった。

 フレームの中には、西洋人の特徴を備えた少女の顔が映し出されていた。赤茶色の髪と青い瞳が印象的だった。映像には顔と肩の一部しか見えていないが、少女が身に着けている奇異な着衣は、いつかシンジが紫の巨人から降りて来た時の物と共通したデザインだった。

 シンジと同年代に思えるその少女は、右目だけを開いてこちらを見つめていた。マユミは、少女の乾いた視線が一瞬だけ自分に向けられたような気がした。

 男が更にキーを叩くと、それに合わせていくつものグラフやカウンターらしきウィンドウが次々と開いていく。最後に開いたウィンドウに表示された物が、マユミの呼吸を止めさせた。

 左腕が無く、下半身を大きなプレート状の器具で包まれた少女の映像が、鮮烈な印象を伴ってマユミの心に食い込んだ。

 肌に密着する赤い特殊スーツは、少女の体のラインに忠実な輪郭を構成していた。肩から先が切り落とされ円形の金属板で覆われたその断面が、マユミが見た少女の体の不完全さが錯覚である可能性を否定していた。口を閉じているにも関わらず、自分の喉の奥が乾き始めているのをマユミは感じた。

 軍手を着け直しながら、男がモニタに向かって質問する。ぶっきらぼうだが、どことなく人情味を感じさせる口調だった。

「お嬢ちゃん、始めてもいいかい?」

『はい』

 少女は唇を動かす事無く応答した。まったく抑揚のない冷たい声だった。それを確認した男は、端末の前から巨大な円筒体の先端に向かって歩き出した。大声で作業員達を怒鳴り付けつつ、作業の指揮を取っていった。

 彼らの注意が完全に自分から外れたことに安堵し、マユミはモニタをまじまじと見つめる。整った少女の顔立ちには不似合いな、何かの怪我の跡のような模様が左目の周囲に広がっているのを見て、マユミの胸に刺すような痛みが走った。ふと、相変わらず何の感情も表さないシンジをマユミは見下ろした。

 マユミはゆっくりと口元に手を伸ばして、この場所に来るまでの事を思い返した。周りに誰もいないことを確認すると少し前屈みになり、彼女は声を低くしてモニタに話しかけた。

「ね、ねえ。あなた……」

 モニタの上に取り付けられているカメラに気付いて、マユミはそこに視線を会わせた。

「あなたがドイツから来た……パイロットなのね?」

『はい』

 マユミの問いに、少女は躊躇いなく答えた。


──────────


 アスカはシートに体を預け、通信ウィンドウの中で話し続ける女性を眺めていた。

 互いの名前や大した価値のない情報のやり取り。それは会話というよりは質疑応答という方が適切だった。

 この他愛無いコミュニケーションを成立させるために割かれているアスカの意識は、少女の意識全体から見れば微々たるものだった。『山岸マユミ』と名乗った女性が胸に付けているIDが許すレベルの情報については聞かれれば回答する。機械的な判断で済む受け答えならば、アスカが要する労力はゼロと言って良かった。意識のごく一部をマユミとの対話処理に振り分けながら、アスカは情報ウィンドウを10枚ほど投影して作業の進行状況をチェックした。

 ウィンドウ群を一瞥して、特に問題が無い事を確認する。この作業が、エヴァ弐号機からわざわざエントリープラグを取り出してまで行う必要がないことをアスカは知っていた。この作業の根拠である、プラグ内装備の材質劣化の可能性を示唆するドイツ支部のレポートも、単なる杞憂だということも分かっていた。だからと言って、アスカが誰かにその見解を述べるということは無かった。

 ふと、ウィンドウの中のマユミの表情が凍り付いていることに気付いた。

 アスカは自分の意識の一部が半自動的に行っていた対話の記憶を辿った。自分はマユミの目の前に横たわっているエントリープラグの中でのみ生存が可能である、という回答がこの女性に精神的ショックを与えたようだった。

 アスカの体についての詳細を知った人間は一般的に、まず瞳孔の収縮、呼吸や声の乱れを引き起こす傾向がある事を、この少女自身経験的に知っていた。気の毒そうな顔を見せる者や、動揺を押し隠して平静を装おうとする者など色々なパターンはあったが、その根底に流れる感情は皆大差なかった。自分達とは異質な物を観察する視線。それをアスカは周囲から敏感に読み取っていた。しかし、それはアスカにとって事実に適合した当然の現象であり、彼女の行動に何がしかの影響を与える物では無かった。

 他人の『心』が自分をどう捉えようが、それは何の意味も持たなかった。明瞭さと異質さを同時に合わせ持つ彼女の思考は、彼女自身の意識の内部で完全に完結し、外界や他者からの刺激に基づいた自我形成を行なう必要は無かった。

 この少女は閉じられた人工空間の中の囚人であると同時に、何物にも拘束されない絶対の自由を持っていた。


──────────


 キーボードの上を指が走る音と、電子機器の控え目なノイズが複雑なハーモニーを紡いでいる。所狭しと並べられた端末や書類の山。彼女の執務室は相変わらず独特の乱雑さが支配していた。3台の液晶モニタに囲まれた内側から、煙草の煙がもうもうと立ち篭めていた。

 鳴りやむ気配が微塵も無かったキータッチの音が、不意に止まった。困惑するような呟きが室内に小さく響いた。

「……どういうこと」

 リツコは身を乗り出して、モニタに映るドキュメントの内容に視線を釘付けにした。反射的に電話に手が伸びる。受話器を取り上げボタンに指を乗せた直後、彼女は動きを止めて一瞬考え込んだ。しかし、すぐに迷いを振り切るようにボタンを叩きはじめた。

 リツコは呼出し音を数えながら、苛立った様子で煙草を灰皿に押し付けた。


──────────


 コーヒーカップを片手に、日向はモニタをぼんやりと眺めていた。この日の発令所での待機シフトは実に平穏で、軽い眠気すら誘われるほどだった。

 各地レーダーサイトからの定時報告が思い出したように画面に現れ、のんびりとスクロールして行く。

 画面の隅でアイコンが点滅した。業務連絡がメールボックスに届いた事に気付き、日向はカップに口をつけながら片手でキーボードを操作する。

 いつものどうでもいい周知事項なのだろうと思いながら、モニタに現れた文面に目を通していく。先頭の数行を読んだ瞬間に、日向の意識が切り替わった。コーヒーカップを横に置くと、改めてドキュメントの内容を注意深く追い掛ける。読み進めていくにつれて、その視線が当惑に満ちた物に変わって行った。

「何だ……これ」

 口元に手を当て、視線を周囲に彷徨わせ考え込んだ。

 彼の隣のオペレーター席ではマヤが同じドキュメントを開き、それを冷たい視線で眺めていた。彼女はキーを2、3度叩いて文書を画面から消去した。日向がモニタを凝視したまま思考に沈んでいる横で、マヤは端末を操作して何事も無かったかのように待機任務に戻った。


──────────


 エレベーターの前で互いの目を見合わせた時、これは偶然ではないと感じた。そして、行き先が2人とも同じフロアという事で、その予感が確信に変わった。エレベーターに乗り込んだ2人の間に流れた沈黙は、気まずさのせいではなかった。今動きつつある状況を整理して自分の中で見極める為に必要な沈黙だった。

 エレベーターの下降を体で感じながら、日向は声を低くして隣に立つ女性に話しかけた。

「赤木博士も……副司令からの呼出しですか?」

「そうよ」

 リツコは刻々と変化するフロア表示を見上げながらぶっきらぼうに答えた。彼女の内側を探るように、日向は慎重に言葉を選んだ。

「しかし、何の前触れもなく『あれ』ですか」

「どちらにしろ、早いか遅いかの違いだけだったと思うわ。多分ね」

 反論しようと口を開きかけた日向だったが、上を見つめるリツコの横顔に彼は言葉を呑み込んだ。日向はリツコの中から何処かやり切れない感情が漏れ出しているように思えた。

「皆がミサトに良い感情を抱いてなかったのは確かよ」

 振り払うように冷たく言い切るリツコの言葉に、日向は視線を正面に戻す。自分の力ではどうしようもない状況になりつつある事を意識した。


──────────


「葛城一尉を作戦部から外す……という事ですか?」

 日向は自分の耳を疑うように訊ね返した。冬月の執務室はその人柄を映し出すように、落ち着いた雰囲気だった。デスクの前に立った日向とリツコに、椅子に座ったままの冬月の視線が向けられている。机の上で両手を組んだまま、冬月は落ち着いた調子で答えた。

