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<HEAD><TITLE>SpiCata　第伍話</TITLE></HEAD>

<BODY bgcolor=#ffffff Text=#000000>

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<FONT SIZE=6>
<BR>SpiCata</FONT><BR><BR><FONT SIZE=5>第伍話　アスカ、眠りの海で<BR><BR>
</FONT>
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<CENTER><TABLE BORDER="0" WIDTH=80%><TR><TD>
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　規則的な揺れが、少女の意識を微睡みの少し手前に引き留めていた。<BR>
<BR>
　頭を持ち上げて天井を見つめる。当たり前だが、いつもの無愛想な天井だった。『天井』と言っても、それは堅い材質の物では無かった。荷物のサイズと搬送作業の効率を勘案してコンテナスペースの上に張られた、しなやかな高強度シートが雨水や潮まじりの風から荷を保護する屋根と天井の役割を同時に果たしている。<BR>
<BR>
　航海が始まって以来、実に退屈な日々が続いていた。<BR>
<BR>
　この３年近くを分刻みのスケジュールで働き通しだった少女にとって、まとまった休息は初めての出来事だった。少女が携行しているデータライブラリには、映像や音楽等の娯楽も詰め込んであったが、彼女がそれを開いた事は無かった。<BR>
<BR>
　少女はデッキの上で潮の香りを楽しんだり陽の光を浴びたりといった事には、まるで興味が無かった。いつも同じ場所で横になって天井や壁を見つめていた。<BR>
<BR>
　少女は体にすっかり馴染んだシートの上で目をそっと閉じた。<BR>
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「申し訳ありませんが、面会は禁じられております」<BR>
<BR>
　病院の受付で山岸マユミはあっさりと門前払いを食らった。少女が学校を欠席し始めてから１０日余り。初日に『病気療養のためしばらく欠席させる』という連絡があっただけで、その後は音沙汰無しだった。少女と普段から行動を共にしているはずの少年も『業務上の都合により』学校を休んだままだった。業をにやしたマユミが休日を利用して、少女が入院しているというこの病院にこうして足を運んでいた。<BR>
<BR>
　受付で少女の病状や、退院の予定を訊ねても『患者のプライバシーに関わる事項ですので』の一言でにべもなく回答を断られた。葛城ミサトに発行してもらった本部直通のＩＤもここでは何の効力も無かった。<BR>
<BR>
　脱力したマユミはふらふらと窓際に歩み寄った。手すりにもたれかかって窓からの風景を眺める。<BR>
<BR>
　ロビーの巨大な窓からジオフロントが眺め渡せた。ネルフ本部の中枢へ繋がるピラミッド型の建造物、その周囲を囲むように存在する二つの背の高いビル。このビルには重要度がさほど高く無い施設が収容されている。ネルフ直轄の医療施設があるのはこのビルの中程のフロアだった。そのビルの向こうにやや規模の小さな建築物がぽつぽつと並んでいる。マユミの勤める第３新東京学園もその中の一つだった。<BR>
<BR>
　明るく照らされる眼下の風景に反して、彼女の脳裏にネガティブなイメージが浮かんでくる。大義名分の下に戦わされ、傷付く子供達。セカンドインパクトを体験したにも関わらず、と言うより、むしろあれを体験したからこそ彼女は人の生き死にといった物に敏感になっていた。<BR>
<BR>
　ネルフ本部に何度か通う内にこの組織の事情は少しだけ飲み込めつつあった。真に重要な情報は隠されているのだろうが、暇を見ては相手をしてくれるミサトが要点を説明してくれたことがマユミの理解を助けた。ミサトはネルフの人間にしては妙にあけすけな感じがして、マユミはいつも首を捻っていた。<BR>
<BR>
　ある日、たまたま本部施設の食堂で休憩していた時に聞いた職員の噂話で何となく合点がいった。ミサトはこの組織の中で疎んじられているようだった。『よそ者』とか『背任行為』とかあまり愉快では無い単語が漏れ聞こえていた。一種の連帯感のような物をミサトに感じ、ひょっとしたら彼女も自分と同じように子供達の事を守りたいと思っているのではないか、と感じ始めていた。<BR>
<BR>
　マユミは複雑な気分のまま、ジオフロントを眺めていた。<BR>
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<BR>
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<BR>
　目の前のモニタを流れていく文字列に意識を集中することで、余計な思考が消えていった。正確なキータッチが奏でるリズムが小気味良く響く。作業項目は消化するそばから次々に湧いて出てくる。休む暇も無い忙しさの中、時間の感覚すら希薄になっていた。発令所は人もまばらで空調と電子装置の単調な唸りが厳かに流れていた。<BR>
<BR>
　ふうっと息をついて、青葉シゲルは隣に座る日向マコトを見た。<BR>
<BR>
「なあ」<BR>
<BR>
「ん？」<BR>
<BR>
　日向はキーを打つ手を休める事なく答える。一瞬迷いを見せた青葉だったが、両腕を体の前で組み、上を見上げた。<BR>
<BR>
「雰囲気、変だよな。最近」<BR>
<BR>
「誰の？」<BR>
<BR>
「いや、ここの」<BR>
<BR>
　そう言って青葉は指で天井を指し、頭の上でくるくると回す。日向は眼鏡の奥の瞳を怪訝そうに細めたが、その視線はモニタに向けられたままだった。<BR>
<BR>
「そうか？使徒も既に３体処理してる、本部に限って言えば人死にも皆無。至って順調だと思うけどね」<BR>
<BR>
「葛城さんの事でしょ」<BR>
<BR>
　２人の後ろから、書類ファイルを抱えた伊吹マヤが歩み寄ってきた。オペレーター席の後方にある大テーブルの上にファイルを置くと、彼女は自分の席にどっかりと座り込んだ。キーに指を走らせて、端末をスリープモードから復帰させる。彼女にしては珍しく無表情で、淡々と言葉を続けた。<BR>
<BR>
「作戦記録を見た人のほとんどは、あの戦闘指揮に『不支持』を表明してるわ」<BR>
<BR>
　使徒との戦闘の経過はミリ秒単位で記録されている。有史以来、人類が数千年に渡って積み上げてきた戦争のセオリーが当てにならず、事前に対策を練る事がほとんど不可能な敵である、使徒。少しでも勝率を高めるためには、経験した戦いを多角的に分析し、ネルフと言う組織のより効率的な運用を目指す必要があった。戦闘報告書には、作戦方針はもとより指揮官の指示やパイロットの一挙手一投足までもが詳細に記述されている。作戦部、技術部の人間はそれらの記録にアクセスする事ができ、忌憚ない意見を相互に発信し議論にかける事ができた。<BR>
<BR>
　ミサトが零号機、つまり綾波レイを半ば見捨てようとした事は周知の事実だった。<BR>
<BR>
　彼女の作戦部長としての資質を問う声も日増しに高まるばかりだった。ネルフ職員の間に広がっている、子供を戦場に駆り出しているやり場の無い罪悪感。その捌け口を求める感情が、ミサトへの風当たりの強さに転化していると言えなくも無かったのだが。<BR>
<BR>
　その事かと得心して、日向が軽く頷く。日向自身としては、ミサトを支持していた。綱渡りではあったが、使徒殲滅に尽力したのは間違い無く彼女だった。意図や経緯はともかく、結果としてミサトの指揮の下で使徒を倒したという事実が、日向にミサトを支持させる根拠となっていた。<BR>
<BR>
　レイを犠牲にしてでも勝率の高い方へと戦況を進めていった事は、あの状況で下せる最善の策だったと日向は思っている。自分がミサトの立場ならば恐らく迷い、その迷いが敗北を呼び込んだかもしれなかった。エヴァという強力無比な兵器を運用してはいるが、ネルフはあくまでも研究機関の延長に過ぎず、決して軍事組織にはなりきれないと、日向は常日頃から感じていた。<BR>
<BR>
　ミサトのように仮借なく敵の殲滅だけを追う事ができる資質は、ネルフでは貴重だった。彼女は、サードチルドレンを有効に使役できる人材というだけでなく、使徒との戦いにおいてネルフの支柱たりうる人物かも知れない、という思いを日向は強くしていた。<BR>
<BR>
　それだけに、ミサトに向けられている水面下の非難には同じ組織の人間として忸怩たる物があり、その思いが日向に言葉を吐かせた。<BR>
<BR>
「皆も感情的になりすぎてると思うけどね」<BR>
<BR>
「間接的に自分の命を預けてる相手が、人の命を駒みたいに扱う人間だとしたら、ナーバスになるのも当然でしょ」<BR>
<BR>
　そう言って、じろりと日向を睨むマヤ。青葉が相変わらず腕を組んだまま、目を閉じてうんうんと頷いて言う。<BR>
<BR>
「士気が下がるのは問題かなあ」<BR>
<BR>
　議論とすら呼べない、不毛な迷路へ入り込みかけている感覚に、日向はため息と共に言った。<BR>
<BR>
「葛城さんがいないと、俺達が勝てなかったのも事実だ」<BR>
<BR>
　青葉が再び頷く。<BR>
<BR>
「ああ、確かになあ」<BR>
<BR>
　お前の名前は今日から風見鶏だ、と日向は青葉に向かい心の中で呟いた。マヤは表情を堅くして、キーボードを叩く速度を上げた。<BR>
<BR>
「今はね」<BR>
<BR>
　そう言ったマヤの目は、冷たくモニタに向けられていた。<BR>
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<BR>
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　いつもと同じように、不必要な照明は消えていた。<BR>
<BR>
　ネルフ職員宿舎の個室の中。９歳の子供にはやや広すぎるサイズのベッドの上で、碇シンジはその体を横たえていた。<BR>
<BR>
　ただ体を休めるだけの行為だったが、それすら少年にとっては意識によって制御されるべき行動だった。薄く開かれた両の瞳がぼやけた天井に向けられている。<BR>
<BR>
　部屋の中は少年１人だけだった。<BR>
<BR>
　しかし、本能と理性の間を埋める物を持たない少年の前では、孤独は何の意味も無かった。<BR>
<BR>
<BR>
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<BR>
　ミサトは、けたたましく鳴り響く目覚まし時計を布団から無造作に伸ばした足で止めた。<BR>
<BR>
　埃っぽく薄暗い部屋の中に、カーテンの隙間から朝日が射し込んでいる。ミサトは目覚まし時計の位置から今朝の自分の寝相を判断し、目を閉じたまま布団の外へ手を伸ばした。畳の上に置かれた５０ｃｍ四方の１ドア冷蔵庫を開ける。中から取り出した缶ビールのプルタブを開けて、布団の中で横になったまま中身を一口飲んだ。<BR>
<BR>
　艶っぽいため息を一つついて、布団の奥深くで体を丸めた。<BR>
<BR>
　何度か寝返りを打った後、彼女は薄く目を開いた。何かを思い出すように視線を左右に振った後、むっくりと起き上がる。右手で乱れた髪を撫で付けながら、タンクトップの隙間から脇腹を左手でかきむしっている。再び眠りに引きずり込まれそうな両目をとろんとさせながら大あくびをする。壁にかけてあるカレンダーについた丸印を見て、目をこすった。<BR>
<BR>
「あ……いけね。今日だっけ」<BR>
<BR>
<BR>
<CENTER>──────────</CENTER><BR>
<BR>
　書類置き場と休憩室を兼ねたこの部屋の三方はガラス窓になっており、ケイジ内部の様子を見渡す事ができた。向かい合わせた四つのデスクの上に書類が散乱している。<BR>
<BR>
　作業服を着た若い職員が壁掛けの電話の脇で壁にもたれかかっている。彼は受話器を肩に挟みながら、会話の内容を横のホワイトボードに箇条書きにしていく。彼よりは年長の職員が椅子に座って茶をすすりながら難しい顔でその文字を見つめている。<BR>
<BR>
「……ええ、外装の変更点はそれだけですね。パーツは発注済……はい……分かりました。じゃ、よろしく……はい」<BR>
<BR>
　受話器を戻した男は、自分の肩を叩きながら長椅子に体を投げ出した。彼は体の下に違和感を感じ、怪訝な顔で尻の下を手で探る。自分の下敷きになっていた何枚かの書類を引っ張りだし、しげしげと眺める。それがただのメモ用紙だということを確認すると、無造作に丸めて部屋の隅の段ボール箱に放り投げる。<BR>
<BR>
　湯呑み茶碗をデスクの上に置いた年長の男が口を開く。<BR>
<BR>
「色も塗り替えるのか」<BR>
<BR>
「赤とオレンジだと、かぶり気味なんだそうで」<BR>
<BR>
「別にいいと思うんだがな」<BR>
<BR>
　年長の男が頭を回して、ガラスの向こうに見えるエヴァ零号機に目をやった。<BR>
<BR>
　装甲板を全て取り除かれた巨人は、内部の生体組織をあらわにしている。灰紫の肌色をした人間が裸で壁に固定されているようだった。顔面の中央に埋め込まれたレンズだけが非生物的な要素だった。その解剖模型のような外見からは、どことなく愛嬌が滲み出していた。<BR>
<BR>
<BR>
<CENTER>──────────</CENTER><BR>
<BR>
　ゆったりとしたワンピースを思わせる、機能性を優先したシンプルなデザインも相まって、そのライトブルーの検診衣は少女に良く似合っていた。少女が足を進める度に、サンダルが遊歩道に当たる音が響く。<BR>
<BR>
　綾波レイはふと足を止め、上を見上げた。木々の間から降り注ぐ光に少しだけ目を細める。無意識にかざした手に意識を向けた。ジオフロントの天井から照りつける光の白さが自分の白い肌に溶け込むようだった。<BR>
<BR>
　レイは使徒との戦闘において脳にかかった負荷のために、無期限の入院生活を命じられていた。疲労が残らない程度なら軽い運動は問題ないと言われていた。ネルフ本部の周囲に設けられた遊歩道や芝生に覆われたスペースで、短い散歩をするのが少女の日課になった。<BR>
<BR>
　入院した当日は、浅い覚醒と深い睡眠が交互にやってきた。混濁気味の意識は夢と現実の境界を滲ませ、五感で知覚した世界にリアリティを持てない状態がしばらく続いた。精神的な疲労で感覚が一時的に混乱しているという説明を受けたが、問題の解決には役立たなかった。<BR>
<BR>
　結局、時間が少女の精神を癒した。一週間ほどで、レイは元の精神状態を取り戻したと診断された。しかし、退院の指示は出ないまま少女は病室と遊歩道の往復を繰り返す毎日を過ごしていた。<BR>
<BR>
　レイは頭上にかざしていた手を降ろし、後ろを振り向いた。<BR>
<BR>
　今までとは違い、そこに少年の姿は無かった。<BR>
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　司令執務室から見下ろすジオフロントの景色は、天蓋から降り注ぐ光によって輝いていた。碇ゲンドウはいつもの姿勢で、顔の前で両手を組んでいる。彼のデスクの上には、表紙に『極秘』とスタンプされた報告書が載っていた。<BR>
<BR>
　ゲンドウの後ろに立っていた冬月が前に進んだ。机の上からその報告書を取り上げ、立ったままその内容に目を走らせる。冬月は文字を追いながら、ゲンドウの前に立つ赤木リツコに問い掛けた。リツコは白衣のポケットに両手を入れたまま、ゲンドウと冬月に事務的な視線を向けていた。<BR>
<BR>
「つまり、今後はサードとファーストを必要以上に接触させるべきではない、と？」<BR>
<BR>
「はい。レイはシンジ君を『拒絶』しています。シンジ君との接触がもたらす、レイへの心理的ストレスは予測困難です」<BR>
<BR>
「ふむ……無理をさせれば、エヴァのオペレートに問題が生じることも」<BR>
<BR>
「無い、とは言えません」<BR>
<BR>
　ここまで沈黙を通していたゲンドウが口を開いた。<BR>
<BR>
「戦闘中、サードがファーストの『命令』に従ったという報告があるが」<BR>
<BR>
「状況からは、そう結論するのが自然かと」<BR>
<BR>
　皮肉と疑念の交じった笑みを小さく浮かべ、冬月は報告書を机の上に戻した。<BR>
<BR>
「サードチルドレンの……『心の治療』に繋がる吉兆となるかな」<BR>
<BR>
　絶対な強制力を持つと思われていたミサトの命令にシンジが従わなかった。それは極めて興味深い事項として捉えられていた。ネルフにとっての懸案であった、ミサトとシンジの関係。それを断ち切る事ができるかも知れない、という期待の空気が流れ始めていた。もちろんミサトとシンジの『主従関係』は依然として表向き極秘扱いではあった。しかし、ある程度以上の地位の職員にとって、それは最早公然の秘密になっていた。<BR>
<BR>
　サードチルドレンを戦闘で有効に運用できる唯一の人材というミサトであったが、子供達を使い捨てとばかりに酷使するこの作戦部長はあまり良いイメージを持たれていなかった。そればかりか、ミサトという人間に対する疑念、有り体に言えば彼女がネルフの敵対組織から送り込まれた破壊工作要員ではないのか、という声も未だに囁かれている始末だった。<BR>
<BR>
　言わば弱味を握られた状態で好き勝手されていただけに、その反動としての怨嗟の声が強い物になるのは自然な事だった。<BR>
<BR>
　冬月はゲンドウを見下ろした。<BR>
<BR>
「本部でも葛城一尉に対する不満が出始めているな。『切る』潮時かも知れんぞ、碇」<BR>
<BR>
「今はいい。我々がサードを完全に掌握してからでも遅くは無い」<BR>
<BR>
　リツコの目がわずかに細められた。ゲンドウは彼女の表情の変化にも気付かない様子で、問い掛けとも独り言ともつかない言葉を続けた。<BR>
<BR>
「問題は、『何故』ファーストの命令にサードが従ったのか、だ。鍵はそこにある」<BR>
<BR>
「やはりチルドレンの間には何か特殊な心理的相互作用が存在するのか……？今どきエスパーでもあるまいが」<BR>
<BR>
　そう言って冬月は自嘲気味に肩をすくめた。彼の態度とは対照的に、真面目な口調でリツコが答えた。<BR>
<BR>
「今回セッティングしたサードとセカンドの接見には、それを確かめる意味もあります。表向きは非常電源ソケットの追加輸送、という事にしてありますが」<BR>
<BR>
　腕時計を見ながら、冬月が頷いた。<BR>
<BR>
「そろそろ第３新東京を発った頃だな」<BR>
<BR>
「はい。シンジ君と葛城一尉は予定通り、午後には艦隊と合流します」<BR>
<BR>
　リツコの言葉に特に興味も示さず、ゲンドウは机の上の報告書をじっと凝視していた。<BR>
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<BR>
　座席にだらしなくもたれかかってガラス越しに水平線を見つめるミサトの目は、控えめに見ても気の抜けた物だと言わざるを得なかった。ミサトは少し視線を下げると、眼下を高速で過ぎ去って行く海面の単調なきらめきを眺める。それにも飽きると、顔を機内に戻して目を閉じた。<BR>
<BR>
　今の彼女に取ってはヘリのエンジンが起こす騒音や振動も子守唄程度の刺激だった。<BR>
<BR>
　隣に座っているシンジの事はあまり考えないようにした。ミサトは最近、この少年が実はただの厄病神なのではないかと思い始めていた。当初はネルフから情報を引き出すためのカードのつもりだった筈が、今では下手に扱いを誤れば自分の首を絞める羽目に陥りかねない爆弾になっている。<BR>
<BR>
　自分の立場が危うくなっているのは実感していた。事実、今日もこうして半ば強制的に、ネルフの指示のまま使い走りをさせられている。ただの装備輸送任務に作戦部長とサードチルドレンをあてがう時点で、裏がある命令なのは明らかだった。ネルフにとって主な関心事の一つである、シンジの心理的『矯正』作業は着々と進行しているらしいと、ミサトは憂鬱な気分で考えた。<BR>
<BR>
　彼女は座席に頭を預け、長々とため息をついた。<BR>
<BR>
　ミサトは自分の生きる理由を、セカンドインパクトの真実を知ることだけに求めていた。その情熱ゆえに、以前リツコがミサトに語った『真実』とやらには半信半疑だった。しかし、ミサトが作戦部長の権限を利用して閲覧した多くの情報は、リツコの言葉の信憑性を高めた。無論、その閲覧できる情報が全てネルフが管理している情報である以上、無条件に信じる事は出来なかった。<BR>
<BR>
　とは言え、ミサトの目から見る限りそれらの情報の間には矛盾する部分はなかった。あるいは、リツコやネルフが初めから真実を自分に提示していたのかも知れない、とミサトは少しずつ思い始めていた。しかし、それを受け入れることを躊躇わせる物がミサトの心の中にあった。それが道標の喪失に対する漠然とした『恐怖』である事に気付き始めていた。<BR>
<BR>
　ミサトは、『真実』を手に入れた後に自分がどうしたいのか、何も考えていなかった。<BR>
<BR>
　ひょっとしたら、どれだけ真実に近付いたところで自分は決して満足しないのかも知れないと思い、不意に笑いがこみ上げそうになった。<BR>
<BR>
（なんだ……生きる為の言い訳が欲しかっただけなのかな）<BR>
<BR>
　機体が傾いた。体にかかる力でヘリが降下行動を始めたことに気付いた。反射的に窓の外に目を向ける。自分が乗っているヘリのやや後方に、細長い胴体の下部で大型コンテナを抱えた輸送ヘリが続いているのが見えた。進行方向の海面には、隊形を組んだいくつかの巨大な物体が白い航跡を引きながら浮かんでいた。<BR>
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　船体の側面に張り出した通路で手すりにもたれかかりながら、その男は空を眺めていた。袖をまくったワイシャツと緩めに巻かれたネクタイが、彼が普段から意識して作り上げている自分自身の人物イメージを象徴していた。彼は自分が乗っている船に近付いて来るヘリの機影を認めると、頭の後ろで縛った長髪を風に揺らしながら、嬉しそうに呟いた。<BR>
<BR>
「やっと来たな」<BR>
<BR>
　それは男が得意とする演技ではなく、彼の心から自然に流れ出た言葉だった。<BR>
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　空母の甲板に降り立ったミサトは風で乱れる髪を押さえながら、身に染み付いた習慣に従って周囲を一瞥した。クルーの興味津々な視線に、心中で肩をすくめる。女と子供は明らかに場違いな空間だった。<BR>
<BR>
　ミサトは自分の脇に立つシンジを見下ろす。この少年の無表情さはどんな場所でも変わる事がなかった。<BR>
<BR>
「ようこそオーバー・ザ・レインボウへ。ミス葛城」<BR>
<BR>
　背後からかけられた声に、ミサトは体を強張らせた。自分の記憶を嫌々ながら手繰り寄せ、それが正しい事を確認すると、ミサトはその声を完全に無視した。彼女は歩き出し、ブリッジに続く扉をくぐった。シンジも彼女の脇について歩き出す。その後ろからもう一つ足音が着いて来ていた。ミサトは仏頂面のまま黙々と歩き続けた。<BR>
<BR>
　からかうような口調で再び声がかけられた。<BR>
<BR>
「おいおい、挨拶くらいしてくれてもバチは当たらないだろ」<BR>
<BR>
　ミサトは振り返りもせずに通路を突き進んで行く。鬼気迫るその表情に、すれ違う乗員が思わず道を開ける。鼻から息を荒く吐き出し、ミサトは背後にいるはずの男に低く声を投げた。<BR>
<BR>
「……アンタまでネルフにいたなんて初耳だわ」<BR>
<BR>
「あれ、通知行ってなかった？セカンドチルドレンの随伴者が俺だって」<BR>
<BR>
　ミサトの歩くペースがわずかに落ちた。彼女の横に男が並び、歩調を合わせる。男の方に視線を向けないようにしながら、彼女は冷たく答えた。<BR>
<BR>
「別に興味なかったし」<BR>
<BR>
　ミサトの横顔をしばし見つめ、男は微笑の絶えない口元を更に弛めた。<BR>
<BR>
「ははは……そういう所、変わらないな……で、彼がサードチルドレン、碇シンジ君か」<BR>
<BR>
　男はそう言って上体を少し傾け、ミサトを挟んで反対側にいるシンジに目を向ける。<BR>
<BR>
「初めまして、碇シンジ君。加持リョウジだ。よろしくな」<BR>
<BR>
　シンジは加持の声に完全な無反応で応じた。<BR>
<BR>
　加持の目が探るような光を帯びる。この瞬間、ミサトは数年ぶりに加持の顔に視線を向けた。かつて浅からぬ仲であったこの男の顔は、ミサトの記憶の中に残っている彼のイメージそのままだった。彼の瞳に宿る誠実さ、滑稽さ、狡猾さ、どれもミサトが昔愛した表情であり、また同時に嫌悪した表情であった。<BR>
<BR>
　一瞬で頭を駆け抜けた過去の記憶を隅に押しやり、ミサトは冷淡に告げた。<BR>
<BR>
「その子に挨拶しても無駄よ」<BR>
<BR>
「知ってるさ。ま、気分の問題だよ」<BR>
<BR>
　加持はミサトの目を覗き込み、世の中全てを面白半分に捉えているような独特の笑みを彼女に見せた。その笑顔から、理屈では説明できない感情を抱いている自分に、ミサトは苦笑した。<BR>
<BR>
　変わっていない。この男も、そして自分も。<BR>
<BR>
<BR>
<CENTER>──────────</CENTER><BR>
<BR>
　艦長の態度は冷ややかな物に満ちていた。<BR>
<BR>
　ミサトは場を和ませようと、『お互い、使い走り同士仲良くしましょう』というセリフを口から出しかけたが、下手に刺激するよりもここは愛想笑いで取り繕おうと思い直した。加持と一緒にいると、ユーモアのセンスまでこの男に影響されるのかと、ミサトは気分が滅入ってきた。<BR>
<BR>
　その男は椅子に腰掛けたまま、ミサトの横に立つシンジを舐めるように眺めた。サングラスに隠れているが、その目に不愉快な色が浮かんでいる事は容易に読み取れた。艦長はミサトが差し出した書類一式を受け取る素振りも見せずに、吐き捨てるように言葉を発した。<BR>
<BR>
「子供を洗脳してパイロットにしているという噂は事実らしいな」<BR>
<BR>
　後ろに立つ副長が示し合わせたかのように相槌を打つ。<BR>
<BR>
「某組織では人権の定義が我々と少々異なるようですな」<BR>
<BR>
　ミサトは、書類を挟んだバインダーを差し出したまま、そのやり取りを聞いていた。やがて、相手に書類を受け取る気が無いと判断すると、それを自分の脇に挟み、上品に微笑んだ。好意では無く憐憫の意から来る笑みだった。<BR>
<BR>
「では、手続きは新横須賀に入港してから、ということで」<BR>
<BR>
　ミサトはそう言って、ブリッジを去ろうと体を後ろに向けた。どこまでも無表情を貫く少年を凝視したまま、艦長がミサトの背中に声を投げた。<BR>
<BR>
「人形が人形を操り世界を守るのか。世も末だな」<BR>
<BR>
　扉をくぐりかけたミサトが頭を回して艦長を肩ごしに冷たく見つめ、微笑みを浮かべた。<BR>
<BR>
「人形の方が可愛げがある分まだマシですわ」<BR>
<BR>
<BR>
<CENTER>──────────</CENTER><BR>
<BR>
　艦内食堂の長テーブルの端で、ミサトは加持と向かい合っていた。ミサトはバックパックからランチボックスを取り出しテーブルの上に置いた。蓋を取り、別に用意したフォークと一緒に自分とシンジの間に置く。再びバックパックの中を探り、アルミホイルの包みを４、５個取り出した。<BR>
<BR>
「シンジ君、食べなさい」<BR>
<BR>
　ミサトの言葉にシンジは包みの一つを取り上げ、中のおにぎりに口をつけた。規則正しい咀嚼で機械的に食事を進めていく少年を見ながら、ミサトも包みを一つ取り上げた。塩味の利いた飯粒をもぐもぐと味わっていると、頬杖をついて自分達をにやにや眺めている加持に気付いた。<BR>
<BR>
「何よ」<BR>
<BR>
　加持は手元のカップを持ち上げ、コーヒーを一口啜りながらミサトを見つめた。<BR>
<BR>
「いや。随分と面倒見がいいんだな、って思ってさ」<BR>
<BR>
　ステンレス製のボトルからマグカップに麦茶を注いでシンジの前に置いた後、ミサトは首を傾けて厨房の方を視線で指した。<BR>
<BR>
「誰が作ったか分からない物をチルドレンに食べさせる訳にはいかないでしょうが。保安上の措置よ」<BR>
<BR>
「なるほど……ね。相変わらず得意メニューは、おにぎりか……おかずも昔と代わり映えしないなあ」<BR>
<BR>
　彼の懐かしがるような口調に、ミサトもしばし食事の手を止めた。すぐに思い直してマグカップから麦茶を喉に流し込む。馬鹿馬鹿しい、昔の事なんてどうでも良いと、ミサトは食事を再開した。<BR>
<BR>
「シンプルなのが一番よ。アンタみたいな悪食には分からないでしょうけど、これは非常に機能的な食品なの」<BR>
<BR>
　さりげなくおにぎりの包みに伸ばされた加持の手をミサトが素早く叩き落とした。目を閉じておにぎりを頬張りながらの一撃だったが、その衝撃はとてつもなく鋭かった。加持が一声呻いて手を引っ込める。ミサトは片目を開いてドスの利いた声を発した。<BR>
<BR>
「意地汚い真似しないの」<BR>
<BR>
　手加減無しに弾かれて痺れる手を振りながら、遠慮なく睨み付けるミサトの視線に対して加持は冷や汗を浮かべた。彼女の表情はネルフの人間を信用していない事の証明だった。ミサトがネルフに雇い入れられた経緯についてある程度の情報を彼は知っていた。それがいくつかの謎を解く手掛かりに繋がるという直感を彼は持っていた。<BR>
<BR>
　加持は再び頬杖を突いて、食事を黙々と続ける２人を見つめた。<BR>
<BR>
　彼は有り得たかも知れない自分達の別の人生を思った。あの時、あの言葉を口にしていたらどうなっていただろうか。普通の人生を普通に過ごしている自分達のイメージに苦笑する。後悔はしていない。自分も彼女も決してそんな選択をしないのは分かり切っていることだった。<BR>
<BR>
「ところで」<BR>
<BR>
　いつの間にか食事を終え、ハンカチで口を拭いながらミサトが加持をじろりと見た。<BR>
<BR>
「ここではセカンドチルドレンの随伴者が出す指示に従うように、と言われてるんだけど」<BR>
<BR>
　加持はシンジの食事も終わった事を確認すると、胸ポケットから煙草を取り出して火を着けずに口にくわえた。<BR>
<BR>
「ああ。何、大した事じゃ無い。『彼女』との顔合わせさ。シンジ君も一緒に、ね」<BR>
<BR>
<BR>
<CENTER>──────────</CENTER><BR>
<BR>
　１５年前に水に沈んだ都市の残骸は、かつてそこに住んでいた者達の墓標として静かに存在していた。太陽の光も多く届かないその場所は暗い青に彩られている。近代建築の象徴とも言える巨大建造物は朽ち果て、今では様々な生物達の住処となっている。<BR>
<BR>
　巨大な白い影が横切った。<BR>
<BR>
　その物体は水中を滑らかに移動している。それは海底を撫でるように進んでいた。その白い表面は、遠目には磨きあげられた金属のような美しい均一さがあった。しかし、接近して良く観察すればその表面は無数の細かいスリットが並んでいるのが見て取れる。時折そのスリット群が連係した動きで開き、そこから噴き出される水流が不規則な光学的屈折を生じさせ、その物体の姿をぼやけさせていた。<BR>
<BR>
　海底に積もった泥を煙のように巻き上げながら、その物体は光を避けるように更に暗い深みへと進んでいった。<BR>
<BR>
<BR>
<CENTER>──────────</CENTER><BR>
<BR>
　艦船間の移動に使われるヘリのパイロットは無駄に饒舌で加持と気が合っているようだった。加持は航海の中で随分と知り合いを作ったようだった。おそらく業務上の要請でもあったのだろうが、彼は相手との心の距離を測りその内側へ入り込む事にかけては極めて優秀な人物だった。<BR>
<BR>
　昔は彼の才能を羨ましく思ったこともあった。しかし、今では彼の自然な振る舞いが逆に鼻についていた。彼や自分が何を得るために生きているのかが互いに薄々分かりかけた頃から、２人の距離は少しずつ遠くなっていった。全てを疑う事によって成立する世界で生きていく自分達にとっては、誰かを信じるためにはその相手から距離を置く以外に方法が無かった。<BR>
<BR>
　オーバー・ザ・レインボウからオセローに向かうヘリの中で、ミサトは隣で鼻歌を歌いながらのんびりしている男に呆れつつ、心のどこかで安らぎを感じていた。その感情が自分の人生に言い訳する為の、単なる思い込みである可能性も十分承知していた。<BR>
<BR>
　船体の半分以上を巨大なシートで覆われた輸送艦に向かって、ヘリは緩やかに降下していった。<BR>
<BR>
<BR>
<CENTER>──────────</CENTER><BR>
<BR>
　少女はヘリのエンジン音が近付いてくるのを感じた。昨日、随伴の男から告げられた作業の予定時間には多少早いようだが、特に気にしなかった。<BR>
<BR>
　少女には身だしなみを気にする必要も、心の準備をする理由も無かった。<BR>
<BR>
　これから会う事になる少年に対して、興味は湧いてこなかった。<BR>
<BR>
　本部所属の２人の子供が既に使徒を３体倒しているのは知っていた。その事でドイツ支部の人間が焦燥を濃くしていることも知っていた。パイロットとして最も長期間登録されているにも関わらず、本部の締め付けによりあの日以来、本体の起動実験すら許可されなかった事に周囲の人間は怒り心頭という日々だった。<BR>
<BR>
　しかしそれら全てが、少女にはどうでも良い事だった。<BR>
<BR>
　流されるままに生きざるを得なかった少女の人生。それを大人達は優秀さや忠実さの証と誤解していた。生きる意欲も、死を選ぶ積極性も失った少女はその類い稀な能力とともに高い評価を受けていた。少女は実に都合の良い素材であり、多くの人間の好奇心を満たし、功名心を刺激した。無数の人間の思惑の中に置かれ、請われるまま少女はひたすら自分の能力を磨き上げた。それはあくまで少女を利用する者たちの意志によるもので、彼女の意志ではなかった。<BR>
<BR>
　少女には何も無かった。自分自身の欲求を行使する術を忘れた少女にとって、他人の命令に全てを委ねる事が何よりもの安寧だった。彼女は既に他人の言葉を感情的な面から評価することを放棄していた。賞賛も叱責も少女には何の意味も持たなかった。命令を淡々と実行していく少女は、決して感情を表に出さなかった。<BR>
<BR>
　少女の中では、感情という物が自分にあるのかどうかすらも不確かになっていた。<BR>
<BR>
　少なくとも何も持たない自分に心は不要だと思った。死ねと命令されれば躊躇なくそれを実行できる確信があった。それは自殺願望とも違った。少女の明晰な思考は自分が消える瞬間を様々な状況に当てはめリアルにシミュレーションできた。しかし恐怖やそれに準ずる想いは湧いてこなかった。両手の指で足りるだけの齢しか重ねていないが、少女は命という概念を達観しているとも言えた。<BR>
<BR>
　少女は、やがてくる自分の消滅の日だけを待ちながら、人々の流れの中、彼らの言葉を唯々諾々と受け入れ続ける事で時間を潰していた。<BR>
<BR>
　やがて少女の鋭敏な『耳』は床を踏む複数の足音を知覚した。成人の男女と、おそらく子供が１人。<BR>
<BR>
　少女は、やがて彼らが現れるであろう金属製の扉に視線を向けた。<BR>
<BR>
<BR>
<CENTER>──────────</CENTER><BR>
<BR>
　加持はオセロー内部の閑散とした通路で、ミサトとシンジを先導して歩いていた。彼は両手をポケットに突っ込んだまま、後ろのミサトに目を向けた。<BR>
<BR>
「ところで、セカンドチルドレンの資料は読んだかい？」<BR>
<BR>
「氏名、性別、年令以外はドイツ支部の部外秘項目なんでしょ。本部にも非公開って、『はい、悪い事してます』って言ってるようなもんじゃない？」<BR>
<BR>
　加持が苦笑しながら頷く。<BR>
<BR>
「ま、色々事情があってな。彼女に関する情報の拡散は避けてたんだ」<BR>
<BR>
　その言葉の裏にある胡散臭い物をミサトは感じ取った。ネルフ職員としては日の浅い部類に入るミサトでも、本部と支部の間にある軋轢には気付いていた。この組織の裏にはとてつもなく大きな権力と資金が流れている。それを自分に有利な方向へ導こうと考える者が出てくるのはむしろ当然の事だった。何ごとに置いても優先されている本部を出し抜こうと、各地の支部が策を弄していても不思議は無いとミサトは思った。<BR>
<BR>
　ふと、シンジの精神にミサトへの服従性を刷り込んだのは、どこかの支部の仕業ではないかとの考えが彼女の脳裏をよぎった。本部が擁するチルドレンの１人を運用困難な状況に陥らせる事で利を得るのは、他ならぬネルフの支部であると言えなくも無かった。<BR>
<BR>
　人類の存亡がかかっている時に、愚にも付かない派閥争いに明け暮れる人間の顔をミサトは思い浮かべた。それも人間の自然な姿ではある、と彼女は思う。しかし、下手をすれば人類丸ごと消滅するかもしれない状況では、少しばかりリスクの高いパワーゲームであるのも確かだった。<BR>
<BR>
　もっとも、使徒に破れる事が即サードインパクト、人類の破滅に繋がるという話はネルフの人間がそう言っているだけだった。セカンドインパクトの真相も含め、ミサトはまだ何一つ完全には信用してしていなかった。<BR>
<BR>
　階段と通路をいくつか通り抜けた後、加持は一つの扉に手をかけた。<BR>
<BR>
「ノックは必要無いかな」<BR>
<BR>
　彼は軽口を叩きながら扉を開き、ミサトとシンジを先に進ませた。<BR>
<BR>
　視界に鮮やかな赤が飛び込んできた。扉の先に一歩進んだ所でミサトは足を止め、それを見上げた。<BR>
<BR>
　深紅の巨人がミサト達に頭頂部を向けるように横たわっている。正確には、床に開いた方形の穴に満たされた赤い液体の中に、横向きになって浮かんでいた。<BR>
<BR>
　ミサトの目から見る限り、肩から下の部分は基本的に初号機と大差ないように思えた。特徴的なのは、その頭部だった。初号機とは違い、突起はなく丸みが強調されたフォルムになっている。また、光学センサーが顔の左右にそれぞれ縦に２つ配置され、計４つの目が付いていた。<BR>
<BR>
　初号機や零号機を見なれているはずのミサトでも、その威圧感に呑まれそうになった。その様子を悪戯っぽい目で見ながら、加持が静かに言った。<BR>
<BR>
「こいつがエヴァンゲリオン弐号機さ。世界初の制式タイプのエヴァ……だそうだ」<BR>
<BR>
　巨人の顔の正面方向に回り込むよう、加持が歩き始める。ミサトもその後に続く。シンジはミサトからわずかに遅れる位置を進んでいる。少年の視線は一瞬赤い巨人の瞳に吸い寄せられたが、すぐに自分の足下へと戻された。<BR>
<BR>
　弐号機の顔を見上げる場所に作業用の机が２つ並べて置いてあり、その上にはキーボードとモニタ、ミサトの知識では用途不明の様々な機器類が無造作に設置されていた。加持は椅子に座ると手慣れた様子でキーボードを叩き、モニタに映った文字列を眺める。<BR>
<BR>
　ミサトはその様子を後ろから訝し気に見ている。端末の前に座り込んでから数分が過ぎても、彼は断続的にキーボードに指を走らせ、ウィンドウに現れたメッセージをじっと見つめるという行動をくり返していた。<BR>
<BR>
　ついに焦れたミサトが、声を苛立たせた。<BR>
<BR>
「ねえ、さっきから何やってんのよ。セカンドチルドレンは放っといていいの？」<BR>
<BR>
　加持はモニタを見つめたまま、片手を上げてミサトの言葉を制した。<BR>
<BR>
「悪い、すぐ終わるから。一応、定期的に目視でチェックしろって言われてるんだよ」<BR>
<BR>
　ネルフは人使いが荒くていけないや、と呟きながら加持はキーを叩き続ける。<BR>
<BR>
　ミサトはため息をついて、弐号機を見上げた。ふと、隣に立つ少年の事を思い出した。シンジの方に目を落とすと、彼は普段通りの無表情だった。確か初号機を見た時はほんの少しだけ興味を惹かれていた素振りだったが、今は何の反応も見せていなかった。あの日から今までの事を思い返すと、我ながら感心する程の波乱万丈振りだった。この少年の中ではあの戦いやジオフロントでの記憶はどう形作らているのだろうかと、詮無い思いを巡らせる。<BR>
<BR>
　彼女の思索は、加持の声によって中断させられた。<BR>
<BR>
「お待たせ」<BR>
<BR>
　加持はそう言って椅子から立ち上がり、背後のミサトとシンジの方に向き直ると、机によりかかった。彼は左手を上げ、『そこを動くな』とジェスチャーで示した。その右手はキーボードの上に当てられていた。ミサトは机の上のモニタにどこかで見たようなウィンドウが開いている事に気付いた。加持は弐号機を背にしたまま、芝居がかった調子でにこやかに言った。<BR>
<BR>
「彼女がセカンドチルドレン、惣流・アスカ・ラングレーだ」<BR>
<BR>
　加持がキーを叩く。<BR>
<BR>
　黒く塗り潰されていたウィンドウの中に光が現れる。<BR>
<BR>
　その瞬間、ミサトはそのウィンドウが発令所で見なれた通信用の物だと言う事に気付いた。通信先を表示するウィンドウフレームに『ＥＶＡ−０２』の文字があった。<BR>
<BR>
　モニタに現れた少女は目を閉じていた。<BR>
<BR>
　肩に届く手前で切り揃えられた赤茶色の髪の光沢と、白色人種特有の質感を持つ肌が画面を通してなお印象的だった。ウィンドウには少女の首から上しか映っていなかったが、首周りに見える独特なデザインは見間違えようが無かった。それはエヴァ弐号機と同じ深紅のプラグスーツだった。<BR>
<BR>
　少女の顔に一瞬魅入られたミサトは、息を吐き出し心を落ち着けた。資料にある通り、この少女もやはりシンジと同じ年頃の顔かたちであった。控えめに言っても美しい部類にカテゴライズされるはずだが、同時にどこか心がざわめく感じをミサトはこの少女から受け取っていた。<BR>
<BR>
　その時、ミサトは目を閉じたままの少女の顔に異様な物を見つけた。本来なら彼女を見た瞬間に気付いても良い程、それは異質な物だった。しかし、眠るように瞳を閉じる少女の表情が持つ強烈な印象が、それに気付かせる事を遅らせていた。<BR>
<BR>
　少女の閉じられた左目の周囲に、灰色に変色した網目の断片が浮き出ていた。一見すると血管のようにも見えたが、それらは不自然に直線的な模様だった。その網目模様は少女の左目付近から左耳へと続く部分を覆っていた。<BR>
<BR>
　モニタの脇に置かれたマイクに向かって加持が呼び掛けた。<BR>
<BR>
「アスカ」<BR>
<BR>
　少女は右の瞳だけを開いた。その動きに従って、左目の周りの皮膚が引きつりを見せた。しかし、少女の左の瞳が開かれる事は無かった。<BR>
<BR>
　少女の青い瞳は透き通るような光をたたえ、静かにこちらを見つめていた。<BR>
<BR>
　加持はモニタの上に付いている小型カメラを指差し、ミサトにここを見ろと手振りで促した後、再びマイクに呼び掛けた。<BR>
<BR>
「葛城一尉とサードチルドレンの碇シンジ君だ。彼も君と同じ９歳だぞ。仲良くしろよ」<BR>