「便宜上階級を与えてはいるが、彼女はあくまでも一時的な特別嘱託職員……限り無く民間人に近い立場だからな。いつまでもネルフの下で危険な任務を強いるわけにもいかん」

 と言うのは建て前でと、ため息をついた冬月が頬杖をついて視線を横に逸らした。

「葛城君に対する本部職員の反発が日増しに高まっている。特に技術部からの動きが顕著だ。赤木博士は認識していると思うが」

 日向は隣に立つリツコを見つめた。彼女は冬月の机の上に視線を投げていた。机の上に置かれた数枚の作業報告書と、手書きのメモを指で軽く叩きながら冬月は言葉を続けた。

「現にいくつかの作業スケジュール消化に影響が出始めている。私が見る限り、これは意図的に引き起こされた遅延だ」

 その言葉に、日向が顔を上げて冬月に視線を合わせた。隠し切れない呆れた口調で、恐る恐る訊ねる。

「ストライキ……ですか」

「そこまであからさまではないよ。小規模な作業の停滞がいくつか報告されているだけだ。現場担当者の何人かと個人的に話をしたが、これらは葛城君を外せという言外の要求と解釈せざるを得ん」

 そこで一旦言葉を切り、冬月は机の上から報告書を取り上げて、その内容を順に確認しながら日向とリツコをちらりと見上げた。

「いずれも緊急性の高い作業ではないのが幸いだな。彼らにも頭を冷やしてもらう意味で、私の権限で数日間作業を止めさせた。だが、問題の芽は早めに摘んでおくべきだ、と私は考える」

 その『問題』という言い回しに日向は思わず反応した。

「葛城さんに非は無いと思いますが。これは扇動者が存在するはずです。複数のセクションが同時に行動を起こすというのは有り得ませ……」

 その言葉を先読みしていたかのように冬月は片手を上げて日向を制し、最後まで喋らせなかった。

「そこは重要では無い。彼女がネルフにとって火種であり、事実業務に支障をきたしているのが問題なのだよ。違うかね?」

 それは日向も認めるしか無かった。ほとんど逆恨みとしか思えないが、ミサトを疎ましく思う勢力が圧倒的多数なのは明らかだった。色々な意味で彼女はこの組織にはそぐわない人間であり、マヤに代表されるような親チルドレン派とでも言うべき層からは敵意に近い物を抱かれていた。みんな大人げないよ、と日向は胸の奥で呟いた。冬月は日向をいたわるような目で見ていた。

「彼女の働きには感謝しとるよ。だが、弐号機も配備の見通しはついているし、これからは初号機に頼る場面も減るだろう。この辺りでお引き取り願うのが彼女とネルフ双方にとって有意義だよ」

 シンジとミサトの間の特殊な関係を肯定するような言葉を、日向が他人から聞くのは初めてだった。薄々は予想していた事だが、やはりそうだったかと内心で頷く。わだかまる思いをどう言葉にしようかと思案しようとして、冬月と視線が合った。

 ここで日向は目の前にいる男が自分の上司であり、逆らっても意味は無い事を思い出した。子供じみた反発心を少しでも抱いた自分を戒め、吐き出そうとした言葉を腹の底に呑み込んだ。冬月はそれ以上特に意見を言う様子もない日向から、リツコの方に視線を移動させた。

「確認しておくが、エヴァ弐号機は初号機の穴を埋められると考えて良いのかね」

 リツコは落ち着いた口調を保っていた。

「はい。エヴァ弐号機は、初号機と同レベルの戦力と言って構いません。ある部分では弐号機及びセカンドチルドレンの能力が遥かに上です」

「結構」

 冬月とリツコの質疑応答に耳を傾けながら、日向はぼんやりとしていた。ミサトのネルフにおける存在価値は、最大の戦力であるエヴァ初号機を有効に運用できるほぼ唯一の人材という点のみであった。そして、彼女の価値がアスカと弐号機の出現によって減ぜられたのは間違い無かった。

(用済み……ってことか)

 決して長い付き合いとは言えなかったが、ミサトから学んだことは有形無形を問わず沢山あった。心のどこかでミサトを頼もしく思う自分がいた。

 ふと、室内が沈黙に包まれていた。日向は自分を見つめるリツコと冬月の不審な視線にはっと気付いた。押し黙ったまま沈思していた態度が2人の注意を引いたようだった。慌てて眼鏡を指で直しながら背筋を伸ばし、何事も無いように表情を繕った。

 冬月は日向の胸中を見透かしたような口調だった。

「元のネルフに戻るだけだ。君らが気に病む必要はない」


──────────


 布団に潜り込んでもなかなか寝つけなかった。

 マユミは暗闇の中で壁を眺めながら昼間の出来事を思い出していた。惣流・アスカ・ラングレーと名乗った少女は体のあちこちに尋常では無い傷を負っていた。素人目にもその少女の体は時間を追えば治癒するような状態でないのは明らかだった。その上、四六時中あの何とかいう金属製のカプセルの中に押し込まれているという話に、マユミは胸を痛めた。

 シンジやレイがパイロットとして戦わされているという事実だけでも気が滅入って仕方が無いというのに、アスカに至ってはその小さな体に大きな障害を負わされ、まともな人間的生活すら許されていなかった。彼らが何を相手に戦っているのかさえ自分は知らない。ネルフの人間は子供達が命がけで戦うのをごく当然の事として、疑問にすら思っていない。そして多くの人々は、この町で行なわれている戦いやチルドレンの事も知らずに、セカンドインパクトからの世界の復興を呑気に謳歌している。

 狂っているとしか思えないこの世界を心から閉め出すために、マユミは布団を頭からかぶって目をきつく閉じた。


──────────


 いつか来ると予想していた事とは言え、いざ目の当たりにすると最初に口から出たのはため息だった。口頭での根回しも無く一方的に文書による通達を受けて、ミサトは苦笑いするしかなかった。

 彼女の執務室の端末モニタに映る文書は、文面上はやんわりと休養を勧めていた。ミサトはその実質的な『解雇通告』を見つめながら、両足を机の上に乗せた。

 端末から警告音が鳴った。プライベート用のメールボックスにメッセージが届いていた。無造作に指を伸ばしてキーを叩く。

(日向君か)

 それは、ミサトの周囲に生まれつつある状況の報告と警告を兼ねた、日向からのメッセージだった。検閲されているとは考えないのかしら、と思いながらミサトは文字に目を通して行く。日向が冬月と交わした会話や、いくつかの部署が見せたミサトへの反発行為などの要点がまとめられている。どれもミサトにとっては予想の範囲内の話であり、特に目を引く情報は無かった。手を頭の後ろで組んで椅子の背もたれに体重を預けた。天井に目を向けてしばし思考を整理する。

 ネルフのこの行動は、もはや初号機をメインに使うことは無いということを意味していた。ただ、ミサトは自分が今すぐ消されたりはしないと踏んでいた。ゲンドウや冬月は確かに自分を好ましく思っていないだろうが、いかにも用心深そうなあの連中が慌てて行動に出るとは考えにくかった。彼らの手堅さはそれを近くで見て来たミサト自身がよく分かっていた。

 それだけに、このタイミングは腑に落ちなかった。

 ゲンドウ達の本音としては不確定要素であるミサト、つまり初号機を最前線から外した上で、エヴァ弐号機を中心に据えた編成を望んでいるだろう。従って、自分が切り捨てられるのは確定事項としてミサトは認識していた。しかし、それはエヴァ弐号機が、初号機を超える能力を持っていると『実戦』で比較証明してからの話であるはずだった。

 アスカと弐号機が、シンジと初号機を遥かに上回る能力を発揮するのは間違い無いとミサトは確信していた。次の使徒が現れるまでのんびり待つだけで、ネルフはミサトに頼る必要が全く無い事を証明できるはずだった。自分をネルフから追い出すのはそれからでも遅くないだろう、とミサト本人が思っていた。

 にもかかわらず、何かに急き立てられるようにミサトを排除しようとしているネルフの動きは、拙速を尊ぶというにしても少々ずさんさが目立つ物に感じられた。

 ミサトは天井を見上げたまま、口をへの字に曲げて大きく息を吸い込んだ。

(と言う事は……)

 このタイミングで自分を首にする理由がどこかにある。

 おもむろに端末を叩く。自分のアクセス痕跡を残さないように、日向のIDを勝手に借りてデータベースから抜き出した各部門の作業スケジュールを眺めた。確かに日向の言う通り、多少不自然と言えなくもない工期延長がいくつか認められた。ここ数日の間でスケジュールが修正されている物が、例のストまがいの行動を起こした部署なのだろうと推測する。

 その中の一つの日程が彼女の注意を引き付けた。ミサトは思わず指を唇に当てた。視線を何もない空間に彷徨わせ、一見無関係な情報の断片を直感という細い糸で繋ぎあわせて行く。ピースは一応嵌まったものの、それが正しい形なのかどうかはミサトにも自信が持てなかった。後は自分の目で確かめるしかなさそうだった。