<BR>
　少女は表情を見せないまま、ただ黙ってミサト達を見つめていた。ミサトは加持に色々問い質したい事があったが、それは後回しにすることにした。彼女はカメラに視線を合わせて名乗った。<BR>
<BR>
「葛城ミサトよ。よろしく、アスカ」<BR>
<BR>
　シンジは、モニタの中に映る少女の方に視線を向けていたが、当然挨拶をするでもなく、ただ黙ってその場に立っていた。<BR>
<BR>
　不自然な間が数秒程続いた。<BR>
<BR>
　挨拶はこんな物でいいのかと、加持はミサトに目で問いかけた。ミサトは軽く肩をすくめた。それを見て加持は頷き返すと、再びキーボードに指を伸ばした。<BR>
<BR>
「ここまで来て隠す理由もないから、２人には見せておくよ」<BR>
<BR>
　加持の声にこめられた微かな真剣さにミサトは怪訝な目をした。<BR>
<BR>
　彼が再びキーを何回か叩くと、ウィンドウが切り替わった。<BR>
<BR>
　今までは少女の顔を中心にした映像だったが、それが少女の全身を俯瞰する位置に設置されたカメラからの映像になった。<BR>
<BR>
　そこに映し出された物を見て、ミサトの目がわずかに細められた。<BR>
<BR>
　少女には、左腕が存在しなかった。左肩から先が完全に欠損していた。<BR>
<BR>
　プラグスーツの左肩の断面には鈍い銀色をした円形の保護具が蓋のようにかぶせられている。<BR>
<BR>
　ミサトは更に少女の体を眺めた。彼女の腰から下がベージュ色の素材からなるプレート状の器具に覆われ、そのプレートがシートに一体化するように処理されていることが見て取れた。<BR>
<BR>
　下半身が、なだらかな曲線のプレートに覆われている少女の体は、まるで片腕の人魚を見るようで、幻想的とも言える物だった。<BR>
<BR>
　カメラのアングルが切り替わったことに気付いているのか、少女の視線はモニタの向こうのミサト達にまっすぐ向けられたままだった。<BR>
<BR>
　ミサトはその視線を正面から受け止め、沈黙を保ったまま見つめ返していた。<BR>
<BR>
　モニタの中の少女を見つめたまま、加持が呟いた。<BR>
<BR>
「『これ』がセカンドチルドレン、惣流・アスカ・ラングレーだ」<BR>
<BR>
<BR>
<CENTER>──────────</CENTER><BR>
<BR>
　リノリウムで覆われた廊下に足音が響いていた。歩きながらガラス越しに、緑豊かな外の風景へと視線を向ける。窓から差し込む光はいつもと変わりなく、清々しい明るさを見せていた。<BR>
<BR>
　彼女は白衣のポケットに両手を入れたまま、目的の部屋へと足を進める。時折すれ違う職員の会釈に頷いて返す。<BR>
<BR>
　リツコはノックもせずに、病室の入口脇の壁に設置されている指紋認証用レンズに親指を当てた。空気の圧搾音と共に扉が滑らかに開く。<BR>
<BR>
　ベッドの上で上半身を起こしている少女は回診を終えたばかりのようだった。肩のボタンを外すことで前が開くタイプの検診衣をナースが整えてやっている。リツコが入室した事に少女は気付いているはずだが、視線を彼女の方に向けようとはしなかった。<BR>
<BR>
　聴診器を肩にかけた医師が入口に立っているリツコに頷いてよこした。リツコは「ご苦労様」と声をかけて、病室から出る医師とナースをすれ違いながら見送った。扉が再び小気味良い圧搾音を鳴らす。リツコは閉じられた扉から室内に視線を戻した。<BR>
<BR>
　レイは上半身を起こしたまま、ベッドの上から窓の外を眺めていた。<BR>
<BR>
　リツコはベッドの横の丸椅子に腰を下ろした。それでも少女は黙ったまま、窓から見えるジオフロントの風景をただ眺めている。何がそんなに少女の興味を引き付けるのかリツコには分からなかった。少女のまっすぐな視線は広大な地底空間の更に彼方を見通そうとしているようにも思えた。<BR>
<BR>
　多忙を極めているはずのリツコだが、日に一度はこの少女の顔を見ないとどうにも落ち着かない気分になる自分に戸惑っていた。<BR>
<BR>
　連日こうして顔を合わせているが、お互い特に話題があるわけではなかった。大抵はリツコが体調を訊ね、レイが問題ないと答えを返す。会話はいつもそこで終わった。時には何の言葉も交わさないまま３０分ばかり一緒に過ごし、リツコがそのまま立ち去る、という日すらあった。<BR>
<BR>
　この日は珍しく、リツコは実務的な話題を口にした。<BR>
<BR>
「零号機は改修作業のため、しばらくは動かせないわ」<BR>
<BR>
「はい」<BR>
<BR>
　レイは窓の外に目を向けたまま答えた。室内に差し込む光が少女の白い肌に陰を生み、なめらかな曲線を浮き上がらせている。まるで少女の体そのものが光を放っているかのような錯覚をおぼえながら、リツコは言葉を続けた。<BR>
<BR>
「まあ、やって欲しい事はいくらでもあるけど、今はゆっくり体を休めておきなさい」<BR>
<BR>
「はい」<BR>
<BR>
　少女の声から感情の揺れのような物は全く感じられなかった。無愛想だが、いかにもこの少女らしい反応にリツコは少なからず安堵した。レイにとってはこれこそが正常で自然な『表情』ではないのかと思い始めていた。<BR>
<BR>
　あまりに自分に都合のいい解釈で、呆れて笑みがこぼれる。こんな幼い少女に何を期待しているのかと、自分の胸に手を当てても何一つ考えは浮かんでこなかった。<BR>
<BR>
　いつの間にか、レイの赤い瞳がリツコを見つめていた。何か顔に出ていたのかしら、と少々狼狽する。心の底まで見通されたような気分になって、頬に血が昇る感触が生まれた。<BR>
<BR>
　いたたまれなくなってリツコは席を立った。レイはまだ不思議そうに自分を見つめている。照れ隠しに頭でも撫でてやろうかと思ったが、それはあまりに子供扱いしすぎかと思い直した。<BR>
<BR>
「……じゃあ、また明日」<BR>
<BR>
「はい」<BR>
<BR>
　リツコが出ていった後も、レイは閉じられた扉をしばらく見つめていた。<BR>
<BR>
<BR>
<CENTER>──────────</CENTER><BR>
<BR>
　呆れるほど澄んだ青空の中から太陽が海面を強烈に照らしつけていた。<BR>
<BR>
　潮風で乱れる髪もそのままに、ミサトは手すりに背中から寄り掛かっていた。のけぞるようにして見上げる空の青さに、思わず手を顔の前に上げる。<BR>
<BR>
「暑う……」<BR>
<BR>
　彼女の横では加持があぐらをかいて座り込み、やはり手すりに寄り掛かっている。２人の周囲には誰もいなかった。加持は両手を頭の後ろに組んだまま、目を閉じて押し黙っている。彼の前にはノート型端末が置かれていた。強化プラスチック製の堅牢なフレームで覆われたその端末は、防水、防塵、対衝撃性に優れたネルフ謹製の逸品だった。<BR>
<BR>
「とりあえずさ」<BR>
<BR>
　ミサトが空を見上げたまま口を開いた。<BR>
<BR>
「説明してくれる？何であの子が『ああ』なったのか」<BR>
<BR>
　加持は目を開けると、視線を遥か彼方の水平線の向こうへやった。<BR>
<BR>
「起動実験中に起きた事故だ。３年前になるか……アスカがマルドゥック機関からドイツ支部に移って間もなくの事さ」<BR>
<BR>
<BR>
<CENTER>──────────</CENTER><BR>
<BR>
　惣流・アスカ・ラングレーは最短記録でマルドゥック機関の教育課程を修了した。<BR>
<BR>
　『最短記録』と言っても、比較対象になる者は当時１人しかおらず、あまり意味がある言葉でもなかった。とは言え、教育プログラムを予定期間の６分の１で消化、というマルドゥックからの報告は、ネルフドイツ支部を活気づかせていた。マルドゥックが少女に施した教育の内容は完全な極秘扱いであり、ネルフの支部長クラスの人間でもその詳細は知らされていない。しかし、ドイツ支部で独自に行われた知能テスト、体力テストにおいて彼女の神がかり的な才能は間違い無いものと確認された。<BR>
<BR>
　プロダクションモデルの雛形として設計開発が進められていた、エヴァンゲリオン弐号機の基幹システム初期バージョンが組み上がったのもこの頃だった。コアと呼ばれる中枢器官に神経節を繋ぎ、素体と呼ばれる人型の生体材料構造物にリンクさせる。そして、そのシステムに組み込まれるパイロットの容れ物としてのエントリープラグ。<BR>
<BR>
　いくつか技術的な問題点は残っていたが、実験道具、叩き台としての役割は十二分に果たせるはずだった。多少スケジュールや予算に無理を強いてはいたものの、本部に先んじてエヴァを完成させる事ができれば、それがもたらす利益は莫大な物になる。セカンドチルドレンがロードマップの初期から開発に参加できるというアドバンテージは測り知れない価値があった。<BR>
<BR>
　本来ならば弐号機よりも先の開発行程に進んでいるべき本部のプロトタイプ、エヴァ零号機は起動のメドが立っていなかった。そもそもパイロットたるファーストチルドレンが、未だにマルドゥック機関の保護下で教育プログラムの途上にあった。それも含めて、ネルフ本部の技術部ではエヴァ零号機のシステム全体の調整に手間取っていた。<BR>
<BR>
　ドイツ支部の誰もがこの天才少女に多大な期待をかける中、世界初のエヴァシステム起動実験が開始された。<BR>
<BR>
「はじめるぞ、アスカ」<BR>
<BR>
『はい』<BR>
<BR>
　制御室のスピーカーから流れる少女の声からは、恐れや不安などは全く感じられなかった。<BR>
<BR>
　実験に使用されたケイジは、傾斜のついたエヴァ専用のスペースだった。エヴァ弐号機はスロープにうつ伏せになるように横たえられた。外装も全く施されていない状態で、灰紫の肌をした巨人が横たわっている。その背中には巨大なケーブルが接続されていた。素体の指先や、首筋、人ならば眼球が存在する部分等、あちこちに計測用の大型プローブが打ち込まれ、無数のケーブルが周囲を這っている。<BR>
<BR>
　実験は平穏な始まりの後、激しい終局を迎えた。<BR>
<BR>
　少女はその瞬間の事を、正確には記憶していなかった。<BR>
<BR>
　おぼろげに覚えているのは、スピーカーから途切れ途切れに聞こえてくる大人達の叫びと、外部からかかる巨大な圧力で紙のように潰れていくエントリープラグ、赤く染まり歪んでいく視界、振動、轟音、痛み、快感、喪失感、闇。<BR>
<BR>
　ＬＣＬで満たされた医療用ポッドの中で目が覚めた時、自分の体に起こった変化を瞬時に了解した。<BR>
<BR>
　悲しいとか、辛いとは思わなかった。ただ次の命令に備え、再び目を閉じて眠りについただけだった。<BR>
<BR>
<BR>
<CENTER>──────────</CENTER><BR>
<BR>
「命だけは何とか取り留めたが、彼女が負った傷は深かった」<BR>
<BR>
　青空の下で風に吹かれつつ、ミサトは加持の言葉に耳を傾けていた。甲板の上であぐらをかいたまま、加持は指折り数えながら、少女が『失った物』を列挙していった。<BR>
<BR>
「左腕と左足の全て、それに右足の一部。左目の視力。いくつかの臓器と一部の神経。それに伴う抵抗力の著しい低下」<BR>
<BR>
　手すりに体を預けているミサトは黙ったまま相変わらず空を眺めていた。深い思いに沈むわけでもなく、夕食の献立でも考えているかのような表情だった。彼女がぽつりと呟く。<BR>
<BR>
「彼女をチルドレンから外すという選択肢は無かったわけね」<BR>
<BR>
　それは問い掛けでは無く、単なる確認だった。片手の指で余る程の貴重な人材をおいそれとお役御免にできる余裕など、今の人類には無いだろうとミサトは思い、それは確かに事実だった。<BR>
<BR>
「ああ……そこで、彼女をチルドレンとして『活用』する技術が必要になったわけだ。本来ならば寝たきりの人間を、パイロットとして運用するために、な」<BR>
<BR>
　そう言うと、加持はノート型端末を持って立ち上がった。手すりの角の部分に端末を乗せ、キーを叩く。設計図のような画像が開き、その横にドイツ語による概略が表示された。ミサトは加持の隣に体を動かし、画面を眺める。『超微少孔生体フィルタ』、『代謝代替システム』等の見慣れない用語が並んでいた。『動的な完全隔離』という表現にミサトの目が止まった。<BR>
<BR>
　画面に数枚の写真が表示された。右下に刻印された日付は数週間単位の間隔が開いていた。体中にチューブを繋がれ、オレンジ色の液体の中に浮かぶ少女の体。一糸まとわぬ少女の体全体に刻まれている傷や欠損部位の映像を、ミサトは興味深げに眺める。写真の日付が進む度に、少女に接続されている複雑に入り組んだ医療器機群はデザインの洗練を繰り返して、その無骨さを機能美に置き換えていった。<BR>
<BR>
　加持はキーを叩いてそれらの映像を順に切り替えていく。画面を事務的な目で見つめながら、彼は淡々と言葉を続けた。<BR>
<BR>
「ネルフが持つ最先端の医療技術。それだけが彼女の生存を可能にしている」<BR>
<BR>
　日付順に並んだ一連の写真の終わり近くでは、口に酸素吸入マスクを当てられた少女がその体をシートに固定されていた。そのシートがエントリープラグの中へ小型クレーンで降ろされていく写真が続く。シートの背面からは、ケーブルやチューブが伸びている。写真の中で、白い作業着とマスクで身を包んだエンジニア達がそのチューブ群の末端をプラグ内部の装置に接続する作業を行っていた。<BR>
<BR>
「免疫力の落ちた体を外界から保護するためのＬＣＬ。内臓機能を補うための生命維持プラント。これらの助けが無ければ、彼女は数時間で死ぬ」<BR>
<BR>
　最後の映像は、製薬工場を思わせる清潔そうな空間に置かれたエントリープラグの外観だった。プラグの各部分に設けられたパネルからケーブルが引き出されている。それらは周囲に置かれた機器へと木の根のように伸びていた。<BR>
<BR>
「これがその医療技術を詰め込んだ特注のエントリープラグだ」<BR>
<BR>
　この最後の写真にはエントリープラグとそれを取り囲む機械が並んでいるだけで、人間の姿はなかった。しかし、ここまで挙げられている映像の全ては少女を記録するための物であった。それはつまり、一見すると人の気配がまるでないこの写真のどこかに、少女がいる事を意味していた。<BR>
<BR>
　ミサトが、加持の言葉とその映像から１つの推測を導きだした。一般的感覚からするとそれは実に気が滅入る物だった。<BR>
<BR>
　そして彼女の推測を裏付ける言葉が、加持の口から流れてきた。<BR>
<BR>
「２年７ヶ月前から現在に至るまで、彼女はこのエントリープラグの中『だけ』で暮らし続けている。彼女はプラグの外に文字通り一歩も出ていない」<BR>
<BR>
　２人の間に沈黙が流れた。<BR>
<BR>
　絶え間なく続く波と風の音だけがこの空間の中で奇妙な現実感を持っていた。話し終えた加持は大きく息をついた。目頭を指で押さえる彼の顔にはどこか疲労の色が表れていた。<BR>
<BR>
　ミサトはいつしか手すりにもたれかかり、水平線の彼方を見つめていた。彼女は鼻をくすぐる潮の香りを受けながら、穏やかに揺れる船のリズムを楽しんでいた。今にも鼻歌でも出てきそうな、リラックスした表情だった。加持が言葉を切ってからしばらく経って、ミサトは思い出したように彼の方に向き直った。頭を回した拍子に髪が風になびいて、彼女は目を細める。彼女は、あっけらかんとした口調だった。<BR>
<BR>
「そう」<BR>
<BR>
　加持は彼女の反応に少しばかり面喰らった。てっきり、この不幸な少女の境遇に対する感情的な言葉がミサトの口から出てくると思い込んでいた。やはり自分はどこかで彼女に幻想を抱いているのかもしれないと、彼は複雑な気分のまま彼女と同じように手すりに寄り掛かって海を眺めた。<BR>
<BR>
「そんな事より」<BR>
<BR>
　ミサトが何気ない調子で訊ねてきた。<BR>
<BR>
「アンタ、『アダム』って知ってる？」<BR>
<BR>
　不意を衝かれるのは、商売柄慣れていた。さてどう答えたものかと、加持は視線を上へと巡らせた。ミサトの経歴と性格を勘案する限り、ここで手の内を彼女に晒すのはあまり良策ではなさそうに思えた。従って、彼は質問に対して質問で返すという、陳腐だがある意味有効な手段を使った。<BR>
<BR>
「何で俺に聞くんだい？」<BR>
<BR>
　加持のこの口調にミサトは既視感を覚えた。『お前は知らない方が幸せだ』、という思いやりの皮をかぶった偽善。２人の終わりが決定的になったあの日も、彼は同じ微笑みを浮かべていた。あの頃、加持も自分と同じ種類の人間だという確信を深めかけていた。甘い睦言を囁きあうよりも、世界の真実を知る事に人生の重きを置こうとする人間であるという事を。<BR>
<BR>
「本当の事を教えてくれそうなのがアンタくらいだからよ」<BR>
<BR>
「こりゃ随分と見込まれたもんだな。多分、葛城が知っている以上の事は知らないぜ」<BR>
<BR>
　ミサトは加持の目を見つめていた。間違い無くこの男は知っている、と思った。彼女は次の言葉をやや難儀しながら発した。<BR>
<BR>
「……セカンドインパクトは、本当にアダムが起こしたの？」<BR>
<BR>
「そうだ」<BR>
<BR>
　彼はあっさりと言い切る。ミサトの体がぴくりと震えた。加持はその様子を面白がるように首を振り、言葉を続けた。<BR>
<BR>
「……と言ってみせるのは簡単だが、君は俺の言葉を信じられるのかい？『誰も信じない』と言って俺の前からいなくなったのは誰だったっけ？」<BR>
<BR>
　そう言って、彼は体を回して背中を手すりに預け、横目でミサトの顔を楽しげに眺めている。彼女は自分の心が急速に冷えきっていくのを感じた。誰もが見透かしたような態度で自分を扱っているような気分になった。平常心を失いつつある自分を自覚した。<BR>
<BR>
　ミサトは、話題を変えて頭を冷やすことにした。<BR>
<BR>
　視線を甲板の上に巡らせて、シートで覆われた船体後方を眺める。彼らが監督すべき少年と少女は、今この瞬間そのシートの下の空間で向かい合っているはずだった。<BR>
<BR>
「子供達だけで２人っきりにして大丈夫かしら」<BR>
<BR>
　突然話の先が変わった事に、彼が動じた気配は無かった。ミサトの視線を追い掛けて、加持もその方向を見つめる。<BR>
<BR>
「チルドレンに２人だけの時間を作れ、ってのはリッちゃん直々の御命令だからな」<BR>
<BR>
「リツコの？」<BR>
<BR>
　彼女の言葉にこもった不信感に加持は興味を持った。彼女がネルフ本部の中で孤立に近い状態である事は噂に聞いていた。ミサトの性格や行動に心当たりのある加持からすれば、それは自然の成り行きに思えた。彼女の周囲を顧みない無鉄砲さは、歳を重ねた所で変わる類の物では無いだろうなと、彼は苦笑した。<BR>
<BR>
　含み笑いを浮かべたまま、加持はさり気なくミサトの顔を盗み見る。こちらをじっと睨み付けているミサトの視線にぶつかり、慌てて作り笑いに切り替えて誤魔化した。<BR>
<BR>
「あー、ちょっと２人の様子見てみるか？」<BR>
<BR>
　誤魔化しついでに加持はノート型端末に指を走らせた。カーゴスペース内に設置された監視カメラから中継されている映像がウィンドウに現れた。カメラはエヴァ弐号機を斜め上から捉えている。トラックパッドの上で器用に指を滑らせると、カメラのアングルが速やかに移動していく。<BR>
<BR>
　弐号機の前に置かれた作業机の前で、シンジは椅子に腰掛けていた。<BR>
<BR>
　少年の視線は机の上のモニタに向けられていた。それはミサトがそう指示したからというだけで、彼の意志による物では無かった。<BR>
<BR>
<BR>
<CENTER>──────────</CENTER><BR>
<BR>
　エヴァ弐号機に挿入されているエントリープラグの中は快適な環境を維持している。微かに聞こえるＬＣＬ循環装置の駆動音が心地よく響く。閉鎖された空間の中で少女は穏やかな時間を過ごしていた。<BR>
<BR>
　惣流・アスカ・ラングレーは少年に対して何の興味も持っていなかった。<BR>
<BR>
　ウィンドウを通して見る彼の顔から感情の動きと言うものを見取る事はできなかった。加持の命令では、とりあえず２人だけでここにいるように、との事だった。それに何の意味があるのか理解できなかったが、彼女には命令に従う事に対する疑問は無かった。<BR>
<BR>
　少年の視線は焦点こそ怪しいものの、目の前に置かれたモニタに向けられている。その完全な無表情を横目に、少女は日々の日課を開始する。<BR>
<BR>
　定期的に体内に自動投与される薬物や栄養剤の流れを敏感に感じながら、アスカは軽く身じろぎする。プラグスーツの関節部に内蔵された負荷増加システムを起動し、運動メニューを始める。これは常にシートに座っている、というより半ば固定されているこの少女の身体機能低下を防ぐ為の措置だった。といっても、アスカが動かせる身体部位はさほど多くなかったため、大した手間も時間も必要とはしなかった。<BR>
<BR>
　また、少女は物理的に動かせる己の肉体だけにとどまらず、文字通り自らの手足となる赤い巨人を操る準備も続けていた。既に自分の身体からは失われている左腕や左脚を全身に協調させて動かすイメージトレーニングが少女に課せられているが、そのような訓練に意味は無いと彼女は知っていた。しかしそれでも命令は命令であり、アスカはあえて逆らうような事はせず素直に従っていた。<BR>
<BR>
　プレートに覆われたアスカの下半身には、柔軟かつ強靱で生体親和性の高い材料から作られたチューブが何本も接続されている。生命維持すら困難となるまでに機能低下した彼女の臓器等を肩替わりするプラント群。それらは戦闘によるダメージや各種トラブルによる機能不全を回避する為、完全に独立した三系統のシステムとして多重化されていた。仮に１つの生命維持プラントが何らかの異常で動作を停止しても、別系統のプラントがその役割を替わりに受け持つ。この少女はある意味、全人類の中で最も信頼性の高い体を持っていると言えた。<BR>
<BR>
　アスカは一通りの筋力維持メニューを消化した。やや乱れた呼吸を整えながら、通信ウィンドウに映る少年を見つめていた。<BR>
<BR>
　モニタ越しの２人は、１時間近く向き合ったままだった。<BR>
<BR>
　どちらも言葉を発することは無かった。ドイツにいる頃、アスカはネルフ本部が公開しているサードチルドレンの情報に目を通していた。<BR>
<BR>
　情緒や意思疎通能力が病的なまでに欠落した少年。その分析は実に正確に思えた。<BR>
<BR>
　無言の対面は退屈だったが、アスカは少年に対して何かアクションを起こす気にはならなかった。そもそもこの少年と会話が成り立つ人物がいるとは思えなかった。どちらにせよ、彼は自分にとって何がしか重要な意味がある存在では無かった。命令遂行の邪魔にならない限り、彼が自分にとって全く無害なのは確かだった。<BR>
<BR>
　少女はふと、本部からドイツ支部へ提出された対使徒戦闘記録の事を思い出した。それを見たドイツ支部の人間がサードチルドレンへ嘲笑に似た評価をしていた。その評価がいささか的外れである事を指摘してやるほど、少女の自発性は発達していなかった。それは彼らの自尊心にとっては幸運な出来事だった。<BR>
<BR>
　パネルを叩いて、ライブラリの中から該当ファイルを選択する。戦闘の概要を記した報告書は読んでいたし、彼女は一度見聞きした物はほぼ完璧に近い形で記憶できた。少女が見ようとしているのは、ＭＡＧＩとエヴァのレコーダーが機械的に記録した未加工データだった。<BR>
<BR>
　少女はいくつかのイメージを同時に思い浮かべた。２つの領域の間に『パイプ』を想像し、一方から一方へ向かって情報の塊を掴み、引っ張り、流し込み、固定する。<BR>
<BR>
　全身に癒し難い深い傷を負ったこの少女を支援するため、シンクロシステムを応用してネルフドイツ支部が独自に開発した非接触型ニューロンスキャンインタフェース。それは神経組織が発する極めて微小な電気的作用を通じて、彼女の思考の輪郭を読み取った。長年に渡って彼女専用にチューニングされたシステムは、少女の神経発火活動の動的パターンを正確に電子装置の制御コマンドへと置き換えた。<BR>
<BR>
　少女の『思考コマンド』を受け付けたオペレーティングシステムは、少年の前に置かれた端末横の記憶装置から、そのデータをコクピット内部のプロセッサが管理する記憶領域に転写した。<BR>
<BR>
　弐号機のエントリープラグ内に数十枚のウィンドウが投影される。映像、音声等の観測データ群がずらりと並ぶ。使徒との戦闘時に複数の場所で個別に記録されたそれらの情報が同時に再生を始めた。まるで無数のテレビの電源が一斉に入ったように、エントリープラグの中が一気に騒がしくなる。少女は、通常の人間ならば視認することもままならない速度で早送りと巻き戻しを繰り返し、目当ての情報だけを集中的に選り分ける。視野の中で同時に複数のウィンドウの内容を知覚し、それらの情報に対して評価を加えていく。<BR>
<BR>
　再生開始から４０秒程で、３度の戦闘記録の全域から目的の要素を抽出し終え、少女は少年の行動に一貫して現れているパターンを完全に把握した。少年の行動は極めて明解な規則によって規定されていたため、その行動パターンから結論を導き出す事は少女にとって容易な作業だった。<BR>
<BR>
　この少年が１人の女性の命令にのみ偏った反応を見せるという事実は、人によっては実に興味深い物なのだろうが、少女はそれに対して興味を持たなかった。この少年の異常な行動原理は、命令遂行の際に少女が考慮すべき要素の１つに過ぎなかった。少年の存在が、自分を取り巻く世界を構成する『部品』の１つでしかないことを少女は確認した。<BR>
<BR>
　少女は目を閉じて、一瞬だけ思考を集中させる。その思考コマンドを受け付け、彼女の周囲に投影されていた数えきれないウィンドウが瞬時に消え去る。再び目を開けて、１つだけ残っているウィンドウに目を向ける。<BR>
<BR>
　少女はウィンドウに映る少年の顔を眺めた。<BR>
<BR>
　その少年に対して興味を持つ事はやはり出来なかった。<BR>
<BR>
<BR>
<CENTER>──────────</CENTER><BR>
<BR>
　甲板の上で風に吹かれながら、ミサトと加持はノート型端末の画面に映る子供達の顔を眺めていた。<BR>
<BR>
　貨物室に備え付けの監視カメラでは、アスカは当然、シンジの表情も分かりづらかった。従って、子供達がモニタ上で互いに見ているはずの映像を、大人達が見ているこちら側でも確認できるように設定し直した。<BR>
<BR>
　それは予想通りの光景だった。シンジもアスカも何一つ言葉を発する事無く、ただ黙って相手が映っているウィンドウに視線を投げている。<BR>
<BR>
　しばらく２人を観察していたミサトがため息をついた。<BR>
<BR>
「このお見合いに何か意味あんのかしら」<BR>
<BR>
「お通夜みたいな雰囲気だな」<BR>
<BR>
　やれやれ、といった様子で加持が口元を緩める。ミサトは画面を見つめたまま訊ねる。<BR>
<BR>
「彼女、どんな子なの？」<BR>
<BR>
　彼はしばし視線を漂わせて考え込んだ後に口を開いた。<BR>
<BR>
「つかみ所の無い子……かな。口数少ないんだよな、彼女も」<BR>
<BR>
　加持はアスカの監督責任者ではあるが、それは随伴者以上の役割では無かった。少女と出会ってから１年近く月日が経過しているが、彼女とまともに会話を交わした記憶は無かった。初めは嫌われているのかとも思ったが、すぐに少女が誰に対しても必要以上に言葉を発する事がないのだと分かった。それでも、職員の間でのアスカの評判は上々だった。少女は技術者達が要求する過剰とも思えるほどのノルマを文句１つ言わずに黙々とクリアしていく。彼女は研究素材としては理想的な存在だった。<BR>
<BR>
　加持は虚々実々の世界で培った話術を駆使して、何とかアスカと打ち解けようと四苦八苦した。しかし、結局その試みが成就する事は無く、のれんに腕押しと言う言葉の意味をまざまざと実感しただけだった。<BR>
<BR>
　セカンドインパクト後の混乱の世界であまり愉快ではない経験をしてきた加持にとってみれば、心身に受けた傷のせいで精神的に歪む子供というのは特に珍しくはなかった。多少境遇は特殊だが、この少女もその一例だと初めは思った。大人の都合で運命を弄ばれている子供である、という点では間違い無かった。しかし、アスカを見ている内に、彼女の心はそういった一般的な枠からは逸脱しているのではないか、と加持は感じ始めていた。そして、ドイツ支部の他の人間も同じ思いを抱き、その真偽を確認するべく調査を始めた。<BR>
<BR>
　しかし、この少女に対して心理テストの類は既に意味を持っていなかった。彼女は設問の内容や検査担当者のささいな仕草から、彼らが望む答えを敏感に察知し、それに沿うように回答するということを繰り返していた。結果、その回答はたった１人の人物から得られたとはとても思えない代物と化した。二転三転する検査結果に、少女の心理面のケアを担当する部門の人間は頭を抱えた。<BR>
<BR>
　始末に負えないのは、それが決して悪意がある訳でも馬鹿にしている訳でも無く、そう『要求されている』と少女が感じた結果の行動である事だった。それはポリグラフを併用した心理テストによって間接的に証明された。少女は嘘の答えを返していた訳では無かった。単に真実と嘘の区別をしていないだけだった。相手や設問それ自体が望んでいると思われるテスト結果を実現させるために、最も適当と思われる答えを返しているだけだった。再三の注意や警告にも関わらず、少女はあくまでも設問の意図に合わせた（ある意味では大人達の意図を頑なまでに無視した）回答を返すことだけを続けた。<BR>
<BR>
　自分の思考をどこまでも論理的に客観視できる能力が、自分の中の『自然な心』というある意味不随意の概念を他者に示すことの妨げになっていた。しかし、それを理解できる人間は少女の周囲に存在しなかった。<BR>
<BR>
　皮肉にも、大人達が善かれと思って少女に叩き込んだ、心理学を含む多分野に渡る膨大な学問知識が彼女本来の優れた推論能力と相まって、その心の深層を探ることを不可能にしていた。結局、ドイツ支部の技術者は白旗を上げる代わりに、この少女が無意識に自分の内面を隠そうとしているのだろうという、大して役に立ちそうも無い結論を提出した。そして、アスカを意志持たぬ１つの『研究材料』として捉える傾向は更に強まった。<BR>
<BR>
　海から吹き上がる強い風に目を細めながら、加持はドイツでのそんな日々を思い返した。画面の中で相変わらず沈黙を守り続ける２人の子供達に、ミサトは呆れた顔を見せる。<BR>
<BR>
「しっかしチルドレンって、ことごとく愛想が悪いわよねえ」<BR>
<BR>
　葛城に言われるようじゃお終いだな、という言葉を加持はすんでの所で飲み込んだ。ただでさえ軽い口が、ますます滑らかになりかけている自分に戸惑う。昔馴染みの相手だと警戒心も緩みがちになるらしかった。これ以上心を許せる相手にはこれからも出会う事はないだろうなと、加持はしみじみ思った。<BR>
<BR>
　物思いに沈んだ加持の顔を見つめるミサトの疑わしげな視線に、彼はわずかに胸がざわめくのを感じた。<BR>
<BR>
「そうだな」<BR>
<BR>
　そう一言だけ返して、加持は海に視線を戻す。<BR>
<BR>
　海と空はこれ以上ない程に穏やかで、平和という言葉が良く似合っていた。<BR>
<BR>
<BR>
<CENTER>──────────</CENTER><BR>
<BR>
　文字通りの意味で、惣流・アスカ・ラングレーの生命線であるエントリープラグ。<BR>
<BR>
　その内部に収められた各種医療装置の性質上、母体たるエヴァ弐号機が活動を停止している状態でも、エントリープラグそのものは独立したシステムとして常に稼動状態にある。そして弐号機も完全に機能を停止している訳では無かった。アクティブになっている機能の中には、外部との最低限の連絡を維持するためのセンサー群も含まれていた。弐号機頭部の光学カメラや指向性集音マイク、振動センサー、有線及び無線による外部ネットワークとの接続インタフェース。それらは少女の目や耳を拡張する役目を果たしている。<BR>
<BR>
　そのセンサーのいくつかが、主に水中から船体へ伝わってきた振動という形で『それ』を検出した。<BR>
<BR>
　検出された反応は微かな物だったが、それは自然界に普遍的に存在している種類のパターンでは無かった。計測情報から形成された立体イメージと航行領域の地形情報を重ねた映像が、小さなアラーム音を伴って少女の視野の隅に現れた。通信ウィンドウ越しにサードチルドレンと無言の会見を続けていた少女は、わずかに首を傾け『それ』が存在すると思われる方向へと視線を向けた。<BR>
<BR>
　少女の目には、弐号機が横倒しに格納されているカーゴスペースの壁面しか見えなかったが、その向こうに存在している『何か』の気配は増しているように思えた。<BR>
<BR>
<BR>
<CENTER>──────────</CENTER><BR>
<BR>
「もう一度確認しろ」<BR>
<BR>
　突然慌ただしくなり始めたオーバー・ザ・レインボウのブリッジでは、艦長が苛立ちを見せていた。<BR>
<BR>
「間違いありません。複数の艦から同一の報告が上がっています」<BR>
<BR>
　通信機のマイクを片手にモニタを覗き込みながら副長が答える。艦長の決断は早かった。<BR>
<BR>
「全艦に指示。未確認移動物体に対し迎撃用意。ネルフの連中にも一応伝えておけ。但し、手は出させるな」<BR>
<BR>
「しかし艦長、もし『アレ』だとすれば指揮権は彼らの方に……」<BR>
<BR>
　低く抑えた声の副長が言い淀む。艦長は面倒くさそうに頭を動かし、ブリッジから後方へ視線を向けた。ガラス越しに見える輸送艦オセローを忌々しげに睨み付ける。何もかもが気に入らなかった。オセローの船体の半分程を占める巨大なシートは、湯水のように資金を注いで作られた兵器を覆い隠しているだけでは無く、様々な人間の思惑をも隠しているように思えた。人類を脅かす敵との戦いという一大事にあって、自分達を含む既存の軍隊がただの役立たずとして蚊帳の外に置かれるなどあってはならないことだった。<BR>
<BR>
　自分自身の手で国や家族を守るという強い意志でこの世界に身を投じた彼にとっては、運命を他者、それも子供が操る得体の知れない兵器に委ねるなど、屈辱以外の何物でも無かった。<BR>
<BR>
「あんなオモチャが海の上で何の役に立つ。ここは我々の場所だ」<BR>
<BR>
　それは単なるプライドから出た言葉では無かった。事前に提出された資料を見る限り、その兵器は洋上での戦闘を考慮した能力は持っておらず、それを補う装備を携行している訳でもなさそうだった。<BR>
<BR>
「未確認移動物体、オセローへ変針！進路、交錯しています！」<BR>
<BR>
「なんだと！」<BR>
<BR>
　艦長は慌てて立ち上がり、窓に張り付いてオセローを凝視した。<BR>
<BR>
<BR>
<CENTER>──────────</CENTER><BR>
<BR>
「リョージ！」<BR>
<BR>
　甲板ヘリポートに待機しているヘリから身を乗り出して、パイロットが腕を振り回して大声で呼び掛けてきた。こっちに来い、というジェスチャーのようだった。何か色々と喚いているようだったが、この距離ではよく聞き取れなかった。ヘリがエンジンを始動させ、ローターの回転が始まる。<BR>
<BR>
　別の人員輸送作業か何かの為にヘリが一旦この船から離れるのだろうと思い、加持がにこやかに手をあげて応える。それをからかうようにミサトが言った。<BR>
<BR>
「アンタ、彼によっぽど気に入られたみたいね」<BR>
<BR>
「そっちの趣味はあんまり無いんだけどな」<BR>
<BR>
　そう言って笑う加持の手元、手すりの上に置いていたノート型端末から警告音が鳴った。<BR>
<BR>
「ん？」<BR>
<BR>
　その音につられて加持とミサトが画面に目を移す。『ＥＶＡ−０２』の表示があるウィンドウが点滅していた。その中では少女が通信ウィンドウから視線をそらし、外に注意を向けていた。右側だけ開かれた少女の青い瞳、その視線には並外れた集中力がみなぎっていた。<BR>
<BR>
『加持一尉。８時方向から巨大潜行物体が急速接近中です。９秒で当艦に接触します』<BR>
<BR>
　ミサトはそれが誰の声なのか一瞬分からなかった。少女が『口を動かさずに』言葉を発したことがその主な理由だった。<BR>
<BR>
　同時に、スピーカーから大音量で鳴り響くサイレンが甲板にいる彼らの耳を打った。ミサトと加持は顔を見合わせた後、一瞬で表情を真剣な物に変えて、鋭い視線で周囲の気配を窺った。<BR>
<BR>
　緊急時のため、いくつかの手順を無視して飛び上がったヘリが、海上方向から加持とミサトの側に接近する。ローターが巻き起こす突風に２人は目を細め、顔の前に手をかざした。風防越しにパイロットが何かを叫んでいる。しきりに頭を振って海の方に注意を促しているようだった。<BR>
<BR>
「まいったな」<BR>
<BR>
　緊迫した状況を察した上で、口調だけはのんびりと加持が呟く。ミサトがはっとして、チルドレン達が取り残されているカーゴスペースの方向に視線を向ける。<BR>
<BR>
　それと同時に足下が大きく揺れ、ミサトと加持は慌てて手すりにしがみつく。<BR>
<BR>
　一瞬遅れて、オセロー全体を震わせるような振動と重くこだまする衝突音が伝わってきた。揺さぶられた衝撃で手すりから海に落ちかけたノート型端末を、加持が身を乗り出して捕まえる。最初の衝撃によってもたらされた船体の傾きは、波によるそれと違って逆方向へと揺り戻されることはなく、傾斜をより大きくする方向へと進んでいった。<BR>
<BR>
　オセローの左舷が海面へ向かって下がっていき、ミサト達が立っている右舷が自然に持ち上がっていく。２人が掴まっている金属製の手すりから、いかにも剣呑で不快な震動が伝わってくる。それがこの船の奏でる断末魔だという事をミサトは本能的に感じ取った。<BR>
<BR>
　体がふわりと浮き上がるような感覚が、オセローが海中に没していく速度を端的に示していた。<BR>
<BR>
　ぐずぐずしている暇は無さそうだった。ミサトは傾き続ける甲板から、エヴァ弐号機が格納されているスペースへ続く扉に向け走り出そうと身構えた。しかしミサトの次の行動は、彼女の手首を力強く掴まえて首を横に振る加持によって制止された。<BR>
<BR>
「やめろ。間に合わない」<BR>
<BR>
　既に彼らが見下ろす左舷は波をかぶるほどに海面に近付いている。加持の手を振りほどこうとミサトが腕を引く。加持はミサトの視線の鋭さに、彼女がシンジに向ける思いの強さを感じた。その思いは、この少年がネルフと交渉するための貴重な『カード』である、というミサトの中の純粋な打算が生み出した物だった。しかし、加持はそれをミサトがシンジに感じている親愛の情と見誤った。<BR>
<BR>
　自分の手首を離そうとしない加持に、ミサトが食ってかかった。<BR>
<BR>
「これはアンタには関係な……」<BR>
<BR>
「大丈夫。アスカが一緒だ」<BR>
<BR>
　加持の言葉には強い確信がこもっていた。<BR>
<BR>
<BR>
<CENTER>──────────</CENTER><BR>
<BR>
　その巨大物体の衝突は、オセローに致命的とも言えるダメージを与えた。<BR>
<BR>
　それが衝突した部分から聞こえてくる浸水音と、亀裂によって船体へ生じた不均一な応力を示す軋みの音を、弐号機の『耳』を通してアスカは聞いた。船体の不自然な傾きが急速に大きくなりつつあった。周囲の明らかな異常にも関わらず、椅子に座り続ける少年の意識はミサトの指示通り忠実にモニタに向けられたままだった。<BR>
<BR>
　水中を遠ざかりつつある『それ』の速度ベクトルから予測される進行目標の候補が、エントリープラグ内部のウィンドウに視覚化される。その情報ウィンドウを横目に見ながら、少女は状況をチェックする。各艦船の相対速度と位置、エヴァ弐号機の稼動可能時間、オセローの沈降速度から予想されるこの船そのものの寿命、弐号機の音響センサーによる船体周辺の観測結果、そして自分の随伴者達が現在いると思われる空間的位置。<BR>
<BR>
　非常事態における作業コンセプトに従い、エヴァと自分の生命を最優先に保護する方策を少女はいくつか立案した。目の前の少年を加持達が回収した後、再び甲板に戻ってヘリで脱出するというプランは、この船が水中に没するまでの推定時間から見ても明らかに不可能だった。<BR>
<BR>
　再びシンジの様子を見る。弐号機が浮かべられているプールから船体の傾きのせいで赤い冷却液が溢れ出し、少年の足元を濡らし始めている。彼は自分の生命が危機に晒されているという自覚は皆無であるようだった。少なくとも、生きるために何か行動を起こそうとしている様には見えなかった。<BR>
<BR>
　この少年が自らの欲求に基づく行動を起こす事は有り得ないと分かっていた。その点では自分と同じだと、少女は思った。このような状況での行動指針を指示されていなければ、このまま水の中に沈んでいく運命を自分も何の感慨も無く受け入れているはずだった。<BR>
<BR>
　少女と少年の違いは、その行動の中に自発性があるか否かだった。何かを選択する必要のある状況に置かれた場合、少女は何らかの選択をして行動する。しかし、少年は決して自ら選択することは無く、単純にそこで凍り付くしかなかった。<BR>
<BR>
　やや大きな振動が船体を襲った。少年の前の机上に設置してあった端末やモニタ、小型カメラが床に落下し散乱する。表面に亀裂が入ったモニタはケーブルが外れ、機能を停止した。しかし少年は椅子に座ったまま、床に転がるそのモニタの残骸をミサトの命令通りに見つめ続けた。<BR>
<BR>
　エントリープラグの中で少年の表情を映し続けていた通信ウィンドウも当然機能を失っていた。アスカは思考イメージによるコマンドを発し、用無しになったそのウインドウを躊躇いなく消去した。代わりに弐号機頭部の光学カメラから見える少年の姿をズームアップする。初めて会った瞬間から全く変わる事のない、感情と無縁の少年の表情がそこにあった。<BR>
<BR>
　弐号機の音響センサーが捉えていたヘリのエンジン音に変化があった。ホバリングしていたその機体が船から遠ざかり始めていた。オセローの周囲に浮かんでいた小型ボートのエンジン駆動音も船体から離れようとしていた。アスカやシンジが取り残されていることを気にする者はいないようだった。仮に気にしたとしても、彼らに何が出来ると言うわけでも無かった。<BR>
<BR>
　この船に損害を与えた物の正体は不明だった。今現在、自分とエヴァ弐号機を脅かしている物が使徒か否かはともかく、ここで自分が死ぬ事は許されていないと分かっていた。少女は自分が周囲から要求されているのは、『使徒を倒す』ことだと知っていた。自分の生存欲ではなく、単純に命令遂行上の必要性から、アスカは自分の生命を守る事を選択した。<BR>
<BR>
　少女は、選択すべきもう１つの『物』について考察を始めた。当面の危機をクリアするためには目の前の少年はマイナス要因でしかなかった。しかし同時に、今後長期に渡るであろう使徒との戦いを考慮する必要もあった。より確実な使徒処理作業を消化していくためには、この少年の生存がプラス方向に作用すると思われた。<BR>
<BR>
　少女は論理的な思考の下に、少年の生と死を天秤にかける。加持が先程自分に言った『仲良くしろよ』という言葉が脳裏にちらついたが、この場合それを考慮に入れる必要は無さそうだった。選択に要した時間はごく短い一瞬だった。<BR>