「さて」

 腕時計に目をやると、ミサトはゆっくりと椅子から立ち上がった。


──────────


 その空間は照明が消され闇に満ちていたが、少女にとって意味は無かった。

 暗闇の中で横たえられた巨大な金属円筒体には無数のケーブルやチューブ、タンク類が接続されていた。それらは円筒体内部でしか生きられない少女を管理する為の設備だった。プラグのシステムを機能させる為の電力、生体維持に必要な食品や薬物の供給、少女の体から排出された老廃物のチェックと廃棄処理。有機的に協調して動作するそのシステムは、一個の生物と呼ぶにふさわしい芸術的な出来映えだった。

 特別作業棟に移されているエントリープラグの中は、いつも通りの快適な環境が維持されていた。内壁は全方位モニタとしての機能は働いておらず、単なるパネルでしかなかった。弐号機から引き離されている以上そのセンサーに頼る事は出来ず、プラグ内部のアスカが外界の様子を知る事も当然出来なかった。

 常に弐号機と共に生きて来たアスカにとって、今の自分は目と耳を奪われた状態に等しかった。しかし、一般的な感覚では非常なストレスである筈のその環境も、この少女に不安や動揺の類を与えることは出来なかった。

 アスカは静かに目を閉じて、LCL循環装置の微かな唸りに耳を傾けている。周囲に人の気配は無かった。

 この日行なわれるはずだった一連の作業は、翌日以降に持ち越しになっていた。その理由は聞かされなかったが、どの道アスカがそれに興味を持つ事は無かった。


──────────


 人の気配のない巨大な通路を、その男は1人で歩いていた。両手をズボンのポケットに突っ込んだままの自然な足取りだった。

 薄暗い空間で、アスファルトに当たる靴音が小さく響いている。彼は表情こそのんびりしていたが、周囲に向けている注意は極めて鋭かった。

 目的の扉の前に辿り着き、再度左右を見回した。延々と続く無人の通路の端まで視界に収めて、誰も自分を見ていない事を確認する。シャツの胸ポケットからIDカードを取り出してスリットに通す。空気が追い出される音が短く鳴り、扉が滑らかに開いた。扉の向こうはこの通路よりも更に薄暗い空間だった。

 加持はゆっくりと足を前に進めた。数歩進んだ所で扉が背後で閉まり、闇が一層深まる。ポケットから小型のライトを取り出してスイッチを入れた。細く絞られた光が足元を照らす。歩行の邪魔になる物がないことを確認してから、彼は手首を捻ってライトの光を正面に向けた。

 暗闇の中に浮かび上がるエントリープラグの輪郭をライトでなぞる。触れてもいないのに、加持の指先にその金属円筒の冷たさが感じられた。

 その外観をしばし眺めてから、加持はプラグの方へゆっくりと近付いて行った。

 プラグに繋がっているいくつもの装置類には電源ランプが小さく灯っており、無気味な作動音を響かせて、プラグの中にいる少女に命を供給していた。

 弐号機のエントリープラグは床面からやや浮いた位置で固定されていた。加持は体を低くするとプラグの下に潜り込んだ。

 プラグの底面に設けられた多数のパネルをライトで照らし、目当ての物を見つけた。彼はポケットから小さなキーを取り出して、その10cm四方ほどのパネル中央部の鍵穴に差入れた。小気味良い金属音とキーから伝わる手ごたえを感じる。キーを回し切った瞬間、パネルとプラグ外殻の間に隙間が僅かに開いた。

 微笑みを浮かべてパネルを完全に開けて中に手を入れる。慎重な手付きで1つの物体を取り出し、ライトでその表面を照らした。

 それは煙草の箱ほどの大きさの物体だった。オレンジ色の透明な樹脂素材でコーティングされたその内部に、小指ほどの大きさの生物らしき物が封じ込まれていた。発育途上の胎児のような形態のそれは完全に硬直し、硬化ベークライトの内側で標本のような姿を浮かび上がらせていた。

 わずかにその姿に見入った加持だったが、すぐにそれをハンカチで包んでポケットにしまった。

 プラグの下から這い出して、ズボンの膝から埃を払う。もうこの場所に用はなかった。加持は先ほど自分が入って来た扉に向かって一歩踏み出した。

 背後から冷たい金属音が聞こえ、彼はその場で凍り付き、足を止めた。

 それが何の音か聞き間違えることは有り得なかった。反射的に自分と音の相対位置を測ったが、相手は十分に距離を取っていた。振り向く前に相手の指が動くのは確実だった。

 加持はゆっくりと両手を上げ、背後にいる誰かに小さく問い掛けた。

「誰だ」

「安心して。殺しはしないわ」

 ある意味、加持の予想通りの相手の声だった。

「君か」

 ミサトはエントリープラグを固定している台座の死角に置いた椅子に座っていた。前屈みの姿勢のまま拳銃を両手で無造作に支える彼女は、その照準を闇の中に立つ加持の背中に合わせていた。

「驚かせたかしら?」

 素早く周囲に目を走らせ、加持は他に人間の気配がないことを確かめた。

「まあね。いつからそこに?」

「かれこれ7時間くらい。待ちくたびれてお尻痛くなってきたところよ」

「昔は俺の方がよく待たされてたのにな」

 彼女は必要以上の軽口に付合うつもりは無いようだった。ミサトの口調に鋭い物が混じる。

「それにしても、随分と手の込んだ事するのね。ある意味分かりやすかったけど」

「はて……話が見えないが」

 はぐらかそうとする加持の言葉など意に介さない様子で、ミサトは続けた。

「私個人への反発勢力を巧妙に煽り、一部の……例えば、『ここ』での作業を意図的に滞らせる。結果、誰にも怪しまれることなくこの場所は無人となり、秘密裏に事を進められる。で、目的が『それ』って訳ね」

 加持は背後のミサトが、自分のポケットを銃口で指す様子が目に見えるようだった。

「常に衆人環視にあるセカンドチルドレン……いえ、正確にはエヴァ弐号機エントリープラグね。『宝物』の隠し場所にはうってつけか。安全性は折り紙付きだし」

 考える時間が必要だった。加持はとりあえず相手に喋らせて、彼女がどこまで知っているのか、何を知ろうとしているのか探ることにした。

「……どこで気付いた?」

「嘘をつくのが下手な友達って、場合によっては役に立つのよ」

「……リッちゃんは顔に出るタイプだからなあ」

 加持はため息をついて苦笑する。

「後は芋づる式。ドイツ支部から来たプラグ材質劣化に関する報告書も、本部からの意図的なコントロールが窺えた。そして操作されたチルドレンのスケジュール。ダメ押しに副司令経由で行なわれた不自然な作業凍結。その中心にあるのは、明らかに『これ』よ」

 そう言って、ミサトは頭を傾けてエントリープラグを指した。

「ここに『何か』があると考えるのは、そんなに的外れじゃないでしょう」

 両手を上げたまま、加持は視線を鋭くした。甘く見ていたつもりは無かったが、これだから女の勘という奴は侮れないとつくづく思う。

「ただ、どうしても1つだけ理解できないの。アンタ、多分司令の指示で動いてるわよね」

 加持は雲行きが更に怪しくなり始めているのを感じた。

「司令の権限を使えばプラグの中から小物1つ回収するくらい、本部施設の中なんだからいつでも出来る筈よ。どうしてこんな回りくどい真似する必要あるの? まるで本部の人間すら誰1人信用できないと言わんばかりの……」

 そこまで口にして、ミサトははたと言葉を切った。銃を持った手を小さく揺らしながら視線を上に向け、それに合わせてゆっくり頷く。ようやく合点がいった、という表情だった。

「違うわね……そうか……ネルフではない『第三者』の目を恐れているのね?」

「いや、違うぞ。かつら……」

 加持は思わず反応してしまった自分を悔んだ。この場での否定はミサトに確信を抱かせる助けにしかならなかった。ミサトは自分の考えをまとめるために心に浮かんだ物を片っ端から言葉として吐き出した。確かな真実の一端を掴みかけた感触は心地よく、加持の事もあまり気にならなくなり始めていた。

「ネルフ総司令が警戒せざるを得ない、どこかの誰か。『それ』を回収した事をその誰かに知られるわけには行かない。だけど、その誰かはネルフ本部にまで内通者を潜り込ませている可能性がある、ってとこか。相手は誰? 日本政府? それとも国連?」

「もう喋るな。後戻りできなくなるぞ」

 加持は殺意に近い感情を込めてミサトに警告した。あまりに危険な領域に入り込もうとしている彼女を思いやっての事だった。彼は思わず後ろに振り向いたが、ミサトが機械的な反応で銃口を自分の体の中心に定めたのを見て、渋々顔を前に戻した。