<BR>
　遠くで何かが外れる音が響いた直後、海水が一気に貨物スペースに流れ込んできた。見る見る内にシンジのヒザまでが水に浸かる。それでも少年は椅子に座ったまま、既に水中に没した端末モニタがあるはずの一点を眺めていた。<BR>
<BR>
　アスカは少年に自分の選択を告げる為、外部スピーカーの機能をアクティブにした。<BR>
<BR>
<BR>
<CENTER>──────────</CENTER><BR>
<BR>
　ヘリのパイロットは確かな腕前だった。<BR>
<BR>
　傾き沈みかけている船の真上で、一定の相対高度を維持して正確に機体をホバリングさせている。傾斜のついた甲板に脚が触れるか触れないかと言う絶妙の位置で、２人を収容しようとしていた。加持はヘリの側面扉を開けてノート型端末を座席に放り込む。次いで自分も乗り込むと、ミサトに向かって手を差し伸べた。まだシンジのことを思い逡巡するミサトを、加持が無理矢理ヘリの中に引っ張り込む。<BR>
<BR>
　ミサトが機内に入るやいなや、ヘリは速やかに高度を上げた。加持は持っている端末でアスカと連絡を取ろうとしたが、既に弐号機とのの接続は絶たれていた。オセローの内部ネットワークに相乗りする形で弐号機と接続していたため、船そのものが機能を失いつつある現状では当然の事だった。通信設備が充実しているオーバー・ザ・レインボウ経由で接続する必要があると判断した加持は、その旨をパイロットに伝えた。<BR>
<BR>
　急な旋回と加速で振り回される体を踏ん張って支えながら、ミサトは窓から海面を見つめた。最早オセローの船体はほとんどの部分が海中に没している。海上から見えているのは、船首近くのごく一部分だけだった。海面に渦と白い泡を巻き散らしつつ沈んでいく船から、クルー達が乗った小型ボートが我先にと離れていく。<BR>
<BR>
　沈みゆく輸送艦を厳しい視線で見つめた後、ミサトは狭い窓から苦労して周囲の様子を窺った。艦隊の対応は流石に素早く、既に陣形を組み直しつつあった。回避行動を取りつつ、目標への攻撃が開始された。両舷に装備されている発射管から次々と射出された魚雷は、そのホーミング能力を最大限に発揮した。<BR>
<BR>
　海面に高々とした水柱が連続して上がる。正確に目標を捉えたはずの魚雷の直撃を物ともせず、異常な速度で白く巨大な物体が海面近くを突き進んでいた。密集した艦隊の間を縫うように、その航跡は滑らかな曲線を描いている。<BR>
<BR>
　その物体が突然進行方向を変えた。先ほどから執拗に砲撃を繰り返していた戦艦の１つに迫っていく。圧倒的な速度が回避も迎撃も許さなかった。それの攻撃手段は単純な体当たりだった。側面への激しい衝突で、巨大な戦艦が玩具のように浮き上がり、金属部品の破片が飛び散った。無惨に抉られた船体が傾き、あちこちから炎と煙が上がる。損傷によって強度を失い自重を支えきれなくなった船体が、くの字に折れ曲がりながら沈み始めた。あまりにも唐突な終焉は、ほとんどのクルーに脱出する暇を与えなかった。<BR>
<BR>
　人類が知るどんな兵器や生物にも合致しないその威容と能力に、ミサトの口が自然に動いた。<BR>
<BR>
「使徒だわ」<BR>
<BR>
　何よりもまず、『何故ここに』という疑問がミサトの中に浮かんだ。ミサトは眼下で行われている、戦闘と呼ぶにはあまりに一方的な破壊活動から目を逸らし、隣に座る男にゆっくりと顔を向けた。<BR>
<BR>
　心の奥まで見通そうとするようなミサトの眼差しを、加持は黙したまま受け止めた。彼の目の中に浮かんでいたのは、真実を知る者が無知な人間に向けるような、見下しと憐憫が混じりあう感情だった。かろうじてミサトが加持を問い詰めなかったのは、彼の表情に割り切りきれない後ろめたさの影を見たせいだった。<BR>
<BR>
<BR>
<CENTER>──────────</CENTER><BR>
<BR>
　オセローは海中に完全に没し、さらなる深みへと沈みつつあった。エヴァ弐号機が収容されている貨物スペースは水で満たされている。天井部分を覆っているシートは張りを失い、水圧に逆らう事無く不安定になびいていた。赤い冷却液は貨物スペースを満たしている海水と混じりあう事はなく、あちこちに塊となって漂っている。沈没しながら緩やかにロールしている船体内部では、上下の区別が無意味になりかけていた。<BR>
<BR>
　オセローから弐号機に供給されていた電力は既に停止していた。プラグ内部に表示されているエネルギー残量の表示カウンタは着実に減り続けていた。内部電源に蓄電されているなけなしのエネルギーでは、プラグの生命維持機能を動かすのが限界だった。アスカは、この状態では仮に弐号機を起動させたとしても、せいぜい数回腕や足を振り回しただけであっさりと活動限界に達すると判断した。<BR>
<BR>
　この状況から脱する現実的な方法は一つしか無かった。それを実行する為には、まずはじっくりと待つ必要があった。アスカは弐号機の振動センサーと生命維持機能を残して、全てのシステムを一時的に停止した。全方位モニタとしての機能を停止したプラグの内壁は単なる円筒の壁面に変化する。<BR>
<BR>
　薄暗くなったエントリープラグの中で、アスカは目を閉じた。<BR>
<BR>
　暗い水の中で身動きする事なく漂う弐号機の周りには、船内のあちこちから流れてきた様々な物体が浮いていた。その浮遊物の中に、シンジが履いていたと思われるスニーカーの片方があった。あまりに小さなその物体に、弐号機の目と自分の目を同時に閉じているアスカが気付く事は無かった。<BR>
<BR>
　小さな漂流物は半分解けた靴紐をなびかせながら、ゆっくりと何処かへ流れていった。<BR>
<BR>
<BR>
<CENTER>──────────</CENTER><BR>
<BR>
　オーバー・ザ・レインボウのブリッジに駆け込むと同時に、ミサトは窓に駆け寄った。<BR>
<BR>
「状況は！？」<BR>
<BR>
「戦闘中だ！部外者は口を出すな！」<BR>
<BR>
　艦長の怒声にも動じることなく、ミサトはガラス越しにオセローがいるはずの方向を見つめた。エヴァ弐号機と２人の子供達を乗せたままの船は完全に視界から消えていた。口元に指を当ててわずかに考え込んだ後、ミサトは反対側の窓に走り寄り、他の艦船の様子を確認する。海上に３つ程の煙が上がっているのが見えた。使徒は明らかにこの艦隊を目標に行動しているようだった。<BR>
<BR>
　加持が脇に抱えていたノート型端末を開いて窓際に置き、画面に目を凝らした。ウィンドウ上でエヴァ弐号機への通信接続エージェントが起動する。自動的にオーバー・ザ・レインボウ艦内の無線通信ネットワークに接続し、各観測装置を経由して弐号機のシグナルを探索している事を示すメッセージが現れた。<BR>
<BR>
　ミサトは加持の横に回ると、同様に画面を覗き込んだ。<BR>
<BR>
「２人はどこ？」<BR>
<BR>
「分からん。水中だとシグナルの有効距離が短いな」<BR>
<BR>
「子供を置いてきたのか！？」<BR>
<BR>
　呆れた顔で２人を見つめる艦長の言葉を無視して、ミサトは命令書の入った書類バインダーをちらつかせた。<BR>
<BR>
「これは使徒による攻撃です。従って只今よりこの艦隊の全てはネルフの指揮下に入ります。艦長、御協力願います」<BR>
<BR>
　苦虫を噛み潰したような顔だったが、艦長はすぐに表情を引き締めて任務に忠実な軍人としての自分を取り戻した。ミサトはこの老練な兵士の評価を少しばかり改めた。艦長もミサトの横に近付き、窓から海上の様子をじっと見つめた。世界最強の海上戦力と自負していた艦隊が反撃すらままならないという悪夢のような状況に、双眼鏡を握る手が自然に強張る。<BR>
<BR>
「分かっている……それで、勝てるのか、アレに」<BR>
<BR>
「もちろんです。まず我々の『武器』を取り戻します」<BR>
<BR>
　そう言って、ミサトは副長に対して襲撃以降の艦隊航行記録の確認を指示し、艦長にはにこやかな視線を向けた。<BR>
<BR>
<BR>
<CENTER>──────────</CENTER><BR>
<BR>
　闇の中でアスカは目を閉じたまま、意識を研ぎ澄ませていた。<BR>
<BR>
　オセローが海底まで完全に沈み、その動きを止めてから数分が経っている。かつて華やかな都市として栄えた名残りの建築物の連なりが、暗い海の底に静かに佇んでいた。海上から降ってきた無数の人工物の破片に魚達も戸惑いを見せているようだった。次に待ち構えている物への怖れを象徴するような、張り詰めた静けさが辺りに満ちていた。<BR>
<BR>
　エントリープラグの中に、警告音が短く鳴った。アスカが目を開くと同時に、一枚の情報ウィンドウが投影される。数十本の細いぎざぎざのラインの重なりが、周囲に渦巻く複雑な環境音を示している。そのラインの中の１つが黄色く点滅して自己主張を続けていた。弐号機のセンサーが検出し続けている無数の雑音の中から、目当ての物のパターンがフィルタリングされていた。更に新しいウィンドウが開き、弐号機を乗せたまま沈んだオセローの現在位置と周辺空間の概略マップが現れる。エヴァ弐号機と、目的の物の相対位置と速度がグリーンのシンボルでマップ上に表示された。そのシンボルは明らかな意図をもってオセローへと接近しつつあった。<BR>
<BR>
　先程よりも物騒な警告音が鳴る。マップの上に新しく赤いシンボルが表示された。それはグリーンのシンボルよりも遠距離に出現した。そして、その赤いシンボルもやはりオセローに向かって接近していた。弐号機が備えている索敵システムは、それが水を切る反響音からおおよその大きさを算出した。体積からいうと相手の方が遥かに上と思われた。水中を滑るような機動で近付いてくる様子からは、あまり友好的な意図を感じ取れなかった。そして、赤とグリーンのシンボルがマップの上で行っている競走の勝敗は、アスカと弐号機にとっては好ましく無い結果に終わりそうだった。<BR>
<BR>
　距離と速度から、赤いシンボルの方が僅かな差で先にオセローに到達するとの予測結果が情報ウィンドウに表示されていた。<BR>
<BR>
　アスカは制御システムの一部を起動して弐号機のチェックを開始した。少女の思考コマンドによるオペレーションは極めて高速で、状態確認用のメッセージウィンドウの投影、アスカ自身の目視による内容チェック、消去まで数分の１秒を要するのみだった。水没した事によるエヴァへの影響は全く無かった。自分の周囲で次々に現れては消えていく無数のウィンドウを完全に認識しつつ、アスカは次の行動を起こすタイミングを待っていた。<BR>
<BR>
　オセローを中心として描画されたマップの中で、赤いシンボルが急速に迫りつつあった。速度を緩める気配を見せないまま、それは容赦無くその巨体を船に叩き付けた。その体当たりによって、船体が大きく揺さぶられる。激しい振動は船体内部の弐号機にも伝わり、アスカの体も激しく振り回された。彼女は表情を変える事無く、ウィンドウ上のグリーンの光点の動きを見つめていた。固定用のワイヤーが外れ、甲板の上から貨物スペースを覆っていたシートがめくれ上がる。<BR>
<BR>
　そのシートの隙間からエヴァ弐号機が海中に漂い出した。水の流れに逆らう事も出来ない打ち捨てられた人形のような動きだった。アスカはそんな弐号機の状態など気にも留めず、マップウィンドウに意識を集中させている。絶好の獲物を見つけた捕食者を思わせる鋭い動きで、再び赤い光点が弐号機に向かって突進してきた。<BR>
<BR>
　ウィンドウ上で、グリーンと赤の光点の動きが、弐号機を挟んである一直線上に並びかけた。それがアスカが待ち構えていた瞬間だった。<BR>
<BR>
　アスカは弐号機の全システムを起動した。<BR>
<BR>
　全方位モニタに周囲の様子が映し出される。太陽光が少ない水中に対応し、映像は光学的な増幅処理を施された。同時に、シンクロシステムによるフィードバックの感覚が彼女に押し寄せた。３年振りに感じる左腕と左足の実在感と、ほぼ３６０度に拡大された視覚。１つ間違えば恐慌すら引き起こしかねないその感覚を、アスカはいとも容易に意識の制御下に置いた。<BR>
<BR>
　エヴァ弐号機は海中で四肢を自然に下げて浮かんでいた。オセローから押し出された勢いのまま、緩やかに水中を漂っている。視野の隅に１５年前に水没した建築物の残骸が映ったが、感傷に浸るほどの情緒や時間的余裕は無かった。弐号機からもたらされる体感覚を通じて、アスカは瞬間的に状況を把握した。<BR>
<BR>
　巨大な白い物体が目の前に迫っていた。<BR>
<BR>
　その使徒は、イチゴの実のように膨らんだ巨大な頭部とヘビのような胴体を持ち、尾の方に進むにつれて胴は５つ叉に別れ、それぞれの先でヒレ状の鋭利な三角形の器官をなびかせていた。体表は白く滑らかで、いかにも水中の活動に適応した外見だった。その全長は弐号機の７、８倍は優に超えているように見えた。<BR>
<BR>
　激しく身をくねらせヒレを力強く振っていたが、それだけでは到底得られるはずのない異常な推進力だった。高速で不規則な方向転換を織り交ぜつつ螺旋軌道を描く使徒の巨体が、弐号機の下方から体当たりを仕掛けてきた。使徒の顔に目や口に類する物は見当たらなかったが、弐号機の位置を正確に把握しているようだった。使徒の頭頂部から胴体部に向けて放射状に走っている継ぎ目のような模様がはっきり見えるほど、両者の距離は近付いていた。<BR>
<BR>
　これは実質的にエヴァ弐号機の『初起動』だった。しかし、無駄な動作確認に費やすエネルギーは残っていなかった。アスカは弐号機の腹部をかばうように、左腕を上げた。腕を僅かに動かしただけだったが、確実に電力は消費され活動限界を示すカウンターの減りが一気に進んだ。アスカのイメージをかろうじてトレースした左腕に使徒の頭部が激突する。衝突の瞬間、アスカは左腕の角度を調整して反動の方向をコントロールした。鈍い衝撃とともに左下腕の外皮が削られ、骨格パーツに亀裂が入った。そして、彼女の狙い通りに弐号機は水中を後ろ斜め上方に押し出される。アスカがとうの昔に失ったはずの左腕が感じる激痛は、彼女にとってシンクロ率の目安でしかなかった。<BR>
<BR>
　アスカは、さらに追い討ちをかけようと様子を窺う使徒を見つめながら、体当たりの衝撃で海中を浮き上がるように進む弐号機の右腕を真上に伸ばした。『それ』がそこにあることは分かっていた。指先に感触が生まれた瞬間に、それを強く握り込む。内部電源はあと２秒程しか残っていなかったが、それで十分だった。<BR>
<BR>
　とどめとばかりに体当たりをかけようとしてきた使徒の複雑な動きを、アスカは完全に読み切った。衝突の寸前、『それ』を掴んだままの右手に力を込めて弐号機の体を上にずらした。弐号機の両脚の間を使徒がくぐり抜けていった。紙一重で体当たりをかわした弐号機は、そのまま右手が掴んでいるそれを背中に回した。そこでエヴァ弐号機の内部電源は完全に尽き、長いアラーム音がエントリープラグの中で無情に鳴り響いた。<BR>
<BR>
　その直後、エネルギー残量表示がオール８に点灯し、電力ソースが外部電源に切り替わった事を示した。<BR>
<BR>
　オーバー・ザ・レインボウから海中に垂らされていた『釣り糸』の状態をブリッジでモニターしていた副長が叫ぶ。<BR>
<BR>
「アンビリカルケーブル接続確認！電力供給始まりました！」<BR>
<BR>
　ミサトが即座に指示を出す。<BR>
<BR>
「ケーブルリバース！急いで！」<BR>
<BR>
　甲板に設置された大型ウインチが激しい唸りを上げて、ケーブルを引き上げはじめる。その牽引力によって浮上を始めた弐号機と、使徒の距離が見る間に広がっていく。一瞬、獲物を見失った使徒はその場で小さく旋回していたが、すぐに弐号機の位置を再び見定めると身を翻して猛烈な速度で水中を追跡して来た。<BR>
<BR>
　アスカは弐号機の背面から引き上げられる強い力を感じながら、通信ウィンドウを開いた。シグナルが届かない水中でも、アンビリカルケーブルが備える機能の１つとして有線通信が可能になっているはずだった。<BR>
<BR>
　ウィンドウに加持の顔が現れたと思いきや、それを張り手で押し退けたミサトがアップになった。目を見開いた彼女は鼻息も荒く問いかけてきた。<BR>
<BR>
『アスカ、無事！？シンジ君は！？』<BR>
<BR>
「サードチルドレンはプラグ内に保護しています」<BR>
<BR>
　少女は先程と同様に唇を全く動かさずに応答した。ミサトは通信ウィンドウの隅、アスカが座るシートの背後にシンジの顔を認めて息をついた。<BR>
<BR>
「だから言ったろ、大丈夫だって」<BR>
<BR>
　頬をさすりながら加持が苦笑する。それを無視してミサトはアスカを見つめた。この少女の顔は奇妙な程に穏やかだった。恐怖からくる逃避や、虚勢によって作られた表情では無かった。何かを覚悟した人間のそれとも違う、感情を排した絶対的な客観性を象徴するかのような冷たい眼差し。それはチルドレンに共通する傾向ではあったが、ミサトはこの少女がシンジとは別の意味で『心を失って』いるように思えた。<BR>
<BR>
　ただ、シンジと違ってまともなコミュニケーションが出来るチルドレン、という利便性はミサトにとってみれば歓迎すべき物だった。ミサトは目の前の敵に対応するためにこの少女の能力を遠慮なく使わせてもらおうと考えた。<BR>
<BR>
「アスカ、状況は？」<BR>
<BR>
『目標との接触によって左腕小破。現在、目標は弐号機に向けて進行中。間もなく追い付かれます』<BR>
<BR>
　用意してある台詞をすらすら読み上げるように、タイムラグ無しで応答が返って来る。『パイロット』としてなら、この少女は３人のチルドレンの中で最も優れているかも知れない、とミサトは思った。<BR>
<BR>
　使徒を捉えた数枚の静止画像が弐号機から転送され、ノート型端末の画面に現れる。同時に弐号機と使徒の移動予測コースを重ねた立体マップも表示される。２つのコースの交点座標は海面下にあり、その再交差予想時刻まであと５秒も残っていなかった。<BR>
<BR>
　ミサトは自分に出来る事はあまり無いと悟った。そしてアスカの判断力は十分信頼に値する物だとも思った。<BR>
<BR>
　この少女は、エントリープラグという巨大な棺桶に閉じ込められた状態で暗い水の底に沈められた。あまつさえ自分の生命維持装置を支えるエヴァ内部電源が刻々と消費されていくという、恐怖で己を見失っても不思議では無い状況だった。それでも尚、少女はオセローの中で待ち続けた。仮にエヴァを動かして足掻こうとしても、そのエネルギー残量では２、３度手足をばたつかせるのがやっとだった。別の船に辿り着くこともままならず、弐号機は海中で完全に機能を停止し、少女は自分の命も自ら吹き消す結果に終わっていたはずだった。<BR>
<BR>
　海上から救援の手が差し伸べられるならば、何よりもまず第一の目印となるであろう輸送艦オセロー。エネルギーを温存したままそこに留まる事こそが生存の可能性を最も高める選択であり、実際に少女はそうした。それは取り立てて誉めちぎるほどの聡明な選択ではなく、ごくごく当たり前の現実的な判断だった。しかし、その当たり前ではあるが自分の生命が掛かっている重要な判断を、この９歳の少女が淡々とやってのけたという事実こそ、ミサトがアスカに抱いた信頼の根拠だった。<BR>
<BR>
　今の自分では大したサポートが行えそうにないことをミサトは素直に受け入れ、現状と指針を提示してパイロットの邪魔をしないのが今は最良と思えた。アンビリカルケーブルに身を任せて海中を引かれ続けている弐号機に向かって彼女は呼び掛けた。<BR>
<BR>
「引き上げ速度はこれが限界よ。海上に出るまで凌いで」<BR>
<BR>
『了解』<BR>
<BR>
　このやり取りを行いながら、アスカは弐号機各部のフィードバック誤差を確認していた。ＭＡＧＩがあればリアルタイムに最適な運動制御支援が期待できたが、ここではアスカ本人の感覚が弐号機の挙動を支配する全てだった。アスカは筋繊維、神経繊維の１本に至るまでを完全にイメージした。それは自分の思考のみならず、物理的肉体が感覚する無数の入出力刺激の１つ１つを、論理的な信号として認識する事に等しい作業だった。それはこの少女の才能にのみ許された、他の人間には実行不可能な領域に属する物だった。<BR>
<BR>
　アスカは、自らの肉体イメージと弐号機の機体の間に生じる誤差を補正する有機的イメージを精神内部に構築した。意識を多層化することで心の内部に作り上げられた、擬似人格アルゴリズムとでも言うべき物は、アスカがエヴァと接している意識の表面、心的界面領域において自律的に機能し始めた。それはアスカ本人にフィードバック誤差を意識させないための、心の中に造り出したもう１人の『自分』だった。<BR>
<BR>
　完全とは言えなかったが、アスカは外部のサポートを得る事無く自分の意識の力のみでエヴァ弐号機との実用的なシンクロを成し遂げた。もしこの場にリツコがいたならば、その神業に近い所行に瞠目した筈だった。ＭＡＧＩの支援による運用が前提とされるエヴァシステムを、いわば自らの意識を『組み換える』ことで制御下に置く。余りに非常識なその手法の意味に気付ける者はここにはいなかった。<BR>
<BR>
　これだけの作業を数秒で完了させたアスカは、目の前に接近してきた使徒の動きに意識を向けた。彼女は更に高まり続ける己の集中力から、自分の肉体が軽い興奮状態に入りつつあることを知った。それが生物的な反応に起因する物だと理解する。アスカはそれを『感情』として自覚することはできなかった。自分自身の内部を見つめる少女の視線はまるで他人を観察するような距離感で、第三者的とも言える程の客観性に満ちすぎていた。アスカの意識は、自分に与えられた命令をひたむきに実行する事だけに向けられていた。<BR>
<BR>
　それは少女の中にある確実な意志であり、彼女の後ろでシートに寄り添っている少年が決して持っていない物だった。<BR>
<BR>
　再び使徒がその細長い巨体をうねらせ、弐号機へと襲い掛かって来る。<BR>
<BR>
　アスカは既に自分の忠実な手足と化した弐号機に、流れるような運動シーケンスを実行させた。馬鹿の一つ覚えのように使徒が頭から突っ込んで来た。弐号機は不格好に膨らんだ使徒の頭に両足を乗せ、ヒザのバネを利かせて衝撃を和らげる。アスカは使徒から弐号機を引き離すため、そのまま両足を相手の頭部に蹴り込んだ。水の抵抗があるとは言え、エヴァの持つ力は使徒の頭部を歪ませ、更にその胴体をも捻らせる。そして使徒の巨大な体は、弐号機にとって好都合な足場となった。蹴り込んだ力が生んだ反作用で、弐号機が水中を使徒とは逆方向へ飛ぶように浮上していく。<BR>
<BR>
　大きく盛り上がった海面が一瞬で弾け、大量の水しぶきが海面にまき散らされた。赤く巨大な物体が弾丸のように海から飛び出して来た。アンビリカルケーブルの牽引力をも利用して宙に舞い上がった弐号機に、ミサトは目を奪われた。無駄な動作で勢いを殺すこと無く、アスカは弐号機の巨体を空中で操った。<BR>
<BR>
　青空を背景にして赤い巨人が見せた伸身宙返りの着地点は、空母の飛行甲板中央に向かっていた。<BR>
<BR>
　ブリッジからその危険性を一瞬で見て取ったミサト達は、慌てて周囲の固定物にしがみついた。弐号機は深くヒザを折り畳んで自身にかかる着地の衝撃を出来るだけ逃がしたが、それでもオーバー・ザ・レインボウに加わったダメージは少なく無かった。激しい衝撃で甲板は弐号機の足の形に窪み、空母そのものも上下左右に大きく揺さぶられた。振り回されたブリッジのガラス窓がことごとく砕け散る。<BR>
<BR>
　艦全体が軋む轟音の中、椅子にしがみついた艦長が立続けに口汚く罵る言葉が聞こえたが、この有り様ではそれも仕方ないだろうとミサトは思った。空母の揺れが収まるのを待つ事なくミサトは立ち上がり、窓から弐号機の背中を見つめた。加持もすぐに立ち直り、ノート型端末で状況の確認を始める。周囲の海面に注意を払いながら、ミサトが彼に訊ねた。<BR>
<BR>
「弐号機の武装は？」<BR>
<BR>
「標準装備のプログレッシブナイフだけだ」<BR>
<BR>
　さらりと答えた加持に、戦闘中にも関わらずミサトはぽかんと口を開けたかと思うと、すぐに顔をしかめた。彼女の表情を見た加持が、言い訳がましい口調で更に付け加える。<BR>
<BR>
「仕方ないだろ。弐号機は戦闘訓練どころか起動試験もやってないんだぜ」<BR>
<BR>
　聞かなければ良かったと、一瞬思った。気分が一気に滅入り、ミサトは右手を額に当てた。彼女はそのまま目を閉じて考え込むように首を捻った。<BR>
<BR>
「今日は耳の調子が悪いみたい。もう一回言ってもらえる？」<BR>
<BR>
「３年前のアスカの事故の再現を恐れてるんだ。本部管轄外での起動実験の類は禁止されてる」<BR>
<BR>
　俺の責任じゃ無い、と言わんばかりの態度で加持が肩をすくめた。どいつもこいつも他人の足を引っ張る事しか考えて無い大した特務機関だと、ミサトは胸の中で毒づいた。もう人類は滅びた方がいいのではと、彼女は本気で思いたくなってきた。<BR>
<BR>
　双眼鏡で周囲を警戒していた副長が叫んだ。<BR>
<BR>
「２時方向、来ます！」<BR>
<BR>
　ミサトは端末の画面を覗き込んで、ウィンドウに映る少女とその後ろの少年を見つめた。シンジを回収している暇は無さそうだった。<BR>
<BR>
「アスカ、迎撃用意。落ちないでね。今の装備じゃ水中戦は不利よ」<BR>
<BR>
『了解』<BR>
<BR>
　甲板の上で仁王立ちになった弐号機の左肩ウェポンラックが開いた。滑るような動作でプログナイフを抜き取り、右手で力強く握り込む。体の前で水平に構えたナイフの柄から刃がせり出した。同時に超振動現象が奏でる独特のノイズと共に、分子振動による発熱が刃の表面を鈍く発光させ始めた。<BR>
<BR>
　弐号機は重心を落として視線を海面に集中させた。海面ギリギリの水中を高速で蛇行して接近する使徒の巨大な白い影が波間に見え隠れする。<BR>
<BR>
「あの弐号機、初めてにしちゃスイスイ動いてるんじゃない？」<BR>
<BR>
　実戦の中でエヴァを指揮してきたミサトの目から見ても、弐号機の挙動は他のエヴァに決して見劣りする物では無かった。<BR>
<BR>
「アスカは天才さ。掛け値なしのな」<BR>
<BR>
　加持の声には、微かな苦々しさが込められていた。思わず漏れたその感情に戸惑ったのは、他ならぬ彼自身だった。その表情を敏感に察したミサトが、加持に困惑気味に視線を向けた。しかし彼女はすぐに口を真一文字に結ぶと、無言のまま鋭い視線を再び弐号機とその向こうの海面へ注いだ。ミサトは視線はそのままで、顔だけを艦長の側へ向けた。<BR>
<BR>
「艦長、動ける艦を全て当艦の周囲に配置して下さい。弐号機の『足場』にします」<BR>
<BR>
　艦長が渋々といった様子で副長に頷く。通信用マイクを取り上げた副長が各艦へ命令を伝達し始めた。聞こえて来るその指示を意識の片隅で確認しながら、ミサトは視線を海の上で左右に動かした。つい先程まで見えていた使徒の影が消えていた。<BR>
<BR>
「目標は？」<BR>
<BR>
　弐号機の索敵システムから中継される情報をモニタしていた加持が答える。<BR>
<BR>
「真下を抜けた。逆から来るぞ」<BR>
<BR>
　その言葉が終わる寸前に、ミサトの視線とは完全に逆方向から白い物体が浮き上がって来た。緩慢な動きで白い渦と泡を生じさせながら、使徒は海面を割るように頭をのぞかせた。徐々に持ち上がっていく頭部から海水がしたたり落ちる。<BR>
<BR>
　使徒は胴体後部のヒレを器用に動かして、直立姿勢を保持していた。細長い胴体を水中から伸ばし、大きく膨らんだ頭をもたげている。辺りを探る潜望鏡のような動きで、空母の甲板に立つ弐号機の背中にその頭部を向けていた。その白い体が水をかき分けながら、ゆっくりと空母に接近して来た。<BR>
<BR>
　胴体の一部は未だに水中にありながら、使徒の頭は空母の上の弐号機を楽々と見下ろす程の高さにあった。太陽を背にしたその巨大な体が、甲板と弐号機の上までその影を落としている。使徒の体にまとわりついていた海水の残滓が、甲板の上にぼたぼたと灰色の染みを描いた。<BR>
<BR>
　目も口も無い、先端から放射状に継ぎ目が入っているだけの頭部だったが、それは確かに弐号機を『見て』いるような振舞いだった。弐号機は頭だけを振り向かせて、肩ごしに背後からの視線を受け止めた。<BR>
<BR>
　艦長が間近で見せつけられた使徒の圧倒的な巨大さに息を呑んだ。エヴァの機体は決して小さなサイズではないが、その両腕でも抱えきれそうにないボリュームを持つ使徒の頭部のおぞましさに、今まで感じた事のない恐怖が込み上げて来た。長い軍歴で積み重ねてきた経験からではなく、本能から来る恐怖が、『これ』には絶対に勝てないと彼に直感させた。<BR>
<BR>
　弐号機と使徒は、危険とも言える距離にまで近付いていた。使徒は今にも上方から襲い掛からんばかりの体勢を取っているが、弐号機はまだ使徒に背中を向けたままだった。弐号機はその顔だけをやや後ろに回し、自分を見下ろす巨大な白い頭を見つめ返していた。<BR>
<BR>
　一瞬の睨み合いの後、使徒が動いた。<BR>
<BR>
　使徒はその巨体には似つかわしく無い敏捷さで、弐号機の真上から自らの頭を叩き付けた。アスカは弐号機に素早くステップを踏ませ、半円を描くように狭い甲板上を移動する。一瞬前まで弐号機が立っていた場所に、使徒が頭からめりこみ、えぐり取った甲板の破片を周囲の海面に飛び散らせた。再び空母を揺るがせる轟音と衝撃に、ミサト達は立っている事すらままならなくなる。<BR>
<BR>
　甲板に激突した衝撃で一瞬動きを止めた使徒の側頭部に、アスカはプログナイフを深々と突き立てた。ナイフの柄を両手で掴み、弐号機の全体重をかけて使徒の頭を縦一直線に切り裂く。傷口から濃青色の液体が勢い良く噴き出し、空母の甲板やブリッジの外壁を染めていった。<BR>
<BR>
　甲板すれすれにまで下りたナイフを引き抜き、更に攻撃を加えようと弐号機はナイフを振りかぶった。しかし、その刃が振り下ろされることは無かった。<BR>
<BR>
　ミサト達の目の前を巨大な白い影が走った。同時に空母は再び巨大な振動に襲われる。使徒の『尾』の部分が、オーバー・ザ・レインボウの艦底をくぐって、頭部とは反対側の海面から突き出されていた。その尾の先に生えている五つ叉のヒレが鋭い凶器となって、甲板に深々と食い込んでいた。<BR>
<BR>
　弐号機の姿が見えない事に気付いたミサトは、遠くから何かが潰れるような音を聞いた。その方向には、オーバー・ザ・レインボウからやや離れた海上に浮かぶ戦艦の上で片膝をつく弐号機の姿があった。全くの死角からの攻撃と思えたその一撃を、アスカは弐号機の一跳躍でかわし、完全にコントロールされた挙動で空母に接近しつつあった一隻の戦艦の上に飛び移っていた。その戦艦が弐号機の両足に踏みつけられた部分は大きく窪んでいたが、航行に支障が出る程のダメージは無かった。２つの艦はあまり行儀の良くない巨大な乗客を乗せたまま、ほぼ平行の進路と速度を保ってじりじりと進んでいた。<BR>
<BR>
　完全に空母に絡み付いた使徒が、甲板に食い込んでいた頭を持ち上げた。体表に突き刺さっていた大小の破片がばらばらと音を立てて甲板に落ちていく。ブリッジの真正面にせり上がって来たその巨大な頭が陽光を遮った。薄暗くなったブリッジの内部にいる者達は、目の前に現れた物のスケール感が持つ圧力に息をするのも忘れていた。声を上げるだけで使徒の矛先が自分達に向いてしまうような恐怖があった。誰も身動きできず、その場に縫いとめられたように立ち尽くしていた。<BR>
<BR>
　ミサトが一歩前に踏み出した。その小さな足音に、必死に気配を殺そうとしている艦長と副長が非難じみた視線を向ける。<BR>
<BR>
　すでにガラスが砕け枠だけになっている窓越しに、ミサトは使徒をじっくりと見つめた。弐号機によって刻み付けられた傷口から、青い体液が脈打つような間欠性をもって噴き出している。オーバー・ザ・レインボウの船体に不規則な振動が走り、ミサトは反射的に手を壁について体を支えた。使徒にとっては僅かな身じろぎでも、巻き付かれている空母にとっては少なくない衝撃をもたらしていた。使徒はやや離れた海上の弐号機に向けた頭を小さく震わせていた。それが怒りの表現なのかどうかは知らないが、使徒の意識は確実に弐号機に向けられているようにミサトには思えた。<BR>
<BR>
「どうするんだ、葛城」<BR>
<BR>
　彼女の横から加持が囁くように問いかける。ミサトはそれに答えず、唇に指を当ててじっと使徒を見つめている。やがて何か考え込むように眉間にしわを寄せ、やや視線を下に落とした。ミサトの口からぽつりと出た声は、拍子抜けするほど平坦な物だった。<BR>
<BR>
「ねえ」<BR>
<BR>
　ミサトはあらぬ方向に視線を向けていたが、加持はその声の調子からそれが自分に向けられた呼び掛けだと分かった。彼が見たその横顔は、ミサトが自らの思考の中に集中していることを示していた。こういう顔をした時のミサトは、最も扱い難い状態であることを彼は経験的に知っていた。加持は警戒心を緩める事なく、彼女の次の言葉を待った。<BR>
<BR>
「アダムが……使徒が現れた理由って何なの」<BR>
<BR>
　彼は、あまりに唐突で場を全くわきまえていないその言葉の意味を確かめるように、ミサトを見つめた。彼女の視線は加持の瞳に向けられていた。身長差から自然に自分を見上げて来る格好になるミサトから、加持は敢えて分かりやすい、とぼけた演技で目を逸らした。非常時にはそぐわない、のんびりした面持ちで頭をかきながら彼は答えた。<BR>
<BR>
「今はそれどころじゃないだろ」<BR>
<BR>
　ミサトは胸のペンダントを握りしめて視線を鋭くする。<BR>
<BR>
「『今』だからこそよ。人類の存亡なんて、どうでもいい。私は１５年前、あの日に起きた事の真実を知りたいだけ。それだけの為に生きて来た。自分でもその気持ちがどこから来るのか分からないけど、私はどうしても知りたい。知らなくちゃいけない気がするの。どうしても」<BR>
<BR>
　言葉の後半は、絞り出すような掠れた声だった。囁くような声は、彼女の心からの叫びの証明に思えた。ペンダントに食い込むミサトの指先に更に力が入ったが、その痛みは全く気にならなかった。ブリッジの正面にそびえる使徒の巨体のせいで暗がりになっている空間が、重苦しさを増す。その中で交錯する２人の視線には、命と引き換えにしても決して相容れ得ない物が滲み出ていた。少なくともこの瞬間においては、この２人は敵同士だった。加持は頭をかいていた指の隙間から、ミサトの目を見据える。彼女が本気だということはひしひしと伝わって来た。ミサトも加持の中には譲れない物があることを見て取った。<BR>
<BR>
　張り詰める空気の中、使徒の傷口から流れる体液が雨のように甲板を打つ音だけが、無気味に響いている。無言の睨み合いを続けるミサトと加持にとって、今は使徒と言えども単なる背景の一つに過ぎなかった。<BR>
<BR>
　ミサトを見つめたまま、ゆっくりと加持が口を開いた。<BR>
<BR>
「今は、まだ話せない」<BR>
<BR>
　使徒が再びその巨体を動かし始めた。小刻みな振動がブリッジを揺らす。しかし、ミサトは使徒に目もくれずに、加持を見つめ続けていた。甲板に突き立てていたヒレ付きの尾を抜き取り海中に引き戻すと、使徒はその体をくねらせた。ちょうど蛇が枝に絡み付いて一回りするような動きだった。白く長い巨体が這いずりながら頭から入水し、それに引きずられるように再び艦上に現れた胴体と尾が甲板を横切っていく。使徒がオーバー・ザ・レインボウから離れる瞬間にひと際大きく艦が揺れたが、徐々にその揺れは収っていった。<BR>
<BR>
　使徒がその頭を海中に戻した時点で、日陰になっていたブリッジに明るさが戻っていた。その瞬間ミサトの瞳に浮かんだ物を見て、加持は懐かしさを覚えた。窓から差し込んだ光が合図になったかのように、ミサトは体を回して加持に背を向け、艦長と副長に向き直った。加持はミサトの背中を見て謝るような笑みを口元に浮かべたが、彼女が彼の表情に気付く事は無かった。<BR>
<BR>
　この緊急時に訳の分からない殺気立った睨み合いを続けていたミサトに、艦長は呆れつつあった。『これだから女は』とは、おくびにも出さずに艦長は彼女の出方を待ち受けた。特務機関の作戦部長とやらが海の上でどれだけの指揮をこなせるのか、半ば揶揄したくなる感情もあった。しかし、自分達が傷一つ負わせられなかった敵に対して、彼らの秘密兵器があっさりと手傷を与えた事実も素直に認めていた。常識を逸脱したこの未知の戦いにおいて、戦況がどちらに傾いているのかさえ彼にははっきりと分からなかった。<BR>
<BR>
　ミサトは周辺海域の様子を表示しているモニタに目を凝らす。艦隊はオーバー・ザ・レインボウを先頭にして、ほぼ円形に密集した配置となりつつあった。それを見たミサトが軽く頷く。残存艦の種類と数を確認しながら、彼女はモニタの上で指を動かした。<BR>
<BR>
「現在エヴァ弐号機が乗っている艦を、当艦の右後方に。残りはこのまま円隊形を維持」<BR>
<BR>
<BR>
<CENTER>──────────</CENTER><BR>
<BR>
　エヴァ弐号機は、戦艦の上で片膝をついたまま周囲の警戒をしていた。自らが装備しているセンサーだけではなく、周囲の艦船からの情報も監視している弐号機の索敵システムは、離れていく使徒の影を捉えていた。しかし、アスカにとってその人工の目からもたらされる情報は既に副次的な物になりつつあった。<BR>
<BR>
　使徒を目の前にした時の、『場』の感覚。どれだけ言葉を費やしても他人には決して説明できる物ではなかった。確かにＡＴフィールドの概念は知識として持っていた。しかし、どの研究論文よりも使徒と触れあったあの一瞬の感覚の方が、アスカにとっては優れた教材だった。そして彼女が手にしたこの『場』の感覚は、どんな観測機器よりも敏感で確かなセンサーとして機能していた。<BR>
<BR>
　弐号機と使徒、互いのＡＴフィールドの微かな干渉が気配とでも言う物を生じさせ、アスカはそれを感じ取っていた。使徒は遠くから様子を窺っている。こちらには逃げ場が無い事を理解しているのか、その動きには余裕すら見えた。そして、その余裕は十分に正当な物と思えた。<BR>
<BR>
　アスカはＡＴフィールドによって自分が得た新たな感覚を確認しながら、シートの左後方にいるはずの少年に注意を向けた。左目から光を失っている彼女が少年の姿を視界に入れるには、顔をほぼ真横に向ける必要があった。<BR>
<BR>
　シンジの顔が思いのほか間近にあった。<BR>
<BR>
　他人の顔をこれほど近い距離で見つめるのは、彼女にとってほとんど初めての経験だった。アスカはその少年の表情をまじまじと観察した。２人の間は文字通り息のかかる距離で、少年の肺から規則的に出入りするＬＣＬの流れが、少女の前髪をくすぐった。<BR>
<BR>
　頬が触れ合わんばかりの距離で、少女は少年の黒い瞳を見つめた。<BR>
<BR>
　迷いのない、というより、迷うための心を持たない少年の瞳は、ただのガラス玉をはめ込んだように澄み切っていた。パーソナルスペースを完全に侵害している少女のまっすぐな視線にも、少年は全く反応を見せなかった。どこを見ているわけでもなく、その視線はただ正面に漂っていた。<BR>
<BR>
　アスカは遥か遠くにある気配の変化を知覚した。使徒がこちらに注意を向けたことを知った。彼女は無造作に顔を正面に戻す。その気配がある方向へ、少女は青い光に満ちた瞳を向けた。<BR>
<BR>
<BR>
<CENTER>──────────</CENTER><BR>
<BR>
　使徒によって甚大な被害を被ってなお、艦隊の連係は一糸乱れぬと言って構わないレベルを維持していた。ミサトの指示通り、通常の航行では考えられないほどの密集度で、海上にほぼ真円の隊形を描いていた。<BR>
<BR>
　先頭にいるオーバー・ザ・レインボウのやや後方に位置する戦艦の上で、エヴァ弐号機は片膝をついている。当面は出番がないと判断されたプログナイフは、左肩のウェポンラックに再収納されていた。<BR>
<BR>
　使徒は彼らに十分な時間を与えるつもりは無いようだった。<BR>
<BR>
「来ました！１時方向です！」<BR>
<BR>
　窓際にかじり付いて双眼鏡で海上を警戒していた副長が報告する。窓ガラスは全て割れ、ブリッジの中には潮風がまともに吹き込んでいた。テーブルの上に置いたノート端末の通信ウィンドウの中で、少女は命令を待っている。その落ち着いた表情を頼もしく思いつつ、ミサトが呼び掛けた。<BR>
<BR>
「アスカ、目標を誘導しつつ、船伝いに時計回りに移動。艦隊陣形の内側に使徒を侵入させないこと」<BR>
<BR>
『了解』<BR>
<BR>
　戦艦の上で弐号機がゆらりと立ち上がる。赤い巨人は、左右に揺れる船体の上でバランスをとりつつわずかに腰を落として、次の動作に備えた。その様子を窓から身を乗り出して確認したミサトは、体を中に戻すと声を低くして傍らの加持に問いかけた。<BR>
<BR>
「さっきから気になってるんだけど、話す時に唇動かしてないわよね？あの子」<BR>
<BR>
　テーブルにもたれかかって呑気な表情で海を見つめていた加持が、ついうっかりしていた、という口調で答える。<BR>
<BR>
「ああ……声帯周りの機能も喪失してるんだ。喉と舌の動きを機械が読んで、声を合成してる。会話には全く問題ない」<BR>
<BR>
「そう……ならいいわ」<BR>
<BR>
「来たぞ！」<BR>
<BR>
　窓の前で仁王立ちして海を睨んでいた艦長が振り返る。肉眼で見つめるミサトの目にも、海面の盛り上がりが確認できた。オーバー・ザ・レインボウを完全に無視して、白く細長い巨大な影が弐号機が立っている戦艦に向かって水中を飛ぶような速度で進んでいく。艦長は改めて見せつけられる使徒の能力の異常さに表情を険しくした。<BR>
<BR>
　使徒の体の上部が海面に突き出し、波を起こしながらさらに速度を増した。<BR>
<BR>
　アスカは弐号機を迷いのない動作で後ろに跳躍させた。跳び上がる瞬間の弐号機の加重で沈み込んだ戦艦が、大きく揺れながら辺りに船体の細かい破片をばらまいた。宙に浮かんだ弐号機に対して、使徒は素早く反応した。<BR>
<BR>
　使徒は、つい今まで弐号機が乗っていた戦艦に衝突するコースを瞬時に変更し、艦隊の後方に進路を向けた。ほぼ直角に変針した使徒が立てる大波で、収まりかけた戦艦の揺れが再び増したが、かろうじて船体は持ちこたえられそうだった。<BR>
<BR>
　弐号機の次の着地点は空母だった。事前の警告はあった物の、待ち受ける側のクルーは生きた心地がしなかった。飛行甲板の中央に正確に着地した弐号機は、滞空中もその視線を使徒から離していなかった。自分を追跡している事を確認すると、アスカは空母の揺れが収まるのを待たずに、再び弐号機の全身をバネにして跳ね上がった。<BR>
<BR>
　使徒の追跡は単純だったが、極めて正確で高速だった。円形に配置された艦隊の外周を弐号機の跳躍に引きずられるように使徒は進んでいる。空中の視点から、アスカは使徒と弐号機の距離が確実に縮んでいる事を意識した。<BR>
<BR>
　３度目の跳躍は可能な限り最短のタイミングで行った。それにも関わらず、使徒は弐号機が跳び去った直後の戦艦の船体をかすめる程に接近していた。完全な衝突ではなかったが、長く引きずるような深い傷跡を刻まれたその船が長くは浮いていられないことは明らかだった。<BR>
<BR>
　弐号機と使徒の進路は既に一致しかけていた。<BR>
<BR>