 ミサトは銃を加持に向けたまま、視線を斜め上に逸らして再び考え込んだ。加持の言葉で彼女は冷静さを取り戻していた。確かに喋り過ぎたような気がしていた。

 2人とも黙ったまま、しばらく時間が流れた。加持は慎重に背後の気配を探り、彼女がまだそこにいる事を確かめる。

「なあ、葛城……」

「ここからはビジネスと行きましょう。ギブアンドテイクよ」

 口答えを許さない調子を滲ませた声で、ミサトはぴしゃりと言った。

「私はアンタを撃たない。その代わり、アンタは私の質問に1つだけ答える。どう?」

 そりゃただの脅迫だろうと加持は反論したかったが、破格の好条件である事も認めざるを得なかった。

「撃てるはずがない、なんて思わない方がいいわよ。真夜中に許可なくセカンドチルドレンの生命維持装置に接触しようとした不審人物に対して、殺さない程度に弾を撃ち込む、ってのは私の職務上正当な行為になりうるわ」

 嬉しそうな声だった。彼女、本当は俺を撃ちたくてたまらないのかもな、と加持はぼんやり考えた。振り向いてミサトの表情を見つめたいという欲求に駆られたが、理性による抑制の方が勝った。今回は向こうの勝ちかなと、彼は苦笑まじりのため息をつく。

「分かってるよ。でも、俺だって何でも知ってる訳じゃないぞ」

「大丈夫、大した質問じゃないわよ」

 ミサトはそう言って、ハッタリではないことを暗に示すかのように銃を構え直し、加持の後頭部に照準を合わせた。加持は背中に突き刺さる棘のような視線をはっきりと感じた。

 ミサトの声が2人の間に響く。

「『マルドゥック機関』についてアンタが知っている情報を全て教えて。それだけでいいわ」

 加持は両手を上げたまま、僅かに視線を鋭くした。それは彼にとっても、紛れも無く最高レベルの危険をはらむ情報だった。


──────────


 その日の作業は順調に進んでいた。アスカが入っているエントリープラグを弐号機の内部に戻す日だった。荷台にプラグを固定したトレーラーがゆっくりと通路を進んでいく。リツコとマヤは歩行者用のレーンに並んで立ち、移動して行く車体を横から見上げていた。

 トレーラーが通路の角に消えるのを見計らって、マヤが脇に抱えていた書類の束に目を通して行く。

「ドイツ支部から警告のあった材質劣化現象は確認できませんでした。その他のチェックも全項目クリアです。弐号機エントリープラグに問題はありません」

「そう。良かったわ」

 言葉とは裏腹に、リツコの視線は重苦しい色が見え隠れしていた。尊敬する先輩の様子も目に入らないのか、マヤの関心はすでに別の所に向かっていた。嬉々とした調子が彼女の声の端々から垣間見えていた。

「それで……葛城さんの抜けた穴はどうなるんですか?」

 ミサトがネルフを事実上放逐されるという情報は既に本部内部で広まっていた。大方の反応は好意的な物で、安堵する空気すら流れていた。ミサトがネルフを去る日が来るのを指折り数えて待ち構える声が、本部のあちこちから聞こえてくるようだった。

 この時点でミサトはネルフの中枢に関わる事は無くなっており、『業務引き継ぎ』という名目でネルフ退官の日まで半強制的な休暇を取らされていた。

 元々作戦部長というポストは、ネルフ内部では単なる飾りに近い扱いだったため、通常の業務に支障をきたすような事態に陥ることは無かった。同時にネルフの最重要課題である使徒への新たな備えも着々と進められていた。具体的には、初号機を前面に出す事無く使徒に対抗する手段が幾つか技術部から提案されていた。それは主に弐号機を初号機の代替として配置するという物であり、テストを重ねる度に明らかになるアスカの優秀さを鑑みてもそれは説得力のある主張だった。

 単純にパイロットとしての優劣を問うならば、アスカとシンジでは比べるまでもなかった。少女が持つ知識や判断力はもとより、『自律した』パイロットであることが、何よりのアドバンテージだった。いちいち事細かに指示を与えなければ指一本動かさない少年より、自分で考えて行動できる少女の方が遥かに使い勝手が良いのは当然だと誰もが考えていた。

 リツコの厳しい評価眼から見ても、初号機のポストを弐号機に置き換える事に問題は全く無いように思えた。それでも、リツコは自分達が何かを見逃しているような気がして仕方が無かった。

 リツコは白衣のポケットから手を出して、胸に積もる暗い気分を振り払うように前髪をかき上げた。

「とりあえず、私が作戦部長を兼任するわ」

「なら安心ですね」

 マヤは心底嬉しそうな様子だった。リツコの表情に宿る一抹の不安に、マヤは最後まで気付かなかった。


──────────


 空調は整備されているはずだが、わずかに蒸し暑さが漂っていた。暗い通路の中で2つの足音だけが響いていた。

 ゲンドウは前を見つめたまま、静かな口調で言った。

「状況は常に変化し続ける。今回は『あれ』を回収する為の陽動として彼女を切ったまでだ。妥当な代価だよ」

 彼とは対照的に、冬月は微かな不審感を見せていた。

「それはそうだ。俺も反対はしない。葛城君が消えれば、ぎくしゃくしていた組織運営も少しは円滑に戻るし、彼女に余計な事を嗅ぎ回られる心配も無くなる」

 そこで一旦言葉を切った冬月が、制服の首元を緩めた。ほとんど気のせいに過ぎないのは分かっていたが、この場所にはどうにも得体の知れない圧迫感が満ちていた。誰もいるはずのない通路をちらりと眺め回して、冬月は再び口を開いた。

「が、早すぎたかもしれんぞ。彼女をネルフから外す事で、初号機の能力低下は確実だ。せめて次の使徒が現れるまで様子を見ても良かったのではないか?」

「弐号機が思いのほか『使える』機体になる筈だ。それでも初号機が必要ならば、彼女を呼び戻せば済む話だ。彼女がネルフを利用しようとする限り、明らかな拒絶はするまい。違うか?」

 そのゲンドウの言葉を、冬月は自分の中で少しばかり吟味してみた。確かにそれは正論に思えた。それでも完全には納得できない自分に言い聞かせるように、冬月は呟く。

「葛城君無しでも、初号機が実戦で全く使えなくなるわけではないしな。後方支援に限定するなり、囮にするなり、やり方はいくらでもある……か」

「『あれ』の回収も無事に終わった。既に赤木博士が再生作業に着手している。全て我々の計画通りだ」

 2人は巨大な扉の前で立ち止まった。ゲンドウが扉の脇のセンサーに手をかざすと、小さな電子音が鳴る。

 重々しい唸りと共に、扉が上がり始めた。冬月は扉の向こう側から来る別の空気の匂いを感じた。

 目の前に静寂に包まれた広大な空間が現れた。反対側に存在するはずの壁面は遥か彼方の闇に溶け込んで確認できず、ジオフロントの内部とは思えない程の大きさだった。足元には白い砂のような物が敷き詰められている。ゲンドウはしっかりとした足取りでそこに踏み出した。靴底がわずかに砂に沈み込み、小さく音を立てる。ゲンドウの後ろについて冬月も歩き出した。

 人の気配は全く無く、2人の足音だけが明瞭に浮き上がっていた。

 しばらく歩いた彼らは、やがてその空間のほぼ中央部に辿り着いた。そこには直径3メートルほどの窪みがあり、赤い液体が満たされていた。その小さな池の淵に立ち、ゲンドウと冬月は液体の中を見下ろした。

 『それ』は極めて透明度が高い液体の中でゆったりと漂っていた。

 発生途上のヒトの胎児に酷似していたが、いくつかの部分でそれは自分が知るいかなる生物の系統にも属さない事を冬月は知っていた。

 冬月は、池の底に視線を向けるゲンドウの横顔を見た。赤い水面からの照り返しが彼の顔にどす黒い陰を刻みつけている。

「これがお前の言う『希望』か」

 冬月が静かに呟く。諦めと苦々しさが僅かに滲む口調だった。

「ああ」

 事も無げに返すゲンドウの言葉に反応したかのように、『それ』が液体の中でぴくりと動いた。


──────────


 マンションの部屋は綺麗に片付いていた。初めからそれほど物を置いておかなかったので、引き払うのに大した手間はかからなかった。

 元々セカンドインパクトについての情報を得る事が最大の目的だったので、ネルフそのものに執着は無かった。内部から情報を探ることが出来なくなるのは残念であったが、いつまでも自分に都合良く世界が回ることを期待するほど、ミサトは楽観的ではなかった。自分を毛嫌いしている周囲への対応も含めて、そろそろ息苦しくなって来たこともあり、この辺りが区切りかと判断していた。

 実際の退官までは日があったが、冬月から勧められた休暇を有り難く受け取ることにした。手のひらを一気に返した露骨な厄介払いだったが、ミサトが反抗的態度を見せる様子は無かった。この時期に1人きりになれるというのは、色々考えるためには彼女にとって都合が良かった。