　空中を跳び続ける弐号機の速度に喰らいついて来る使徒の推進力は、異常としか言い様がなかった。かろうじて着地点に先回りされることは無かったが、両者の進行コースと速度は確実に重なりつつあった。<BR>
<BR>
　次々と艦船を踏み台にして跳び続ける弐号機に、猛烈な速度で追い縋る使徒。その白い体が上げる波が一気に大きくなった。使徒の巨体が海上からはっきりと確認できるほど、海面に露出している体表部分が拡大していた。アスカはそれを攻撃の予備動作と見て取った。<BR>
<BR>
　一瞬でも跳躍のタイミングが遅れれば、使徒の体当たりは弐号機に確実に命中すると思われた。少女は弐号機の機体を現時点での１００％近いスペックで操っていた。それでも尚、使徒から安全な距離を取るだけの動きには達していなかった。<BR>
<BR>
　アスカは、弐号機の斜め後方でほぼ相対速度ゼロを保ち続けている使徒をちらりと見た。この使徒の最大の武器はその巨体が持つ質量と速度であり、互いにＡＴフィールドを中和しあっている条件下では、弐号機はいささか不利と言わざるを得なかった。<BR>
<BR>
　しかし、アスカには焦りや恐怖は存在しなかった。自分に与えられた行動原理である『使徒を倒す』と言う命題こそが彼女の根幹だった。それに基づいて誰かの指示に従い、必要ならば自己判断によって最適行動を選択する。少女は機械ではなく間違い無く人間であり、確実な意志があったが、自分の生理的、利己的欲求から来る行動を起こすという思考は心の中に存在しなかった。生物的な本能に従う理由のないこの少女が、死の恐怖に怯えることは出来なかった。<BR>
<BR>
「追い付かれるぞ！」<BR>
<BR>
　歯ぎしりをしながら艦長が窓から身を乗り出す。<BR>
<BR>
　着地姿勢を取る弐号機のほぼ真下まで使徒の影が接近していた。あと２隻の船を渡り切ればオーバー・ザ・レインボウに辿り着く位置だった。弐号機は膝を抱え込むように体を折り曲げ、空母の甲板に足首までめり込ませつつ着地する。そのまま全身を一気に弓なりにそらし、船体をシーソーのように激しく揺らしながら跳躍した。赤い巨人が跳んだ瞬間に、使徒がその空母に斜め後方から高速で突き刺さり、船体を一瞬で横倒しにした。甲板から航空機がぼろぼろとこぼれて海中に落下していく。空母そのものも、水面を激しく泡立てながら不自然な船体の傾きを大きくする一方で、海底で巨大な墓標になりつつある己の運命に抗うことが出来ないのは一目瞭然だった。<BR>
<BR>
　ほぼ一直線に並んだ弐号機と使徒の進行方向は、最後の跳躍中継ポイントの戦艦をまっすぐに目指していた。<BR>
<BR>
　着地して跳躍、ではなく、ほとんど駆け抜けるような動作で、弐号機は戦艦を蹴って跳んだ。弐号機の足がまだ船体から完全に離れ切らない内に、使徒が戦艦へ真後ろから突っ込んだ。船尾から船首までを紙細工のように一直線に貫かれた戦艦は、一瞬で爆発炎上する。爆散した船体の破片が周囲の海面に突き刺さり、無数の小さな水柱を立てた。<BR>
<BR>
　自分の艦隊の船が立続けに海の藻屑と化すのを見て歯ぎしりした艦長だが、それ以上悔しがる暇は無かった。彼は真上から聞こえる、風を切るような音にはっと気付いた。恐る恐る視線を上に向ける。太陽を背にした上空の黒い点が見る見る内に大きさを増し、巨大な人の形になった。<BR>
<BR>
　円形に並んだ艦隊の上を跳び移りながら一周して来たエヴァ弐号機が、両腕を伸ばして空中でバランスをとりながら、オーバー・ザ・レインボウの上に再び降ってこようとしていた。<BR>
<BR>
「ええい、またか！」<BR>
<BR>
　艦長が悪態をつきながらテーブルにしがみつく。加持がミサトを無理矢理自分の体の下に押さえ込んだ。<BR>
<BR>
　そしてこの戦闘中で最大の衝撃が、連続して襲って来た。<BR>
<BR>
　どちらかと言えば『落下』に近い弐号機の着地に、そう何回も耐えられる材料は存在しなかった。弐号機はその両足で見事に甲板を踏み抜き、バランスを崩しかけた。ほぼ同時に白い巨体が海上に飛び出し、甲板の上に手をついている弐号機に頭から突進してきた。使徒の体当たりを辛うじてかわした弐号機は、すぐに左手をついて体を起こす。<BR>
<BR>
　弐号機の顔を上げたアスカは、使徒と甲板の上で睨み合う。互いの隙を探るように、両者の動きがぴたりと止まった。<BR>
<BR>
　使徒はその長く巨大な胴体部分を小さく折り畳んで、甲板の上に完全に乗り上げていた。感覚器に類する物が見当たらない使徒の頭部から発せられる『視線』をアスカは感じた。一瞬の間を置いた後、縮んだバネが一気に力を解放するような動きで、使徒が甲板の上で飛び上がり弐号機に覆いかぶさった。鈍い音を周囲に響かせ、弐号機はその巨体を正面から両腕で受け止めた。左腕の骨格に入っていた亀裂が拡大した事を、アスカは痛覚を通して感じ取った。使徒の圧倒的な体重を体一つで支える弐号機の足元の甲板が圧力に耐えきれず、軋むような音と共に歪みはじめる。<BR>
<BR>
　船上で繰り広げられる押し合いに、オーバー・ザ・レインボウは止めどなく揺さぶられ、ブリッジにいるミサト達は立っているのもやっとだった。<BR>
<BR>
　使徒はその尾の先についたヒレを甲板に突き立て自らの体を固定した。頑丈な足場を確保した使徒は、甲板の上で倒れ込むように長い胴体を湾曲させ、その先についた巨大な頭を上から弐号機に押し付ける。使徒の頭を両腕で強く抱え込む弐号機の機体のあちこちの筋繊維から断裂音が響く。通常運用状態でのほぼ最大出力で耐え続けるアスカと弐号機だったが、その体が徐々に後ろに押され始めた。甲板の上を弐号機の両足がずるずると後ろに滑っていく。いつの間にか、左足のかかとが甲板の縁からはみ出していた。その時、右の足首に何かの感触が当たった。<BR>
<BR>
『アスカ、ひと結び。ソケットをウインチ根元から通して』<BR>
<BR>
　その指示でアスカはミサトの意図を了解し、弐号機の右足を一歩ステップさせた。甲板に設置されたウインチから伸びているアンビリカルケーブルを弐号機にまたがせ、コクピットからの素早い操作でケーブルをパージする。ボルトの圧力が抜け、背中からソケットが抜け落ちる。アスカは、甲板に音を立てて転がるソケットを弐号機の右足に蹴らせ、ウインチ根元のケーブルの下をくぐらせた。<BR>
<BR>
　使徒の体を受け止めたまま、アスカは弐号機の両膝を甲板につかせる。ひざまずいた弐号機は左腕を使徒から離すと、右腕一本で上からのしかかる白い巨体の圧力を支えた。過剰な負荷によって右肩の関節が悲鳴をあげる。<BR>
<BR>
　体全体を押し潰されるような苦痛の中でも、アスカの意識は明瞭さを維持していた。どんな痛みを持ってしても、少女の心を鈍らせることは出来なかった。自らの精神活動を客観的視点から眺めることしか出来ない少女は、外部からの刺激による生物的な反射行動さえ、ある程度までなら意図的に抑制する事が可能だった。<BR>
<BR>
　後ろに回した左手で甲板の上を探って電源ソケットを掴み、持ち上げる。正確な動作で背中のコネクタに差し込まれたソケットのボルトが、滑らかに回転しながら押し込まれ圧力が加わった。弐号機とアンビリカルケーブルは再び固く繋がれる。<BR>
<BR>
　甲板にひざまづいたままの弐号機は左腕を前に戻して、使徒の頭を両手で抱え込んだ。巧妙に全身各部の動きを協調させて、弐号機というシステム全体が持つポテンシャルの最大値を引き出す。弐号機は使徒の圧力を押し返し、ゆっくりと立ち上がろうとしていた。赤い巨人の足元の甲板がさらに歪んでいく。<BR>
<BR>
　予想外の抵抗に焦れたような動きで、使徒が頭を大きく前後に揺さぶった。アスカは弐号機の指先を通じて、先端から胴体方向へ継ぎ目が走っている使徒の頭部から、張りが失われるのを感じる。使徒の頭が、紙風船から空気が抜けるような音をさせた。<BR>
<BR>
　弐号機の目の前に巨大な花が咲いたように見えた。<BR>
<BR>
　今まで何の機能も見せなかった使徒の頭部が、その継ぎ目に沿って放射状にいくつもの部分に開かれていた。余りに突然の変化に弐号機が掴んでいた手を滑らせる。<BR>
<BR>
　頭部全体が巨大な花のような形態になった使徒は、頭と口が一体化したようなその器官で躊躇う事無く、食虫植物を思わせる動きで弐号機を包み込んだ。弐号機の右腕と頭部から胸までが完全に呑み込まれる。使徒の『口』の内側には無数の長く鋭い突起が牙のように並んでいた。胸と背中に深く食い込む牙の感覚と同時に、弐号機本体からのフィードバックがぼやけ始めたのをアスカは認識した。あちこちで損傷を受けた筋繊維間のバランスが崩れ、弐号機全体の出力がわずかに低下した。<BR>
<BR>
　使徒は弐号機をくわえたまま、猛烈な力で前進し、派手な水しぶきを上げて海中に飛び込んだ。<BR>
<BR>
「落ちたぞ！」<BR>
<BR>
　窓枠に必死にしがみついて見守っていた艦長が叫ぶ。<BR>
<BR>
　使徒は弐号機の上半身を頭部に噛み込んだまま、垂直に潜行を始めた。その強大な推進力に抗する手段を弐号機は持っていなかった。まさに水を得た魚という動きで、使徒は弐号機を更なる深みへと引きずりこもうとしていた。<BR>
<BR>
　その時、自分の体を中心にして急速にその径を縮めつつある『輪』の存在を使徒は知覚していなかった。<BR>
<BR>
　突然、頭部と胴体の付け根付近に生じた強い衝撃で、使徒の体が停止した。ふりほどくこともままならず、使徒はその体を苦しげに振り回す。使徒のもがきが激しくなるほどに、それが食い込む力は増していった。<BR>
<BR>
　エヴァ弐号機が跳躍を続けながら海中に巡らせたアンビリカルケーブル。その巨大な『結び目』の中へ自ら体を差し出したことに使徒は全く気付いていなかった。アスカは使徒の頭に呑み込まれたままの弐号機を操り、ケーブルが絞め付けている付近に展開されている使徒のＡＴフィールドを中和し始めた。一層無防備になった使徒の胴体に無慈悲なまでの勢いでケーブルが食い込み、その体表組織をすりつぶしていく。表面を削られた使徒の傷口から、青い体液が海中にうっすらと漂い出した。<BR>
<BR>
　何とかしてこの束縛から逃れようと、使徒が海中を大きく左右に暴れ回る。オーバー・ザ・レインボウの後部から海面へ伸びていたケーブルも、その使徒の激しい動きに合わせ甲板の縁に沿うように左右に振り回される。水平方向に回転するように設計されているネルフ技術部特別仕様のウインチ本体も真横を向かされて、ケーブルの方向も空母の進行方向と直交する角度に変化した。<BR>
<BR>
「ケーブルリバース！機関全速前進！動ける船は中央に集めて！」<BR>
<BR>
　ミサトが空母から伸びるアンビリカルケーブルが海中に没している部分を見つめながら指示する。結果の分かっている実験を退屈そうに見つめる科学者のような、冷たい光を帯びた視線だった。<BR>
<BR>
　ウインチがケーブルを巻き上げる力、オーバー・ザ・レインボウが前進する力、さらに使徒自身の推進力が自らの首を絞める結果になっていた。<BR>
<BR>
　ケーブルはゆっくりと、確実に引き上げられていった。<BR>
<BR>
　前代未聞の綱引き勝負は人類側の圧勝だった。再び海上に顔を出した使徒の周囲に、艦隊が集結しつつあった。胴体を締め付けるケーブルの効果か、使徒の抵抗は既に弱々しい物になっている。力無く頭を震わせるだけの使徒は、最早脅威では無かった。<BR>
<BR>
　使徒の巨大な体が更に持ち上げられる。オーバー・ザ・レインボウの側面から甲板に引きずり上げられた使徒の頭は、相変わらず弐号機の頭と右腕を丸ごとくわえたままだった。弐号機の左腕はまだ呑み込まれておらず、使徒の頭をこじあけようと継ぎ目に手を差し込んでいる。しかし、その頭部が弐号機を抑え続ける力は依然衰えず、びくともしないようだった。<BR>
<BR>
　完全に使徒の頭の内部にくわえ込まれていた弐号機の頭部だが、その機能は十分に働いていた。使徒の頭の奥、通常の生物ならば喉に通じるであろう部位にぼんやりと浮かんでいる赤い光を、アスカは光学センサーを通して見ていた。その光からもたらされる感覚を考察しながら、少女は弐号機の反応が更に鈍り始めている事を感じ取った。<BR>
<BR>
　端末で弐号機の状態をモニタしていた加持もミサトに視線を向けた。<BR>
<BR>
「葛城、弐号機の出力が落ち始めた。俺も専門外だが、そろそろヤバいかも知れん」<BR>
<BR>
「ならし運転無しでここまで持てば十分よ。弐号機がＡＴフィールドを中和していられる内にケリをつけましょう」<BR>
<BR>
　通信ウィンドウの中で、不思議な程落ち着いた表情を崩さないアスカにミサトが視線を合わせる。<BR>
<BR>
「アスカ、使徒のコアの位置は分かる？」<BR>
<BR>
『頭部の奥に赤い半球体が確認できます』<BR>
<BR>
　ミサトはブリッジから甲板にぐったりと横たわる使徒の体を見下ろし、その内部を見通すような表情で頷いた。<BR>
<BR>
「多分それね。ＡＴフィールド中和はまだ続けられる？」<BR>
<BR>
『問題ありません』<BR>
<BR>
「では、フィールド中和作業を継続」<BR>
<BR>
『了解』<BR>
<BR>
　アスカの応答を確認したミサトは振り返る。とんでもない大物を釣り上げたこの女性の言葉は、耳を傾ける価値があると艦長は感じていた。そして、胸をよぎる微かな畏怖も自覚していた。<BR>
<BR>
　艦長は今起きた事の意味を理解していた。この女性は、恐らく初めから船の２、３隻の損失は予想の上でこの艦隊を動かした。彼女は、数百人の人間がほぼ確実に命を捨てる事になる決断を何の葛藤も罪悪感もなく実行した。そして、事実自分の指揮が原因で実際に失われた大量の命を目の前で正確に認識してなお、顔色一つ変えずに涼しい表情をしている。それが演技で無い事もはっきりと分かった。勝利を目的として戦場に立つ者ならば、それは当たり前の態度であると行動で示されたような気がした。<BR>
<BR>
　艦長の理性は彼女を賞賛し、人としての本能は彼女を嫌悪した。自分の中に生まれたその矛盾する感情ゆえに、『この女性は信頼に値する』と艦長は確信した。<BR>
<BR>
　ミサトは艦長に向かって、特に感情を高ぶらせる事も無く告げた。<BR>
<BR>
「艦長、目標は頭部と胴体の境界付近が急所と思われます。今なら通常兵器も『通る』はずです」<BR>
<BR>
　心得た、とばかりに艦長は頷き、周囲に展開している艦に指示を出す。<BR>
<BR>
　待ち構えていたような素早い反応で、オーバー・ザ・レインボウに並進する一隻の戦艦の速射砲から無数の弾芯が発射された。戦艦から見れば飛行甲板はそれなりの高みに位置しており、そこに横たわる使徒の体は一部分しか視認できなかったが、射撃の目標にする分には問題は無かった。斜め下からやや角度のついた弾道で、弾丸が次々と使徒の頭と胴体に穴を穿つ。粘液と空気が混ぜ潰されるような不快な音が周囲の空間に満ち、使徒からえぐり取られた白い組織や青い体液が甲板や海面に飛び散った。<BR>
<BR>
　ミサトはブリッジの窓からその様子を無言のまま見つめる。眼下でなすすべなく無惨に破壊されていく使徒を、彼女は油断なく観察していた。<BR>
<BR>
　弐号機の音響センサーを通じて、アスカは使徒の体にダメージが蓄積されていく様を見ていた。使徒の頭が弐号機を固定している力がわずかに弛んだ。頭から呑み込まれている弐号機は、まだ自由に身動きできる程ではなかったが、右腕への圧迫は消えつつあった。アスカは、ある程度の動作の自由を取り戻した弐号機の右腕を使徒の体の奥深く、赤い光の方へ少しずつ伸ばしていった。その赤い半球体を破壊すれば全てが終わるはずだった。半球体に弐号機の指先が触れた。<BR>
<BR>
　その瞬間、死んだように脱力していた使徒が激しく暴れ回った。飛び散った体液が青い雨のように甲板に無数の染みを作った。使徒が飛行甲板上でのたうち回ったせいで逸れた弾丸が遥か上空へと消えていく。オーバー・ザ・レインボウが再び大きく揺さぶられる。苛立つような声で艦長が叫んだ。<BR>
<BR>
「往生際の悪い奴だ！構わん、射撃続けろ！」<BR>
<BR>
　その時、船体の後方から金属的な破壊音が響いた。ミサトはその音に致命的な危険が含まれているのを直感し、反射的に音の方向に振り向いた。<BR>
<BR>
　同時に、使徒の胴体を固定していたアンビリカルケーブルの張力が消え、一気にたるんだ。ある程度の体の自由を取り戻した使徒が、長い胴体をくねらせて飛行甲板から海上に頭から乗り出した。<BR>
<BR>
「ウインチは！？」<BR>
<BR>
　ミサトの問いに、インカムで作業員と通信していた副長が声を上げる。<BR>
<BR>
「ストッパー破損！ウインチ駆動系にもトラブル、復旧は困難！」<BR>
<BR>
　胴体にアンビリカルケーブルを結び付けたまま、弐号機を巨大な頭にくわえこんだ使徒がその体を飛行甲板から海中に躍らせた。水を叩く轟音と海面に巻き上がった高い水柱に、ミサトは表情を険しくした。巻き上げ能力を完全に失ったウインチのロールからケーブルが何の抵抗も無く滑らかに引き出されていく。<BR>
<BR>
　加持がノート型端末の画面を見て、視線を鋭くした。円グラフで示された弐号機のパワーゲージが目に見えて範囲を狭めつつあった。出航前に加持が即席で受けたレクチャーでは、ある境界から下に出力が落ちたエヴァは世界一電力を無駄に食う人形だと説明された。そして、現在の弐号機はまさにその状態だった。<BR>
<BR>
「弐号機の出力が落ち続けてる。多分、もうまともに動けないぞ」<BR>
<BR>
　彼は問いかけるような目でミサトを見つめた。彼女は使徒と弐号機が消えた海面をじっと見つめたまま、唇を開きかけた。<BR>
<BR>
　刺し違えてでも使徒にダメージを与えられる機能が弐号機に備えられているかどうか、確認するためだった。仮に加持が知らなくても、それが存在するならばアスカが知っているはずだと、彼女は考えた。そして、命令されれば少女はそれを躊躇うことなく実行に移すはずだということも、おおよそ見当がついていた。<BR>
<BR>
　しかし、ミサトの口からその言葉が出る前に、少女の声が通信ウィンドウから静かに響いた。<BR>
<BR>
『葛城一尉』<BR>
<BR>
　合成音声と言えども、それは非常に精巧で『意志』を感じさせる声だった。ミサトは映像の中のアスカに目を合わせた。この少女は、自分が極めて危険な状況にあることを理解していたが、それを気に病む様子など全く見せずに、無表情のままミサトを見つめていた。<BR>
<BR>
　平坦な音声が、この切迫した場には似つかわしく無い言葉を紡いだ。<BR>
<BR>
『サードチルドレンの母語は日本語ですか』<BR>
<BR>
　ミサトが目をしばたかせた。加持も不審な目を少女に向ける。映像の中のアスカは、自分の左側にちらりと視線を向けた。ミサトは戸惑いつつもその問いに、探るような口調で答えた。<BR>
<BR>
「ええ……そのはずよ。それがどうかし……」<BR>
<BR>
　その瞬間、通信ウィンドウは画面から消滅した。眉をひそめたミサトが、何が起こっているのかと問いかけるような表情で、加持を見下ろす。<BR>
<BR>
「……弐号機のシステムが完全にダウンした」<BR>
<BR>
　加持が低く呟いた。端末の画面には、コクピットからの操作によってエヴァシステムへの完全終了コマンドが発行された事を示すメッセージが表示されていた。<BR>
<BR>
　小さくため息をついたミサトは窓際に歩み寄り、体の前で腕を組んだ。彼女は不満と諦観の入り交じった表情で海を眺めた。窓から吹き込む風を感じている内に、その表情は清々しさを伴った苦笑に少しずつ変わっていった。<BR>
<BR>
<BR>
<CENTER>──────────</CENTER><BR>
<BR>
　高速で海中を引き回されていたが、コクピットに伝わる振動はかなりの割合で軽減されていた。<BR>
<BR>
　弐号機のオペレーティングシステムが停止したエントリープラグの中で、アスカは数枚のウィンドウを投影して、思考コマンド経由によるシステム調整作業を続けていた。<BR>
<BR>
　ミサトに対して説明が足りなかったのは自覚していたが、それを済まないと思うような感情はアスカの中には無かった。今は数分の一秒が勝敗の分かれ目になる局面だった。<BR>
<BR>
　アスカはウィンドウの中を高速スクロールするメッセージやコマンド群を正確に認識しながら、プラグ内部のスピーカー機能をアクティブにした。深紅のプラグスーツの喉に仕込まれた振動センサーと、アゴや舌の筋肉運動を検知するシステムが、少女の意志を正確に音声へ変換した。<BR>
<BR>
「サードチルドレン。私の隣へ」<BR>
<BR>
　アスカは、シンジが自分の命令に反応する事を知っていた。沈みかけているオセローの中で『エントリープラグに入れ』という指示に彼が従った時にそれは確認できていた。<BR>
<BR>
　少しの間を置いて、アスカの横にシンジが漂いながら進んで来た。重力に身を任せて体を前に倒すような、ゆったりとした動作だった。<BR>
<BR>
　少女は顔をそっと少年の方に向ける。少年の横顔を間近で見つめた。少年は完全な無関心さに満たされているそのぼやけた視線を、少女の下半身を保護しているプレート状構造物の周辺に向けていた。少女の腰から下の部分はそのプレートに覆われて見る事が出来ない。時折見せる少女の窮屈そうな動きが、その体がプレートの内部で固定されていることを暗に示していた。<BR>
<BR>
　アスカはシンジに少しずつ顔を寄せていった。できるだけ少年の注意を引こうと、彼のこめかみに自分の額をこつん、と触れ合わせた。少年の体温を感じながら、ゆっくりと発音作業を行った。機械によって作られた少女の音声が流れる。<BR>
<BR>
「左のコントロールレバーに手を」<BR>
<BR>
　シンジは、ゆっくりと左手を伸ばした。左腕を失っているアスカは、自分の右手を伸ばすと少年の手に添えて導いた。薄い生地を通して感じる少年の体温は、少女にとっては新鮮な感覚だった。<BR>
<BR>
　今まで使われた事のない左側のコントロールレバーに辿り着いたシンジの左手が、ゆっくりとレバー表面の曲線にそって閉じられた。<BR>
<BR>
「弐号機の右腕だけをイメージして。それ以外は何も考えないで」<BR>
<BR>
　それだけを言って、アスカはシンジの横顔に触れさせていた額を離し、彼の左手に添えていた自分の右手も元の位置に戻した。その時、アスカの右手がわずかに躊躇うような動きを見せたが、彼女はそれを肉体の不随意部分が起こした単なる『揺らぎ』と認識した。<BR>
<BR>
　正面に視線を戻したアスカは、周囲に浮かんでいるウィンドウを消去した。既にシステムの調整は完了していた。<BR>
<BR>
　目を軽く閉じて、連続した思考コマンドによる操作を始めた。主要プロセスの処理完了の度に響く軽快な電子音の数を順に確認する。同時に、少年に指示した内容と同じイメージ展開を心の中で開始した。<BR>
<BR>
　エヴァ弐号機の右腕の構造を完全にイメージ化し、意識の中心に定着させる。それは今までに無い一体感で、右腕から来る強烈な感覚がそれ以外の刺激を希薄に感じさせる程だった。<BR>
<BR>
　そして、システムブートの最終プロセス完了を告げる電子音が長めに鳴った。アスカはコントロールレバーを握る右手の親指で、迷う事無くスイッチを押し込んだ。<BR>
<BR>
　その瞬間、使徒の頭部に呑み込まれて海中を引きずられているエヴァ弐号機の、頭蓋装甲の奥に隠れた４つの瞳が凶暴な光を帯びた。<BR>
<BR>
<BR>
<CENTER>──────────</CENTER><BR>
<BR>
「これからどうするんだ」<BR>
<BR>
「さあ……どうしようもないっすねえ」<BR>
<BR>
　ミサトはブリッジの壁に寄り掛かって海を眺めながら、まるで他人事のように答える。<BR>
<BR>
「き……貴様ぁっ！」<BR>
<BR>
　ヘラヘラ笑うミサトに今にも掴み掛かろうとする艦長を、副長が後ろから羽交い締めにしている。あれだけの人間と船を犠牲にしておきながらのこの態度に、一時はミサトを認めつつあった艦長が感情を剥き出しにしていた。<BR>
<BR>
　加持がそのごたごたを横目に見ながら首を振る。彼女にいちいち本気で付き合ってたら胃を壊しますよ、と心の中で艦長に忠告した。<BR>
<BR>
　加持は何かを期待する心境で端末の画面に目を戻した。<BR>
<BR>
　アスカが何の理由も無しにあんな言動をする事は有り得なかった。ミサトもそれを感じ取っているからこそ、余計な手出しを控えていた。必ず何か動きがあるはずだと、ミサトと加持は確信していた。<BR>
<BR>
　果たして、警告音と共に画面の上に新しくウィンドウが開いた。ミサトは荒れ狂う艦長を無視したまま、端末を見つめる加持の後ろに回り、画面を見つめた。<BR>
<BR>
　エヴァ弐号機のシステム起動を示すメッセージと、その詳細な情報が大量のテキストとなって画面を流れていく。<BR>
<BR>
「タンデムモード……？」<BR>
<BR>
　エヴァについて基本的な知識は頭に叩き込んでいたミサトだが、当然その全てを完璧に把握しているわけでは無かった。それでも、この見慣れない単語がもたらす違和感には注意を引かれていた。<BR>
<BR>
　ミサトの呟きは聞こえていたが、加持はそれに答えてやる気分にはなれなかった。彼はメッセージの表示を続けているウィンドウから目を逸らして海に視線を向けた。<BR>
<BR>
　加持は、海の底でギリギリの戦いを始めようとしている子供達の顔を思い浮かべた。今の彼にはそれ位しか出来る事が無かった。<BR>
<BR>
<BR>
<CENTER>──────────</CENTER><BR>
<BR>
　それは少女の精神には『適合しない』現象だった。<BR>
<BR>
　複数のパイロットによるエヴァシステムへの同時シンクロという作業は、ある程度の実現性が見込まれていた。今この瞬間、アスカが行ったタンデムモードによるエヴァの起動プロセスも、実験的に用意されていた起動シーケンスの流用だった。弐号機にシンクロしてからの数分で少女が得た経験から推論を加えてアレンジした即興的なシーケンスだったが、その完成度は決して低くは無かった。<BR>
<BR>
　ドイツ支部のエンジニアが、タンデムシンクロから予想した効果は単純だった。複数のパイロットを定義上の主従関係に見立て、エヴァがその性質上本来備えている生物的な『リミッタ−機構』を一時的に従側のパイロットの支配下に移す、という物だった。つまり従側のパイロットが意識しない限り、エヴァ本体の物理的強度を無視した挙動も可能になると考えられる、と彼らは少女に説明していた。<BR>
<BR>
　アスカはそれが可能だと知っていた。ドイツ支部の人間がその証明に四苦八苦している様を彼女がただ眺めていた事に他意は無かった。聞かれなかったので教えなかっただけだった。<BR>
<BR>
　少女と少年は、エヴァ弐号機に部分的と言えども同時にシンクロした。少年がシンクロしたのは右腕だけだったが、それを少女ははっきりと知覚した。自分の右腕以上に強い存在感を持つ、もう一つの右腕。それは個々の細胞が自らの構造を食い潰すのと引き換えに、弐号機の素体を構成する微小繊維間に異常な滑り作用と、神経伝達物質の過剰な分泌を実現した。それらミクロの化学反応の集合は、巨視的には人工筋繊維から生み出される膨大な力という形をとって表に現れた。<BR>
<BR>
　そして同時に、アスカの意識は異物の存在を認識した。<BR>
<BR>
　その気になれば自分自身の思考を際限なく論理的に自己解析できる少女だからこそ、その影のような存在に気付く事ができた。<BR>
<BR>
　それが自分の意識の中に浸透して来た『少年の意識』だと気付くのに、ほとんど時間は要しなかった。<BR>
<BR>
　タンデムシンクロによる副次的作用としては想定外の現象だった。アスカはほとんど無意識に理論面にいくつかの修正を加えた。少女が自己の内部に構築していたエヴァシステム理論体系は、ネルフのエンジニアが理解しているそれとは全く異なる文法によって記述されている。それは学問的知識というよりは、職人が長年の経験則から積み上げるような感覚的方法論の集合体に近かった。他人に説明する必要のない理論概念は、少女本人だけが唯一理解できる論理性とイメージのネットワークから構成されていた。<BR>
<BR>
　思考を直接触れ合わせるという体験そのものは、アスカにとっては特筆すべき現象でも無かった。少年の思考そのものが、少女の精神構造と著しい不整合を起こしていた事が、彼女に異物感をもたらしていた。<BR>
<BR>
　少女が感じた少年の思考は、ヒトの精神の範疇ではあり得なかった。<BR>
<BR>
　価値観を伴わない無機的な概念情報の単調な羅列。数学的な規則性に支配されたその思考構造は、複雑ではあったがそれはどこまで行っても感情や心の気配すら感じさせなかった。入り組んだ迷路のような幾何学模様で満たされた閉鎖空間。全ての方向に無謬性だけで形成されたパターンが織り込まれている。それはヒトの心を真似た物ですらなかった。碇シンジという命の殻の中身を、おざなりに別の何かで置換しただけにも思えた。<BR>
<BR>
　肉体反応をほとんど完全に制御できる筈の少女に、突然の嘔吐感が込み上げて来た。少女が医療チームから許されている唯一の食品である、ペースト状栄養剤の摂取作業は数時間前に済ませており、現在胃の中は空になっている筈だった。少女はこの肉体的刺激に基づかない嘔吐感を、心的感覚が直接自らの意識に発している警戒信号だと理解した。<BR>
<BR>
　少女は、これを『嫌悪感』として定義することにした。<BR>
<BR>
　時間にして１秒以内の逡巡を終わらせ、アスカはエヴァ弐号機に自らの感覚を重ね、その視線を正面に据えた。アスカは弐号機の上体を捻って右腕を使徒の頭の奥へと突き入れた。事実上、出力の上限が消えた弐号機の動きを阻む物はなかった。同時に、その動きのせいで使徒の牙が弐号機の肩や背中に更に深く食い込み、アスカに激痛を与えた。それでも彼女はひたむきな青い視線を正面の赤い光に向け続けた。もどかしいほどの緩慢さで、弐号機の指がじりじりと前進していく。<BR>
<BR>
　弐号機の指が硬質的な物を感じた。<BR>
<BR>
　アスカは更に腕を差し込み、指の腹でその物体を撫でて球面を確認した。５本の指をゆっくりと半球体の面に這わせ、密着させる。アスカは躊躇い無くその球体を弐号機の右手で握り込んだ。どこまでも力が無制限に引き出されていく感覚だった。使徒のコアに食い込んだ弐号機の指は、その輝きをあっさりと砕き割った。砕け散る瞬間に赤い輝きが青く反転したが、その光はやはり一瞬で消えた。<BR>
<BR>
　直後、弐号機の指が温度の上昇を知覚する。アスカは反射的にＡＴフィールドを展開した。<BR>
<BR>
　弐号機を呑み込んだままの使徒の頭の内部から直線的な光が幾筋も漏れ始めた。アスカは弐号機の左手を使徒にねじ込み、使徒の拘束から逃れようと力を込めた。しかし、半ば自壊する形で巨大な力を放出した今の弐号機に、そこまでの能力は全く期待できない事も彼女は知っていた。<BR>
<BR>
　使徒の各部から発せられる光と熱が急激に高まる。エヴァ弐号機の動きにかつての力強さは無く、痙攣するような動きを繰り返すだけだった。<BR>
<BR>
　膨れ上がった激しい光の眩しさが、視界を完全に奪い去った。<BR>
<BR>
　使徒とエヴァ弐号機の周囲に存在する大量の海水が一瞬で沸騰し弾け飛び、アスカの意識はそこで途切れた。<BR>
<BR>
<BR>
<CENTER>──────────</CENTER><BR>
<BR>
　その爆発は、海上からも容易に観測できた。艦隊進路の遥か後方で、桁外れの量の海水が空高くまで吹き飛ばされていた。わずかに遅れて轟音の名残りと、船をゆっくりと揺らす衝撃が到達する。<BR>
<BR>
　ミサトはその位置を見据えながら、加持に問いかける。<BR>
<BR>
「弐号機は？」<BR>
<BR>
「反応が消えた。ケーブルが断線しているな」<BR>
<BR>
　加持が端末を凝視したまま答えた。ブリッジにいる皆が黙りこくった。艦長の方を振り返ったミサトが淡々と口を開く。<BR>
<BR>
「エヴァ及びパイロットの回収作業への協力を要請します。爆発位置を中心に艦隊を展開、海上と海底の調査をお願いします」<BR>
<BR>
　副長が艦長の方を見やる。艦長はミサトをじっと見つめていた。やがて、彼は副長に向き直り、各艦への指示を命じた。ミサトは軽く目礼すると再び海を見つめた。少し考え込んだ後、首をわずかに傾けて加持がいる方向へ顔を向けた。<BR>
<BR>
「加持、ネルフ本部に連絡お願い。使える衛星のセンサーは全てこの海域に向けさせて」<BR>
<BR>
　彼は頷いて、ポケットから携帯通信機を取り出した。スイッチを入れて耳に当てたが、スピーカーから響くノイズに顔をしかめた。どうにかネルフ本部と会話はできたが、ところどころ通信が途切れて意思疎通に少しばかり手間取っていた。<BR>
<BR>
　窓から入り込む風が軽くミサトの髪を撫でていた。<BR>
<BR>
「エヴァ本体はともかく、あの子達はどれくらい耐えられるの」<BR>
<BR>
「２人分の呼吸維持だと……３時間プラスマイナス１時間って所か」<BR>
<BR>
　ミサトの問いに、端末のキーを叩いて加持が答える。携帯通信機はまだ耳に当てたままだった。ミサトは反射的に腕時計を見て、表情を変えずに視線を海に戻した。<BR>
<BR>
　爆発地点に艦隊が移動して探索が開始される頃には、海上で発生していた謎の通信障害は緩和されていた。加持は本部のエンジニアに話を通して、自分の端末から本部に戦闘中のデータを転送して状況の解析を依頼した。ミサトは生き残った艦船の装備の中に、クレーンと無人水中作業艇があることを確認していたが、それで無条件に安心できるという物でもなかった。<BR>
<BR>
　各艦からの報告を逐次まとめている副長が顔を上げてミサトを見た。<BR>
<BR>
「爆発直後から海中で原因不明のノイズがひどく、海底の正確な測定は困難です」<BR>
<BR>
　ミサトは振り向いてその報告に耳を傾けた。つまらなそうな彼女の視線に見つめられ、言いづらそうな表情で副長が続ける。<BR>
<BR>
「……それに、ここは艦隊が初めに襲撃を受けた位置に近く、沈没した船体や破片があちこちに散乱しています。それに旧沿岸地区の廃虚が複雑に並んでいて」<BR>
<BR>
　エヴァ程度の大きさの物体を見分けるのは困難だという結論に、ミサトは彼の言葉を先回りして辿り着いた。それ以上の報告を手で遮って、ミサトが訊ねた。<BR>
<BR>
「爆心点から沈没地点を推測できない？」<BR>
<BR>
「爆発によって生じた海中の流れは極めて不規則で計算不可能です」<BR>
<BR>
「……確率はどうでもいいわ。とにかく探して下さい」<BR>
<BR>
　彼女は疲れたように壁にもたれかかり、少しだけ俯いた。加持はノート型端末の液晶モニタを閉じて立ち上がると、ミサトを気遣うように横に歩み寄った。<BR>
<BR>
「大丈夫か」<BR>
<BR>
「私が死ぬわけじゃ無いわ」<BR>
<BR>
　ミサトは顔を上げると後頭部を壁に当て、顔を横に向けた。<BR>
<BR>
　視線の先には、腹が立つくらいに穏やかな海が広がっていた。<BR>
<BR>
<BR>
<CENTER>──────────</CENTER><BR>
<BR>
　目覚めたアスカが最初に感じたのは、耳をつくアラーム音だった。<BR>
<BR>
　目まぐるしく回る視点で、弐号機が海中を木の葉のように振り回されていることに気付く。プラグ内部の緩衝装置がある程度は振動を抑制していたため、パイロットの行動に支障が出るほどでは無かった。<BR>
<BR>
　意識を失っていたのは数十秒程だった。プラグ内部のパイロット自動管理システムは、少女に失神する自由すら与えなかった。少女の下半身に繋がるチューブから投与された覚醒用の薬物は十分に効果を発揮した。<BR>
<BR>
　けたたましく鳴っているのは、アンビリカルケーブル断線警報だった。アスカはまず弐号機本体への電力供給をセンサー部分を除いて全てカットした。電力消費が一気に減少し、残り３分強まで進んでいた電源表示が、４時間弱にまで跳ね上がる。同時に弐号機の四肢から力が抜け、水の流れにもまれながら漂っていく。弐号機は、使徒の爆発によって激しくかき乱されている水中で、不規則な軌道で流されていた。こうして漂っていても、エヴァの比重では海面に浮かび上がるわけもなく、弐号機は確実に深みへと引き込まれつつあった。<BR>
<BR>
　アスカは思考コマンドを制御システムに投入する。少女の目の前に３枚のウィンドウが投影された。内部電源の残量及び分配制御、生命維持装置のシステム動作情報、緊急脱出装置のチェックリスト。<BR>
<BR>
　エントリープラグの手動射出システムをチェックする。表示されているチェック項目の上から順に『確認』を示すグリーンのシンボルがリズミカルに付与されていく。６つ目の項目で警告音が鳴って『不可』を意味する赤いシンボルが点滅した。プラグを覆っている背面装甲のスライド機構の機能不全を告げるメッセージが現れる。アスカはシートの右側から後ろに体を乗り出して、全方位モニタが映し出す弐号機後方を眺める。詳細は把握できなかったが、歪んでねじ曲がった背面装甲の一部と、背中から伸びているアンビリカルケーブルの切れ端を見る事ができた。<BR>
<BR>
　続いて、アスカは慣性航法システムを呼び出して弐号機の行動履歴と海図を重ねる。爆発そのものによる衝撃で大きく弾き飛ばされ、その後も複雑な水流に流され続けている弐号機は、既に爆発地点から３キロ以上離れていた。<BR>
<BR>
　爆発地点を中心に捜索回収が行われるのだろうと、少女は考えた。<BR>
<BR>
　弐号機の位置と沈降方向、内部電源残量から生還確率のおおよその推測を立てる。かなりの幸運に恵まれない限り、エヴァはともかくパイロットを生きたまま回収する事は不可能だろうと少女は結論した。<BR>
<BR>
　アスカは弐号機の行動履歴のウィンドウをぼんやりと眺め、現在位置を示す光点と過去の移動ルートの一点が間もなく交わろうとしていることに気付いた。<BR>
<BR>
　少女は内部電源の設定を変更し、弐号機の肩と両腕へ選択的に電力を最低レベルで供給し始めた。<BR>
<BR>
　わずかに動く弐号機の両腕を巧妙に操る。アスカは電力を節約しながら、弐号機の姿勢と沈降方向をある一点に向けてコントロールしていった。<BR>
<BR>
<BR>
<CENTER>──────────</CENTER><BR>
<BR>
　副長が通信機越しにしきりに何かを確認している。相変わらず何をするでもなく海を眺めていたミサトが、彼の様子に気付く。副長がインカムを耳に当てたまま、双眼鏡を片手に窓際に駆け寄る。<BR>
<BR>
　双眼鏡が向いている先にミサトも目を向けたが、肉眼では何も見て取る事は出来なかった。あまり期待をかけていない口調でミサトが訊ねた。<BR>
<BR>
「見つけたの」<BR>
<BR>
「恐らく」<BR>
<BR>
　副長から双眼鏡を受け取って、彼が指差す方向に向ける。既に小型ボートが２、３隻近付きつつあった。<BR>
<BR>
　波の間に、不自然にこんもりと盛り上がったベージュ色の物体が見えた。明らかな人工物であるそれは光沢のある素材のようで、水に濡れた表面が太陽光を反射してきらめいている。ミサトは目を凝らし、その物体の一部に黒い小さな文字が記されているのを見た。<BR>
<BR>
　ゆっくりと接近したボートがミサトの視界からその物体を隠す。ボートから海上に身を乗り出したクルーが、後ろの仲間に向かって何かを叫んでいる。ミサトの隣で副長がインカムからの報告に耳を傾けていた。<BR>
<BR>
「確認しました。オセローの装備品です。あそこからワイヤーが海中に向かって伸びているそうです」<BR>
<BR>
　彼の言葉に、ミサトと加持が視線を合わせる。<BR>
<BR>
　ミサトは特に喜ぶわけでも無く、加持に向かって肩をすくめて見せただけだった。<BR>
<BR>
<BR>
<CENTER>──────────</CENTER><BR>
<BR>
　少女は手作りのブイが海面に浮上していくのを見つめていた。<BR>
<BR>
　ブイから弐号機の指を繋ぐワイヤーの長さは、海流による変化を考慮しても海上まで十分届くはずだった。<BR>
<BR>
　エヴァ弐号機は海の底で輸送艦オセローの残骸にもたれかかるように座り込んでいた。<BR>
<BR>
　オセローの貨物スペースで弐号機を覆っていたシートとワイヤーがほぼ無傷で手に入ったのは幸運だった。適当な大きさのシートを選び、四方を下面中央に引き寄せて落下傘のような形状を作る。傘の形が崩れないように、下部をワイヤーの端で固定してもう一端を長く伸ばす。傘の内側にプログナイフの高熱で海水を気化させた物をためて浮力とした。下部から伸ばしたワイヤーの途中にオセロー船体から外した破片を結び付け、バランス安定用の重りにした。<BR>
<BR>
　アスカは迅速な手順で弐号機の指先を正確に操作し、この作業を滞り無く完了した。活動時間を稼ぐ為、弐号機の下半身への電力供給を停止するように設定を変更していたが、それでも十分な余裕を手に入れたとは言えなかった。<BR>
<BR>
　ブイを浮かび上がらせた時点で、活動可能時間は残り４０秒を切っていた。アスカは即座に弐号機を生命維持モードに切り替えると、不要な機能を全て停止させた。全方位モニタも消えプラグの内部に闇が落ちる。微かに視界を維持しているのは、内壁の特殊素材が貯えたわずかな光の残滓だけだった。動作モード変更後の電源残量は確認しなかった。ウィンドウ表示の電力すら今は単なる無駄遣いだった。<BR>
<BR>
　試せる手段は全て実行した。後は単純な確率の問題であり、少女がその過程に関わる事は出来なかった。<BR>
<BR>
　薄闇の中で、アスカはシートにもたれかかった。コントロールレバーから右手を放して、手の平を見つめる。ふと、左手がレバーをしっかりと握ったままなのに気付いて、彼女は指先から力を抜いた。しかし、少女の意志に反してその左手はぴくりとも動こうとしなかった。彼女は、ほんの少しの違和感でそれを見つめた。<BR>
<BR>
　そして、アスカはそれが自分の手ではないことを思い出した。<BR>
<BR>
　少女はその視線をゆっくりと左手の指先から手首、そして腕からその向こうへと移していった。<BR>
<BR>
　シンジはアスカの隣で何の意志も宿っていない瞳を何も映し出されていない壁面に向けたまま、コントロールレバーを握り続けていた。青い瞳が少年の黒い瞳をじっと見つめた。少女の前髪は、少年の額に触れ合わんばかりの距離にまで近付いていた。<BR>
<BR>
　少女の唇が開き、言葉を紡いだように見えた。<BR>
<BR>
　既に機能を停止していた音声合成システムが、少女の言葉を少年の耳に届けることは出来なかった。<BR>
<BR>
　少女は視線を少年の瞳に合わせたまま、自分の右手を少年の左手にそっと重ねた。そして、彼の左手をコントロールレバーからゆっくりと引き剥がした。少年はそれに逆らわず、そのまま彼の体は静かに後ろへ漂っていった。<BR>
<BR>
　それを確認したアスカはシートに自分の体を預けて、ゆっくりと目を閉じた。エントリープラグの中で深まる闇と疲労が、少女を容易く微睡みの中に引き入れた。<BR>
<BR>
　この眠りの先に待っているのは生か死のどちらかだったが、自分の運命に少女はまるで興味が無かった。<BR>
<BR>
<BR>
</TD></TR></TABLE></CENTER>
<HR>

<CENTER>
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</CENTER>

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