 ネルフにとってミサトが用済みになった以上、彼らが自分を消そうとする危険は増加した。しかし、それを相殺するだけの弱味を自分が握っているともミサトは考えた。

 加持が弐号機のエントリープラグの中から何を回収したのかは知らないが、それは誰にも知られる訳にはいかない種類の物だと彼女は推測した。用心を怠るつもりは無かったが、自分に何か良からぬ事態が起きれば、あの夜の加持の行動を何らかの形で公にすると彼に仄めかしておいた。お世辞にも確実とは言い難かったが、これで多少の身の安全は保証されると考えていた。

 タンクトップにホットパンツという格好であぐらをかき、ミサトは床に置いたノート型端末の液晶モニタに映し出された文書に見入っていた。

 あの夜、加持の頭を銃で小突き回すように脅してミサト個人のアドレスに転送させた、マルドゥック機関に関するデータだった。

 彼女が、具体的に踏み込んだ情報を要求しなかったことを加持は不審に思っているようだった。しかし、ミサトからしてみれば、どうせ加持に何を訊ねたところで、それは彼からの伝聞情報にすぎなかった。どれだけ核心に迫る情報を与えられたとしても、最後は結局自分の目で確かめるしかない、というのがミサトの中の原則だった。

 そして彼女は今回もその原則に従っていた。

 知りたい情報はいくらでもあったが、ネルフからの解雇が秒読み状態の自分では裏を取るための時間が少なすぎた。結局、ネルフの外部からでも手の付け易そうな情報を彼女は選んだ。というのが一応の理屈付けではあったが、ミサトがチルドレンに対して抱き続けていた違和感も1つの理由だった。

 出現し続ける使徒、エヴァ、ネルフ。一連の出来事の中心にいるのは他ならぬチルドレンその物に思えて仕方が無かった。

 何故、この子供達が人類を守る重責を背負わされているのか。そして、何よりも何故シンジと自分の間にあのような不可思議な主従関係が構築されていたのか。恐らく彼らを育てた組織の中にその答に近付く手掛かりがある筈だった。

 彼女が本当に知りたいのはセカンドインパクトの真実だけだったが、全ての情報が巧妙に繋がりあっているような感触があった。ネルフと関わりあうようになってから、ミサトが経験した様々な出来事。偶然だけで済まされない何かをそこに感じていた。

 どちらにせよシンジの精神に操作を加えた人物が『葛城ミサト』を意識していたことは確かであり、その人物がマルドゥックと何らかの関わりがあると考えるのはさほど突飛な連想ではない筈だった。そして、その人物はひょっとしたら自分に協力してくれるのでは無いかとミサトは思っていた。チルドレンの心に細工をするというのは、少なくともゲンドウや冬月達の制御下にある人物が取る行動ではなかった。

 ミサトは小さく息を吐き出して、再び画面に目を戻した。今彼女を悩ませている問題はこの情報をどう取り扱うべきか、という事だった。どれほど目を皿のようにして眺めてみても、このデータがマルドゥック機関に繋がるとは思えなかった。

 それはジオフロント整備計画のごくありふれた工程計画文書に見えた。日付けから見てつい最近作成された書類だった。過去7、8年程の各区画ごとの詳細な工事予定と実績が記入されている。

 この書類を見るだけで、ジオフロントでの作業が難工事の連続だったということが読み取れた。入念な事前調査にも関わらず、着工後に放棄された区画も少なく無かった。皆さん苦労なされた御様子で、と皮肉まじりに思いながらミサトはごろりと床の上に寝転がった。

 加持がミサトに渡したこの情報の意味をその場で彼本人にも問い質した。しかし彼にもこれが何なのか分かりかねるようだった。彼はある場所からある極秘コードを探り出し、そのコードの先にあるデータがこれだった、との一点張りだった。加持の言葉に嘘は無いように見えたが、この無意味なデータの羅列の中から何かを掴む事もまた難しく思えた。

 マルドゥックのマの字も無いこの文書。ジオフロントで行なわれた工事のスケジュールが機械的に並んだだけのこのデータが何故極秘コード扱いになっていたのか。これも結局、真実を隠そうとする人間がダミーとして用意した目くらましの情報なのか。

  寝返りを打って、体を横たえたままもう一度画面を見つめる。ガセを掴まされるのは初めてではないが、ミサトは暗鬱とする気分を抑えられなかった。

 刑事ドラマならこんな時は初心に返って現場に戻るんだろうけど、とミサトはぼんやり考えながら苦笑を漏らした。初めてジオフロントの中に忍び込んだ日の事を思い出しつつ、ミサトはノート端末の液晶を閉じようと手を伸ばした。

 突然、弾かれたようにミサトは体を起こした。瞳は見開かれ、画面の一点に視線が注がれていた。施工途中で放棄された区画に付与されたブロック番号に見覚えがあった。

(ここって……確か)

 ミサトは後ろを振り向いた。壁にかけたジャケットの胸ポケットにネルフのIDカードが挟んである。その鮮やかな赤が自分の未来を暗示しているように思えた。その予感が現実の物になったとしても、ミサトは自分の選択を悔まないだけの自信があった。


──────────


 リツコは休憩スペースの長椅子に腰掛け、煙草に火を着けた。目を閉じて煙を深く吐き出す。

 気怠さで体中が痺れかけている彼女は、背後から近付いた気配にも気付かなかった。

「お疲れのようですね、赤木博士」

 突然掛けられた声に動じる事も無く、リツコは冷たく答えた。

「まあ、山は越えたわよ。弐号機の調整もどうにか形になった所だしね」

 リツコが振り返ると、加持は腰に両手を当てて微笑んでいた。よっこいせ、と声に出し長椅子をまたいでリツコの隣に座る。肘が触れ合う程の距離は、友人としてもやや近すぎる距離だった。

 加持の声は低く抑えられ、普段のざっくばらんな雰囲気はどこにも無かった。

「実は……葛城に『あれ』を回収する所を見られた」

 リツコは目を閉じてため息をついた。

「きっと私のせいね。あの子の勘の良さは昔からだったけど……で、碇司令には?」

「報告していない。友達を売るような真似はできないさ」

 じろりと睨んだリツコの視線を、加持はとぼけた表情で受け流した。リツコは煙草を灰皿に押し付けながら、呆れたように呟いた。

「我が身可愛さとしか思えないけど」

「……ははは。流石に鋭いな。否定はしないよ」

 周囲に誰もいないのを確かめながら、リツコは訊ねた。

「……ミサトは何か言ってた?」

 失った物を未だに諦め切れないような感情がリツコの顔に浮かんでいるように、加持には見えた。彼はリツコの物憂げな表情を見つめながら答えた。

「いや。大した事は何も」

「そう。ミサトはもうネルフとは縁が切れるものね。何も知る必要は無いわ」

「残念だよな。せっかく3人で飲みに行けると思ってたのに」

 そう言いながら加持は立ち上がる。リツコが黙ったまま2本目の煙草を取り出して火を着けようとしたその時、2人のポケットから呼出し音が同時に鳴り響いた。

 加持は無造作に携帯電話を取り出し、液晶画面の表示に目を凝らす。眉を片方だけ上げて唇で小さく笑みを作り、悪戯っぽい視線をリツコに向けた。

「赤木『作戦部長』殿の初陣だな」

「やめてよ」

 白衣のポケットから取り出した携帯情報端末を見つめ、リツコはため息をついた。煙草を箱に戻して立ち上がる。加持の横に並ぶように立つと、彼女は囁くように問い掛けた。

「ミサトは……大丈夫なの?」

「多分な。しぶとさだけなら俺が知る中でも一番の人間だよ。ま、確かに危なっかしい所は多々あるが、俺達が言って素直に聞く訳もないさ」

 加持の半分ふざけた調子はいつもと変わらず、どこまでが彼の本気の言葉なのか分からなかったが、リツコにとってそれは十分に信じていい言葉に思えた。

「私は……」

「分かってる。葛城も分かってくれるさ」

 館内放送用のスピーカーからアナウンスが流れ始め、第一種警戒体制への移行を指示する声が響き渡る。リツコはしばらくその場で立ちつくしていたが、加持に向かって小さく「ありがとう」と呟くと早足で歩き始めた。


──────────


 発令所の中は騒然とした空気に包まれていた。

 床からせり上がるリフトに乗っていたリツコの姿を認めると、オペレーター達に多少の安堵の色が浮かんだ。何だかんだ言ってもやはり皆不安なのか、とリツコは思った。

 主モニターを見上げながらオペレーター席に近付く。リツコの後ろを、青葉が制服のボタンを留めながら早足で通り過ぎ、大急ぎで席についた。既にほとんどのスタッフが定位置につき、いかなる状況にも対応できる体制が整いつつあった。

 リツコは発令所の中を一瞥すると、端末と睨み合っている日向の横に立った。

「状況は?」

「パターン青を確認。間違いありません、使徒です」

 日向の応答に間髪入れずに青葉が付け加えて報告する。

「目標は錦ヶ浦沖を移動中、詳細は不明。UNの戦車隊は海岸沿いに展開完了。間もなく接触の見込みです」

 地形モニター上、海岸線をなぞるように存在する多数のグリーンの光点の集合と、それに刻々と近付く『UNKNOWN』と併記された赤い1つの光点。その動きを見つめ、リツコは顎に指を当てて考え込んだ。

「どうしますか」

 日向が恐る恐る訊ねる。リツコは司令席を振り仰ぎ、そこで静かに主モニターを見守るゲンドウと冬月の姿を見た。ミサトをネルフから追い出した真の理由が、ミサトに反発するスタッフの不満緩和などという安直な物だけではないとリツコは気付いていた。確かにミサトはこの組織にとってマイナス要素を与える存在かもしれなかったが、サードチルドレンの柔軟な運用には欠かせない人材であり、使徒殲滅が最重要任務であるネルフにとっても重要な人物である筈だった。

 ミサトを使徒戦から外すと言う事は、ゲンドウ達が初号機を既に戦力として見ていないとも言えた。それほどまでに弐号機を買っているのか、あるいはシンジが極限状態に追い込まれた時の『彼女』を当てにしているのか、それともまだリツコも知らされていない隠し玉があるのか。いずれにせよ、それはリツコにしてみれば、自分達がいかに危うい戦いを強いられているかの自覚を疑われても仕方が無いやり方に見えた。

 ただ、ミサトがいなくなった事でネルフ内部の雰囲気は確実に好転していた。心無しか発令所の中もモチベーションに溢れ活き活きとしているように感じられていた。スタッフの結束を高めるにはミサトは効果的な憎まれ役だったのかも知れないと、リツコは皮肉混じりに思った。

「弐号機と初号機の発進準備を」

「しかし、サードチルドレンは……」

 日向の言いたい事はリツコも分かっていた。ミサト抜きで初号機を実戦に参加させることのリスクは承知しており、その運用が極めて限定された物になるのは明らかだった。日向の言葉を制するようにリツコは続けた。

「弐号機を前衛に配置、初号機は後方でATフィールド中和に専念させましょう。武装は両機ともにパレットライフル。予備にスマッシュホークも配置しておいて」

 自分の指示にシンジがどこまで従ってくれるのか疑問だったが、今のリツコにはこれが最善の作戦に思えた。束の間、リツコと日向は視線を合わせていた。やがて日向は何かを覚悟したかのように表情を引き締めると、小さく「了解」と頷いた。

 深刻じみた2人の様子を見兼ねたマヤが、勇気づけるような笑顔で口を開いた。

「大丈夫ですよ。弐号機さえいれば」

 リツコはその声の方をちらりと見た。マヤの力強い断言には十分な説得力があった。

 恐らくこの場にいるほとんどの人間もそう確信しているのだろうと、リツコは感じた。ここまで行なわれた全てのテストにおいて、アスカと弐号機は申し分ない、というより予想を大幅に上回る結果を出していた。それは、アスカが洋上で使徒を単独で殲滅した事実がただのまぐれでも何でもなく、実力に裏打ちされた物だと十分頷かせる物だった。

 準備は万端な筈だった。第3新東京市の迎撃設備やエヴァそのものも、恐らく今までで最も充実した状態で使徒に臨んでいた。リツコもそれは断言できた。

 ただ、ミサトが『いない』状態で行なわれる初めての使徒迎撃、という一点に小さな不安があった。そして、この場でその不安を抱いているのはリツコと日向だけだった。

「目標、上陸まで300」

 青葉の声で、リツコはモニターに目を向けた。

 海岸からやや離れた丘陵地帯に据えられた光学カメラからの映像が、海面から吹き上がる白い水しぶきを捉えていた。

 輝く巨大な物体が、ゆっくりと水面を割って姿を現した。

 銀色の球体が4本足で立ち上がりつつあった。その体の表面は磨き上げられた鏡のように滑らかで、太陽の光を反射して美しく輝いている。

 そして4本のなだらかにカーブした四角柱のような足が、球体の下部、前後左右を支える位置から継ぎ目なく生えていた。

 更に何よりも目を引いているのが球体表面に描かれている、黒く塗りつぶされた1個の円だった。極めて単純なその図形が、それを見る者に一層の無気味さを与えていた。

 言わば4本の割り箸を支えにした、銀色の巨大な剥き出しの眼球のような物体だった。それが晴れ渡った青い空と海を背景に屹立している様子は、行き過ぎた冗談としか思えなかった。

 使徒は4本の足をそのスケールからすれば遠浅と言える海底に突き立てると、体を完全に海面の上に押し上げた。巨大な物体が水中から伸び上がる動きに伴って、周囲の海面が大きく波打つ。

 その直後、使徒表面の黒い円盤模様が、球面上を激しく這い回り始めた。外見上はただのマークに見えたその円が、独立した動きで使徒の表面を滑るようにせわしなく走り回っている。

 周囲を探る『目』を連想させるその円の動きが、海岸線にずらりと並ぶUN軍戦闘車輌隊の方に向いた位置で静止した。

 同時に、海岸沿いの道路に並ぶ車輌の列から規則的なタイミングで白煙が上がった。無数の誘導兵器が使徒に向かって飛翔して行く。

 通常兵器の攻撃で使徒を倒す事など、既に誰も期待していなかった。単に情報収集の一つでしかないUN軍の迎撃行動は今回も税金の無駄遣いに終わり、彼らは早々に使徒の進路から退避しネルフに後を任せる、といういつものパターンになる予定だった。

 使徒に着弾したミサイルが連続して炎と煙を巻き起こす。その衝撃が理由なのかは不明だったが、使徒表面の黒い目玉模様が小刻みに震えていた。

 使徒は4本足を軽く屈曲させると、その体を僅かに沈み込ませた。

 次の瞬間、使徒が立っていた空間が白い水しぶきに包まれた。バネのような4本足から生み出された強大な瞬発力が巻き上げた大量の水が、海面に雨のごとく降り注ぎ戻って行く。

 水しぶきの内側から上空に向かって使徒の巨体が弾けるように飛び上がった事を、UN軍の兵士達は一瞬理解できなかった。

 風を切る音がしたかと思うと、海岸線の道路で列を成していた戦車隊の上が暗く陰った。一拍置いて、車輌の列の上に使徒の巨体が轟音を上げて落下した。アスファルトは紙のようにえぐり取られ、めくれ上がった路面から大地に亀裂が走り土砂を巻き上げ、周囲の立木を根こそぎ吹き飛ばす。

 巨大な球体の下敷きになり押し潰された車輌が次々と爆発を起こし、その銀色に輝く使徒の表面に色とりどりの光と影を描いた。

 かろうじて直撃を免れた車輌も、使徒の落下の衝撃で弾き飛ばされて横転し、隣接する仲間の車体の上に折り重なっていった。足元に広がる炎や、自分が死んだ理由すら知らない無数の死体などにも全く興味が無い様子で、使徒は再び4本足を伸ばして体を持ち上げた。その体表は落下や爆発の衝撃の中でも傷一つ無く、滑らかで芸術的な鏡面を維持していた。

 使徒の目玉が、ぎろりと正面に戻った。それは立ちこめる黒煙や肉の焦げる臭気の隙間からただ一点を見据えているようだった。

 その先は間違い無く第3新東京市の中心を指していた。


──────────


 地上の喧噪はこの場所には届いていなかった。聞こえるのは堅い床を叩く自分の足音のリズムだけだった。

 ミサトは周囲を警戒しつつ、ジオフロント地下深く、ある一点を目指して進んでいた。途中で誰かに出会ったり、呼び止められたりすることは無かった。高品質の建築技術が用いられてはいるが、ここは誰もいない完全な廃虚だった。

 ミサトがここに入るのは2度目だった。壁にペイントされた区画番号やフロア構造の特徴は記憶に残っている物と一致していた。ここに辿り着く途中の警備がやけに緩い事が気になってはいたが、とりあえず細かい事は脇に置いておく事にした。

 まるで通い慣れた道を歩くように、ミサトは迷う事無く足を動かしていた。

(そう……ここを曲がって、後は直進……)

 あの日、保安部の連中に軽く一捻りされた記憶が甦り、顔をしかめる。そして、何故今まで思い出さなかったのだろう、という素朴な疑問が浮かんだ。忙しすぎるのも考え物ってことか、と思いつつ、面倒な仕事は全て日向に押し付けていたことは出来るだけ思考の外に追いやった。

 やがて、彼女は懐かしい扉の前に辿り着いた。念の為、背後を振り返る。あの時のような黒スーツの集団は見当たらなかった。

 前にこの場所に立った日から何十年も経ったような気分だった。ミサトが最初にジオフロントに侵入したあの時も、この場所に妙な違和感を抱いていた。

 それはジオフロントに侵入する為に、様々なルートで手に入れた幾つかの設計データから漂っていた不自然な感触だった。あの頃は、まだ自分がネルフの関係者になるなどとは露程も予想していなかった。一民間人の立場でありながら、当時あれだけの内部情報が入手できたのは驚くほどの幸運だったと、ミサトは今でも思っていた。

 ジャケットの内ポケットから自分のIDカードを取り出して、躊躇う事無く扉脇のスリットに通す。これで開くのかどうかは分からなかった。IDの使用履歴が記録されているかも知れなかったが、それでも構わなかった。どうせ自分はもうネルフに用は無い。好き勝手にやらせてもらうまでだった。

 ミサトがカードを通してから10秒程が経過した。

 何の反応もなかった。ミサトはため息をつき、首を振ってもう一度カードを通す。やはり扉はうんともすんとも言わなかった。それ以前に、扉のロック装置に電力が供給されていないよう見えることに気付いた。

 訝しげな表情で、ミサトは壁に耳をつけた。天井にぽつぽつと設置してある照明は機能しているが、空調の類は機能していないように思えた。そう言えば、前回の時に比べると空気の感じも淀んでいるような気がした。

 意を決したミサトは、扉の隙間に指を差し込んだ。

 そして意外にも抵抗なく扉は開き、身構えていたミサトはバランスを崩して前のめりに倒れそうになった。壁に指をかけて体勢を立て直し、ミサトはゆっくりと正面に目を向けた。

 中は暗闇が広がっていた。

 ミサトはジャケットの内側に手を入れて拳銃を取り出した。人の気配が無いとは言え、体に染み付いた習慣が不用意な行動を無意識に慎ませていた。体を低くして、視線を床すれすれに落とす。床一面に積もった埃は、ここ数カ月以上は人が出入りしていないことを示していた。

 背後から射すぼんやりした照明を頼りに、ミサトは扉の中へ進んだ。闇の中に30メートル四方の雑然とした空間が広がっていた。半透明のつい立てを使って幾つかの小部屋に区切られたこの場所は、遊園地の迷路アトラクションのような雰囲気だった。

 ミサトはゆっくりと視線を左右に巡らせる。やや低めの天井に、周囲はコンクリート壁で覆われている。所々に見られる重い物を引きずったような床の傷跡が、ここで何かが行なわれていた事を示していた。

 姿勢を低くし、銃を構えたままミサトは静かに素早く移動し始めた。数歩進む度に立ち止まり、耳と目を研ぎ澄ませて周囲を警戒する。

 ミサトはつい立てで作られた小部屋を順番に覗き込んでいったが、どの部屋も見事なまでに空っぽだった。それらを一通りチェックした後で、壁沿いに置かれた机と椅子を見つけた。念の為引き出しを調べたが、中身は当然空だった。

(……とは言え)

 銃をぶら下げたまま、ミサトは机の上に腰かけて周りを見渡す。

 ここは工事途中で放棄された区画などでは無いのは明らかだった。誰かが何かの目的で使っていた場所だった。ミサトはポケットから一枚のプリントアウトを取り出した。このフロアと同様に工事途中で放棄された区画の物理的位置を重ねた構造図を眺める。

 ミサトの推測とこのデータが正しければ、ここの下のフロア、加えてその更にもう1つ下のフロアが、やはり7年前に放棄された区画だった。そして、そこも恐らくこのフロアと似たような造りになっている筈だった。

 同じ構造のフロアが縦に3つ。いずれも表向きは使用されていない。

 それが意味する所は明白に思えた。明白すぎて逆に疑わしささえ感じられた。さてどうした物か、とミサトは目を閉じて考え込んだ。


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「第8から第11ラインまでの迎撃、効果ありません」

「目標の移動速度、変化無し。予想ルート、出ます」

 主モニターに映った地形図の上に赤く記された使徒の移動予測ルートは、見るまでも無く第3新東京市を目指している。

 UN軍の戦車隊をあっさりと踏みつぶした使徒は、4本の彎曲した角材のような形状の足を器用に使い、歩行と跳躍を繰り返していた。使徒の巨体を支える頑健な足の先端は、四角柱の各辺が一点に集まった鋭い切っ先となっており、歩みを進める度に大地に深く食い込んでいた。

 丘陵の内部に設置されたネルフ迎撃施設からのミサイル攻撃にも全く動じる事なく、使徒は地形に沿ってネルフ本部への進路を維持していた。

 山の間を駆け抜ける巨大な銀色の球体が発令所のモニターにも映し出された。時折足を止めて辺りの様子を窺うように黒い目玉模様を左右に動かしている。ほぼ完全な球体である本体が静止しているにも関わらず、その表面で目だけが自由自在に滑り回っている様子をリツコは興味深げに見つめていた。

 日向がリツコを見上げた。

「あれが使徒の感覚器官なんでしょうか」

「かも知れないわね。本体からは独立してるようにも見えるけど、一体どんな構造になってるのかしら」

「エヴァ両機、起動完了。システム、オールグリーン」

 マヤの報告に合わせて、サブモニターにエヴァの状態を示す数値のリストが表示される。それをちらりと見て、リツコは軽く頷いた。

「射出ルートは……弐号機は15番。初号機を9番で」

「了解」

 復唱しながらキーを叩く日向を横目に、リツコは画面に現れた子供達の表情に注意を向けていた。シンジとアスカは十分落ち着いていた。数カ月間この子供達と付合って来たリツコだったが、彼らが多少なりとも動揺する場面など想像も出来なかった。

 リニアレールに機体を固定され地上へと射出される加速度が、シンジとアスカの小さな体を激しく揺さぶる。それでも、命を賭けた戦いに放り出される事に対する何らかの感情を、この子供達が表に出す事は無かった。リツコはマヤの端末の画面を後ろから眺め、そこに表示されている子供達の生体情報をチェックする。彼らは十分にリラックスした状態を保っていた。

 マヤが小さく呼び掛ける。

「頑張ってね、アスカちゃん」

 その声が聞こえていないのか、アスカからの応答は返ってこなかった。少し落胆の色を見せたマヤだったが、それ以上何かを言う事もなく元の作業に意識を戻した。

 リツコは、マヤのその言葉の裏にミサトへの悪意のようなものを読み取ってしまう自分を少しばかり嫌悪した。今はそんな事を考えている場合ではないと自分を戒める。

 2機のエヴァが、相次いで第3新東京市のビル街に地下からせり上がる様子が主モニターに映し出された。

 両肩を固定しているリフトから火花が散り拘束が解除され、2体の巨人が押し出されるようにゆらりと前に進み出る。

 それに合わせるように、エヴァ両機がそれぞれ隣接するビルの壁面に擬装されたシャッターが、滑らかに引き降ろされていった。初号機と弐号機はその内部に格納されていたパレットライフルを掴み上げて腰の高さに構えた。

 シンジもここまでは一応リツコの指示に従っていた。無論、ミサトの指揮に比べれば少年や初号機の動きは確実に鈍くなっていたが、余程緊急を要する状況にならない限り、初号機を実戦でそれなりに運用する事は出来るという感触があった。

 子供達は黙々と戦いの準備を整えていた。

 リツコは顔をわずかに動かし、普段ならミサトが立っている筈の場所に目を向けた。今はもう誰もいないその空間を見つめたまま、自分の中の得体の知れない不安が取り越し苦労になる事を祈った。


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 エヴァ弐号機のエントリープラグの中で、少女は発令所から転送されて来た使徒の情報に目を通していた。

 確認されている攻撃手段は、対象への体当たりという単純な方法のみ。急所であるコアの位置はMAGIが解析を進めているが未だ特定できていなかった。

 各種観測結果から、使徒の体表は高硬度の物質で覆われていると推測された。ATフィールドによる防御効果を差し引いても、この装甲が持つ阻止力を上回るダメージを与えることは極めて困難だろうという解析結果も出ていた。

 リツコは、恐らくこの使徒は自らの安全を保護する事を優先した構造になっているのだろうとアスカに伝えて来た。

 アスカはリツコの声を認識してはいたが、その言葉から何らかの意味を汲み取ったり、今後の自らの行動の指針を組み上げたりはしなかった。

 アスカに必要なのは曖昧な『見解』では無く、明確な『命令』だった。作戦行動の目的とそれに附随する制限事項を提示しさえすれば、この少女はその能力の全てを動員して、例え自らの命と引き換えにしてでも命令を忠実に遂行する筈だった。その命令がいかに理不尽で非合理的な物であったとしても、アスカがそれに異を唱える事はあり得なかった。

 自分の生死も、世界の行末も目の前を淡々と流れる風景の一部でしかなかった。

 この少女の精神の中にあるのは、ヒトの形をしたハードウェアの上で動作する論理的なシステムだった。

 『自分』という概念は希薄だった。従って『他人』という物もまた、彼女にはそれほど意味のある言葉では無かった。

 惣流・アスカ・ラングレーという名称も『この体』を識別する為の記号であり、それ以上の意味は無かった。少女が感じる世界の形は情報の集合に過ぎず、全ての事象は公平に価値が無かった。結果、それらが持つ意味に優劣を見い出す事も無かった。

 少女の意識を作り上げている物は紛れも無く『心』と呼べる概念であったが、それが持つ異常なまでの特性は人類史上、誰も達した事のない境地だった。そして、その事実を知る者はどこにもいなかった。少女本人でさえ、それについては興味も、確認する術も持っていなかった。

 地形ウィンドウの上を移動する光点を見つめたまま、アスカは後方に位置する初号機に意識を向けた。少女はその紫の巨人の中にいる少年を、自分とは明らかに違う存在であると再認識していた。少年と意識を重ねて弐号機にシンクロした瞬間に感じた、彼の非人間的な精神構造は錯覚では有り得なかった。

 一般的な人類から大幅に逸脱した精神を持つアスカでさえ、少年の中にある物がヒトの持ちうる心では無いと判断せざるを得なかった。それでも、アスカにとってのこの少年の価値が変化することは無かった。少女が認識している世界を規定する変数の幾つかに些細な修正が入る、ただそれだけの話だった。

 ミサトが作戦指揮から外れた時点で、シンジが直接的な戦闘行動に参加することが事実上不可能になったことを少女は理解していた。作戦の成功率や、自分自身の生存確率が多少下がった事を認識していたが、それについては何の感慨も湧かなかった。

 通信ウィンドウからマヤの音声が流れて来たが、最初の数音節で彼女が言わんとする内容を理解したため、アスカはそこから先の言葉に耳を傾けず意識から閉め出した。

『目標、間もなく視界に入ります』

 いつの間にか、左側のコントロールレバーに視線が向いていた。今はもう存在しない自分の左手を軽く握り開くイメージを描く。弐号機の左手は少女のイメージを忠実にトレースしていた。

 アスカは山の稜線に遮られた谷間の先に意識を集中した。


──────────


 シンジの意識は停滞していた。

 少年の行動を決定する明確な指標がどこにも無かった。少年が感じる光も音も、ワンテンポ置いてようやく彼の知覚の中に浸透して来ていた。

 意識だけでなく体までもが、ぼんやりとした半透明の膜で覆われているような感覚だった。意識が命じてから肉体が反応を始めるまでの遅延時間は目に見えて大きくなっている。

 少年の五感は、無意識にその『シンボル』を探し続けるように設定されていた。そのシンボルから与えられる指標にのみ、彼の意識は潤滑され柔軟で迅速な応答を行なう。

 しかし、今は優先順位の低い指標が時折認識されるだけで、彼はそれにのろのろと従うしかなかった。

 エントリープラグの全方位モニタやエヴァの感覚を通して感じる世界は、今の少年の鈍麻した意識にとっては表面を流れ去って行く無意味なパルスの連続であり、それは単純な情報としての意味すら持っていなかった。

 目の前に広がる木々の鮮やかな緑が映り込んでいる少年の瞳は、どこまでも平坦で暗く淀んでいた。


──────────


 発令所の主モニターには地形図と、その上を移動する使徒の位置が表示されていた。山に隠れるように移動を続ける使徒は、間もなく第3新東京市に辿り着く進路と速度を保っている。

 リツコは2体のエヴァと使徒の相対位置を確認し、主モニターを見上げて呼び掛ける。

「アスカ。目標確認の後、フィールド中和と同時にパレットライフルによる攻撃を開始。目標の能力は不明な部分が多いため、その都度任意に対応すること」

『了解』

 抑揚のない返事をする無表情なアスカに頷き、リツコは少女の隣の通信ウィンドウに目を向けた。

「シンジ君。初号機はその場でATフィールド展開。目標がフィールド中和可能な距離に入ったら、フィールド中和作業を開始しなさい」

 やや斜め下に向けられた少年の視線は、普段にもまして生気という物に欠けているように思えた。ウィンドウの中でぴくりとも動かない少年を見つめたまま、リツコはマヤに小声で問い掛ける。

「初号機のATフィールドは?」

「無展開です……あ、いえ、展開確認」

 マヤは端末を操作し、初号機が展開しつつあるATフィールドの観測値を主モニター隅に表示させた。それをチェックした日向がリツコを見上げて、声を低めた。

「過去の戦闘に比べると、十分なフィールド強度とは言い難いですね」

「無いよりはマシ、かしらね。いよいよ弐号機にかかるウェイトが大きくなるわ」

 この状況では初号機を後方に下げて、戦闘の大半は弐号機に任せるしか無かった。体の前で腕を組み、リツコは青葉に視線を向けた。

「兵装ビルからの援護射撃、お願いね」

「了解。攻撃タイミングは弐号機に合わせます」

 起動された兵装ビルの外壁がスライドし、誘導兵器の発射口が姿を見せる。照準は既に目標へと設定され、使徒が山の後ろから姿を現す瞬間を待ち構えていた。

 リツコは主モニターの隅に目をやり、監視用VTOLから中継されている使徒の映像を見つめた。

 その完全な球体に近い体の表面は相変わらず鏡のようで、周囲の風景を反射している。4本足で地面に鋭く穴を穿ち、足元の立木を薙ぎ倒しながら黙々と歩き続ける。表面の黒い目玉は辺りを探るように這い動いていた。

 あの堅牢な表面装甲さえ破る事が出来れば、勝機はこちらに傾く筈だとリツコは考えた。使徒の形状からして、恐らくコアは体内奥深くに位置している可能性が高い。アスカと弐号機の能力でそれをどうにか日の当たる場所に引っ張りだして破壊する。お世辞にも素晴らしい作戦とは言えないかもしれないが、他に良い手も思い浮かばなかった。

 アスカはパレットライフルの照準を、使徒が現れる予定の山裾に合わせていた。弐号機が展開しているATフィールドと使徒のそれが干渉しあい、相手の位置や動きはアスカ自身が感覚的に測る事が出来た。

 数秒以内に使徒が肉眼で確認できる位置に到達する筈だった。

 軽快に進んでいた使徒の歩みが突然止まった。それに気付いたアスカは、使徒の気配に感覚を集中させた。使徒はそのまま山の稜線の向こうに立ち止まっている。弐号機の位置からではまだ使徒の様子を目で見る事は出来なかった。

 一瞬で、使徒の気配が変化した。

 その変化から使徒の意図を理解した次の瞬間、アスカは弐号機を振り向かせた。その方向、弐号機からやや離れた場所では初号機が何の警戒心も無く、棒立ちになっている。

 通信ウィンドウ越しに発令所のオペレーターの声が飛んで来たが、現場で状況を最も把握しているアスカがその内容を聞く必要は無かった。

 直後、銀色に輝く使徒の体が、初号機の脇に建っている兵装ビルの真上に降って来た。その体はビルをあっさりと押し潰し、瓦礫の破片と土埃が舞い上がる。瓦礫の小さな破片の幾つかが初号機の表面に飛んで不愉快な音を立てたが、紫の巨人はそれに反応する気配は全く無かった。1km近い距離を一跳躍で到達した使徒は、その4本足で素早く立ち上がり、黒い目玉をぐるりと滑らせて初号機に向けた。

 兵装ビルの残骸の中に立つ使徒の体は、初号機の全高とほぼ同じ直径を持つ球体だった。使徒を支える4本の足はそれほど長い物ではなく、その先を路面に食い込ませ立ち上がると、使徒表面の目玉模様はちょうど初号機の頭の高さにまで来ている。

 シンジは自分の真横に突然落ちて来たその物体に意識を向けることは無かった。どんな刺激にも反応を見せない少年の視線は、前方にただ無為に投げやられているだけだった。

『シンジ君! 後退して!』

 初号機エントリープラグの中に、通信機から流れるリツコの叫びが響いた。しかし今のシンジの意識が、その意味を解釈して行動に起こすには多少の時間が必要だった。そしてその数秒の遅れは、この場面では間違い無く致命的なズレだった。

 リツコの言葉が、不自然なほどに長い時間を経てシンジの意識にようやく伝わった。シンジは初号機の両足に意識を向けて、命令通りにその巨体を後ろに進ませようとした。

 ぎくしゃくした初号機の動きに、リツコは焦燥を募らせた。行動パターンも明らかになっていない使徒と、これ程の近距離で向き合う事は極めて危険に思えた。しかも今のシンジと初号機では尚更だった。

 関節が錆び付いたような動作で後ずさりする初号機を目で追うように、使徒表面の黒い円盤模様がゆっくりと動いている。

 しかし、シ